現代。
緑豊かな中央トレセン学園の中庭には、どこまでも穏やかな陽光が降り注いでいた。
「ふむ。この小説は、よく出来たファンタジーだねぇ」
木陰のベンチでタブレット端末をスクロールしていたアグネスタキオンが、呆れたように、しかしどこか感心したような息を吐いて画面を閉じた。隣で温かいコーヒーの入ったマグカップを両手で包んでいたマンハッタンカフェが、静かに視線を向ける。
「ファンタジー、ですか……?」
「ああ。歴史のIFモノとしては面白いが、考証が甘い。特にセントライト先輩の口調が全く違うじゃないか。彼女はイギリスの高貴な生まれのお嬢様だよ? こんなやさぐれた酒場の似合う口調で喋るわけがない」
タキオンは肩をすくめ、白衣のポケットに端末を滑り込ませた。
「まあ、彼女が我々にとって手の届かない『伝説』であることは変わらないがね?」
「……そうなんですね」
カフェが静かに相槌を打ったその時、二人のいるベンチの脇へ、竹箒を持った用務員のウマ娘がやってきた。
腰は深く曲がり、顔には無数の深い皺が刻まれている。しかし、帽子から覗くその耳は、紛れもなくウマ娘のものだった。
「ご苦労様です」
カフェが会釈をすると、用務員の老ウマ娘は箒を持つ手を止め、細めた目をさらに優しく和ませた。
「勉強かい? せいが出るねぇ。いい天気の日に、外で本を読むのは気持ちがいいだろう」
「あ……はい」
穏やかな空気が流れる中、カツ、カツ、と規則正しいヒールの音が近づいてきた。
理事長秘書の駿川たづなだ。彼女はベンチのタキオンたちに微笑みかけようとして――ふと、その用務員の姿を認めた瞬間、歩みをピタリと止めた。
そして、生徒たちに見せるいつもの柔らかな態度はそのままに、しかし、極めて深い敬意と畏怖を込めた、洗練された最敬礼の角度で頭を下げた。
「――ご苦労様です」
「ええ、ええ。秘書さんも、毎日お疲れ様」
老ウマ娘はカラカラと笑い、再び落ち葉を集め始めた。
「ま、面白い時間つぶしにはなった」
タキオンは立ち上がり、大きく伸びをした。
「私は実験室に戻るよ。モルモット君が新しい薬品のテストを待ちわびている頃合いだからね」
ヒラヒラと手を振りながら、タキオンは足早に校舎の方へと歩き去っていく。残されたカフェは、再びマグカップに口をつけようとして――ふと、自分の足元に揺らぐ「黒い影」の異変に気がついた。
彼女にしか見えない、彼女の『お友だち』。
普段は気まぐれにフワフワと漂っているだけのその影が、今は用務員の老ウマ娘の背後へ、吸い寄せられるように静かに近づいていた。
そして次の瞬間、影は、用務員の顔を覗き込むように身を屈める。
「……?」
カフェが訝しげに見守る中、『お友だち』の様子が明らかにおかしい。普段の底知れない雰囲気は鳴りを潜め、まるで絶対的な何かを前にしたかのように、影は姿勢を正した。
そして、音もなく、静かに、老ウマ娘に向かって深々とお辞儀をしたのだ。
それは、数え切れないほどのナニカを背負ってきた「本物」に対する、霊的な存在からの無言の最敬礼だった。
「……どうしました?」
カフェが小さく問いかけると、『お友だち』は首を横に振り、静かにカフェの足元へと戻ってきた。その意味を問いただそうと、カフェが再び顔を上げた時。
「あれ……?」
そこにはもう、落ち葉を集める竹箒の音も、たづなの姿もなかった。
まるで春の陽炎のように、二人の姿は中庭から忽然と消え去っていた。ただ、平和な秋風が木々の葉を揺らし、ターフの向こうから、後輩のウマ娘たちが元気に駆け抜けていく笑い声だけが響いている。
カフェはもう一度、誰もいない虚空を見つめ、そして手元の温かいコーヒーをゆっくりと一口、飲み込んだ。
■
