自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ―United States Route― 作:パラレル・ゲーマー
中国、北京。最高機密の地下医療施設。
「これは……」
医師たちが、息を呑んだ。
アメリカ合衆国政府との歴史的な取引により、中国が手に入れた《DIVINE DROP》の第一号。そのエメラルドグリーンの液体が、八十七歳の最長老の血管へと投与されてから数分後のことだ。
壁面の巨大な生体モニターに表示される数値が、次々と異常な変化を見せ始めていた。
心拍。血圧。酸素飽和度。血流のドップラー波形。
すべてが、八十代後半の老人のものではなくなっていく。
最初に医師が疑うのは、当然「測定機器の異常」だ。
「心拍数、安定しています。いや、安定しすぎている。アスリートのような波形だ」
医師Aが首を傾げる。
「血圧も正常域へ……高血圧の薬を長年服用されていたはずなのに、完全な理想値に収束しています」
医師Bが信じられないものを見る目でモニターを凝視する。
「待ってください。末梢血流が……指先までの毛細血管の血流が、若者のように力強く戻っています!」
医師Cが声を上げた。
ベッドの上に横たわる最長老が、不満げに口を開いた。
「何じゃ。何が起きておる」
「少々、お待ちください。現在、データを解析中でして……」
医師が慌ててなだめるが、モニターの数字は待ってくれない。次々と更新されていく。
投与前。
最長老は、この年齢の高齢者としては比較的健康な部類だった。致命的な大病は患っていない。
しかし当然ながら、動脈硬化、関節軟骨の摩耗、筋力低下、骨密度の低下、老眼、聴力の衰え、腎機能や肺活量の低下、心機能の落ち込み、神経反応の遅れなどはあった。
それは「病気」というより、八十七年間生きた人間として「普通の老化」だ。
それが今、目の前で消えていく。
「冠動脈の状態が、劇的に改善しています」
エコープローブを当てていた医師が震える声で言った。
「改善どころではありません。石灰化していた動脈硬化が……消えている?」
「そんな馬鹿な。プラークが物理的に消失するなんて……」
国家主席の李志遠は、部屋の隅で腕を組み、黙ってその様子を観察していた。
◆
その最中だった。
最長老が、何度か瞬きをした。
「……?」
彼は壁を見る。時計を見る。医療機器のパネルを見る。そして、遠くの表示を見る。
ゆっくりと手を伸ばし、分厚いレンズの眼鏡を外した。
「おお……」
「最長老? どうされました?」
医師が慌てて覗き込む。
「見える」
「はい?」
最長老は、勢いよくベッドから上半身を起こした。
「見えるぞ!」
「おお! 見える! 見えるぞ!!」
八十七歳の老人が、まるで初めて世界を見た子供のように歓喜の声を上げた。
医師たちが慌てて飛びつく。
「最長老、まだ起きないでください! 急に動くと血圧が——」
だが、本人は制止を振り切り、外した眼鏡を片手に持ちながら、部屋の遠くにある文字を読み上げ始めた。
「あそこの棚の薬品名も読める! 『塩酸エピネフリン』じゃろ!? 読めるぞ!」
「時計の秒針の動きまで、はっきりと見えるぞ!」
老眼どころか、白内障の初期症状や、加齢由来の視力低下そのものが完全に消滅していた。
「……すぐに視力検査を」
医師が呆然と呟く。
「今やれ! どこまで見えるか試してやる!」
最長老は、かつてないほど生き生きとしていた。
「楽しそうですね」
李志遠が、少しだけ口角を上げて言った。
「八十七年生きて、また裸眼でこんな細かい字が読める日が来るとは思わんかったわ!」
最長老の顔には、純粋な喜びが溢れていた。
少し離れた場所で、医師たちが小声で話し合っている。
「眼球の水晶体の弾力性が戻っているのか? いや、網膜の視神経細胞まで再生しているとしか……」
「これは視覚だけじゃない。神経系全体が……」
「聞こえておるぞ」
最長老の声に、医師たち全員がピタリと動きを止めた。
「……今のが?」
