### 五月二日 夜明け前 武林陣
東の空に白い筋が浮かぶ頃、趙活は薬箱を抱えて天幕を出た。
外柵の内側には二つの人だまりができていた。
一つは朝廷軍へ合流する飛石幇の十人と、荷を背負った唐翊たちである。もう一つには古道へ入る候補を瑞笙が集めていた。
趙活は唐翊へ避毒丹を渡した。神奇球と煙球は別々の袋に収められ、紐の結びも変えてある。唐翊ともう一人の唐門弟子がそれぞれの荷を背負い直すのを見届けた。
「師兄、山へ着いたら荷も命令も唐泉へ渡してくれ。投げるのは唐泉が風を見て、陸殿の合図が出てからだ」
「分かった」
唐翊たちは飛石幇の十人とともに外柵を出て、朝廷陣へ向かった。
薬箱には手伝いの弟子たちが夜のうちに分けた止血散が四十包、別に残っていた。魏菊から崆峒では傷薬が足りないと聞いている。
趙活は包みを唐惟元へ渡した。
「一人に一包ずつ持たせてくれ。山で戦になっていたら、そのまま使っていい」
「分かったっス。分けて持たせるっスよ」
趙活が振り返ると、瑞笙は夜のうちに各派から出された名簿へ最後の目を通していた。
古道隊は正面軍より先に崆峒へ知らせを届ける一隊で、いずれも軽功に長けている者が選ばれていた。鎧と大きな得物は持たず、水と食料も道中に要る分だけに絞る。
この中には、唐惟元が連絡役に選んだ唐門の若い弟子二人もいた。いずれも軽功がよく、長い道を走り慣れている。二人は案内役の後ろにつき、帰りのために道筋と足場を覚えることになっていた。
そこへ二人の男がやってくる。長髪を背に流した爽やかな風貌で人目を引く男と、ぼろぼろの蓑衣をまとった逞しく精悍な老人だった。
「趙活! 西夏とやり合っているそうじゃないか。俺も手伝いに来てやったぞ」
解無塵は片手を上げ、旧知の家を訪ねるような気軽さで近づいてきた。
「解大侠。よくお越しくださいました」
趙活は二人の後ろへ目をやった。続いて来る者はいない。
「向掌門たちはどうされました? 本隊とご一緒に来られるものと思っていましたが」
「掌門師兄たちは本隊と一緒だよ。俺も我慢はしたんだが、待ちきれなくなって先に来た。君たちだけで片づけてしまっては、俺が来た甲斐がないだろう」
解無塵はそう言って笑い、隣の老人へ手を向けた。
「万里前輩とは道中で会ってね。行き先が同じだというから、一緒に来たんだ」
隣の老人は足を止め、まず趙活へ、それから居並ぶ者へ崩れのない拱手をした。鷹の羽根で編んだ蓑衣の下には、老いてなお厚い肩と鍛え抜かれた腕がある。
瑞笙が目を見開いた。
「万里先輩、こちらに来られていたのですか」
「いてもたってもおられんでな。参ったのよ」
万里鵬程は趙活へ向き直った。
「出立間際にすまぬな。西夏を相手に群雄が集まっておると聞いて、わしも助太刀に来た」
「道中で一手願おうと思ったんだが、先に君たちのところへ行こうと言われてね」
解無塵が言うと、万里鵬程は目を細めた。
「ここまで来て、道端で足を止めてどうする。落ち着いたら、お主の武功をゆっくり見せてもらおう。わしも楽しみにしておるぞ」
「なら、後で頼むぞ」
解無塵は満足そうに笑い、支度を整えた一隊へ目をやった。
「それで、君たちはこれからどこへ行くんだ?」
趙活は、古道隊が敵の背を襲う奇兵ではなく、正面軍と崆峒を繋ぐための接応役だと説明した。
「崆峒へ行くなら、俺も入れておけ。軽功の使い手が要るんだろう? この解某を置いていく手はないぞ」
「解大侠なら心強い。ただ、強い敵を探しに行くわけじゃありませんよ」
「分かってる、分かってる。なんとなくこっちのほうがいい気がするんだ」
解無塵は涼しい顔で答えた。
万里鵬程は瑞笙を見た。
「瑞笙、お主が率いるのか」
「はい。私が率います」
「よかろう。道はお主らに任せる。骨のある者が出てきたら、わしを呼べ」
「万里先輩、助かります。ただし、戦いの音が聞こえても先へ出ないでください。門内へ入るかどうかは私が決めますので」
「分かっておる。瑞笙、そう案ずるな」
「君は隊を率いる身だからな。敵が出るたび先頭へ出ていては後ろの者が困る。そこは俺に任せておけばいい」
解無塵が当然のように引き受けると、瑞笙は少し困ったように笑った。
「道中は案内役に従っていただきますよ」
「無論だ。知らぬ道を先に走って、肝心な時に間に合わなくてはつまらんだろう」
瑞笙は二人の名を名簿へ書き加えた。
古道隊は正面軍より二刻ほど先に陣を出た。足元の起伏が見分けられるほどの薄明の中を、魏菊の師姉を先頭に、表の登山口を経て西麓の古道へ向かった。
### 五月二日 夜明け 崆峒山麓
古道隊が出てから二刻ほど後、陸紹文の隊も陣を出た。
大盾、短槍、強弩、工具を分担して持つ朝廷兵二百人。その後ろに飛石幇の十人と、神奇球、煙球、避毒丹を分けて背負った唐門の二人が続く。
昨夜まで山中で敵を攪乱していた狄傲たちは、命令を受けると接触を切り、登山口から少し入った岩陰の平場まで下がっていた。
范破牙もそこで休んでいたが、先ほど通りかかった古道隊に解無塵の姿を見つけ、勝手についていってしまった。残る峨嵋隊は狄傲がまとめ、陸紹文の到着を待っていた。
峨嵋隊の傍らには、唐康、唐泉ら唐門の十人もいる。
唐康は陸紹文を少し離れた岩の上へ案内した。
そこからなら、最初の曲がりと、その上へ突き出した岩棚が見える。
「昨夜まで弩手はあそこに八人。曲がりの裏に盾が二列。岩棚の奥には予備の矢箱があります」
「道の右へ出られる場所は」
「最初の曲がりを越えた先に一つ。ただし、上から見えます。先に岩棚を黙らせなければ使えません」
唐泉は二人の話を聞きながら、細い布を枝へ結んだ。
布はしばらく山下へ垂れ、やがて谷から吹き上げた風に持ち上げられた。
「まだ安定しません。お話しされていた通り、日が岩へ当たってからですね」
「待てるか」
陸紹文が尋ねる。
「安全を考えるなら待つしかありません」
「こればかりは祈るしかないな」
陸紹文は兵を道へ入れた。
先頭には大盾を二枚。狭まる場所では一枚へ縮め、その後ろへ短槍を置く。強弩は一つ手前の曲がりに残り、前の盾が開いた時だけ射る。
陸紹文の隊は、戦う前から形を変えながら山へ入っていった。
正面軍が山道へ入る頃、古道隊もすでに西麓の藪の中へ消えていた。
魏菊の師姉が先頭に立ち、瑞笙は一隊の中ほどから前後を見ていた。
古道には人の気配がなく、石段の面影や踏みならされたガレ場がところどころにあるが、倒木や落石ですでに道とは言いづらかった。
それでも、一行の足は止まらなかった。突き出た岩角を踏み、細い裂け目を一跳びで越え、山羊の群れのように古道を進んだ。
足場の乏しい箇所だけは一人ずつ抜け、広がった先でまた速度を上げる。それぞれが踏みやすい岩を選び、次々と跳んだ。
解無塵は道の脇へ張り出した岩を渡っていた。他の者が二、三歩を使うところを一跳びで越え、案内役が曲がると、宙で身を返して同じ方へ降りる。足を置くたびに長い髪がふわりと背へ戻った。
古道の中ほどまで来たが、瑞笙は上にも下にも人の気配を感じなかった。
