恥ずかしがる妹に兄は色々なお願いをしていく。
※なろう、カクヨムでも掲載中。
妹との食後のコーヒータイム。
それはいつもと変わらない日常に見えるが、今日はあの作戦を実行する日である。
「雫、ちょっといいか?」
「はい、何でしょう?」
「実は大事なお願いがあるんだが……」
「急に改まってどうしたんですか?」
これから行うことを考えると、今更ながら緊張してきた。
心を落ち着けるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「──雫の胸のサイズを教えてほしい」
「……?」
あまりに予想外な内容だったのか、雫は首を傾げて固まってしまった。
その無垢な姿に罪悪感を抱くが、これは偏に妹のためなのである。
「すみません、言葉の意味がよく分からなかったのでもう一度お願いします」
「雫の胸のサイズを教えてくれないか」
「……む、むむ、胸……」
徐々に雫の顔が赤く染まっていく。
普段あまり見ない表情で新鮮だなと場違いな感想を抱く。
「お、お兄様にしては珍しい冗談ですね! 少し驚いてしまいました、あはは……」
「……」
じっと雫の目を見つめる。
「……あの、本気、なんですか?」
「勿論だ。心から胸のサイズが知りたいと思ってる」
「そ、そうですか……」
若干引かれてる気がするが、大丈夫だろうか。
「私、お兄様のお願いなら何でも聞く所存でしたが……そのようなお願いをされると思っていなかったので、動揺しています……」
そう、雫は俺のお願いを基本断らない。
だからこそ、このお願いでなければならないのだ。
「どうしても知りたいですか?」
「どうしてもだ」
「何が何でもですか?」
「何が何でもだ」
「……や、やっぱり恥ずかしいです……」
「頼む。この通りだ」
雫に頭を下げる。
……勢いで下げてみたものの、冷静に考えると情けなさすぎる状況だ。
これ以上は俺のメンタルが持ちそうにないし、俺たちの関係が壊れる気がする。
そろそろ引き際かと思ったその時。
「頭を上げてください、お兄様」
それは慈愛を含んだ声音だった。
「お兄様がそこまでおっしゃるのなら……その、お兄様も年頃の男の子ですから、異性の体に興味を持つのは自然なことですよね……」
流石の雫も、このお願いは断るかと思っていたが、受けいれようとしている……?
「それは、お願いを聞いてくれるということだろうか?」
「……はい。もう顔から火が出そうなんですが……お兄様以外にこんなこと、教えたりしませんからね……?」
意を決したのか、体をスライドさせて俺の横にぴったりとくっつく。
伝わってくる雫の体温がやたら高く感じた。
そして、周りに誰もいないというのに、俺の耳元に顔を近づけ、そっと囁く。
「…………以前測った時はCカップだったんですが……最近下着がきつくなってしまって……今はDカップだと思います……」
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
……何だ、この感覚は。
「こ、これでいいでしょうか……? こんなに恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてです……」
雫はさっと俺の元から離れて、体をもじもじとさせている。
俺も先程の余韻が抜けていない。
このお願いはすることが目的だったから、お願いの内容自体に興味があったわけじゃない。
なのにこんなにも心を動かされたのは何故だ。
「ありがとう。これで明日からも生きていける」
「それは大げさです……でも、お兄様が喜んでくれたのなら良かったです」
まだ顔に羞恥心を残しつつも、はにかんだ雫を見て俺は理解する。
兄の無茶なお願いに、戸惑いながらも応えてくれた献身的な妹に、俺は感動と興奮を覚えたのだ。
雫のために行動したいと思っているのは事実だが、雫によりハードルの高いお願いをしたい欲求が湧き上がってくる。
俺の頭はもう次のお願いの内容について考え始めていた。
***
兄妹の在り方は全くもって多種多様だ。
まるで恋人のように仲睦まじい者たちがいる一方、お互いほとんど口を利いてないというケースもあるらしい。
俺にも妹がいる。
妹との関係は、世間の平均よりは仲の良い方だと思うが、至ってごく普通の兄妹である。
だが、俺たちの話を友人にしたところ、「そんな都合の良い妹が現実にいるわけがない」と総ツッコミを食らったので、俺の認識が世間とズレているのだろう。
自分にとっての当たり前が、他人にとってもそうとは限らないのだ。
あの作戦実行の三日前の夜、俺はその日の出来事を振り返っていた。
「お兄様、そろそろ食事の時間ですよ」
キッチンの方から声を掛けられる。
「ああ、今手伝う」
長い艶やかな黒髪をポニーテールで纏め、制服の上からエプロンを身に包んだ姿がカウンター越しに見える。
彼女こそ俺の実の妹、雫だ。
ダイニングテーブルに向かうと、二人で使うには少し手広なそれに、雫お手製の料理が並べられ始めているところだった。
食器などを用意した後、お互い対面する形で座り、食前の挨拶をしてから食べ始める。
「今日は初めて見るメニューだな」
「はい、ネットで見つけたレシピを少しアレンジして作ってみたんです。お兄様のお口に合うでしょうか……」
ねだるような視線を向けられる。
何と答えられるか分かっていても、感想が聞きたくて仕方がないといった様子だ。
「とても美味しい」
「ありがとうございます。気に入っていただけたなら良かったです」