医師の一人が、信じられないという顔で最長老を見た。彼らは部屋の隅で、かなり声を落として話していたのだ。
「全部じゃ」
最長老はニヤリと笑った。
「そこの若いの。さっき『あり得ない』と言ったじゃろう。ワシの耳を誤魔化せると思うなよ」
「…………」
聴覚も、完全に復元していた。
◆
一通りの初期検査が終わり、医師が念のため確認した。
「一度、立ってみますか?」
「言われんでも立てるわ」
最長老が、ベッドから足を下ろした。
その時。
付き添っていた看護師が、ハッと息を呑んで固まった。医師も固まる。
ゆったりとした病衣(ガウン)越しでも、はっきりと分かる。
脚が、太い。
最長老が、床に足をつき、立ち上がる。
ふらつきは全くない。膝も震えない。
むしろ、背筋がピンと伸び、姿勢がやたらと良い。軍人のような立ち姿だ。
「…………」
医師は、言葉を失った。
「どうしました?」
李が怪訝そうに尋ねる。
「……筋肉が」
「筋肉?」
直ちに、詳細な身体計測が行われた。
胸囲。上腕二頭筋。大腿四頭筋。
数値は、明らかにおかしかった。枯れ木のように細かったはずの、八十七歳の老人の数値ではない。
最長老本人が、不思議そうに自分の腕を曲げた。
ムキッ。
病衣の下で、確かな筋肉の隆起が自己主張した。
「……ほう」
最長老は目を輝かせた。もう一度、力を込める。
ムキッ。
本人は、ちょっと嬉しそうだった。
◆
その後、身体検査用のぴったりとしたウェアに着替えて出てきた最長老を見て、李志遠はしばらく無言になった。
顔は、いつもの最長老だ。
白髪。深い皺。シミ。どう見ても八十代後半の老人の顔貌。
しかし、首から下。
見事な逆三角形のシルエット。広い肩幅。厚い胸板。太い腕。割れた腹筋。そして丸太のような脚。
「何じゃ」
最長老が、李の視線に気づいて不満げに言う。
「…………」
「何じゃと言っておる」
「正直に申し上げても?」
「言え」
「顔は完全に八十七歳なのに、身体だけ異様に若々しくて筋肉質なので……かなり気持ち悪いですね」
「失礼な!!」
最長老が怒鳴る。医療スタッフたちは、笑うに笑えず必死に顔を引きつらせていた。
李は、さらにじっと観察して付け加えた。
「最近ネットにある、出来の悪いAI動画で、ボディビルダーの首から上だけを老人の顔に差し替えたような……」
「例えを重ねるな!! ワシの身体じゃ!」
最長老はプリプリと怒りながら、部屋の全身鏡の前に立った。
鏡を見る。
首から下の、完成された肉体。
首から上の、皺だらけの顔。
再び身体を見る。
腕にグッと力を入れる。
「……悪くないな」
「気に入っているではありませんか」
李が呆れたように言う。
「若い頃、一度くらいはこういう筋肉隆々の身体になってみたいとは、思っておったんじゃ!」
最長老が胸を張る。
その言葉に、医師たちの動きがピタリと止まった。
「……待ってください」
「何です?」李が問う。
「まさか、本人の『願望(なりたい姿)』を読み取って、それに合わせて肉体を構築した……?」
一瞬、部屋の全員が真顔になった。
もしそれが事実なら、相当に恐ろしい技術だ。
「人間の思考や願望まで読み取る薬ということになりますが」李が警戒する。
「ワシの理想の肉体を、薬が叶えてくれたと?」最長老も驚く。
医師たちは、投与前から保管されていた遺伝子解析データと、投与前後の全身スキャンを慌てて照合し直す。
しばらくして、医療責任者が額の汗を拭いながら報告した。
「……いえ。それはないと思われます」
「何じゃ、残念じゃな」
「残念なんですか」李が突っ込む。
「では、なぜこんな筋肉モリモリになったのだ?」
医療責任者は、データをスクリーンに表示した。
「これは、何か外部から筋肉の組織を『追加(デザイン)』したわけではありません。
筋組織の損耗、加齢による萎縮、ホルモン分泌環境の低下、神経筋接合部の劣化、血流不足、骨格の歪み。これらが全て修復されました。
その上で……最長老が先天的に持っていた遺伝的・身体的能力のポテンシャルが、100%完全に発揮された結果です」