このままならそう遠くないうちに市集へ出られそうだ。
### 五月二日 午前から昼 崆峒表山道
日が岩壁を照らし始めると、枝へ結んだ布が山上へ流れた。
唐泉は布を見たまま指を二本立てる。
飛石幇の十人が盾の後ろから石を放ち始めた。
石は岩棚の縁や弩手の隠れる岩、盾の上にも飛んでくる。弩手が顔を出すと石が目の前にあり、引っ込めば敵が見えなくなる。
西夏兵も最初は射返した。
だが、弩に矢を装填し構え直すたびに石が手元へ来る。一人が額を割られ、二人目が弩を落とした。
何十個目かの石に混じり、丸い焼き物が一つ飛んだ。
石より僅かに大きい。
気づいた弩手が声を上げた時には、神奇球は盾列の後ろへ落ちていた。
乾いた音を立てて割れる。
赤紫を帯びた煙が地を這い、上り風に押されて曲がりの裏へ流れ込んだ。
西夏兵が何か叫び、袖で口を覆った。
前列は盾を捨てなかった。
捨てれば下から来る弩に射抜かれる。
盾を持ったまま息を止め後ろへ下がろうとする。狭い道では二列目が退かなければ一歩も動けない。
煙の中で一人の膝が落ちた。
その背へ次の兵が躓く。
岩棚の弩手が立ち上がった時、狄傲はすでに岩壁を蹴っていた。
その横を唐康ら唐門の者たちも跳んだ。もともと毒への耐性が強い上、先に避毒丹も服んでいる。
両派の者は風に押される煙の薄い縁を追い、動けなくなった兵を越えてまだ弩を持つ者へ迫った。
「無駄ぁっ!」
狄傲は手の甲で弩の木臂を下から掬い上げた。放たれた矢が空へ逸れる。その手を返して弩手の手首を掴み、引き崩した胸へ反対の掌を打ち込んだ。兵の体が岩棚の奥へ飛んだ。
峨嵋の門人も岩壁や敵の盾を足場にして続く。一人が弩を持つ腕を上げさせ、次の一人が懐へ降り、肘と胸を打って矢箱から敵を引き離した。その横から狄傲を狙った弩手の手首には唐康の暗器が刺さる。
唐泉は煙を見た。そのまま風見の旗を一度上げ山上へ傾ける。
煙はまだ敵を追っている。
狄傲は退く西夏兵との間を空けなかった。
「足を止めるな! 逃げる奴らを上へ追い込め!」
振り返って槍を構えようとした兵は、その場で打ち倒された。道を塞ぐ者には暗器が飛び、怯んだところへ峨嵋の掌が入る。
両派は倒れた者を越え、逃げ続ける十数人を山上へ追い立てた。
薬を飲んでいない朝廷兵も、煙が抜けた場所から上がってくる。大盾二枚を並べて短槍を続かせた。
追われた西夏兵が少し後方で道を守っていた兵の間へ逃げ込もうとする。
味方を通すには、盾の間を開けなければならない。だが、そのすぐ背後には敵が迫っている。開けば追手まで入り、閉じたままでは味方が前からぶつかる。
道を守る兵たちはほんの一瞬だけためらった。
そこへ、二投目が飛んだ。
白い紐の袋から出された球が石礫に混じって盾の手前へ落ちる。
割れた球から先ほどと同じ色の煙が噴き出した。
だが、今度の煙に毒は入っていない。
それを西夏兵は知る由もなかった。
開きかけた盾を捨て、口を覆って下がる。そこへ逃げてきた西夏兵が殺到し押し合いになった。
「離さずに押し込め!」
陸紹文は盾と短槍が続いているのを確かめた。敵が列を揃え直す前に押すと決め、下から声を張った。
峨嵋と唐門が敵の最後尾へつき、大盾と短槍が続く。さらに後ろから、飛石幇の石礫と朝廷軍の強弩が立ち止まろうとする者の頭を押さえた。
西夏の弩手は狙いをつけられない。射線の中に逃げてくる味方が入ってしまう。
山上から警告の声が上がり、銅鑼が鳴る。次の兵が下りてきた。
だが、細い山道では一度に列を作れない。
先に着いた者から逃げてきた兵とぶつかり、盾を揃える前に峨嵋が迫る。
一つ目の曲がりが落ちた。
二つ目も、三つ目も、同じだった。
正午を迎える頃には、陸紹文の隊は大腰峴へ出る一つ前の曲がりまで押し上がっていた。
そこまでの戦いは疑いようのない快勝の連続だった。
だが、最後の角を抜けた先は思っていた以上に道が広かった。
逃げていた西夏兵が左右へ散る。その向こうで、弩が一斉にこちらを向いた。
矢が飛んだ。
先頭の峨嵋門人が身を捻り岩陰へ跳び戻る。唐門も前へは出られず、続けて飛ぶ矢に追われて曲がりの陰へ下がった。
「大盾を上げろ!」
陸紹文の声が飛び、戻ってきた者たちと入れ替わるように朝廷兵が前へ出た。
陸紹文は盾の陰から上を窺った。
左へ分かれた道が、岩の間を縫って上っている。その先が朝天門だった。崆峒の旗が岩角の向こうへ消え、西夏兵が盾を掲げて後を追っていた。
「間に合わなかったのか」
唐康が悔しそうに呟く。
陸紹文は答えなかった。
門へ向かう西夏兵のすべてが崆峒を追ったわけではない。
大腰峴に残った旗が二つ、こちらへ向きを変えた。
門へ続く列から兵が外れ、坂を下ってくる。兵を押し退け広くなった道へ盾を三重に並べた。その左右では弩手が岩陰へ入っていく。
今度は逃げる味方へ道を開ける必要がない。
峨嵋が迫る前に、盾と弩を揃えられるだけの広さも時間もあった。
「ここを保て。列を崩すな」
陸紹文は追撃を止めた。
朝廷兵が曲がりの出口へ盾を並べる。
その向こうでは、西夏兵が次々と朝天門へ向かい、大腰峴を守る列にも兵が加わっていた。
陸紹文たちがこの先へ出れば、広い場所で数に包まれてしまう。
行きたいが、行けない。
上では西夏兵が朝天門へ続く道を進んでいく。
目の前ではそれを守る新しい列が厚くなっていく。
快進撃は大腰峴を目前にして止まった。
遠くで銅鑼の音と怒号が続いている。
### 五月二日 朝 無色市集
朝天門を閉じてから、市集では奥へ荷を運ぶ日が続いていた。
幼い子と、その世話をする者。寝たきりの老人。山道から戻った重傷者。先に移せる者から上の区画へ入れてある。
それでも山上へ全員を収めることはできなかった。人を寝かせる場所だけではない。水を汲む場所も、火を焚いて飯を作れる平場も限られている。上天梯を荷で塞ぐわけにもいかなかった。
市集に残る家々は、門に近い通りから家族を奥へ寄せていた。戸を下ろした飯屋には大鍋が残り、空いた店の土間には負傷者を寝かせる敷物が並ぶ。
その前を守る者には前掛け姿の男も交じっていた。
無色市集は四門の中立地帯だが、ここに暮らす者は鉄拳門が多い。鍛冶をする者も酒を仕込む者も、門人であることに変わりはなかった。拳甲をつける者もいれば刀や槍を手にする者もいる。仕事場から槌を持ち出した者も、顔見知りと並んで道口に立った。
入門すれば、まず師兄たちから構えや足運び、拳掌の打ち方を習う。師についてさらに武芸を修めた者もいれば、基礎を習ったきり、仕事に明け暮れていた者もいた。
武芸の腕は揃わない。門前の交替へ出る者もいれば、荷を運び桶を回す方が役に立つ者もいる。年を取って若者との稽古から遠ざかっていても、武功を忘れていない者もいた。
飛天門と奪魄門の熟練した門人は、多くが丹霞子と山中へ出ている。門前の守りを残せば市集の通りへ回せる手練れは少なかった。
死亡擂台へ上がっていた武人たちも今は、幾人かが市集に残っている。泊まっていた宿や馴染みの店の前へ得物を持ち出していた。