雫は満足そうに微笑んだ。
「雫が作るものは全部美味しい。毎日食べている俺が保証する」
「それは嬉しいお言葉です。我が家の料理担当として冥利に尽きますね」
お世辞ではなく雫が作る料理は本当に美味い。
客観的に判断しても高い評価を付けられると思うが、俺の好みを知っている上で的確な味付けをしているからこそ、より美味しく感じる。
「そう言えば週末のメニューで何かリクエストはありますか?」
雫に問われ、しばし思案する。
「最近暑くなってきたし、辛いものを食べて汗を流したい気分かもしれない」
「そうですね……では夏野菜カレーはいかがでしょうか? そろそろ食べ頃ですからぴったりかと」
「それでお願いしよう」
「はい、かしこまりました」
雫は顎に手を当てて「何を入れるか迷います……なす、トマト……オクラも捨てがたいですね」と唸り始める。
俺のリクエストに柔軟に応えてくれるのも頼もしい限りだ。
こんな風に料理は完全に雫任せだが、実は昔は俺が作っていた。
しかし、自分も作りたいと言う彼女に教えるにつれ、元々不器用な俺より遥かに上手くなっていったのでお役御免となった。
雫には他にも洗濯を担当してもらっている。
本人はもっと自分がやることを増やしたいらしいが、これ以上は兄の仕事が無くなってしまうので、何とか宥めて今の形に落ち着いている。
「全部入れたらいいんじゃないか」
「そうしたいのは山々なんですが、他の料理の分の食材が無くなってしまうので……」
「では明日買い物に行こう。ちょうど夏服を買いに行こうと思っていたが、雫も一緒に来るか?」
「……! もちろん同行します! お兄様の服を選ぶのは私の仕事ですから」
「ああ、助かる」
食い気味に雫が答えてきた。
彼女曰く、俺にはファッションセンスが全く無いらしい。
そのせいか、基本俺のことを否定しない雫も、俺の服選びだけは口を出してくる。
実際、雫が見繕ってくれる服はセンスが良いので、俺も素直に頼っているのだが。
……兄の威厳は、どこにもない。
***
しばらくして、食事が終わると雫は、
「今、コーヒーをお淹れしますね」
と言って立ち上がり、慣れた手つきで準備を始める。
二人ともコーヒーが好きなので、淹れるためのセットは一式揃えられている。
やがて、ドリッパーに湯が注がれると、鼻孔をくすぐる香ばしい薫りが漂ってきた。
ソファのお決まりのポジションで隣同士に座り、熱を冷ましながら少しずつ啜る。
食後にこうやってコーヒーを飲みながらくつろぐのが毎日のルーティンだ。
「今日、学校で兄妹の話題になったんだ」
友人との会話を思い出しながら今日の件を話してみると、雫は首を傾げる。
「そんなに驚かれるよう関係ではないと思うんですが……これが普通です」
「俺の友人にも妹に毛嫌いされているやつがいる。まあ大方、兄に非があるんだろうが」
「兄が嫌いな妹がいるとは信じがたいです……私は日々お兄様の素晴らしさをクラスメイトに説いていますよ。皆さん『さすが雫さんのお兄様です』と褒めてくださいます」
誇らしげに語る雫。
容姿端麗、成績優秀な彼女は学校での人望も厚いと聞いている。
そんな雫が心酔している兄の話だから、周囲も同調せざるを得ないのではないか。
あまり美化しすぎないようにしてほしい。
それにしても、雫も俺たちの関係には何の疑問も抱いてないようだ。
しかし、他人の反応を見る限り、やはり俺たちは出来すぎなんだろう。
では、今の兄妹の関係を作り上げているものは何か。
それは間違いなく雫の献身だ。
雫は常に俺のために思考し、俺のために行動しようとしている。
先程の料理のリクエストが良い例だが、雫はよく俺にお願いをさせたがる。
兄の望みが自分の望みであると言いたいかのように。
俺も雫が喜んでくれるのならとお願いすることを躊躇してこなかった。
一方で、雫はお願いをあまりしたがらない。
誕生日プレゼントに欲しいものを聞くと「お兄様の選ぶものなら何でも嬉しいです」と言われたり。
雫が病気の時にも「お兄様にやってもらうわけにはいきません」と家事をやろうとしたり。
その時は「俺が家事をしたくてたまらないから代わりにさせてくれ」と謎の理論で無理矢理止めた記憶がある。
俺たちの関係にはこのアンバランスさが横たわっている。
これを解決するにはどうすればいいのだろうか。
後者の問題については正直良い手が思いつかない。
俺に頼りたくないというのが妹の意思なら、それを他人が曲げることは難しい。
となると俺からのアプローチを変えるしかない。
ただ、いきなりお願いをしなくなったら不安に思われるだろう。
これまで通りお願いを継続しつつ、雫をお願いから解放する方法。
雫が断りたくなるような無茶なお願いをしてみるのはどうだろうか。
それをやってくれるかどうかは本質ではない。
本人がお願いを断りたいと思えるように誘導することが大切なのだ。
しかし、並大抵のお願いでは雫が断ると思えないが……。
──その時、ある考えが頭に浮かぶ。
それを即座に却下しかけるが、雫はこれくらいのレベルでなければ拒否しないのではないか。
いや、これしかないという気がしてくる。
「お兄様? 先程からぼーっとしてらっしゃいますね。今日はお疲れでしょうか?」
「すまない、雫のことについて少し考えていた」
「わ、私のことですか? それは、その、内容が気になるんですが……」
何故かモジモジとし始めた雫は、よく分からないので置いておき。