つまり、最長老は元々、身体的な素質(筋肉がつきやすい体質)に極めて恵まれていたのだ。ただ、八十七年という年月がそれを枯れさせていただけに過ぎない。
「この薬は、二十歳の身体のコピーへ『戻した』のではありません」
「では?」
「この人物の肉体を、本人が生物学的に持ち得る『最良状態』へ修復し、調整(最適化)しています」
重要な仕様が確定した。
「『若返り』と呼ぶのは、医学的には正確ではありません」
医師は言葉を選ぶ。
「老化によって失われた機能が、『失われていない状態になった』と考えるべきです」
「同じようなものではないか」最長老が言う。
「医学的には大違いです。これは時計の針を巻き戻したのではなく、時計そのものを完璧な状態へオーバーホールしたのです」
最長老は鏡を指差した。
「ならば。なぜ、ここ(顔)は八十七歳のままなんじゃ。皺があるぞ!」
李が、少しだけ顔をそらして吹き出すのを堪える。
医師は困ったように答えた。
「顔貌や骨格は正常ですので……」
「皺があるぞと言っておる!」
「傷跡は『損傷の痕跡』ですから修復対象になります。ですが皺そのものは損傷ではなく、正常な加齢過程で生じた変化です。だから薬が修復対象と見なさなかったのでしょう」
「ワシにとっては損傷じゃ! そこもついでに修復してくれてよかろう!」
「私は、そのままで助かりましたよ」
李が横から口を挟む。
「なぜだ」
「いきなり二十歳の顔になられたら、党の会議で本人確認が非常に面倒です」
「お前という奴は、情緒というものがないのか!」
ただし、外見も全く変化なしというわけではない。
肌艶、血色など、内臓の健康状態に由来する部分は劇的に改善し、若々しい張りが戻っている。それでも、骨格や顔立ち、深い皺など、「年齢を重ねた本人の顔」のアイデンティティはしっかりと残っていた。
結果として、極めてアンバランスで面白い絵面が完成していた。
◆
「では、身体検査を続けましょう」
李が促す。
「そうじゃな!」最長老は完全に乗り気だ。
「本日は安静にしていただき、明日以降に——」
医師が止めようとするが。
「身体能力(スポーツテスト)も測ろうぞ!」
「最長老!?」
「測ってください」李が許可を出す。
「主席まで!?」
ここから、中国の最高医療施設は、さながらスポーツ科学の実験場へと様変わりした。
機密扱いで、国家体育系のトップ研究者、軍医、生理学者、スポーツ医学の権威、さらには人民解放軍の特殊部隊の身体評価担当者までが急遽招集された。
彼らは全員、最初は「八十七歳の老人の測定?」と不思議に思っていた。
だが、実物の最長老(老人顔の筋骨隆々)を見た瞬間、全員が「…………?」という顔で固まった。
まず、握力。
最長老が、計測器を握りしめる。
ギリリッ。
研究者が、デジタル表示を見て固まった。
「…………」
「どうじゃ」
「……もう一度、お願いします」
「なぜじゃ」
「機械の故障を疑っています」
「失礼な奴じゃな!」
二台目の計測器を持ってこさせる。結果は同じ。
「右七十八・六キロ。投与前は二十三・一キロでした」世界トップクラスの格闘家やアームレスラーに匹敵する異常値で、昨日の本人の三倍を超えていた。
ここから、怒涛の測定ラッシュが始まった。
背筋力。世界最高水準。
垂直跳び。異常。
反応速度(反射神経)。異常。
肺活量。異常。
VO2max(最大酸素摂取量)。七十八・四mL/kg/分。一流の耐久競技(マラソン)選手クラス。
「こんな骨、見たことがない」
骨密度を測定した医師が、戦慄した。ただ硬いだけでなく、しなやかさを兼ね備えた、生体として完璧な強度。
さらに研究者たちを驚かせたのは、心拍の『回復能力』だ。
激しい運動をさせた直後、運動を停止すると、恐ろしい速度で心拍数が正常値へと戻っていく。血中の乳酸処理能力や代謝能力も、常軌を逸していた。
「待て、このデータも世界最高水準です」
「これもです」
「こちらも」
次々と上がる報告に、最長老はどんどん機嫌が良くなっていく。
トレッドミル(ランニングマシン)でのテスト。
「速度を上げます」