夜が明け、向こうの山肌まで見分けられるようになった頃、上天梯を越えた山上の岩場に置いた物見から、最初の報せが届いた。
丹霞子隊のいる山へ、西夏兵が登り始めている。
川沿いから斜面へ取りつく者がいる。反対側では疎林を押し分けて兵が上がっていた。
だが、上から岩が落ちると、その足は止まった。登っていた一団が崩れ、残る者も岩陰へ逃げ込む。
「まだ押さえている。勝手に出るな。魏掌門からの報せを待て」
朝天門へ集まった飛天門と奪魄門の者たちは門番の言葉にひとまず足を止めた。得物を収めずに門の脇で次の報せを待った。
しかし、山上から見える西夏兵は増え続けていた。
岩が落ちるたびに一団が崩れ、幾人かが斜面を転がる。それでも後から来る者が左右へ広がり、岩の通った脇を登っていった。
岩を落とそうと身を出した者へは、横手の弩兵が矢を射た。岩棚の人影が一つ崩れ残る者が伏せる。その間にも別の一団が上がっていた。
やがて、先ほどまで岩を落としていた場所から人影が消えた。
さらに上でまた岩が動く。
二度目の報せを持つ弟子が下りてきた時、門前で待っていた飛天門の若い門人がその肩を掴んだ。
「師兄たちは」
「まだ戦っている。だが、下の岩場まで敵が上がった。川の側も林の側も、後から兵が続いている」
肩を掴む手に力が入った。
「岩を落として止めていたのではなかったのか!」
「落としている。それでも引かんのだ!」
男は手を離し、朝天門へ向き直った。
「いつまで待つ! このままでは師兄たちの逃げ場がなくなるぞ!」
門を開ける刻はまだ決まっていない。
門番が掌門の命を待てと押し留めたが、前にいる者を止めれば、後ろから別の者が詰め寄った。
「魏掌門が援軍を求めに行っている。まだ報せが戻っておらん。勝手に出るな!」
「その報せが来るまでに、何人死ぬと思っている!」
援軍を得られたという報せは、まだない。山から届く岩の音だけが言い争いの間にも続いている。
「待っていても敵が増えるだけだ! 師兄たちが戦っているうちに、こっちからも打って出ろ!」
誰かが叫んだ。その声に、門から離れて待っていた者まで前へ出た。
「開けろ!」
幾つもの声が重なる。押し合う者たちの内側で閂が外され、朝天門が開いた。
飛天門と奪魄門の一部が坂へ飛び出した。連れ戻そうとした者まで続いた。
初めは、門前の西夏兵を押し返した。
勢いのまま退く兵を追って大腰峴へ出たところで、大岩の陰と脇の斜面から伏兵が現れた。退いていた列も向き直る。赫連と西夏の高手が先頭に立ち、まだ後ろの者が追いついていない門人たちへ襲いかかった。
朝天門の銅鑼が乱れた。
待ち伏せの報せを持つ弟子が戻った時には、負傷者が坂を駆け上がってきていた。
「戻る者の道を空けろ!」
鉄拳門の門人が坂の両側へ寄る。
外へ出た者が戻れば門は閉まるはずだった。
閉まらない。
門口から、閉める仕掛けが動かないと声が上がる。開門の混乱に紛れ、仕掛けの奥へ鉄片が差し込まれていた。鉄拳門人が駆け寄る間にも、逃げ戻る者の背へ西夏兵が迫っていた。
槍が入り、その下へ盾が重なる。
門を押す者が倒れ、助けに入った者の肩へ次の矢が刺さった。門番だけでは押し戻せず、坂を下りた鉄拳門人も血を流しながら市集へ戻ってくる。
酒屋の前にいた男が長卓を通りへ倒した。
その横を抜けようとした西夏兵へ半歩寄り、刀を振るう腕の内へ肘を差し込む。返した拳が顎を打ち、兵は卓の脚へ崩れた。
男が構えを戻す前に、隣の門人が次の槍を横へ払った。
向かいの宿からは幅広の刀を提げた武人が出てきた。死亡擂台で幾度も勝った男だった。盾の脇から入った一刀が兵の腿を裂き、引いた刀が次の穂先を外す。酒屋の男がその間へ踏み込み、槍手を倒した。
後ろでは、若い門人が負傷者の脇へ肩を入れている。水桶を持っていた者は桶を置き、反対の腕を担いだ。
最初に市集へ入った西夏兵は、そこで足を止めた。
だが、その後ろから赫連が来た。
鉄槍が長卓を跳ね上げる。木の脚が折れ、卓を支えていた二人が倒れた。刀の武人は横へ身を外したが、返る槍身を避けきれず、肩を打たれて店先へ転がった。
門内へ西夏兵が入ったと報せを受け、崆峒門下生たちが集まってくる。そのうちの一人の飛天門下生が周りへ指示を出す。
「あいつは! いいか、あの槍を持ったやつは俺たちが相手をする! 周りの兵士を近づけさせないでくれ! おい、そこのお前、雷謙掌門が近くにいるはずだ、このことを伝えてくれ」
その飛天門下生の周りに奪魄門、鉄拳門、玄功門の門下生が一人ずつ集まってくる。
「今日で俺たちの命日か? あ~、結局、崆峒四姉妹にはお近づきにはなれなかったな」
「何言ってんのよ。名をあげるまたとない機会だわ。やってやるわよ」
「見栄を張るのはよせよ。足が震えてるぞ」
各々好き勝手にしゃべるのを見て赫連も怪訝な雰囲気で立ち止まる。門下生たちは覚悟を決めた。
「どうせ出会った以上、やるしかねえよ」
「そうだな。崆峒四門、同気連技! 師兄弟たちよ、ともに行くぞ! 真・崆峒迷蹤陣でこいつを叩きのめしてやれ!」
奪魄門人の声とともに、四人が開いた。
赫連の鉄槍が突き込まれる。正面にいた奪魄門人は右へ走った。槍穂が衣の脇を抜ける。そのまま赫連の側面へ回り込む。
赫連が槍をそのまま薙ぎ払おうとする。
そこへ飛天門人の暗器が飛んだ。
狙いは顔だった。赫連は顔を背けながら槍を払ったが、奪魄門人は甘くなった槍からすでに遠ざかっていた。
その槍が払い終えると同時に、鉄拳門人の長い槌が左から迫る。
赫連は背けた身体を捻り戻し、穂先を沈めた。跳ね上がった石突が、槌の柄を下から打つ。
大きな音がした。踏み込んで打ち下ろした槌が、無理やり捻っただけの槍で逆に跳ね上げられる。
鉄拳門人がよろめいた。
だが、赫連は追撃せず横へ跳び退いた。直前までその胸があったところへ、玄功門人の判官筆が伸びる。同時に、背後の低い位置から奪魄門人の爪が突き上げられていた。
飛びのいた先へ飛ぶ飛天門人の暗器を、鉄槍が弾く。
赫連が槍を構え直す間に、四人も位置を取り直した。
赫連はすぐには踏み込まなかった。
槍先が四人の間を動く。
四人も追わない。飛天門人は剣を構えたまま、左手を袖へ収めた。その後ろで鉄拳門人は両手の間を広く取り、長柄の槌を体の前へ斜めに構えた。
その脇で、玄功門人が腰から払子を抜いた。右手の判官筆は前へ出し、白い房は左の腿に沿わせて垂らす。
赫連の目が、その二つを捉えた。
「できるだけ時間を稼ぐぞ」
飛天門人が言った。
背後で戸板を引きずる音がした。四人は振り返らなかった。
赫連が一歩進む。
奪魄門人が右へ動いた。槍の届く外を走り、側面へ回る。赫連が槍先をそちらへ寄せると、男は止まらずさらに背後へ抜けようとした。
飛天門人の左手が上がった。
暗器が顔へ飛ぶ。
赫連は槍を立てて弾いた。その間に、奪魄門人が低く踏み込む。爪が膝の裏へ迫った。
赫連はそれを読んでいた。足を引き上げ、差し込まれた鉄爪の先を踏み折った。
そこへ、左から長い槌が来た。
狙いは踏み直した脚だった。赫連は石突を地面へ突き立て、両腕で体を持ち上げる。