雫がお願いを断れる程に自我を出せるようになった時、俺たちは普通の兄妹になれる気がする。
少しリスキーなお願いだが、妹のためであればそれも厭わない。
俺は作戦の実行を決意した。
***
初めての作戦から数日経ったが、あれから雫は一切あの日の出来事を話題にせず、何事も無かったかのように振舞っている。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
俺は次なる一手を打つことにした。
食後のコーヒーを飲みながら少し雑談を交わした後。
「雫、大事なお願いがあるんだが頼んでもいいか?」
「何でしょうか? どんなことでもこの雫にお任せください」
得意気に胸を張って言葉の続きを待つ雫に、こんな事を言うのは心苦しい、はずだ。
なのに、同時に妙な胸の高鳴りを感じている。
そんな自分を戒めつつ、真剣さが伝わるようなトーンでお願いする。
「今日のパンツの色を教えてほしい」
「……え? パンツの色……?」
「頼む、どうしても知りたいんだ」
「……あれは夢では無かったんですね……」
遠い目をする雫。
あまりに衝撃的な出来事だった故か、そういう扱いになっていたらしい。
「まごうことなき現実だ」
「そのようですね……あの、最近お兄様が……え、えっちなお願いをするようになったのは何か理由があるんでしょうか? 今までそんな事をお願いされたことは無かったので……」
「それは……」
まずい。
俺の真意がバレてしまったら、妹がお願いを断りづらくなってしまう。
ここは何とかして誤魔化さなければ。
「俺たちは兄妹だが、意外とお互いについて知らないことが多いんじゃないだろうか。雫のパーソナルな部分をもっと知ることで、より深い関係を築くことが出来ると思っている。これはその一環という訳だ」
「な、なるほど……?」
いまいち合点がいかないようだ。
俺も言っていてよく分からない。
「もしかして、俺ばかり雫に要求しているのを気にしているのか? それなら申し訳ない。ここはギブアンドテイクといこう。俺の今日のパンツの色は青だ」
「それはもう知ってるので大丈夫です」
何故知っている。
「あっ、い、今のは違うんです、忘れてください! 別にお兄様のパンツの色が知りたいわけではなくて! ちょっとまだ心の準備が出来てないと言いますか……」
なるほど。
完全に無理というわけではないらしい。
ならば、もう少し言いやすい状況を作るとしよう。
こういうのは流れが大事なのだ。
自然な感じで雫に語りかける。
「ア〇クサ、今日のパンツの色を教えて」
「はい、本日のパンツの色は……って私今誘導されてませんでしたか!? 私は音声認識AIじゃありません! 雫です、妹です、人間です!」
見事なノリツッコミをありがとう。
……少しおふざけがすぎた。
本来の目的を思い出し、ここは一旦引いて反応を窺ってみる。
「流石にこのお願いは厳しかったか。すまない、忘れてくれ」
「あ、いえ、そういうわけじゃないんです! 分かりました、お兄様のお願いを無碍になんてできませんから……今言います」
雫は大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めた目で俺のことをじっと見つめる。
「き、今日のパンツの色は……」
雫が言いかけたその時、俺の頭の中の悪魔が妙なことを提案してきた。
それは……お願いしていいものなのか……?
良心の権化である天使は必死に俺を止めようとしている。
さあ、どちらに従うべきか。
「ちょっと待ってくれ」
「どうしたんですか?」
「せっかくだから、言うのではなく、スカートをたくし上げて実際に確認させてほしい」
抗えなかった。
いや、何を言ってるんだ俺は。
雫の目がぱっと見開かれる。
「それは話が変わってきませんか!?」
「もしかして履いてないのか?」
「履いてますよ!」
スカートを素早く手で押さえて雫は叫んだ。
「まあ、無理にとは言わない。個人的にはそっちの方がより嬉しいが」
「そういう言い方はずるいです……断れるわけないですよ」
雫はおもむろに立ち上がり、俺の正面でスカートの裾を摘まむ。
しかし、動きはそこで止まる。
緊張のせいか、その脚は僅かに震えている。
「これは、想像以上に恥ずかしいです、けど……い、いきます……」
「ああ。しっかり見届けよう」
雫の両手がゆっくりと持ち上がっていくにつれて、白い太ももは柔らかな輪郭を描いていく。
その表面には汗がうっすらと滲んでいた。
そう言えば、雫が短いスカートを履いているのをあまり見たことが無かった。
だからだろう、普段晒されることのない領域が露わになっていくのは背徳感を覚える。
ちらりと雫の顔を目をやると、すぐに視線を逸らされてしまった。
余程恥ずかしいのだろう。
その事が余計に興奮を煽る。
やがて、彼女の聖域に到達した。
思わず、息を吞む。
ピンク色の生地には白の刺繍とリボンがあしらわれており、子供らしい可愛さと大人びた艶っぽさが調和したデザインで、雫によく似合っている。
そして、恥じらいながらスカートをたくし上げたその姿は、一枚の絵画のような美しさに満ちている。
時間を忘れてその光景にしばらく見入っていた。
「あの、お兄様見すぎです……って、そのお顔どうされたんですか!?」
声を掛けられて我に返った。
手で頬に触れてみると、濡れていることに初めて気付く。
「もう、どうしてパンツを見ただけで泣いてるんですか」
「自分でも驚いている……それほど雫が尽くしてくれたのが嬉しかったんだと思う」
