一身上の都合により、雛宮を離れることひと月。
ようやく戻ってこられたと思えば――我が愛すべき主人、朱慧月が牢屋にぶち込まれていた。
他家の雛女を害した罪で、である。
私は地下牢へと続く薄暗い廊下を足早に進みながら、先ほどから何度目になるかわからない疑問を頭の中で転がしていた。
どういうことだ……?
話によれば、乞巧節の最中、慧月様は乞巧楼から一人の雛女を突き落としたらしい。
よりにもよって、あの『殿下の胡蝶』とまで呼ばれている黄玲琳様を。
幸いにも一命は取り留めたものの、全身をひどく打ち、今も高熱にうなされているという。
もとより病弱で名高いお人だ。
あの高さから落ちて命があっただけでも奇跡と言ってよいだろう。
「……あと一日、早く戻っていればな」
思わず奥歯を噛む。
そのせいで慧月様は『獣尋の儀』にかけられることになってしまった。
罪人を飢えた獅子と同じ檻に入れ、獅子に襲われなければ天が無実を証したものとして釈放。
食われれば――それまで。
要するに、体裁だけ整えた死刑である。
明確な目撃者こそいないものの、状況から見れば玲琳様を突き落としたのが慧月様であることはほぼ間違いないらしい。
ならば、この国の法に照らせば獣尋の儀にかけられること自体は不自然ではない。
だが。
「……くそっ。なんとかならないものか」
そもそも本当に、慧月様がそんなことをしたのか?
たしかに我が愛すべき主人、朱慧月様は激情家である。
怒ればすぐ声を荒らげる。
感情の昂りのまま突飛な行動に出る。
勢いだけで突っ走って、あとから頭を抱えていることも珍しくない。
だが、決して周囲が蔑むような“馬鹿”ではない。
思慮深いかと問われれば――まあ、そこまで強くは肯定できないが。
少なくとも無知無能なお方ではない。
衆目が集まる乞巧節の最中に、皇太子殿下の寵愛も厚い玲琳様を正面から突き落とすなどという、後先を考えぬ真似をするだろうか。
皆が空を走ったほうき星に気を取られていたため犯行そのものを目撃した者はいなかったというが、それはぶっちゃけ運が良かっただけだ。
「誰かに唆されでもしたか……?」
とはいえ、慧月様は他人の口車にころりと乗せられるほど素直でもない。
「…………」
考えれば考えるほどわからなくなる。
「まあ、本人に聞けばいいか」
結局、それが一番早い。
そう結論づけたところで、前方から黄色の上衣をまとった背の高い女官が歩いてきた。
すれ違いざまに横顔を盗み見る。
(たしか……黄玲琳様付きの筆頭女官。黄冬雪殿、だったか)
黄家譲りの美貌(いや、玄家の遠縁だったか?)が、今は怒りで険しく歪んでいる。
黄玲琳様を害された恨みを慧月様にぶつけに行ったところ、逆に悪態の一つでも浴びせられたのだろうか。
あり得る。
大いにあり得る。
そんなことを思いながら先へ進むと、ようやく地下牢の一角に見慣れた後ろ姿が見えた。
鉄格子に両手をかけ、俯いている。
まずは一声元気づけてあげないと――
「慧月さ――」
声が止まる。
上げたその顔は。
間違いなく朱慧月だった。
目元も。
鼻筋も。
そばかすも。
唇も。
髪も。
背丈も。
いつも見慣れた、我が主人そのもの。
「あ、いえ、わたくしは――」
「誰だ、あんた」
「え?」
違う。
誰だ、こいつは。
私は思わず眉をひそめた。
「あんた、慧月様じゃないな」
「わ、わかるのですか!?」
「わからいでか」
何を当然のことを。
「私の主人は朱慧月ただひとりなのだから」
その言葉を聞いた瞬間。
目の前の――慧月様の姿をした何者かは、ぽかんと目を見開いた。
次いで、瞳をきらきらと輝かせる。
頬までうっすら紅潮した。
なんだその反応は。
「それで、あんたはどこの誰なんだ?」
偽物。
いや、それにしては似すぎている。
顔を作った程度では説明がつかない。
影武者?
双子?
いや、そんな話は聞いたことがない。
「わたくしは――」
女は口を開く。
だが、声が途中で途切れた。
「…………」
何度か口をぱくぱくさせたあと、しょんぼりとうつむく。
「喋れないのか?」
「!」
ぱっと顔を上げ、首が取れそうな勢いで頷いた。
……嬉しそうだな。
喋れない。
何らかの術による制約?