浮いた脚の下を槌が抜け、その柄が槍身を払った。
赫連は槍から手を離す。
槌に払われた鉄槍が、宙で半回転する。穂先が下を向いたところを掴み直し、赫連は眼下の奪魄門人へ突き下ろした。
間一髪、男は身を引き、そのまま横へ転がった。追ってきた槍先が石畳を穿つ。
飛天門人と玄功門人が踏み込んだ。槍は地面に刺さり、赫連の足もまだ宙にある。
その踏み込みを、赫連は待っていた。
槍を引き戻すと同時に、宙で身を捻る。引き寄せた鉄槍を抱えるように、体がくるりと回った。
両脚を大きく開いて着地する。一方の膝を深く折り、地を這うほど腰を落とした。
その足が、回転の勢いを残して石畳を円く滑る。
赫連は片手を柄から離し、もう一方の腕が伸び、鉄槍が低い姿勢のまわりを大きく薙いだ。
二人は慌てて跳び退いた。足元すれすれを、穂先が抜けていく。
「化け物かよ」
奪魄門人は折れた鉄爪を見た。すぐに顔を上げ、もう一度赫連の脇へ回る。
足が竦む。
戦いはまたも振出しに戻った。だが心だけは急速に削られていくのだった。
### 五月二日 朝 西側の古道
西夏兵が朝天門を抜け市集へ押し寄せ始めた頃、古道隊は市集の西端へ続く崖際まで来ていた。
銅鑼が鳴り響いた。
全員の足が止まり、上を見上げた。
一定の間を置く警報ではない。なりふり構わず叩いている。
魏菊の師姉が顔を険しくして言った。
「無色市集の方角です」
万里鵬程が前へ出た。
「道はあとどれほどじゃ」
「この崖を回り、古い祠を越えれば市集の西端へ出ます。今の足なら二刻ほどです」
「瑞笙、わしはひと足先に行くぞ」
返事を待たず、万里鵬程は跳ねるように駆けていった。爪先が岩角へ触れるたびに次の足場へ移り、崖の向こうへ消える。
解無塵は万里鵬程が渡った岩角へ目を走らせた。
「なるほどな」
感心したように言い、瑞笙を振り返る。
「後ろは任せたぞ。俺も先に行っている」
率いる者へ断るというより、同道の友へ声を掛ける調子だった。返事を待つ間もなく岩壁を蹴り、白い衣と長い黒髪を宙へ翻す。一つ目の岩へは降りず、その上を越えて万里鵬程の背を追った。
二人を見送った范破牙も、黙って袖を締め直した。許しを待たず、解無塵の後を追った。
瑞笙の足も、半歩だけ前へ出た。
一人であれば、三人の背を追っていた。
だが、後ろには自分へ預けられた者たちがいる。ここで瑞笙まで走れば、古道隊を率いる者がいなくなる。
瑞笙は三人が消えた崖を見て、ため息をついた。
追いかけて連れ戻そうとはしなかった。
「我々も急ぎましょう」
ここまでも足を惜しんでいたわけではない。
それでも残った一隊の速さはそこからさらに上がった。細い岩棚を渡る時だけ一列となり、幅が戻れば前の者が後ろを待つこともない。遅れた者は自分で追いついた。
銅鑼を聞いてから一刻足らずで、万里鵬程は土に半ば埋もれた古い祠を越え、無色市集の西端へ降りた。
木々の向こうに屋根が見える。
白い煙ではない。
家の梁と布を焼いた、黒い煙だった。
古道の出口に見張りはいない。代わりに、血の跡が市集の方から続いていた。
許しを得るまで市集へ入らない。
万里鵬程もその約定を忘れているわけではない。
だが、通りの奥へ目をやると、倒れた鉄拳門人を庇って、前掛け姿の男が片腕で拳を構えていた。もう一方の腕は垂れ、足元には西夏兵が一人倒れている。
その男へ、次の盾が迫っていた。
「礼を守って死人を増やしては、仏に笑われるわ」
万里鵬程は屋根へ上がった。
瓦を蹴って屋根伝いに奥へ走り、男へ迫る兵の頭上から通りへ降りた。
振り下ろされた刀を受けず、力が乗る前の手首へ指を掛けた。五指が鷹の爪のように閉じると、兵の肘と肩が続けて内へ折れ、刀が狙いを外す。
もう一方の手も掌ではない。盾の上縁を掴み、鉄の留め具へ金剛指力を通して捻った。
板が留め具の脇から裂ける。腕へ革帯を巻いたままの兵まで半身を持っていかれ、その背が続いていた列へぶつかった。
万里鵬程は、そこで止まらなかった。
横から来た槍は穂先へ触れず、持ち手を掴んで引く。兵が前へ崩れたところへ肩を当て、後ろの二人までまとめて押し倒した。刀を振り上げた者は肘を取って盾へ投げ、盾を捨てて組みついた者は襟を掴んで通りの反対側へ放る。
市集では、軍勢が広い列を組めない。
店の柱、倒れた荷車、道口へ寄せられた戸板が兵を細かく分ける。十人、二十人と続いても、一度に万里鵬程へ触れられるのは僅かだった。
その僅かな者が、触れる端から道の脇へ消えていく。
万里鵬程は、崆峒の門人が倒れていたところから本道へ進んだ。前を塞ぐ兵をちぎっては投げ、投げられた兵で次の盾を崩す。一般兵の刀も槍も、足を止める役には立たなかった。
その後ろで、前掛けの男が仲間を呼んだ。
倒れた門人を二人が引き、別の者が戸板を起こす。店の陰へ退いていた鉄拳門人たちが戻り、万里鵬程の空けた通りへ、再び拳を並べた。
本道へ出たところで、万里鵬程は雷謙の背を見た。
その後ろでは、担架が通りを横切っている。店の陰へ入りきるまで、雷謙は退けなかった。
赫連の鉄槍が横薙ぎに来る。
雷謙は息を詰め、硬気功で身を固めた。交差させた両腕で槍身を受ける。拳甲が鳴り、踏ん張った足が石畳を離れた。
吹き飛ばされた背を、万里鵬程が受け止める。身を引きながら二歩下がり、その勢いを逃がした。
雷謙の足が地へ戻った。両腕は痺れ、胸にも痛みが残っている。拳甲の下から血が滲んでいたが、自分の足で立てた。鍛えた硬気功が重傷を防いでいた。
だが、受けるだけでこの有様だ。打ち合いを続けて勝てる相手ではなかった。
「よう持ちこたえた。後ろを頼むぞ」
雷謙は息を整え、名を尋ねようとしたが、万里鵬程の風格を見て問いを呑み込み、頷いた。万里鵬程は支えていた手を離し、その前へ出る。
鉄槍を構え直す赫連を見て、老人の目が細くなった。
「さて。その槍、わしにも見せてもらおうか」
万里鵬程は足を広げ、腰を落とした。
右手は胸前で五指を開き、鷹が獲物へ降りる直前のように構えた。左拳は腰へ引き、いつでも指にも掌にも変えられる。
赫連が槍を繰り出すと、万里鵬程の鷹爪がその柄を横へ流した。
少し遅れて、解無塵が屋根の端へ現れた。
屋根を蹴った一跳びで盾列の上へ出る。
地へは降りない。西夏兵により突き上げられた槍の柄へ爪先を触れ、向きを変えながら槍手の顎を蹴る。その脚が戻る前に隣の兵の手首を打ち、返した踵でもう一人のこめかみを払った。
白い衣と長い黒髪が、敵の頭上で大きく広がる。
落ちるかに見えた足は兜の頂を踏み、そこを地面のようにして再び跳ねた。一度も石畳へ足をつかないまま、十に近い蹴りが右の通りへ続けざまに落ちる。
西夏兵には、解無塵が飛び移っているのか、空に留まったまま自分たちの上を進んでいるのか、見分ける暇もなかった。
その先では万里鵬程の鷹爪と赫連の鉄槍が二度、三度と重なっている。
「万里前輩、いい相手を見つけたな。少し俺にも譲ってくれないか」
赫連が鉄槍を引き戻す。その足と腰の動きを、解無塵は軒へ片足を掛けたまま目で追った。