「恥ずかしかったですけど、お兄様の頼みですから」
雫は優しく微笑みかける。
ギリギリを攻めたお願いだったが、雫はそれすらも許容してくれた。
心が幸福感で満たされていく。
それと同時に俺の中の自制心は失われていくのを感じていた。
***
数日後、いつもの食後の時間。
俺はタイミングを見計らって切り出した。
「雫、大事なお願いがあるんだ」
「! ふふ、今日はどんなお願いをされるか楽しみですね……」
俺がまた無茶なことを頼もうとしていると察したのだろう。
雫は緊張と期待が入り混じった表情を浮かべた。
今までの経験からお願いを断らせるのは至難の業だと学んできたが、今回こそは雫にノーと言わせたい。
「今から二時間リビングから出ないで俺と過ごしてほしい」
「それだけでいいんですか?」
もっと過激なお願いを想像していたのか、拍子抜けした様子の雫。
「ああ。気になってた映画があるから一緒に観ようと思ってな」
「それは構いませんが……何だかいつもより控えめですね」
釈然としない様子ではあったが、承諾してくれた。
それからしばらくは二人とも映画に没頭していた。
しかし、三十分ほど経った頃、少しずつ変化が現れ始める。
隣に座っている雫の体が時折揺れて、落ち着きが無い。
映画の再生を一時停止する。
「どうしたんだ? さっきから様子が変じゃないか?」
「いえ、何でもないんです。気にしないでください……」
雫も気付いただろう。
人間が逆らうことのできない生理現象にじわじわと追いつめられていることに。
普通、二時間程度なら大半の人間が我慢できる。
しかし、我が家のこの時間帯においてはそうもいかない。
コーヒーに含まれるカフェインには利尿作用がある。
俺は雫がコーヒーを飲み干したタイミングで、お願いの話を切り出したのだ。
と、ここまでは想定通りだが、果たしてどうなるか。
それから三十分後。
雫はしきりに下半身をもぞもぞと動かしている。
その表情にも余裕の色が無くなってきたように見える。
「雫? やっぱり何かあるんじゃないか?」
「……実は、その、お手洗いに行きたいんです……」
「そうか。だが、残念ながら、お願いが終わるまでまだ一時間残っているな」
「あと一時間もあるんですか……」
「ギブアップするか?」
「へ、平気です」
「なら続行しよう」
さらに三十分後。
雫の息が荒くなってきた。
「はあっ……はあっ……」
「どうしてもトイレに行きたいか?」
「行きたい、です……」
あまり我慢させても雫の体に悪いので、プランを変更する。
「まだ三十分残っているが仕方ない。トイレ以外の場所に行かないなら、リビングから出てもいいぞ」
「本当ですか!?」
苦悶の表情が一転して明るくなる。
俺の返事も待たずに急いでトイレに向かう雫の後ろに黙ってついていく。
トイレのドアノブに手を掛けた雫はそこで俺に気付く。
「どうしてお兄様がここに……もしかしてお兄様も行きたいのですか? 私もう限界なんです」
「トイレに行くなら、それと引き換えにお願いしたいことがある」
「お願い……」
「俺も一緒にトイレに入る」
その瞬間、雫の顔から血の気が引いていく。
「そんな……そんなこと良くないですよ!」
「大丈夫だ、タオルを持ってきたからこれで目隠しはする」
「ああ、それなら安心ですね……とはなりませんよ! 音が全部筒抜けじゃないですか!?」
「もし嫌だったら俺のお願いは気にせず一人で入っていい。どうするかは雫が決めるんだ」
「それは……」
人としての尊厳を守るのか、それとも兄のお願いに応えるのか。
究極の選択を前にして雫は逡巡する。
俺は静かに雫が決断するのを待った。
「わ、分かりました! 何でもいいので早く入ってください!」
吹っ切れた雫は俺を強引にトイレの中に押し込む。
俺が手に持っていたタオルを掴み取ると、それを素早く俺の頭部に巻き始める。
完全に視界が奪われると、すぐに衣擦れの音が聞こえてきた。
「まさかお兄様の前で……するなんて……」
「昔は夜一人でトイレに行くのが怖いからついてきてほしいとよくせがまれたな」
「今では何故かお兄様がついてきてますけどね……」
見えていないのに、ジトっとした視線を向けられている気がする。
「それより早く出した方が良いと思うぞ」
「お兄様を前にしたら緊張でちょっと引っ込んでしまったんです! はぁ……今からの出来事は記憶から消してください……んっ……」
申し訳ないけど、忘れられそうにないと思う。
そして、堰を切ったように勢いの良い水音が室内に響き渡った。
「あぁ……はぁー……」
雫が気の緩んだ声を漏らす。
コーヒーの良い香りがしてきたな、などと口にしたら絶縁されそうなので心の中に留めておく。
事が終わった後、ガサゴソとトイレットペーパーを巻き取る音が聞こえる。
結局、またしても俺の負けという結果に終わってしまった。
今回は自信があっただけに悔しい。
「もうタオルを外してもいいか?」
「ま、まだ駄目です! 後ですぐ行きますから、お兄様はどうぞ先に戻っていてください」
「用は足し終わったと思うが、この後何かあるのか?」
「……」
「雫?」
「ちょっと食べすぎたせいかお腹が痛くなってきたんです。なので……」
雫のお腹が音を鳴らす。
なるほど。
雫に負けてしまった分、俺は少しだけ意地悪をしたくなった。
「まだここに残りたいと言ったらどうする?」
流石に本気では言ってないが。
息を呑む音が聞こえる。
「お兄様、まさか……そんな」