最長老は、軽快なフォームで走り続ける。
「さらに上げます」
「もっと上げられんのか!」最長老が息も切らさずに要求する。
「八十七歳の方へ言う台詞ではありませんが、これ以上は危険です!」
医師が悲鳴を上げる。
「今さらワシを八十七歳扱いするな!」
◆
数時間後。
スポーツ医学チームが、全データをまとめ上げた。
責任者の顔は、完全に引きつっていた。
「主席」
「結果は?」李が問う。
「凄まじい能力です」
スクリーンに、レーダーチャートが投影される。全ての項目が、円の外枠に張り付いている。
「あらゆる数字が、既存の『世界最高記録』に近い水準にあります」
「あらゆる?」
「はい」
ただし、と責任者は補足した。
「競技記録とは別です。100メートル走には特有の走技術が必要ですし、重量挙げにもフォーム(競技技術)があります。長距離には戦術がある。彼がいきなりオリンピックに出て金メダルを取れるわけではありません」
「しかし」
責任者は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「純粋な『人体性能の指標(素材としてのスペック)』だけを見れば、ほぼ全領域で人類の最高峰です。
特定競技へ極端に最適化されたトップアスリートではない。全身の性能を同時に、非常に高い水準で成立させた『万能型(パーフェクト)』です」
李は、ガラス越しに別室にいる最長老を見た。
老人顔。ムキムキ。ポーズを取っている。
「……やはり、気持ち悪いですね」
「まだ言うか!!」
ガラス越しに最長老の怒鳴り声が聞こえた。聴力も最高水準だ。
◆
医学的な最終結論が出された。
中国の医療班が収集した、膨大なデータの山。
疾患、ゼロ。
動脈硬化、実質消失。
腫瘍マーカー、陰性。
感染症の兆候、なし。
関節軟骨、最適な状態へ再生。
歯周病その他の炎症、修復完了。
加齢性機能低下、ほぼ検出不能。
「若返った、と表現するのは簡単です」
医療責任者が、李に向かって報告する。
「ですが、正確ではありません」
「先ほどと同じですね」
「はい」
責任者は、今回の調査で得られた最も重要な事実を言葉にした。
「肉体が、完璧に『調整』されています。
病気を治しただけではありません。若い身体へ戻しただけでもない。
本人という生物が、本来持つ能力を最大限発揮できる状態へ、全身を再構築しているのです」
部屋が静まり返る。
これで中国は、《DIVINE DROP》という存在を、「再生医療」という枠組みからさらに上の段階へと再評価することになった。
内部コード:【完全生体修復(Human Biological Optimization)】。
「脳機能は?」
李は、国家にとって最も重要なポイントを尋ねた。肉体がどれほど強靭になろうと、彼らは政治家だ。頭脳が衰えていれば意味がない。
「認知検査の結果です」
記憶、反応速度、判断力、注意力。
全部が、投与前よりも劇的に改善していた。
「ただし、知識が魔法のように増えているわけではありません。人格も以前と同じです」
医師が補足する。
「記憶の欠損が新しい知識で埋められたわけではありません。加齢によって蓄積された『処理速度の低下』や『神経機能のノイズ』が消え去っただけです」
最長老は、数十年前の出来事を、まるで昨日のことのように鮮明に思い出すことができた。
李志遠の目の色が変わった。
ここで初めて、彼は遥か遠くのモスクワでボグダノフが口にしたのと同じ結論へと到達したのだ。
「国家の記憶……」
「何だ?」最長老が尋ねる。
「いえ」
八十七年分の政治経験。歴史の生き証人。
その膨大な経験値(ソフトウェア)をそのままに、肉体(ハードウェア)は完全健康。頭脳の処理速度も全盛期へと回復。
これは国家にとって、とんでもない戦略的資産だ。
◆
検査結果の噂を聞きつけた他の党長老たちが、いてもたってもいられず医療施設へとやって来た。
もちろん最高機密の施設なので、正式な手続きを経て呼ばれた形だ。
ドアが開く。
数人の長老たちが入ってくる。