赫連へ向かおうとした解無塵の前へ、脇の通りから湾刀の男が跳び上がった。別の屋根にいた西夏の高手も、白い衣を目掛けて渡ってくる。
湾刀の男は仁多阿骨だった。崆峒の山道攻めを率いてきた将は、門が破れてから、右の通りへ自ら兵を入れていた。
湾刀が足を追い、後から来た男の掌が着地点を塞ぐ。
解無塵は空中で腰を捻り、湾刀の峰を蹴ってさらに高く上がった。掌を出した男の肩へ逆さに片足を置き、もう一人の背後へ回る。
「おお、こっちにもいるじゃないか。いいぞ、二人まとめて来い。この解某が相手になってやろう」
解無塵は笑い、二人を引き連れるように隣の屋根へ跳んだ。
ほどなく、范破牙も着いた。
范破牙は二人のように屋根へは上がらなかった。
通りへ低く駆け込み、盾を構えた兵の前で腰を深く落とした。両脚と肘を大きく開き、手首を折る。揃えた二本の指が、兵へ向いた。
蟷螂の構えだった。
盾の脇から槍が伸びる。
范破牙は身を外した。脇を抜ける柄へ二本の指が掛かり、伸ばした腕が折り畳まれる。槍は前腕と脇の間へ抱え込まれた。
兵が槍を引き戻した。
范破牙は離さなかった。引かれる勢いに乗って地を蹴り、盾の脇から兵へ飛びつく。脚が胴へ絡みつき、空いた手の二指が袖越しに肘の内側を打った。
点穴を受けた腕から力が抜け、槍を握る手が開く。范破牙は槍を捨て、その腕を抱え込んだ。反対の腕を肩へ回しそのまま身を捻る。
兵の背が隣の盾へぶつかった。鎧を着た体が倒れ込む重みを受け、抱え込まれた腕から骨の折れる音がした。
悲鳴が上がる。范破牙は手を離して絡めた脚を解き、石畳へ降りた。二人がもつれて倒れる間に開いた盾の隙間へ入る。
二本指の貫手が次の兵の顔へ走る。盾が上がるとその下へ低い蹴りが入った。膝をついた兵の肩を押し退け横から斬りかかる男の懐へ入る。今度は指を握り込み拳を打ち込んだ。
崩れた男の腕を引き、後ろから来る兵の前へ転がす。その時には范破牙はもう腰を落とし、両手を蟷螂の形へ戻していた。
三人だけで広い市集を取り返すことはできない。
それでも万里鵬程が赫連を止め、解無塵が西夏の高手を引き受けると、押し戻され続けていた者たちに、構えを立て直す間ができた。
范破牙が盾を崩したところへ鉄拳門の槌が続く。宿の前へ退いていた刀の武人も、片肩を下げたまま戻ってきた。屋根から飛天門人が降り、横道では奪魄門の古参が再び爪を構える。
西夏兵はなお入ってくる。
だが、本道と右の通りでは、崆峒側も踏み止まった。
銅鑼を聞いてから二刻足らずで、魏菊の師姉を先頭に瑞笙たち本隊も古道の出口へ次々と着いた。
一人ずつしか渡れない崩れた箇所があっても、先頭から最後尾まで、僅かな間を置いて続いている。
魏菊の師姉は、肩から血を流した玄功門の弟子を見つけ、その腕を取った。
「うっ、師姉。今までどこにおられたのですか。それに、そちらは瑞笙公子……どうして」
「そのことはいい。朝天門はどうしたのです」
「破られました。西夏兵が市集へ入っています。雷掌門が本道で止めていますが、右の通りがもう――」
その言葉を、近くの叫びが遮った。
通りの奥で、鉄槍が店の軒を砕く。その下へ万里鵬程が潜り、槍の持ち手へ鷹爪を伸ばしていた。
その右では、解無塵が二人の高手と屋根の上下を飛び交い、范破牙が押し寄せる一般兵を地へ転がしている。
三人はすでに約定の線を越えている。
魏菊の師姉は瑞笙へ拱手した。
「約定を破る責めは、私が負います。どうかお入りください」
瑞笙は一度だけ頷いた。
「唐惟元殿は一緒に雷掌門のもとへ行ってください。正面軍の作戦を伝え、こちらが入ったことを認めてもらってください。姚掌門と飛天門の方へは、雷掌門から人を出してもらいましょう」
「三人を別々に捜していたら、報告だけで日が暮れるっスからね」
唐惟元は師姉の横へ入った。
瑞笙は唐門の若い弟子二人へ、西の出口で唐惟元を待つよう告げた。二人が頷くのを見て、残る者へ向き直る。
「万里先輩と赫連の間へは入らないように。八人は周りの兵だけを二人から切り離す。解無塵殿のいる右も間合いを空け、范破牙殿の後ろへ八人。そこを守っている鉄拳門の者と合わせてください。残りは私と中央へ。負傷者を下げる間、持ち場を代わります」
瑞笙が指示を出すと、一人の男が得物を握り直した。
「江湖の人間として見過ごせん。いくぞ!」
その声に応じ、集まっていた者たちが左右へ分かれていった。
「では……俺たちも行こう。まずは押し返すぞ」
瑞笙の声に応じ、こちらも武器を掲げて瑞笙の後を駆けていった。
その間に、唐惟元と魏菊の師姉は裏路地を抜け、雷謙のもとへ着いた。
雷謙は援軍の入山を認め、姚掌門と飛天門の長老にも人を走らせた。瑞笙の隊には、崆峒の門人とともに上天梯へ続く通りを守るよう頼んだ。
持参した傷薬は、負傷者を寝かせている飯屋へ集めることになった。師姉はそこへ手当てのできる門人を集め、唐惟元は瑞笙へ雷謙の言葉を伝えに戻った。
その後、唐惟元は二通の書付を作った。朝天門は破られたが、瑞笙らが入山し、万里鵬程が赫連を止めている。崆峒はなお、上天梯への道を守っていると記した。
西の出口で待っていた若い弟子二人へ、それぞれを渡す。一人は趙活へ、もう一人は表山道の陸紹文へ。
二人は来た古道へ引き返した。麓までは共に下り、そこで分かれる手筈だった。
### 五月二日 午後 無色市集
赫連の槍が退いたのは、日が店の屋根を越えた頃だった。
万里鵬程は追わなかった。鉄槍の後ろへ盾が寄り、その隙間に弩が置かれている。西夏の将を追って踏み込めば、背後に並び直した鉄拳門の者まで引き出される。
老侠は砕けた石臼のそばへ戻り、差し出された水を飲んだ。
蓑衣の下で厚い胸が大きく上下していた。前腕には細い赤筋が走り、指を開くと血が手首へ伝った。
「包みます」
玄功門の弟子が布を取る。
「指は空けてくれぬか。まだ使う」
万里鵬程は気づいていた。槍を交えた時から、赫連の動きにはほんの僅かな鈍りがあった。だが、それでもこの有様だ。
万全であればどうであったか。負けるとは言わないが、今以上の苦戦を強いられただろう。
向こうでも赫連が槍を立てたまま水を受け取っていた。
互いの間には、朝からの戦いで倒れた者がいる。拾える距離まで出た門人へ矢が飛び、隣の者が戸板を立てた。その陰で伸ばした手がようやく衣の裾を掴む。
瑞笙は、通りを取り返すより先に、その戸板の後ろへ人を寄せた。
右の屋根では、解無塵が湾刀をかわし、軒の外へ身を躍らせていた。下で待っていた掌の男が、その着地を捉えようと半歩出る。
解無塵の爪先が屋根の縁へ掛かった。落ちかけた体が宙で返り、伸びた掌の横を抜けて踵が男の顎を打ち上げる。男は背から石畳へ落ち、起き上がらなかった。
仁多阿骨はそれを見て足を止めた。解無塵が向き直るより早く隣の屋根へ跳び退く。そのまま通りの盾列へ降り兵の後ろへ入った。
仁多阿骨が短く命じると、兵が盾の位置を変えた。右の通りを進んでいた弩手も、その後ろへ集まってくる。
解無塵が追うと、盾の間から弩が向いた。矢を避けて軒へ降りた足を、横から湾刀が追う。蹴りを返せば男は盾の後ろへ退き、入れ替わりに槍が突き出された。