「……」
「どうして無言なんですか……?」
「……」
「お兄様、嘘と言ってください! これ以上は本当に……」
雫が狼狽える姿が目に浮かぶ。
「これもお願いなんですか……? でも、こんなこと駄目ですよ絶対……私、どうすれば……」
これが本当に究極の選択だ。
どうする雫。
長い沈黙が訪れた後、ぽつりと何かを呟いた。
「……様の……」
「?」
雫は大きく息を吸い込み、
「…………お兄様のバカーっ!!!」
普段絶対に言わないような台詞を叫んだ後、雫にトイレから追い出され、勢いよくドアが閉められた。
……後でちゃんと謝ろう。
***
しばらくして、目を潤ませた雫がリビングに姿を現した。
明日まで顔を合わせてくれない可能性も考えていたが、来てくれたということは話せる余地があると思いたい。
「さっきはすまなかった。悪ふざけが過ぎた」
「ううっ……お兄様はひどい人です……」
謝罪と慰めを重ねることで、雫は徐々に落ち着きを取り戻してくれた。
それから俺は今までの経緯を話すことにした。
後半、自分の欲が若干暴走していたことは伏せつつ。
「理由は分かりましたけど、何故そんな回りくどい方法を……」
「これしか思いつかなかったんだ。いきなりお願いをしなくなるのも変だしな」
「まあ、不器用なお兄様らしいですけどね。でもさっきのはやりすぎです」
「それは本当にすまない」
「でも、結局お兄様の思惑通りお願いを拒否してしまったんですよね、私……」
「なあ、教えてくれないか? 雫がそこまでお願いに拘る理由を」
何度もはぐらかされてきた質問をぶつけてみた。
今なら答えてくれそうな気がして。
「少し昔話をしましょうか」
そう言って雫は語りだした。
──あの頃、お父様とお母様は仕事が忙しく、私達と過ごせる時間はあまりありませんでした。
そんな中、勉強を教えてくれたり、一緒に遊んでくれたのはお兄様でした。
お兄様だって自分のやりたいことがいっぱいあったはずです。
でもお兄様はいつも私の我儘なお願いに付き合ってくれました。
きっと、両親に甘えられず寂しい思いをしていた私を見て、お兄様が二人の代わりになろうとしてくれたんだと思います。
私はそんな優しいお兄様が大好きでした。
ある時、久しぶりに両親揃って休みの日がありました。
家族で出かけることになり、遊園地に行きたかった私と、水族館に行きたかったお兄様は珍しく喧嘩をしました。
普段は意見が対立するとお兄様が折れてくれていたので、喧嘩まで発展してなかっただけなんですけどね。
ですが、お兄様もこの時ばかりは自分の意見を曲げたくなかったのでしょう、今回は譲ってほしいとお願いされました。
それなのに、未熟な子供だった私はお兄様の気持ちも考えずにそのお願いを拒否してしまいました。
当然お兄様は反発して、雫のことなんか嫌いだ、私だって嫌いだもん、なんて言い合って。
結局年上だからという理由でお兄様が無理矢理譲歩させられ、水族館に行くことになりました。
それから何日か経っても、お互い意固地になった私たちは仲直りが出来ていないままでした。
それを見かねたお父様とお母様はお兄様の希望を叶えるべく、何とか休みを取って遊園地に行けることになったのですが。
そこで交通事故に巻き込まれました。
両親に過失のない不幸な事故でした。
二人を失った私は思いました。
あの時、お兄様の希望を優先させていれば、こんな未来は訪れなかったはずだ。
私のせいで両親はいなくなってしまった。
このまま、唯一の肉親となったお兄様にも嫌われたままなら、一生一人ぼっちなんだ、と。
私は絶望の淵に立たされ、自分の部屋で静かに啜り泣いていました。
その時、お兄様が部屋の中に入ってきました。
きっと私の罪を咎めに来たのでしょう。
しかし、怯えている私に掛けられたのは思いもよらない救いの言葉でした。
僕が雫の傍にいるから大丈夫だよ。
だって僕は雫のお兄ちゃんなんだから。
私は涙が止まりませんでした。
励ますつもりで来たのに余計に泣き出す私を見てお兄様は困惑したでしょう。
でも、それは悲しかったのではありません。
お兄様が変わらずに私のお兄様でいてくれることが、この上なく嬉しかったんです。
何とか宥めようとお兄様が私を抱きしめてくれると、安心感で心が満たされていきました。
この時にはっきりと気付きました。
もうお兄様なしでは生きていけない。
お兄様を失いたくない。
だから、お兄様に二度と嫌われることのないように、我儘を言わない、一生をかけて尽くすと私は決めたのです。
俺は雫の語りに耳を傾けながら、過去の記憶を辿っていた。
いつの間にか今の関係が当たり前になっていたけど、昔はむしろ雫の方が俺にお願いをしていたんだ。
雫は自分の我儘に俺が付き合ってくれたと言ったが、そんなに俺は出来た兄じゃなかった。
俺だっていつも家に両親がいないのが単純に寂しかったんだ。
そんな俺の心を雫と過ごす時間が満たしてくれていた。
両親を亡くした時は、この世の終わりのような気分だった。
死ぬのは怖いが、生きていく気力も湧かず、ただ存在しているだけの無為な時間を過ごした。
でも、俺と同じように、いや俺以上に絶望している雫の姿を見て我に返った。
俺がこのまま折れてしまったら、この幼い妹はどうなる。
俺が妹を支えなければ。
この衝動は理屈じゃない。
兄なら誰しもが持っている本能のようなものだ。
喧嘩していたことなど一切気に留めず、妹のもとに駆け出していた。