術。
慧月様と同じ姿。
乞巧節。
玲琳様を突き落とした直後、慧月様自身も気を失った。
そして現在、黄玲琳様は――。
「…………黄、玲琳様?」
「!!」
ぶんぶんぶんぶん、と激しく首が縦に振られる。
「なるほど」
となれば。
今、この身体に黄玲琳様がいる。
ならば黄玲琳様の身体にいるのは――。
「あっ」
私は慌てて背筋を伸ばした。
「申し訳ありません。先ほどより大変なご無礼を。私、朱慧月様付きの下級女官、玉兎と申します。ひと月ばかり雛宮を離れており、本日帰還いたしました」
「まあ、ご丁寧に。わたくしは――」
玲琳様は優雅に微笑み、口を開いた。
そして。
「…………」
また声が止まった。
「申し訳ありません。やはり口には出せぬようで。ただ、わたくしは――」
「あ、すみません」
「はい?」
「慧月様に聞きたいことがあるので、私はこれで」
「ええ!?」
失礼。
事情は大体わかった。
ならば残る問題は一つ。
我が主人は今どこにいる。
待っていてくださいね、我が愛すべき慧月様!
私はくるりと踵を返し、全速力で黄麟宮へ向かって走り出した。
◇
嵐のような女官でしたわ。
玉兎と名乗った少女が去ってからも、玲琳はしばし牢の前で瞬きを繰り返していた。
つい先ほどまで、冬雪と話したばかりだった。
冬雪でさえ、自分を朱慧月だと信じて疑わなかった。
まして、玉兎はひと月も雛宮を離れていたという。
その彼女が。
たった一目。
ほんの数瞬、自分を見ただけで。
『誰だ、あんた』
そう言った。
「……まあ」
玲琳は思わず頬に手を当てた。
「なんて素敵なことでしょう」
自分にも冬雪という素晴らしい筆頭女官がいる。
けれど。
姿形がまるで同じであるにもかかわらず、中にいる人間が違うと一目で見抜く。
それほどまでに朱慧月という人間を見ている者が、この雛宮にはいるのだ。
そのとき、牢の前に置かれた蝋に灯された小さな炎が揺らいだ。
『いい気味だこと!』
「え…!?」
『炎像の術よ。火は我ら朱家の眷属、念を込めれば術者の姿を伝えられるの』
「術者…? 貴方様は道士様なのですか? いえそれより……」
目前の炎に映るのは黄玲琳の姿、だが。
「慧月様、でいらっしゃるのですね?」
『ええそうよ。だけど今やわたくしが“黄玲琳”であなたが“わたくし”を殺害しようとした大悪女“朱慧月”というわけ』
得意げに笑う慧月。
『いかが? 雛宮の地下牢は。鼠や虫が這い回って普通の女は数刻で正気を失うそうだけど』
その状況は天国のように思えますが…いえ。
玲琳は胡乱な思考を隅にやった。
「なぜこんなことを…」
『正すためよ』
「正す?」
『だっておかしいじゃない。あなたばかりが恵まれて…皇后陛下の姪に生まれ、殿下に寵愛され、女官たちに慕われて――それに引き換えわたくしときたら、優しいけれど無力な朱貴妃様。意地悪な女官。殿下の気を引くには足らぬ容姿。もううんざりよ…だから入れ替わったの。道術を駆使してね!』
慧月は心底嬉しそうに笑ったあと、一転して顔を歪めた。
『あなた、嫌われたことなんてないのでしょう? 侮られたことも、冷遇されたことも――常に守られて愛されて! 許せないわ!!』
玲琳には、慧月がこれまでどれほどの苦しみを味わってきたのかはわからない。
だから、それを知ったような顔で否定することはできない。
けれど。
「誰からも愛されていない」という、その一点だけは。
つい先ほど、玲琳自身がその反証を目にしたばかりだった。
「あなたにもいるではありませんか、愛してくれる方が」
『はあ?』
「いい側仕えをお持ちなのですね」
一拍。
『嫌味?』
「いいえ? 玉兎という女官ですよ」
炎の向こうで、わずかに沈黙が落ちた。
『……帰ってきてたのね、あのごますり女』
「ごますり?」
『どうせあんたにも「慧月様は素晴らしい御方です」とか「慧月様ほど才気溢れる御方はいません」とか、聞いてもないのにべらべら喋ったんでしょう?』
「いいえ」
『……は?』
「第一声で、あの方はわたくしに『誰だ』と仰いました」
炎の向こうが静まり返った。
「言葉も交わさず、ほんの数瞬です。わたくしの顔を見ただけで」
『…………』
「冬雪――わたくしの筆頭女官でさえ、わたくしを“そう”とはわかりませんでした」
玲琳は嬉しそうに続ける。
「でも、あの子だけは、この身体の内にいるわたくしが、あなたではないと――」
『嘘よ!』
鋭い声が炎を震わせた。
「慧月様?」
『そんなの、嘘に決まってるでしょう!』
「い、いえ、本当に――」
『どうせそう言って、わたくしに術を解かせたいんでしょう!?』
「そのような意図は――」