その陰で、兵が二人、倒れた掌の男を抱えて下げた。
解無塵は槍の柄を踏んで屋根へ戻った。男はもう一人では出てこない。弩手へ回ろうとすれば湾刀が入り、兵を蹴り崩しても男は次の盾へ移っていく。
解無塵は追うのをやめ、屋根伝いに味方のいる通りへ降りてきた。白い衣の脇が裂け、その下まで赤く染まっていた。
「掌の方はなかなかだった。残った方も追い足はいいんだがな。今度は兵の後ろから出てこない」
解無塵は不満顔でそう言った。
「脇腹から血が出ています」
瑞笙が言うと、解無塵はようやく自分の衣へ目を落とした。
「大したことはないさ。刀の奴が出てくれば、今からでも相手をしてやる」
「相手も下がっています。今のうちに手当てを」
「なら、手早く頼む。向こうが出てきたら、途中でも行くぞ」
近くの弟子が布を持ってくると、解無塵は片手で衣を押し上げた。差し出された水も飲んだが、目は向こうから離れなかった。
范破牙は店の敷居へ腰を下ろし、腫れた拳を反対の手で握っていた。水を受け取り、飲み終えると隣へ回す。
西夏はまだ通りを塞いでいた。
日が傾くまでに右の通りはもう一度破られた。瑞笙が横道から入って押し返した時には、朝に戸板を起こした門人の一人が、店へ運び込まれていた。
薬を持ってきた師姉は、その顔へ布を掛けた。
### 五月二日 夕刻 大腰峴下
唐惟元の書付が届いたことで、ようやく門内の状況を把握できた。
使いは唐惟元が連れていた若い唐門弟子の一人だった。古道を下って麓で相棒と分かれ、朝に陸紹文たちが奪った表山道を登り直してきた。着く頃には声が掠れている。
雷謙と瑞笙の言葉を読み、陸紹文は水を飲むよう命じた。
「こちらが見えていることも、伝えてくれ。門までは近いが、大腰峴へ出れば両側から射られる。今の列を押し上げるだけでは届かん」
すでに二度、盾を前へ出していた。
一度は上からの矢に止められ、もう一度は岩の裏から伸びた槍に先頭の盾兵が腿を刺された。盾の下へ槍を差し込まれぬよう低く構えれば、今度は隣の顔が露わになる。
狄傲の者たちが脇の露岩へ出ても、敵は朝のように逃げなかった。大岩と分岐を守り、狭い道から出てくる者だけを待っている。
陸紹文は曲がりの内側へ兵を戻していた。
「今夜は、ここを持つ」
人の溜まれる幅へ竹籠を据え、石を詰める。道を塞がぬ側へ水と矢を置き、下りる負傷者を先に通した。
唐康が盾の縁へ食い込んだ矢を折る。その横で、唐泉は残った球を包み直していた。毒はあるが、うまく使える保証がある場所ではない。大腰峴では風も巻いている。
日が落ちてから後詰の荷が着いた。
米を炊いた包み、水、替えの弦。荷を下ろした兵が盾を受け取り、それまで立っていた者が岩へ背を預けた。
### 五月二日 夜 無色市集
夜半、姚掌門は昼から守っていた持ち場を交替の門人へ預け、数人を連れて店の裏へ回った。
横道の角を西夏兵が押さえていた。その先の店には、まだ運び出せていない負傷者が残っている。
屋根で瓦が一枚鳴った。
松明を持つ兵が顔を上げる。その明かりの端に、青白い顔が浮かんだ。
槍が突き出されると、姚掌門の上体がぐらりと傾いた。兵は相手が倒れると思った。だが、その顔は槍の横を滑り、次の瞬間には目の前にあった。
鉄爪が手首へ食い込む。
兵が悲鳴を上げるより早く、姚掌門はその腕を引いた。刀を振り上げた隣の兵は、割り込んできた味方に手を止めた。その喉へ、もう一方の爪が伸びた。
後ろの兵が槍を向けた時には、姚掌門は倒れる二人の陰へ消えていた。
その横から奪魄門の門人たちが入る。壁際にいた弩手が爪に襟を掴まれ、店の中へ引き倒された。松明が落ち、拾おうと屈んだ者の前を青い裾が過ぎる。兵は手を引っ込め、槍を抱えて後ろへ跳んだ。
横道の奥からも人影が出ると、西夏兵は明かりの多い通りへ退いた。
「追うな。先に人を出せ」
姚掌門の声で、門人たちが足を止めた。
角の向こうには新しい松明が集まり、盾の上から槍が揃い始めている。姚掌門はそこへ姿を晒さず、店先の暗がりへ身を寄せた。
取り戻した横道を、戸板に寝かされた負傷者が運ばれていく。最後の一人が抜けるまで、奪魄門の者たちは店の出入り口に潜んでいた。
### 五月三日 朝から午後 山道・無色市集
翌朝、市集では昨日と違う店から煙が上がった。
夜のうちに奪魄門が取り戻した横道は、まだ味方の手にある。だが、西夏兵は通りの正面だけから来なくなっていた。土壁を崩し、隣の店を抜け、鉄拳門の背へ出ようとする。屋根の見張りが叫び、瑞笙が二人を連れて路地へ入った。
狭い所では敵の盾も一枚ずつになる。瑞笙が先頭の槍を外して懐へ入ると、後ろから続いた侠客が盾の横を押さえた。
それでも取り戻したのは一軒分だった。
隣の裏戸にはすでに西夏の槍があり、さらに先の通りへ抜けることはできない。
唐惟元は飯屋から寝かせていた者を移した。昨夜まで火から離れていた土間へ、今朝は矢が届いていた。
「鍋は後でいい。人から出すっスよ」
店の女が鍋の取っ手を放し、担架の端を持った。
担ぐ手が揃うと、唐惟元も路地を守る者たちに加わった。この日からは、連絡や荷の差配の合間に、疲れた門人と持ち場を代わっている。
次に飯屋へ戻った時には袖が裂けていたが、傷薬を取り分ける手はいつもどおりだった。呼ばれれば包みを預け、また通りへ出ていった。
上天梯へ続く道は、玄功門の弟子たちが空けていた。登れる者と下から運ばれてきた者が途中で詰まる。年寄りが壁へ寄り、担架を先へ通す。その肩へ、戻ってきた若い門人が上着を掛けた。
勾魂叟も傷を負い、虞小梅に助け出されて奥へ下がっていた。
万里鵬程が赫連の前へ出ると、本道の押し合いが僅かに緩む。
槍が引けば老侠も戻った。二人が離れている間には盾と戸板が向き合い、雷謙が守りを見ている。万里鵬程はその陰で食い、座って目を閉じた。
解無塵と范破牙も交替で通りを離れた。
ただ、解無塵は座っている間も、向こうの盾列から目を離さなかった。仁多阿骨が兵を連れて横道へ回ったと聞くと、結びかけの布を自分で締め、呼びに来た者より先に外へ出た。
前日から一度も休まず立っていた者はいない。それでも、昼には誰の袖も、乾いた血で硬くなっていた。
*
表山道でも、陸紹文は朝から一つの曲がりにいた。
盾を替え、射返し、敵が前へ出れば狄傲たちを当てる。西夏兵が怯んでも、その向こうの大岩には弩手が残った。
唐康と峨嵋の一人が、曲がりの脇を調べて戻ってきた。
道の山側には、岩の裾を伝って大岩の手前へ出られる足場がある。ただし、途中の露出した数歩を上から射られる。
「向こうの弩手が門を向けば、通れます」
唐康は言った。
陸紹文は、唐惟元への返書にそのことを書き加えた。
昨日書付を届けた唐門の弟子に、それを預ける。弟子は昨夜から隊の後ろで足を休め、返事を待っていた。
山下へも使いを出した。翌朝、農地から山へ兵を回させぬよう頼むためである。
どちらの返事も、すぐには戻らなかった。
