最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
今日。
透とどこまで近づくのか。
最後に決めるのは。
私だ。
◇
朱音と別れてから。
透と二人で、駅へ向かう。
土曜日の朝。
制服ではなく、私服で隣を歩く。
それだけで、いつもの通学路が少し違って見えた。
「透」
「ん?」
「朱音の訓練、行かなくてよかったの?」
「今日は澪と約束してたから」
「それは分かってるけど」
「行ってほしかった?」
「どうしてそうなるのよ」
「気にしてたから」
「朱音が急に誘ったから、少し心配になっただけ」
「なら大丈夫」
「何が?」
「火神は天城と訓練する。俺は澪と出かける」
「……そうね」
透は、迷わずそう言った。
朱音の誘いを断って。
私との約束を選んだ。
それが少し嬉しかった。
「それで」
透が聞く。
「今日はどこへ行くの?」
「昨日話したでしょう!」
「覚えてる」
「本当に?」
「水族館」
「そのあと」
「昼食」
「そのあと」
「澪が見たい店」
「覚えてるじゃない」
「たぶん」
「最後にそれをつけないで」
透が小さく笑う。
私も少しだけ笑った。
◇
駅前の水族館。
休日の館内は、思っていたより人が多かった。
大きな水槽の前を、透と並んで歩く。
青い光が床へ揺れている。
魚の群れが、頭の上を流れていく。
「透」
「ん?」
「見てる?」
「見てる」
「どこを?」
「澪」
「魚を見なさいよ!」
「見てたから」
「いつから?」
「さっきから」
「どうして?」
「楽しそうだった」
言われて、自分が笑っていたことに気づく。
「悪い?」
「悪くない」
「なら魚を見て」
「はい」
透が水槽へ顔を向ける。
その横顔を見る。
今度は。
私が透を見ていた。
「澪」
「何?」
「見てる?」
「見てないわよ」
「そう」
「何よ」
「同じだなと思って」
「違うわよ」
透が笑う。
私も笑ってしまった。
人の流れに押され、腕が触れる。
透が少し離れようとする。
その前に。
私から、透の腕へ自分の腕を絡めた。
透がこちらを見る。
「何?」
「人が多いからよ」
「はぐれないように?」
「そう」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
腕を絡めたまま。
二人で次の水槽へ向かった。
◇
昼食のあと。
本屋へ寄った。
透は、自分で一冊選んだ。
「これにする」
「私に聞かなくていいの?」
「今日は自分で選ぶ」
「成長したわね」
「少し?」
「少しだけ」
透が持っている本を見る。
前に私が勧めたものと、同じ作者だった。
「気に入ったの?」
「読みやすかった」
「それだけ?」
「澪と感想を話せるから」
「……そう」
嬉しくなる。
でも。
素直に顔へ出すのは悔しい。
「最後まで読んでから言いなさいよ」
「買う前だけど」
「だから、ちゃんと買って読んで」
「厳しいな」
「当然でしょう」
透が本を持って会計へ向かう。
その背中を追う。
前のデートでも。
一緒に本を選んだ。
同じことをしているのに。
今日は。
このあとも、まだ一緒にいたいと思っていた。
◇
夜。
駅から少し離れた店で、夕食を取る。
窓の外は、もう暗くなっていた。
透の端末が短く鳴る。
「連絡?」
「火神」
「朱音?」
透が画面を見る。
「天城に勝ったって」
「本当に? 一回で終わったの?」
「二回勝ったとは書いてない」
「でも、二回やったと思ってるでしょう」
「火神なら一回で終わらないから」
「……確かに」
「肩は大丈夫だったのかしら」
少し考えてしまう。
「返事しないの?」
「今していい?」
「どうして私に聞くのよ」
「今日は澪といるから」
「それくらいで怒らないわよ」
「分かった」
透が短く文字を打つ。
「何て送ったの?」
「おめでとう」
「それだけ?」
「他にいる?」
「もう少し何かあるでしょう」
「例えば?」
「よく頑張ったとか。今度話を聞くとか」
「澪が送る?」
「どうして私が送るのよ!」
透が小さく笑う。
端末を伏せ、こちらを見る。
「もう終わり?」
「うん」
「ならいいけど」
朱音のことは、少し気になった。
でも。
今は。
透が私との時間へ戻ったことが嬉しかった。
◇
店を出る。
夜の風は、昼間より冷たかった。
駅へ向かって歩く。
透の手が、私の手に触れる。
「つなぐ?」
「今さら聞くの?」
「外だから」
「誰も私たちのことなんて見てないわよ」
私から手をつなぐ。
指を絡める。
透も握り返した。
駅が近づく。
ここから寮へ戻れば。
今日のデートは終わる。
十分楽しかった。
水族館へ行って。
一緒に本を選んで。
夕食を食べた。
次の約束をして。
また明日会える。
それでいいはずだった。
でも。
足が少しずつ遅くなる。
「澪」
「何?」
「疲れた?」
「違うわ」
「じゃあ、帰りたくない?」
言い当てられて。
返事ができなかった。
「……どうして分かるのよ」
「歩くの遅くなったから」
「それだけ?」
「手も強く握ってる」
言われて、自分の手を見る。
確かに。
さっきより強く、透の指を握っていた。
「嫌なら帰る」
透が言う。
「嫌じゃないわよ」
「なら、どうしたい?」
透は決めなかった。
私に聞いた。
今日。
どこまで一緒にいるのか。
私が決められるように。
「まだ」