親代わりになれる自信は無かったけど、雫の兄であり続けようとそう思った。
雫は俺に生きる意味を与えてくれたんだ。
あれから雫は立派に成長した。
昔は俺に頼りきりだったのに、自分が出来ることを増やそうと努力を重ね続けた。
次第に、年上というアドバンテージがあっただけの凡庸な俺より、何でも器用にこなせるようになった。
それなのに俺は子供のままだった。
雫の中にある不安に気付けなかった自分の愚かさが腹立たしい。
それと同時に、今まで尽くしてくれた妹のことが愛おしくて堪らなくなった。
「あっ……」
俺は雫を抱きしめていた。
兄であり続けると決めた、あの時と同じように。
この愛しい妹が抱えている不安を少しでも和らげたかった。
「今まで不安な思いをさせてすまない」
雫も俺の背中に腕を回し、抱擁を返す。
「お兄様が謝る必要なんて無いんです。嫌われたくないというのは私個人の問題なんですから」
「今までこんなに尽くしてくれた雫を嫌いになるはずがない。だから雫にはお願いに縛られないで生きてほしい」
「でも私、お願いを嫌だと思ったことは一度も無いんですよ? 全部お兄様に喜んでほしくてやってきたことですから」
「それでも、俺はお互いにお願いしたりされたり、無理だと思った時は素直に断ったり、そういう自然な関係でありたい」
「それは……私にできるんでしょうか……」
「……というお願いをしたら応えてくれるか?」
「もはやとんちですね」
二人して笑い合う。
「信じていいんですよね? 私のこと嫌いになったりしないですよね?」
「ああ、勿論だ。俺の方こそ雫がいないともう生きていけないんだ。不甲斐ない兄で申し訳ないが、どうか見捨てないでほしい」
「そんなことしませんよ。あっ……」
俺の言いたいことに気付いようだ。
相手を愛するのは自分の意思だが、相手に嫌われたくないというのは願望でしかなく、それに相手が応えてくれる保証なんて無い。
だが、その身勝手な感情をお互いに肯定するのならば。
「なるほど……お兄様の気持ちが分かった気がします。私だってお兄様を嫌いになるなんて有り得ませんもの」
だから俺たちはお互いを信じ合えるんじゃないかと思う。
「それにしてもお兄様ったらそんなに私のことが好きだったんですね」
雫にくすくすと笑われる。
思い返すと結構クサい台詞を言ってた気がする。
「普段からもっと言ってくだされば良いのに」
「さっきのは特別だ。面と向かって言うのは、その、照れるな」
「あら、残念です。私は何度だって言いますよ……大好きです、お兄様……」
そう言った妹の顔はどこかすっきりとして見えた。
***
あれから雫は少しずつ変わっていった。
「雫、お願いがある」
「お聞きしましょう」
「明日のメニューなんだが中華料理にしてもらえないだろうか? SNSで流れてきたのを見てたら食べたくなったんだ」
「えーと……嫌です」
笑顔できっぱりと断られた。
「今週は和食の気分なんです」
「では来週なら……」
「来週はイタリアンの気分なので毎日パスタです」
気が早すぎる。
まあ本気で拒否しているわけではなく、我儘を言うことを楽しんでいるように見えるが。
何はともあれ、雫がお願いを断れるようになったのは大きな成長と言える。
兄として温かく見守っていきたい。
また、雫から俺にお願いをすることも増えた。
ある夜、寝る準備をしていると、枕を抱きかかえた雫がやって来た。
「エアコンの調子が悪いので、今日からしばらくお兄様の部屋で寝させてください」
「なら俺は床に布団を敷くから雫がベッドを使ってくれ」
「えっ、お兄様はベッドで寝ないんですか?」
「いや、二人だと狭いだろう。雫は寝相が悪いからベッドから突き落とされてしまう」
「それは子供の時の話ですよ! 今は大人しいです」
「というか暑くて俺の部屋に来たのに、二人でくっついて寝たら本末転倒なのでは……」
「それは確かに……私としたことが墓穴を掘りました……」
「……?」
「分かりました。はっきり言います! 私はお兄様と一緒に寝たいんです! ですから私とベッドで寝てください、お願いします!」
「そういうことなら……」
今まで抑圧されてきた欲求が、ここに来て爆発しているのかもしれない。
俺としては、こうやって素直にお願いをしてくれるのは嬉しいし、応えてあげたい。
と、ここまでは喜ばしい変化なのだが、別の方向の変化もあり、例えば。
「今日からお兄様はこっちのランドリーボックスを使ってください」
「何かあったのか?」
「こうしないとお兄様がこっそり私の下着の色を確かめたり、匂いをくんくん嗅いだりするからです」
「……」
他にも雫がトイレに入っている時に、俺がトイレの近くを通りかかると、狙ったようにそのタイミングで鍵を掛けられるようになった。
理由を聞いてみると。
「お兄様が『雫の排泄音を聞きたい』などと言ってトイレに入ってくるのを防ぐためです」
「……」
恥ずかしい思いをされ続けたことをまだ根に持っているようだ。
反抗期の娘を持つと、きっとこんな扱いを受けるんだろうなと世の中の父親に思いを馳せる。
ただ、素直に甘えてくる時の雫を知っているからこそ、じゃれ合いの一環としてこういうツンとした態度を取っているのだと分かる。
そんな妹がいじらしい。
***
「雫、真面目なお願いがある」
「真面目な、ですか? 信用ならないですね。お兄様のことですから、またえっちなことを要求してくるに決まってます」
「今日、何か予定はあるか?」
「特には無いですけど」
「俺とデートをしてほしい」