### 五月三日 夜 無色市集
主陣へ向かった唐門の若い弟子が、古道を登って戻ってきた。北西の山へ出ていた斥候の報せを趙活から預かっている。
丹霞子の隊が、持ち場を失った。
飛天門と奪魄門の者たちは岩棚から追い立てられ、別々の斜面へ逃げていた。斥候が最後に見た時には隊旗の下へ集まる者はいなかったという。
丹霞子自身を見た者もいなかった。
雷謙は書付を飛天門の古参へ渡した。
長老は灯に近づけて読み直した。読み終えても、紙を返さない。
「誰か、戻った者は」
「まだ、その報せはないっス」
唐惟元が答えた。
紙の向こうで、飛天門の若い弟子が唇を噛んだ。外へ出て捜すとは言わなかった。隣には、昨日の出撃で足を失った同門が寝ている。
師姉は灯を少し奥へ移した。
誰も、丹霞子の名を死者の紙へは書かなかった。
夜も更けた頃、表山道へ向かったもう一人が陸紹文の返書を持って戻ってきた。
唐惟元は瑞笙と雷謙の前へ広げ、明日、どこまで押せば表の隊が動けるかを確かめた。
門内からの合図は唐惟元の火器の爆音に決まった。西の通りから門へ向けて押し出し、外の兵がそちらへ動いたところで、陸紹文も前へ出る。
先に戻って休んでいた弟子へ、その段取りを記した陸紹文宛ての返事を渡し、食物を持たせて送り出す。返書を届けた方は飯屋で休ませた。
市集ではその夜も、姚掌門率いる奪魄門の門人たちが闇にまぎれ、西夏兵の休みを奪っていた。
### 五月四日 朝から昼前 無色市集
夜のうちに守る通りを一つ減らした。
そこにいた家族と負傷者を奥へ移し、門人を本道の西側へ寄せる。空けた横道は崩れた梁と荷車で塞ぐ。敵を永久に止めるものではない。乗り越える間に屋根から見つけられればよかった。
唐惟元は雷謙と瑞笙へ同じ道を示した。
「この裏を抜けると、門へ下りる坂の横へ出るっス。途中の二軒は向こうが取ってる。そこを抜ければ、表から来る兵の脇へ出られる」
唐惟元はごつごつした楕円の火器を確かめた。
「あの先には、もう味方はいないっスね」
雷謙が頷いた。昨夜、住人を運び出した時に店の奥まで見ている。
瑞笙は今も西夏兵の盾がある通りを見た。
「万里先輩が赫連を止めている間に、こちらを取ります」
雷謙が拳甲の留めを締めた。腫れの残る腕に革が食い込んだが、手は止めなかった。
「おれも行く。あそこはうちの連中の店だ」
本道へは姚掌門と飛天門の古参が人を残した。范破牙は崩した戸板の後ろに立つ。
解無塵は屋根の縁へ片足を掛け、仁多阿骨がいる向かいの軒下を見ていた。傍らには盾を持つ兵がおり、その奥で弩手が矢を番えている。
「君たちはそちらへ行け。向こうは俺に任せておけ」
そう言い置くと、瑞笙の返事を待たずに屋根を渡った。白い衣を狙って弩が上がる。仁多阿骨も盾の脇へ出て、解無塵の降りる先へ刃を向けた。
万里鵬程が石臼から離れた。
向こうでも、鉄槍が上がる。
その音を聞きながら瑞笙は店の裏へ入った。
一軒目の裏戸を押さえるまでに何度も足が止まった。隣の店から伸びる槍を退けると、今度は通りの盾がこちらへ向く。
日が高くなる頃、ようやく裏戸から先が見えた。西夏兵は二軒目の店先に集まり、その後ろにも弩手が並んでいる。
唐惟元が瑞笙の肩へ手を掛けた。
「ここから先は、いったん下がるっスよ」
瑞笙は後ろへ知らせた。雷謙も門人を連れて戸口を離れる。
唐惟元が通りの向こうへ火器を投げ込み、壁の陰へ身を引いた。
爆音が市集を揺らした。
店先に揃っていた盾も、その後ろの人影も、噴き上がる煙の中へ消えた。通りの両側で瓦が崩れ、砕けた板が屋根を越えて飛んだ。爆発から離れた兵まで地へ伏せ、向けられていた弩が一斉に下がる。
瑞笙は落ちてくる破片をやり過ごし、戸口へ戻った。
煙が薄れた先では盾の列が途切れていた。まだ立っている者も倒れた兵と砕けた荷台を越えなければ、近寄れない。
「今です。門へ!」
雷謙と鉄拳門の者たちが続いた。横の通りでも声が上がり、崆峒勢が押し出していく。
唐惟元も荷を背負い直し、その中へ入った。
### 五月四日 昼前 大腰峴
陸紹文のもとへ夜の使いが戻った時には、すでに東の空が白んでいた。
山下には昨日より多くの西夏の旗が見えた。朝廷兵が前哨へ迫っても、敵は後ろから兵を繰り出し容易には退かない。
朝廷中軍からの返事も届いていた。山下で敵へ圧力をかけ山へ回る兵を抑える。だが、こちらへ新しい大隊を送れるとは書かれていなかった。
陸紹文は、荷から出した最後の替え盾を前へ回した。
門の内側で大きな爆音が轟いたのは、日が高くなってからだった。
陸紹文は手を上げた。後ろの兵が立ち盾と槍を持ち直す。
大腰峴を守っていた弩手が、一度だけ背後を振り返る。兵が二人門へ走った。大岩の横にいた槍兵も、上の呼び声へ顔を向けた。
陸紹文は、盾の陰からそれを見ていた。
まだ、命じない。
岩棚に残った弩が一度射た。盾へ矢が刺さり、隣の弩手が弦を掛け直す。その後ろを今度は一列の兵が門へ向かった。
「今」
唐康はすでに横の段差へ足を掛けていた。
飛石幇の石が岩の縁へ集中する。唐泉たちの暗器がその間を抜け、顔を上げた弩手が腕を引いた。
狄傲が低く身を伏せ、露岩の上を走った。
一人目の槍を脇へ流し、胸へ肩から入る。二人目が向き直るより先に、続いた峨嵋の拳が盾の縁を越えた。
唐康はその死角へ降りた。弩を捨てて刀を抜こうとした兵の手元を短剣で払う。兵が手を引いた隙に、唐泉がもう一人へ暗器を投げた。
段差の上で人影が入れ替わった。
「盾を上げろ!」
朝廷兵が曲がりを出た。
先頭の二枚が、昨日まで矢が飛んできた大岩の下へ届く。槍が並び、後ろの弩兵が膝をついた。
敵はまだ分岐を押さえていた。
だが、ここからなら分岐を通って門へ向かう西夏兵を横から狙える。
最初の矢が飛ぶと、荷を担いでいた西夏兵が伏せた。後ろの列が止まり門を向いていた盾が横へ回った。
大岩の向こうに、新しい旗が現れた。
山下の西夏陣から回された援兵だった。岩陰から続々と兵が出て、分岐へ盾を向ける。その背後を抜け、残る兵が朝天門へ向かった。
「上へ通すな。鴛鴦陣を組め!」
曲がりを抜けた朝廷兵が、大岩の脇で組を揃えた。盾の後ろに槍、その脇に刀を持つ者がつく。後続も同じ形にまとまり、前の組との間を詰める。
陸紹文は、新しい西夏兵が列を伸ばす先を指した。
「前の組、受けろ。次は左へ出せ!」
大盾へ槍が突き当たった。盾兵は足を踏み直して支え、その肩越しに味方の槍が伸びる。敵が穂先を払うと、隣の盾が前へ出た。懐へ入り込んだ刀の兵が、槍手を押し退ける。
敵が倒れても、それを追って組を離れる者はいなかった。朝廷の盾兵が膝をつけば、後ろから代わりの盾が入り、また槍が揃う。
西夏の弩がこちらを向けば、飛石幇の石が弩手へ飛んだ。
狄傲たちは盾列の山側へ出た。突き出した岩を足場に、正面で槍を合わせる敵の列の端へ迫る。横へ向き直った槍手に唐泉の暗器が飛び、兵が身を引くと、狄傲の掌が隣の盾を斜めに押した。
開いた隙間へ唐康たちも入る。刀を抜いた兵と短剣が打ち合い、西夏兵が横を支えようと集まった。
陸紹文は敵が横へ兵を寄せたのを見て、後ろの組を前の組の横へ進めた。二つの盾列が揃い、西夏兵の槍を押し返す。