急ぎの報告書を手に理事長室の前に立ったシンボリルドルフは、ドアノブに手を掛け――、その動きをピタリと止めた。
「おや、これは……」
重厚なオーク材の扉の向こうから、微かに声が漏れ聞こえてきたのだ。秋川理事長の声ではない。低く、落ち着きがあり、そして何よりも……かつて学園の書物や古いフィルムの中でしか聞いたことのない、圧倒的な威厳に満ちた声。
その声の主が誰であるか、彼女の聡明な頭脳は瞬時に弾き出していた。
(セントライト……先輩? 確か、今は故郷のイギリスにおられるはず、では)
―――日本レース史上初の三冠ウマ娘。
戦前のターフを熱狂の渦に巻き込み、そして戦火の時代を生き抜いた、生ける伝説。表舞台からはとうに身を引き、今は連盟の重鎮として裏から学園を支えていると聞く彼女が、なぜ今日、この理事長室にいるのか。
「――ふふ。相も変わらず」
それは、鈴を転がすような、それでいて深い森の湖畔のように静かで透き通った声だった。それは単なる会話というよりも、何か特別な儀式のような、魂の底から絞り出された祈りのような響きを帯びていた。
「誇りあるダービーの冠は、貴女にこそ、相応しい」
ルドルフは息を呑んだ。
その厳かで、祈るような響きを持つ言葉のあとに続いたのは、ルドルフのよく知る理事長の声……ではなかった。
「……やめてくださいよ先輩。何時の話をしてるんですか、もう」
少し照れくさそうな、けれどどこか嬉しげなその声に、ルドルフは軽く目を丸くした。
誰だろうか。偉大なセントライトに対して、あんなにもフランクに、かつて共に戦った戦友のような親しみを込めて返せる存在など、学園にいるのだろうか。
いや、違う。あの声には、どこか聞き覚えがある。ずっと昔、いや、つい最近どこかで聞いたような……。
(いや……、邪魔をしてはいけないな)
これ以上、足を踏み入れてはいけない。ルドルフの直感がそう告げている。
ルドルフは報告書を持つ手にわずかに力を込めると、ドアノブから静かに手を離した。
中に誰がいるのか、何が話されているのか、知りたい欲求は山のようにあった。しかし、この扉の先に流れているのは、現代を生きる自分たちが決して触れることのできない、不可侵の歴史の断片なのだと、彼女の直感が告げていた。
「出直すとしよう」
ルドルフは誰に言うでもなく小さく呟くと、踵を返し、来た道を静かに引き返していった。
■
執務室に戻ったルドルフは、報告書をデスクに置き、窓の外に広がるターフを見下ろした。
秋の陽光を浴びて、若いウマ娘たちが元気に駆け回っている。その平和で眩しい光景を眺めながら、ルドルフは先ほど聞いたセントライトの言葉を反芻していた。
『誇りあるダービーの冠は、貴女にこそ、相応しい』
ダービーウマ娘という、選ばれし者だけが頂くことのできる絶対的な栄誉。セントライトも、そして自分自身も、その重圧と孤独を知っている。だからこそ、あの言葉が持つ意味の重さが痛いほどに分かった。
「……伝説は、生きているのだな」
ルドルフは目を細め、静かに微笑んだ。
本の中の出来事だと思っていた歴史は、確実にこの学園の底流に脈々と息づいている。彼女たちが繋いできた轍の上に、自分たちは立っているのだ。
「私も、負けてはいられないな。皇帝として、この平和な時代のターフを……さらに熱く、輝かしいものにしなければ」
「皇帝」と呼ばれる彼女でさえ、ウマ娘の歴史のすべてを知っているわけではない。
光り輝くターフの裏側には、泥と血に塗れながらも必死に命を繋いだ者たちの、語られない物語がある。
ルドルフは決意を新たに、再びデスクに向かい合った。
―――先達が守り抜いた歴史を、次の世代へと繋いでいくこと。
それが、自分たちにできる、唯一の恩返しなのだと心に刻みながら。