『あの子は“わたくし”なんか見てない!!』
玲琳は息を呑んだ。
声が。
先ほどまでとは違っていた。
怒鳴っているのに。
まるで、泣きそうな声だった。
『下賤な生まれで! 気味の悪い見た目だとか何だとか言われて、他の女官どもに虐められていたから! あんまり惨めで見ていられなかったから、気まぐれで拾ってやっただけよ!』
「慧月様……」
『それを、あの馬鹿が勝手に恩だなんだと思い込んでるだけ! だからわたくしを持ち上げて、ご機嫌を取って、それで――』
一瞬、声が詰まる。
『……そんな女が』
小さく。
『わたくしなんかを、見ているわけないでしょう』
「…………」
玲琳は炎を見つめた。
不思議だった。
慧月は、自分が玲琳を羨んでいると言う。
誰からも愛される。
誰からも認められる。
何もかもを持っている黄玲琳。
けれど。
玲琳から見れば。
「慧月様」
『……何よ』
「あなたは、あなたが思っていらっしゃるほど――」
『うるさい!!』
慧月はまくしたてるように口を開く。
『はっ、いいことを教えてあげる。今回の獣尋の儀は、あの無慈悲な鷲宮長が受け持つの! そしたらあなたは確実に死ぬわね! あなたは観衆の侮蔑と嘲笑にまみれて、みじめに、死ぬのよ』
慧月は何かから目をそらすようにうつむいた。
『さようなら黄玲琳。薄汚いネズミに囲まれて、せいぜい死の足音に怯えて過ごすと良いわ』
そこで炎が掻き消えた。
「あら」
玲琳は困ったように瞬いた。
◇
「――で、追い返されました」
「まあ」
「門前払いです」
「まあまあ」
「『朱家の人間、それも朱慧月付きの女官など黄玲琳様に会わせられるものか』と」
「それは……まあ、そうでしょうね」
「ええ。私もそう思います」
「納得していらっしゃるのですね……?」
「向こうの立場なら私でも追い返します」
玉兎は真顔で頷いた。
地下牢。
再び玲琳の前まで戻ってきた玉兎は、先ほどとは打って変わって非常に落ち着いていた。
というより。
少し肩を落としている。
「ただ……慧月様のお顔を拝見したかった」
「わたくしの顔ですが」
「お声も聞きたかった」
「わたくしの声ですが」
「できれば抱き締めたかった」
「わたくしの身体ですが」
「中身は慧月様なので」
「まあ」
玲琳は微笑んだ。
「それでですね、玉兎さん」
「はい」
「先ほど、慧月様とお話ししたのですが」
「お話…? どうやっ……いや、道術か?」
「ええ」
玲琳は先ほどの会話を玉兎へ伝えた。
「――と、いう風になりまして」
「ああ~」
玉兎は一つ頷いた。
「まあ予想通りですね」
「……予想通りなのですか?」
「ええ」
「あなたのことを『ごますり女』とまで……」
「いつものことです」
「『自分なんか見ていない』とも」
「それも、まあ」
玉兎は玲琳に背を向けるように牢の格子へ背を預けた。
「あの方は、傷つくことを恐れているのでしょう」
「傷つくことを?」
「信じたものに裏切られるのが怖いのです」
静かな声だった。
「あの方は、人一倍情が深い。だからこそ、人一倍傷つく。なら最初から信じない方がいい。最初から『あいつは私なんか好きじゃない』と思っておけば、裏切られても傷は浅い」
「…………」
「だから、自分から遠ざける」
玲琳は目を伏せた。
「寂しいことですね」
「ええ」
玉兎もあっさり同意した。
そして続ける。
「だからまあ、私から近づいていくだけです」
「……え?」
「慧月様が一歩下がれば、こちらが一歩詰めればいい」
「さらに下がられたら?」
「さらに詰めます」
「逃げられたら?」
「追います」
「怒られたら?」
「怒った慧月様は怖いですからねぇ…翌日、ほとぼりが冷めたらまた行きます」
「…………」
「そのうち諦めるでしょう」
「なかなか強引ですねぇ」
「慧月様にはこれくらいでちょうどいいのです」
玉兎はさらりと言って、玲琳を見る。
「とりあえず、今後も玲琳様に仕えていれば、いずれ慧月様と直接話す機会もあるでしょう」
「……わたくしに?」
「はい」
「仕える?」
「はい」
「あなたが?」
「はい」
玲琳は自分――正確には朱慧月の身体――を指差した。
「わたくしに?」
「もともと私は慧月様付きの侍女ですからね」
「それもそう…ですわね」
「もちろん玲琳様ご本人にも誠心誠意お仕えいたします」
「今、付け足しましたね?」
「まさか」
玲琳はじっと玉兎を見る。
「ふつつかな下女ではございますが、よろしくお願いします」
玉兎は澄ました顔をしていた。
ほうき星様に脳をこんがり焼かれたので二次創作小説を見たいのに全然ないじゃないですかヤダー!
みんなもっと書こう。
続かない。