そして。
検査ウェアを着た、ムキムキの老人顔の最長老を見て。
「…………」
全員が、ピタリと動きを止めた。
「何じゃ」最長老が胸を張る。
「……気持ち悪いな」
「李と同じことを言うな!!」
別の長老が、恐る恐る最長老の腕を触った。
「本物か?」
「気安く触るな!」
「腹も割れておるぞ……」
「ジロジロ見るな!」
だが、数秒後。
長老たちの顔つきが、冗談抜きの真顔に変わった。
彼らは一斉に李志遠の方へ振り返った。
「ワシらの分は?」
李は淡々と答えた。
「まだありません。今回手に入れたのは、最初の一滴のみです」
「買え!」
「すぐ買え!」
「交渉します」李が頷く。
「値段があるのだろう! 国には金が腐るほどあるだろうが!」長老が叫ぶ。
「金では買えません」
李は、アメリカ政府から示された条件を短く説明した。「国家の戦略的対価が必要です」
「まあ、よい」
長老の一人が、最長老を見た。
「当面は、お前が働け」
「何?」最長老が聞き返す。
「ワシらの分が来るまでじゃ。代表してお前が国を引っ張れ」
「ワシらも薬を貰ったら働く。だから、先に一番年上のお前に譲ってやったのだ」
「お前ら!」最長老が怒る。
そこへ、李が静かにタブレットを持ち上げた。
「ちょうど良かった」
「……何がじゃ」最長老が嫌な予感を覚える。
「明日からの、最長老の予定(スケジュール)です」
スクリーンに、分刻みのスケジュールが表示される。
06:30 起床・医学検査
07:00 朝食会合(欧州特使と)
08:00 国家戦略会議
10:00 産業政策レビュー
12:00 昼食会(軍幹部と)
13:00 外交情勢報告
15:00 国防・安全保障会議
17:00 科学技術政策打ち合わせ
19:00 夕食会(外国要人接待)
20:00 党長老会議
21:30 医学検査
「…………」
最長老は、スクリーンと李を交互に見た。
「フルスケジュール!?」
「はい」
「ワシは八十七歳じゃぞ!?」
李は、最長老の顔と、はち切れんばかりの大胸筋を交互に見た。
「その身体で言われても、全く説得力がありません」
他の長老たちが爆笑した。
「頑張れよ」
「ワシらの分もな」
「頼んだぞ、代表」
「待て! お前ら、自分たちの薬が来るまで逃げるつもりだろう!」最長老が叫ぶ。
「ご安心ください」
李は、笑っている長老たち全員を見渡した。
「皆さんの分が届いた場合、全く同様の予定を組ませていただきます」
「…………」
長老たちは、急に静かになった。
「……やはり、そんなに急がなくてもよいかもしれんな」一人がポツリと言う。
「先ほど『すぐ買え』と仰ったではありませんか」李が逃さない。
「国家財政も大事だからな。無理はするな」
◆
長老たちが引き上げた後。
李志遠、国家安全部長官、そして医療責任者の三人が残った。
机の上には、最長老の膨大な検査データがある。
李の表情から、先ほどの柔らかな空気が完全に消え去っていた。
「情報区分を上げろ」
「最高機密に、ですか?」
「最高機密の、さらに上だ。アクセス権限を厳格に絞れ」
理由は明白だ。
これは単なる「万能治療薬」という枠に収まらない。
経験を維持したまま、老化という「人材寿命の制約」を取り払う可能性を示したのだ。
「病気を治す薬なら、国家はただ患者を救えるだけだ」
李は資料をじっと見つめた。
「だがこれは違う。国家そのものの『時間』を延ばせる」
極めて強い認識だった。
ただし、不老不死とは言わない。あくまで「現時点で老化による機能低下が修復された」だけだ。寿命の限界がどこにあるのかは、まだ誰にも分からない。
「アメリカ政府へ、今回の治療結果(データ)を共有しますか?」
国家安全部長が問う。
李は即答しなかった。
「契約上の義務はあるか?」
「ありません。《OFFWORLDER PRINCIPLE》にも、データの共有義務は含まれていません」
「ならば、こちらから出す必要はない」
「しかし、あの特異な身体的変化です。隠し通すことは不可能に近く、いずれ必ず察知されます」
医療責任者が懸念する。
