[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
二十年近い年月が流れた。
かつて、王を奪うために魔物が忍び込んだサマンオサは、今では以前にも増して豊かな国になっていた。
城下町の外れに作られた最初の風車は、何度も修繕されながら今も回り続けている。その周囲には新たな井戸や水路が作られ、かつて水汲みに苦労していた高台にも家々が増えた。
ベルタが毎朝通っていたパン屋は、今では娘が店を継いでいる。
店先には、王家御用達を示す立派な看板が掲げられていたが、店主となった娘は、王族が訪れても昔と変わらぬ調子で迎えた。
「ベルタちゃん、今日はいつもの?」
「今は王妃だぞ」
「でもベルタちゃんはベルタちゃんでしょう?」
そのやり取りも、ほとんど変わらなかった。
王子は父王から王位を継ぎ、今ではサマンオサ王となっていた。
ベルタもまた、その隣で王妃として国を支えている。
もっとも、宮廷の者たちが想像するような、優雅で静かな王妃ではなかった。
冬になれば自ら雪かきへ出て、荷車がぬかるみにはまれば袖をまくって押し、城の修繕が始まれば職人たちの中へ混ざって木材を運んだ。
「王妃様がなさる仕事ではございません」
侍従から何度そう注意されても、ベルタは聞かなかった。
「必要な仕事なら、誰がやっても同じだ」
「お立場というものがございます」
「立場で荷車が軽くなるのか?」
「なりませんが……」
「なら押せ」
結局、侍従まで隣へ並んで押すことになる。
そんな王妃を、城下の人々は昔から変わらずベルタと呼び、親しんでいた。
王との間には、多くの子どもが生まれた。
最初の子が生まれるまでは、本人たちも周囲も不安を抱いていた。
人間と魔物の間に、本当に子どもができるのか。
生まれたとして、どのような姿になるのか。
神官も学者も、誰一人として確かな答えを持っていなかった。
だが、生まれた赤子は、小さく、健康で、そして驚くほど力強い声で泣いた。
女の子だった。
王はその子を抱き上げながら泣き、ベルタも泣いた。
もちろんベルタは、後になって「あれは出産で疲れて目に水がたまっていただけだ」と言い張った。
二人は長女へ、ジークリンデという名を与えた。
その後も子どもたちは次々と生まれた。
男の子も女の子もいた。
母に似て力の強い子。
父に似て人の話をよく聞く子。
外見は人間と変わらないが、風邪をひいても一晩で元気になる子。
幼い頃から屋根へ登り、止める間もなく飛び降りる子。
兄弟喧嘩で扉を壊し、母から「物は大切に扱え」と叱られる子。
「母上が言いますか?」
ある息子が尋ねたとき、居合わせた使用人たちは全員、笑いをこらえるために顔を背けた。
その中でも長女ジークリンデは、幼い頃から特に際立っていた。
五歳で、自分より大きな薪束を抱えた。
七歳で、落馬した弟を片腕で引き上げた。
十歳になる頃には、訓練用の剣で年上の少年たちを次々と倒した。
だが、彼女が国民から愛されたのは、強かったからだけではない。
倒れた相手へ真っ先に手を差し伸べた。
泣いている子どもを見つければ、身分を問わず隣へ座った。
傷ついた兵士の見舞いへ通い、町の祭りでは老人の荷物を運び、風車の修理にも加わった。
強く。
優しく。
そして、母譲りの美しさと父譲りの穏やかな微笑みを持つ姫君。
成長したジークリンデは、いつしか王国一の騎士と呼ばれるようになっていた。
男顔負けの膂力。
人並み外れた頑健さ。
傷を負っても驚くほど早く回復する生命力。
そこへ幼い頃から積み重ねた剣技と戦術が加わり、若くして王国騎士団の誰もが認める実力者となった。
そのジークリンデが、今日、国を旅立つ。
二十年前。
サマンオサを救った勇者一行はその後も旅を続けた。