一度、息を吸う。
「まだ、透と一緒にいたい」
「うん」
「寮へ戻りたくないって意味よ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
透が、私の手を握る。
「どこか、二人でいられる場所を探す?」
顔が熱くなる。
それが何を意味するのかは、分かっていた。
怖くないわけではなかった。
緊張もしている。
でも。
帰りたいとは思わなかった。
「ええ」
透を見る。
「そうしましょう」
◇
駅近くのホテル。
部屋へ入る。
扉が閉まる。
急に静かになった。
窓の向こうには、街の灯りが見える。
透が買った本を、机の上へ置く。
私は鞄を椅子へ置いた。
それだけで、することがなくなった。
透と二人きり。
誰も入ってこない部屋。
さっきまで自分で望んでいたのに。
胸が速くなる。
「澪」
「何?」
「座る?」
「ええ」
並んで腰を下ろす。
肩が触れる。
透は、それ以上近づかなかった。
「透」
「ん?」
「何か言って」
「何を?」
「何でもいいから」
透が少し考える。
「今日は楽しかった」
「私も」
「水族館も」
「ええ」
「本屋も」
「それは、あなたが本を買っただけでしょう」
「澪と選んだ」
「ほとんど自分で選んでたじゃない」
「でも、澪が見てた」
「……そうね」
いつもの会話。
それだけで。
少し呼吸が戻った。
「澪」
「何?」
「帰りたくなったら言って」
「今?」
「今でも。あとでも」
「……分かった」
「何もしないで話すだけでもいい」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「それ、私の台詞でしょう」
透が少し笑う。
私も笑った。
透の手が、近くにある。
私から触れる。
指を重ねる。
「透は?」
「何?」
「透は、どうしたいの?」
聞くと、透はすぐには答えなかった。
「澪に触れたい」
やがて。
まっすぐに言った。
「もっと近くにいたい」
「……そう」
「でも、澪が望まないことはしたくない」
「私が決めればいい?」
「うん」
透の指を握る。
私は。
今日一日。
透の隣にいた。
私から腕を絡めた。
手をつないだ。
帰りたくないと言った。
ここへ来ることも選んだ。
なら。
この先も。
自分で決めたい。
「私も」
透を見る。
「私も、もっと透に近づきたい」
透の目が、少しだけ大きくなる。
私から身体を近づける。
透の肩へ手を置く。
透の腕が、ゆっくり背中へ回る。
抱き寄せられる。
私も透の背中へ腕を回した。
前より近い。
それでも。
怖くはなかった。
安心する。
もっと触れていたいと思う。
少し離れる。
顔が近い。
「キスしてもいい?」
透が聞く。
「ええ」
唇が触れる。
一度。
離れる。
今度は。
私から、もう一度重ねた。
前より長く。
離れたあとも。
透の肩から手を離さなかった。
「澪」
「何?」
「この先も、いい?」
声が近い。
でも。
答えを急かす声ではなかった。
私は。
自分が何を望んでいるのか考える。
緊張している。
恥ずかしい。
怖さも、少しだけある。
それでも。
透となら。
もっと近くなりたい。
「ええ」
透の目を見る。
「私も、この先へ進みたい」
「途中で嫌になったら言って」
「透もよ」
「俺も?」
「当たり前でしょう。二人で決めることなんだから」
「分かった」
透が頷く。
私も頷いた。
もう一度。
透の手を取る。
今度は。
迷わなかった。
部屋の灯りを落とす。
◇
朝。
カーテンの隙間から、細い光が入っていた。
目を開ける。
すぐ隣に、透がいる。
眠そうな顔。
目を閉じていても、いつもとあまり変わらない。
少し笑ってしまう。
「透」
「ん……」
「朝よ」
「もう少し」
「起きなさい」
「休み」
「そういう問題じゃないでしょう」
透がゆっくり目を開ける。
「おはよう」
「……おはよう」
目が合う。
昨日のことを思い出して。
急に顔が熱くなった。
透がこちらを見る。
「何?」
「赤い」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「俺?」
「他に誰がいるのよ!」
声を上げてから。
恥ずかしくなって顔を逸らす。
透が小さく笑う。
「笑わないで」
「ごめん」
「絶対、悪いと思ってないでしょう」
「少し」
「少しなの?」
いつものやり取り。
でも。
昨日までとは違う。
透の手が、私の手へ触れる。
指先だけ。
それから。
確かめるように、手を重ねた。
「澪」
「何?」
「後悔してない?」
透が聞く。
私は、すぐに答えた。
「してないわ」
「本当に?」
「本当よ。透は?」
「してない」
「ならいいわ」
透の手を握る。
昨日。
ここへ来ると決めたのは、私だった。
透ともっと近づきたいと伝えたのも。
この先へ進みたいと答えたのも。
全部。
私が決めた。
だから。
恥ずかしくても。
今さらなかったことにはしたくない。
「透」
「ん?」
「次も」
口にしてから。
言葉が止まる。
「次も?」
「……私が決めるから」
「何を?」
「分かってるでしょう!」
透が少し笑う。
「分かった」
「本当に?」
「澪が決める」
「そうよ」
透の手を。
もう一度、強く握る。
恋人になった日も。
昨日の夜も。
今日の朝も。
透の隣にいることを。
私は。
自分で選んでいた。