門へ回りかけていた敵兵まで、こちらへ向き直った。
陸紹文は前へ出た組へ声を掛けた。
「列を離れるな。このまま押せ!」
西夏兵も退くばかりではなかった。倒れた盾を引き起こし次の列を前へ出す。そのたびに朝廷兵の歩みも止まり、盾を打つ音が重なった。
分岐へ広がりかけた西夏の列が、少しずつ農地側へ押し戻されていく。
門へ上がった兵はいる。だが、その後ろまで同じようには通さなかった。
陸紹文はようやく、門へ続く道の脇に兵を並べた。
### 五月四日 午後 朝天門
合図の爆音が響いてから、瑞笙たちは門へ通じる坂を目指して押し続けていた。
坂の横へ迫った頃、山下から上がった西夏兵が門をくぐり始めた。
だが、彼らは市集の奥へは進まなかった。門の内側で盾を並べ、負傷者を担いで下りてくる者を通す。
その一人が右の通りへ入り、仁多阿骨へ書付を差し出した。
使いが携えてきたのは、その朝、山下の中軍から出された撤収の命だった。
丹霞子隊は崩した。だが、崆峒は三日目になっても取り切れず、麓では朝廷軍と武林が退かない。山上を奪っても、そこへ通じる道を守るためにさらに兵を残さねばならなかった。
中軍は門内の兵を引き揚げさせることに決め、その収容に当たる兵を山下の予備から回していた。
仁多阿骨は書付を返し門外の様子を聞いた。陸紹文の兵が大岩を越え、援護の列を押している。
湾刀が坂を指した。傍らの兵が走り、次の一人は赫連のもとへ向かった。
雷謙が目の前の盾を押し、横から来た槍を拳甲で外す。瑞笙は開いた隙間へ入り、槍手を店の壁際へ倒した。
唐惟元が後ろの鉄拳門人を通した。
「雷掌門に続いて。まず坂まで出るっスよ」
横道を守っていた西夏兵が、門へ向かって下がり始めた。
一人だけではない。
荷を担いだ者、肩を借りる負傷者、その後ろを守る盾。坂の下から短い号令が返り、通りを塞いでいた兵も順に離れる。
市集の奥まで来ていた西夏軍が、引き始めていた。
雷謙は、追おうとした門人の肩を掴んだ。
「追い散らすな。隊を揃えて門へ出ろ。表の隊へ道をつなぐぞ」
向こうに新しい伏兵がいるか、ここからは分からない。昨日まで一緒に戦っていた者を残した店へ駆け戻ろうとする弟子もいる。
瑞笙は二手に分けた。一方は負傷者を捜し、一方は雷謙と坂へ出る。
本道の中央では、万里鵬程が赫連の槍を外へ流していた。
踏み込んだ拳を槍身が受ける。低い音が二つ重なり、老侠の足が石畳を削った。赫連の後ろ足も、一歩だけ滑る。
赫連の背後で仁多阿骨の使いが声を張った。
鉄槍がもう一度万里鵬程へ振り下ろされた。鷹爪がその柄を外へ流すと、赫連は追って踏み込まず、坂へ向かって足を引いた。
赫連は殿に残り、他の通りから下がってくる兵を背後へ通した。
万里鵬程は開いた鷹爪をゆっくり握った。
「まだ、終わりではないようじゃな」
その声が届いたかどうか、赫連は答えなかった。
右の通りでも仁多阿骨が兵を下げていた。盾が道を塞ぎ、その間から弩が解無塵を狙う。将は盾の脇に残り、近づいてくる足へ刀を返しながら、まだ下りてこない組へ使いを走らせた。
「おい、君とはまだ済んでいないぞ」
解無塵が追って一跳びすると、盾の間から弩が向いた。屋根の縁の裏へ足を掛けて止まり、白い衣の裾を矢が抜けていく。
「まったく、逃げ足までいい奴だ」
不満げに呟いたが、弩の前へは降りなかった。盾に紛れて仁多阿骨も坂へ消えると、解無塵は屋根伝いに味方のいる通りへ戻った。
坂へ着いた瑞笙には、門外の大岩の陰に朝廷兵の盾が見えた。
「陸殿も出ています。こちらからも押して道をつなぎます!」
雷謙が門人を率い、瑞笙とともに坂を下った。門を押さえる西夏兵が盾を寄せる。その外では、陸紹文の隊が組を揃えたまま横から迫っていた。
山下から来た援護の兵は、盾を二方へ向けた。退く味方を通すたびに列が緩み、そこへ崆峒と朝廷の兵が押し寄せた。
西夏兵も盾を重ねて踏みとどまったが、門前の列は少しずつ押し退けられていった。
仁多阿骨が門を抜けると、残る兵を援護の列へまとめた。湾刀を振って追手を牽制し、盾を一列ずつ下がらせる。
最後に赫連が門を出た。万里鵬程へ向けた鉄槍を下ろさず、援護の盾が下がるまで、その前に立っていた。
陸紹文は先へ出ようとした兵を止めた。
「槍を揃えろ。門への道を取る。追うのはそこまでだ」
西夏の列が離れたところから朝廷兵が道へ入り、門内から下りてきた者と並んだ。赫連も鉄槍を構えたまま坂を下り、やがて大腰峴の向こうへ消えた。
唐泉が門の前へ出て唐惟元を見つけた。
「四師兄!」
唐惟元は手を上げた。
駆け寄ろうとした唐泉を止め、後ろの荷を指す。
「水から通して。そっちの空いた戸板、借りるっスよ」
朝廷兵が門をくぐったのはその後だった。
陸紹文は道が繋がったことだけを先に知らせる伝令を下らせた。
### 五月四日 夕刻から夜 無色市集
朝天門は閉じられなかった。
外れた金具と裂けた木が、門扉の下へ噛み込んでいる。陸紹文は門前へ盾を置き、工具役に仮の防ぎを作らせた。分岐にも兵を残す。登ってきた者を全員、町へ休ませるわけにはいかなかった。
市集では戸を一枚開けるたびに声がした。
生きている者の声ばかりではない。家族を見つけて呼ぶ声と、見つけても返事のない者へ呼びかける声が、同じ通りから上がった。
飯屋の女は自分の店へ戻った。
鍋は煤を被っていたが、割れてはいなかった。男たちが水を運び込み、女は灰を掻き出して、残っていた米を鍋へ入れた。
前掛け姿で戦っていた男が、片腕を吊って薪を寄せる。
向かいの宿で刀を振るっていた武人は、戻らなかった。
唐惟元は宿の主に呼ばれ、部屋に残った荷を見た。持ち主が分からないものは、見つけた部屋ごとに分けておくよう頼んだ。
通りの奥では、師姉が重傷者を数えていた。四十包の薬を分けた紙はもう残っていない。今度は山下から届いた包みを開き、濡れた布を替え、下ろせる者と、まだ動かせない者を分ける。
雷謙は崩れた店の前で立ち止まった。
三日前には、その屋根の下から朝飯の匂いがしていた。
飛天門の長老が隣へ来る。丹霞子の消息について、付け加えられることはなかった。
二人はしばらく黙っていたが、それぞれを呼ぶ声に振り返り、別々の通りへ戻った。
唐惟元は趙活への書付を閉じた。
朝天門から敵は退いた。表の援軍と道が繋がった。上天梯は守った。
丹霞子、消息不明。
死傷の数は、まだどれほどかわからない。
間者の正体も、いまだ掴めていない。
使いへ渡してから、唐惟元はもう一枚の紙を取った。今夜いる水と布、担架を持つ手の数を書き始める。
暗くなった門外で見張りが声を上げた。農地の西夏軍に火が増えている。
西夏の陣では、昨日まで暗かった場所にも篝火が焚かれていた。その向こうから松明の列が続き、列の途切れた後にも新しい火があった。
書くべきことは多い。だが、行商の帳簿をつけているときと比べるとなんと寒い数字だろうか。
崆峒に吹き込む風に身震いし、唐惟元は紙から顔を上げた。
足と脚を組み合わせる合体は書けませんでした