「デート、ですか……」
冷静な態度を装ってるが、その目に一瞬喜びと期待の感情が浮かんだのを見逃さない。
雫と出掛けることは別に珍しくないが、デートとして誘ったのは初めてだ。
それはその方が雫が喜ぶと思ったからだ。
「どうして私とデートがしたいんですか?」
「最近色々と無理なお願いをしたから、そのお詫びがしたいと思って」
「……お兄様のことですから、そんなところだろうと思いましたよ……」
しかし、雫のテンションが下がってしまった。
女の子の心の機微を捉えるのは難しい。
「でも予定が無いと言っても、やらなきゃいけないことはあるんですよね。宿題とか家事とか」
「そこを何とか頼む」
「まあ、愛しい愛しいお兄様がどうしてもと言うのなら行って差しあげても構いませんけど」
こういう素直じゃないところが可愛らしい。
「では今から着替えてくるので少し待っててください」
「? もう着替えなら済んでるのでは?」
「これは普段着ですよ。デートをするなら、それに相応しい服があるんです」
ということで、着替え直すことになった雫を待つこと一時間。
「どうですか?」
「……可愛いな」
なるほど、さっきの服でも十分可愛いと思っていたが、今の服は気合の入り方が違うことが素人の俺でも何となく分かる。
「ありがとうございます。お兄様の服はこの前私と買ったものですよね? お似合いですよ」
「ありがとう。さすが雫の見立てだな」
「お兄様のことを誰よりも理解していますから」
ドヤ顔で語る雫。
最近の一連の出来事を通して、雫の色んな表情を見るようになった気がする。
「さあ、そろそろ行きましょう。少しでも長く楽しみたいですから」
雫に引っ張られ、玄関に連れて行かれる。
さっきまでの渋々付き合うという設定は忘れてしまったのか、鼻歌を歌いながら靴を履いている。
かくいう俺も、雫にはお詫びと言ったが、自分の頬が緩んでいるのを自覚していた。
人のことを言えないな。
***
いつも半歩後ろをついてくる雫だが、今日は隣に並んで歩く。
「今日はちゃんとエスコートしてくださいね」
「任せてくれ」
「ちなみにどこに行くかは決まっているんですか?」
「決まってるけど秘密だ」
「では行ってからのお楽しみということにしておきます」
普段から一緒に出掛けることはあるが、デートとなるとどういう場所に行くのが正解なのか分からなかった。
このコースで満足してもらえるだろうか。
「何か難しい顔をしていますね。さっきはエスコートしてくださいなんて言いましたけど、そんなに気負わないでください。私はお兄様といられるだけで幸せなんですから」
雫はそう言ってくれたが、やはり良いところを見せたいのが兄心というものだ。
やがて目当ての店に着く。
「ここでランチをとろうと思う」
「あっ……ここって私が前にちらっと行きたいって言ってた店じゃないですか。覚えててくれたんですね」
まずは好感触を得られて安心した。
店内は正統派な洋食屋といった装いで、静かでデート向きな雰囲気だ。
雫はというと、メニューとにらめっこをしていた。
「ハンバーグにするか、でもドリアも捨てがたいです……」
「両方頼んで二人で分け合おうか」
「そうしましょう」
ということで、とりあえず雫がハンバーグ、俺がドリアを食べることになった。
「美味しいです……自分で作るのもいいですけど、やはりお店で食べる料理はまた別の美味しさがありますよね」
喜んでもらえて何よりだ。
お互い半分くらい食べ進めたところで、声を掛ける。
「そろそろハンバーグの方を食べてもいいか?」
「ではお皿を交換しましょうか」
「いや、今日はただのお出掛けではなくデートだ。せっかくだからアレをしてほしい」
「アレとは……?」
「片方がもう片方の口に食材を運んで食べさせるアレだ」
雫のフォークからハンバーグの欠片がぽろっと皿に落ちた。
「……お兄様。家の中でならともかく、公衆の面前でそれをやるのは流石の私でも恥ずかしいです」
「今までのお願いよりはだいぶマシじゃないだろうか」
「恥ずかしさのベクトルが違うんです。やっぱり駄目です」
「そうか、残念だ……」
「……そんな泣きそうな顔しないでくださいよ……本当に仕方ないですね。分かりました。今日だけの特別サービスですよ……はい、あーん……」
雫がぎこちない動作でハンバーグを口に運んでくれる。
美味しい。
「私もしたのですから、お兄様もしてください。このままでは不公平です」
「分かった。はい、あーん」
「何の躊躇もないんですか……」
ちらちらと周りの目を気にしながら、雫は素早くドリアを口に入れた。
「どうだ?」
「美味しい、ですけど……これ、食べる方も恥ずかしいですね……というか何故お兄様は平気でいられるのですか?」
「これくらいは普通だ。雫が気にしすぎなんだ」
「お兄様には羞恥心というものが無いんですね……私、どうやってもお兄様に勝てないのでは……」
雫は深い溜息をついた。
***
それから電車に乗って隣町までやって来た。
最近新しくできた大きめのショッピングモールがあるのだ。
目的地はその中にある映画館だった。
「すごい人の数です」
夏休みは客足が伸びる。
それに合わせるためか、公開されている映画も多く、アクション、ホラー、コメディ、ミステリーなど選択肢は豊富だ。
「早くしないと席が埋まってしまうかもしれません」
「雫は何が観たい?」
「そうですね……これはどうですか?」
雫が指差したのは恋愛モノのポスターだった。