「察知されることと、証明されることは違う」
李は冷徹に言い切った。
「正式な医療データは、我々が独占して持つ。アメリカには渡さない」
ここで初めて、中国は『OFFWORLDER由来の情報優位』を獲得した。
今までアメリカの独占状態だった情報戦において、初めて「アメリカが持っていないデータ(高齢者への投与結果)」を中国が握ったのだ。これは外交上の大きな武器になる。
「それと」
李は指示を出した。
「最長老を当面、公の場へは出すな。メディアのカメラの前にも立たせるな」
「当然です」
ドアの向こうから、最長老の怒鳴り声が聞こえた。
「なぜじゃ!」
全員がビクッと振り向く。聴覚が良すぎて、ドア越しでも聞こえているのだ。
「聞こえていましたか」
「全部な!」最長老がドアを開けて入ってくる。
「その身体で記者会見に出れば、写真一枚で全世界に異常がばれます」
「服を着れば分からんだろう」最長老は自分の腕を見る。
「肩幅が昨日と全く違います」
「…………」
「顔は昨日と同じなのに、肩幅が倍になれば、余計に目立つんです」
◆
翌朝。
06:50。
最長老は、自室でスーツに着替えようとしていた。
だが、困ったことが起きた。
昨日まで着ていたオーダーメイドの高級スーツが、全く入らないのだ。
肩が突っ張る。胸が閉まらない。腕が通らない。
「最長老……」
秘書が困り果てた顔をする。
「何じゃ」
「ボタンが」
ブチッ。
無理に閉めようとしたボタンが、弾け飛んだ。
「…………」
急遽、護衛用の大柄なSPが着ていた大きめのスーツか、既製品を借りて着る羽目になった。
「薬を飲んだ翌日に、服のサイズから作り直すことになるとは聞いておらんぞ……」
最長老はブツブツと文句を言った。
「お迎えに上がりました」
「李は?」
「すでに会議室でお待ちです」
最長老は深く息を吐いた。
「あの若造……本当に朝から予定を入れおったな……」
だが、部屋を出て階段の前に立った時。
昨日までは、足腰の痛みからエレベーターが必須だった。
しかし今は。
最長老は、試しに階段を一段飛ばしでトントンと軽快に下りてみた。
全く息が上がらない。膝も痛くない。本人は、ちょっと楽しくなってきた。
「……ふん」
最長老は、足取りも軽く、会議室へと向かった。
◆
モスクワ。
ロシア対外情報庁(SVR)の長官が、ボグダノフ大統領の執務室へ駆け込んだ。
「中国側で、不自然な動きがありました」
「《DIVINE DROP》か?」
ボグダノフが顔を上げる。
「断定はできません。ですが、中国の最長老(八十七歳)が、昨日まで極秘の医療施設に入っていたことが確認されています。その後、彼の全ての通常医療予定が突如としてキャンセルされました」
「そして?」
「今日、中南海で行われている非公開会議に、本人が『自力で』出席した可能性が高いとの情報が入りました」
「映像は?」
「ありません。徹底的な情報統制が敷かれています」
「歩行状態は?」
「自力歩行だった可能性が高いと、協力者が報告しています」
ボグダノフの動きが止まった。
「……杖は?」
「確認されていません。さらに、中国側のトップ医療チームが、昨夜から一か所に完全封鎖されています」
ボグダノフは、先日の会議で自らが口にした言葉を思い出した。
——『国家の記憶』。
机の上には、ロシア側が準備していた交渉パッケージの資料がある。
原子力、宇宙、重工業、極限環境運用。
ボグダノフは、資料を手に取った。
「……若返ったか」
「まだ、確認はできません」側近が言う。
「確認する必要はない」
「大統領?」
「中国が、八十七歳の老人を、薬を投与した翌日に会議へ引っ張り出した。それで十分だ」
効果は絶大。そして、中国はそれを隠そうとしている。
ボグダノフは決断した。
「ワシントンへ繋げ」
「何と伝えますか?」
大統領は、ロシアの分厚い交渉パッケージのファイルを見た。
「ロシアも、一滴買う」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!