そして、世界の果てに開いた巨大な穴へ降りていった。
大魔王のいる異世界へ通じているとされた、底の見えない大穴。
勇者たちは、必ず帰ると約束した。
だが、二十年近くの年月が過ぎても戻らなかった。
大魔王が倒されたのかさえ分からない。
世界には再び魔物が増え始め、遠い国々から不穏な報告が届くようになった。
勇者の忘れ形見を中心に勇者の役目を継ぐべく立ち上がった人々。
ジークリンデはその一人だった。
城門の前には、朝早くから大勢の人々が集まっていた。
石造りの門と城壁には王家の旗が掲げられ、風を受けて大きく翻っている。通りには花びらがまかれ、兵士たちは道の両側へ整列していた。
旅装を整えたジークリンデは、城門の中央に立っていた。
重厚だが華やかな装飾も施された鎧。
背には青い外套。
腰には、父王から贈られた剣がある。
華やかな王女の装いでありながら、どの部分も実戦で使うことを前提として作られていた。
装飾だけの鎧を嫌う母と、王族としての格式も必要だと譲らない父の意見を、職人たちが苦労して両立させたものだった。
「やっぱり少し派手じゃない?」
ジークリンデは胸当ての金装飾を見下ろした。
「王女なのだから、そのくらいでよい」
父王が答える。
「お前が放っておくと、ただの鉄板を着ていこうとするからな」
「頑丈ならいいでしょう?」
「よくない」
その隣で、ベルタが腕を組んでいた。
二十年前とほとんど変わらぬ赤褐色の髪。
それでも、目元や表情には二十年の年月が刻まれている。
王妃として。
妻として。
そして、多くの子を育てた母として。
ベルタは娘の鎧の留め具を確かめた。
「ここが少し緩い」
「自分で確認したわ」
「お前の確認は信用できん」
「母上にだけは言われたくない」
「何だと?」
ジークリンデは笑いながら、母の手を取った。
「大丈夫よ」
ベルタの手が止まる。
「必ず帰ってくるから」
「……勇者たちもそう言った」
低い声だった。
ジークリンデは一瞬、言葉を失った。
ベルタは、大穴へ向かった勇者たちをよく知っている。
自分を討つためにサマンオサへ来て、最後には国を守るため共に戦った者たち。
彼らが旅立った日、ベルタは笑って送り出した。
また会えると疑っていなかった。
「母上」
「分かっている」
ベルタは娘の手を握り返した。
「お前を止めるつもりはない」
その声は、わずかに震えていた。
「俺がこの国を好きになったように、お前もこの国を好きになった。守りたいと思った。それなら、行くなとは言えん」
「うん」
「だが、無茶はするな。勝てない相手なら逃げろ。仲間を頼れ。一人で全部背負うな」
「母上がそれを言うの?」
「俺は何度も失敗したから言っている」
「説得力はあるわね」
ジークリンデは、母を強く抱き締めた。
ベルタも娘の背へ腕を回す。
強い娘だった。
もう、自分が支えなくとも立てる。
それが誇らしく、同じくらい寂しかった。
「いってきます、母上」
「……ああ」
「泣いてる?」
「泣いていない」
「目が赤いわよ」
「朝日が眩しいだけだ」
「両目に?」
「両目にだ」
昔から変わらない言い訳に、周囲から小さな笑いが起きた。
父王も娘を抱き締めた。
「お前は強い。だが、強い者ほど、自分が倒れたあとのことを考えなければならない」
「分かっています、父上」
「生きて帰れ」
「はい」
「大魔王を倒すことより、それを優先しろ」
「王として、それでいいの?」
「父親として言っている」
父王は娘の額へ口づけ、名残惜しそうに離れた。
その後ろには、祖父母がいた。
すでに王位を譲った先代の王と王妃は、老いた身体を支え合いながら、長い列の先頭へ立っている。
「立派になったな」
祖父王が言った。