普段俺たちが観ないジャンルだが……。
「本当にこれでいいのか?」
「あ、もしかしてお兄様、私と恋愛映画を観るのが恥ずかしいんですか? ふふっ、お兄様もまだまだ子供ですね」
「雫がいいなら構わないが……」
結局、その映画を観ることになったのだが。
二時間後、劇場から出てきた俺たちはこの選択を後悔することになる。
「……よ、良かったですね! 特に告白のシーンは思わず涙してしまいました」
「そうだな……」
確かにストーリーや役者の演技は結構良かったと思うが、ピュアな恋愛モノかと思っていたら、意外と濡れ場があったので驚いた。
家で二人で観るときは事前に下調べをしているのだが、今日は突発的に作品を決めたのが良くなかった。
そういうシーンを身内と観ることほど気まずいものはない。
何とか話題の転換を試みる。
「ちょっと疲れたし、あそこのカフェで休憩しないか?」
「き、休憩ってどこでですか!?」
「いや、だからカフェで……」
「あ、そういう意味の休憩ですか……」
「他に何があるんだ。俺は検察官じゃないぞ」
「それは求刑です」
冗談を言うことで、気まずさが若干和らいだ。
「何かすみません……私が深く考えずに言い出したから」
「いや、俺の方こそ考慮して止めるべきだった」
「次にデートで来る時は事前に調べて何を観るか決めておきましょう」
さらりと雫は言ったが、次のデートのことを考えてくれているようだ。
「どうしたんですか? 顔がニヤけていますけど」
「いや、なんでもない」
また今度必ず誘おう。
***
その後は、二人で施設内を散策していた。
途中、通りかかった雑貨店を見たいと雫が言うので入ることに。
「このクッション、可愛くないですか? あ、こっちの小物も良いですね」
雫があちこち動き回るのでついていくのが大変だ。
こういう店に男が一人でいるとそわそわするので置き去りにしないでほしい。
俺も色々と商品を眺めているが、雫ほどの熱量は無い。
世間の男子は俺と同じようなものだと思うが、女子は皆こういう雑貨が好きなイメージがある。
雫も一人の女の子なんだなと改めて感じた。
「お待たせしました」
いつの間にか会計を済ませた雫が駆け寄ってくる。
「何を買ったんだ?」
「ふふふ、お見せしましょう」
雫が袋から取り出したのは色違いのマグカップだった。
「どうですか? コーヒーを飲むのにぴったりだと思うんです」
「確かに今のは少し大きいから、これぐらいが丁度良いかもしれない。ん? これって……」
それはただのマグカップではなく、ペアマグカップ、つまりカップル用のものだった。
カップを隣に並べてプリントされたキャラクターの手をくっつけると、ハートの形になるという。
「デートと言うことは今の私たちって、恋人、なんですよね?」
今日の雫は恋人であることに拘りたいらしい。
それならば。
「その袋、俺が持つよ」
「あ、ありがとうございます」
袋を受け取った後、反対の手で差し伸べられた雫の手にそっと触れる。
「手、繋がないか?」
「え……?」
雫は予期せぬ提案に驚いた様子だ。
「それともこれも恥ずかしいか?」
「いえ……繋いでほしいです」
「よし、決まりだ」
お互いの手の平と指をぴったりと合わせる。
すると、雫の指が俺の指と指の間に入り込もうともぞもぞと動く。
「雫……?」
「……」
雫の横顔に目をやると、その頬がほのかに赤く染まっている。
いわゆる恋人繋ぎがしたいという無言のメッセージなのだろう。
「分かったよ」
雫の希望通り、お互いの指を絡めて俺たちは歩き出した。
***
夕方を迎え、往来する人の数も段々と減ってきた。
俺たちもそろそろ帰る頃合いなのだが、その前に一つ寄っていきたい場所があった。
ショッピングモールを出て、やって来たのは近くにある遊園地だった。
「最後にこれに乗ろう」
「観覧車、ですか……お兄様と乗るのなんて何年ぶりでしょうか」
タイミングが良かったのか、ほとんど並ばずに乗ることが出来た。
ゴンドラが徐々に高度を上げていくと、世界から切り離されていくような感覚に陥る。
窓の外の景色をじっと眺める雫の横顔を、オレンジ色の夕陽が照らす。
物思いに耽っているような表情の雫を、何となく声を掛けられずにただ見つめていた。
お互い無言のまま、ゆっくりと時間が流れていく。
そのしんみりとした雰囲気に浸っていると、不意に雫が呟いた。
「観覧車って今になって乗ると結構怖いですよね」
「確かに子供の頃は何とも思ってなかったな」
雫は遊園地が好きだったから、よく行きたがっていたのを憶えている。
「そう言えば最後に乗ったのはお兄様と喧嘩してた時ですね」
「……昔のことを思い出させてしまったか?」
「いえ、大丈夫です。私は今を生きていますから」
俺が心配するまでもなかった。
雫の言葉には確かな強さが込められていた。
「今日はありがとうございました。デート、楽しかったです」
「俺も楽しかった。付き合ってくれてありがとう」
「今日のデートって一応お兄様のお願いってことだったんですよね?」
「まあ、そうだな」
「では私からも一つ、お願い、してもいいですか?」
雫が俺の方に向き直り、真正面から見つめられる。
「あまり無茶なものは勘弁してほしい」
「お兄様がそれを言いますか」
「ごもっともだ」
「全く……真面目なお願い、ですからね」
雫の言葉を聞き逃さまいと耳を澄ます。
雫が俺にお願いをすることの意味を噛み締めながら。
「──これからもずっと一緒にいてください、私の大好きなお兄様」