「お前の母が城へ来た頃からは、想像もできん未来だ」
「余計なことを言うな」
ベルタが即座に返し、周囲がまた笑った。
弟妹たちも次々と姉へ抱きついた。
「本当に行くの?」
「お土産を忘れないでね」
「魔物の角がほしい!」
「危険なものを頼むな!」
「姉上がいない間、訓練場を使ってもいい?」
「壊さないならね」
「母上には何度も壊されたのに?」
「お前たちは今日、俺を怒らせたいのか」
泣きながら笑う弟妹たちを、ジークリンデは一人ずつ抱き締めた。
一番幼い妹は、離れようとせず、最後にはベルタが抱き上げなければならなかった。
「姉さま、帰ってくる?」
「帰るよ」
「本当?」
「本当」
「約束?」
「約束」
ジークリンデは妹の小さな拳へ、自分の拳をそっと合わせた。
その向こうには、城の者たちと領民がいた。
メイド仲間だった者たちは、今では使用人をまとめる立場になっている。白髪が増え、腰が少し曲がった者もいたが、ベルタを祝った頃と変わらぬ笑顔で立っていた。
パン屋の店主は、大きな包みを抱えていた。
「道中で食べて。特別に日持ちするよう焼いたから」
「ありがとうございます」
「ベルタちゃんより、ちゃんとお礼が言えるねえ」
「聞こえているぞ!」
風車を作った職人の息子たち。
城を守る兵士。
町の子どもたち。
誰もが、ジークリンデの名を呼んだ。
「姫様!」
「必ず戻ってきてください!」
「頑張れ、ジークリンデ!」
「世界を救ってくれ!」
ジークリンデは振り返った。
高い城壁。
青と金の旗。
屋根の並ぶ城下町。
遠くに見える風車。
生まれ育った家。
父と母が守り、自分も守りたいと願った国。
大勢の人が、涙を流しながら手を振っている。
母ベルタは、末の妹を片腕に抱きながら、もう片方の手を大きく振っていた。
「絶対に帰ってこい!」
その声は、門の外までよく響いた。
「言われなくても!」
ジークリンデは答える。
「食べ物を握り潰すな!」
「そこまで母上に似てない!」
「無茶をするな!」
「分かってる!」
「知らない相手についていくな!」
「子どもじゃないのよ!」
「毎日ちゃんと食べろ!」
「母上!」
見送りの人々から笑いが起きる。
父王がベルタの肩へ手を置き、もう十分だと宥めていた。
ベルタは何か言い返したあと、娘へ向き直った。
その目から涙が流れていた。
今日は、隠そうともしていなかった。
ジークリンデの胸にも、熱いものが込み上げる。
ここを離れるのは寂しい。
怖くないわけではない。
二十年前の勇者たちと同じように、自分も帰れないかもしれない。
それでも、進むと決めた。
大好きな家族のために。
この町のために。
この国のために。
そして、帰る場所を守るために旅立った、かつての勇者たちの意志を継ぐために。
ジークリンデは涙を拭わなかった。
代わりに右手を高く掲げ、力強く拳を握った。
それは母が好んだ、言葉よりもまっすぐな応え方だった。
任せて。
必ず帰る。
私が守る。
そのすべてを込めた拳だった。
城門の内側から、さらに大きな歓声が上がった。
ジークリンデは前を向く。
城から延びる街道は、朝の光を受けて遠くまで続いていた。
その先には、まだ見ぬ仲間たちがいる。
助けを待つ人々がいる。
魔物がいる。
そして世界の果てには、二十年前の勇者たちが消えた大穴がある。
彼女は力強く、一歩を踏み出した。
父と母が、過去に定められた運命を捨て、自分たちの意志で未来を選んだように。
今度はその娘が、自らの足で、新しい物語へ歩き出す。
背後では、家族と国民の声がいつまでも響いていた。
ジークリンデは一度だけ振り返り、笑った。
そして再び前を向く。
大好きな家族と。
大好きな町と。
大好きな国を守るために。
第一王女ジークリンデの旅が、今、始まった。