宇宙世紀0082年。
一年戦争が終わってしばらく。
地球上には戦争の傷跡がそこかしこに残っていた。
焼け落ちた都市。放棄された基地。砂漠に沈みかけた戦車。そして、いまだ地下や山中、あるいは海底に潜伏しているジオン残党。
もっとも――。
海辺の町、サウス・ベイの住民たちがその日、恐れていたものは、ジオン残党でも核ミサイルでもなかった。
「鮫だ」
漁師のハロルド・マクレーンは、真顔で言った。
港の食堂にいた全員が振り返った。
「鮫?」
「鮫だ」
「……鮫?」
「だから鮫だって!」
ハロルドは三度目になる説明をした。
「昨日の朝、沖に出た漁船が一隻、沈められたんだ!」
食堂が静まり返る。
戦争を経験した人間にとって、「船が沈んだ」という言葉は決して軽くない。
しかし。
「で?」
食堂の主人が言った。
「鮫だろ?」
「鮫だよ!」
「じゃあ鮫じゃん」
「だから鮫なんだって!」
問題は、鮫だった。
しかも、普通の鮫ではない。
ハロルドによれば、海中から巨大な影が現れ、漁船の船底を一撃で破壊したという。
「どのくらい大きかったんだ?」
客の一人が尋ねる。
「わからん!」
「わからんのかい」
「暗かったんだよ!」
「じゃあ普通の鮫じゃないのか?」
「普通じゃないから困ってるんだ!」
こうして、サウス・ベイ海域における「鮫騒動」は始まった。
* * *
「たかが鮫程度で、軍を出せというのか?」
連邦海軍サウス・ベイ駐留基地。
基地司令のロバート・グレイ大佐は、届いた報告書を見て頭を抱えていた。
目の前には海軍の士官たち。
そして、地元警察の担当官。
「はい」
「鮫だぞ?」
「はい」
「モビルスーツではないんだな?」
「現時点では、鮫です」
「……」
グレイは報告書を机に置いた。
「諸君。我々は一年戦争を戦った連邦軍だ」
「はい」
「ジオンの水陸両用MSと戦った」
「はい」
「ザクと戦った」
「はい」
「ドムとも戦った」
「はい」
「それで今度は鮫か?」
「はい」
「……軍人というのも大変だな」
副官が咳払いした。
「一応、調査隊だけは出しておきましょう」
「そうだな」
グレイは渋々うなずいた。
「鮫が本当にいるなら、追い払えばいい。漁師が安心して漁に出られる程度でいい」
この時点で、彼らはまだ事態の重大さを理解していなかった。
翌日。
海軍のアクア・ジム二機が出動した。
RAG-79。
地球連邦軍が水中戦を想定して開発した水陸両用MSである。
ジムをベースに、水中航行用の装備を施した機体だ。
「隊長」
アクア・ジムのコクピットで、若いパイロットのエディが言った。
「なんだ?」
「俺たち、鮫を探してるんですよね?」
「ああ」
「MSで?」
「ああ」
「鮫を?」
「ああ」
「……」
「何が言いたい」
「いや。軍隊ってすごいなと思って」
「同感だ」
二機のアクア・ジムが海中を進む。
背部と脚部の推進装置が海水を押し、機体がゆっくりと深度を下げていく。
「ソナーに反応なし」
「周囲確認」
「異常なし」
「鮫はいないか」
「いません」
「なら帰るか」
「隊長」
「なんだ」
「帰ったら司令に何て報告します?」
「『鮫はいませんでした』」
「絶対怒られますよ」
「知らん」
その時だった。
ソナー画面に、一瞬だけ反応が走った。
「……?」
「どうした?」
「ソナーに何か」
画面を拡大する。
反応は消えた。
「見失ったか?」
「いえ」
エディの声が震えた。
「下です」
「下?」
「俺たちの真下」
二人は同時にモニターを見た。
海底から、巨大な影が浮かび上がった。
長い。
あまりにも長い。
アクア・ジムの全高は十八メートル。
その機体よりもはるかに長い影だった。
「……隊長」
「なんだ」
「これ」
「ああ」
「鮫ですよね?」
「……たぶんな」
「鮫ってこんなに大きかったでしたっけ?」
「俺に聞くな!」
次の瞬間。
海が爆発した。
「うわあああああっ!」
二機のアクア・ジムが吹き飛ばされた。
巨大な影が機体の横を通過する。
エディは必死に操縦桿を切った。
「速い!」
「追うな!」
「でも!」
「追うな!」
「隊長!」
「何だ!」
「鮫が戻ってきます!」
「逃げろォッ!」
二機のアクア・ジムは全速力で逃走した。
数時間後。
基地司令室。
グレイ大佐は報告書を読んでいた。
顔から血の気が引いている。
「……MSより大きかった、と?」
「はい」
「鮫が?」
「はい」
「アクア・ジム二機が?」
「一機は損傷。一機は軽微です」
「鮫に?」
「はい」
グレイは椅子から立ち上がった。
「総員、対鮫戦闘態勢!」
「司令!」
「なんだ!」
「対鮫戦闘態勢とは?」
「知らん!」
司令室が混乱した。
その夜。
作戦会議が開かれた。
ホワイトボードには大きく、
【巨大鮫対策】
と書かれていた。
「まず、仮説を出してもらおう」
グレイが言った。
「戦争による突然変異では?」
軍医が言った。
「放射線や化学物質の影響で巨大化した可能性があります」
「なるほど」
「あるいは」
別の士官が手を挙げた。
「古代鮫、メガロドンの生き残りでは?」
「メガロドン?」
「太古に存在した巨大な鮫です」
「それが生き残っている?」
「可能性はゼロではありません」
「ゼロではないのか」
「科学的には極めて低いですが」
「では却下だ」
「なぜです?」
「怖いからだ」
「科学的判断ではありません」
「軍人の判断なんてそんなものだ」
そこへ、通信士が駆け込んできた。
「司令!」
「今度は何だ!」
「例の鮫が、また出ました!」
「どこに!」
「港の沖です!」
「……」
グレイは立ち上がった。
「アクア・ジムを出せ」
「はい!」
「それから」
「はい」
「例の機体を出す」
部屋が静かになった。
「……本当に出すんですか?」
副官が聞いた。
「出す」
「海軍の秘蔵品ですよ?」
「今こそ使う時だ」
グレイは厳かに言った。
「水中型ガンダムを出せ」
* * *
海底基地。
格納庫の巨大な扉が開いた。
海水が流れ込み、照明が点灯する。
そこに立っていたのは、一機の白いMSだった。
水中戦を想定した装備を施された、連邦軍の試作機。
通称――。
「アクア・ガンダム」
整備兵の誰かが呟いた。
「名前がそのまますぎる」
「仕方ないだろ」
「ガンダムなんだから、もう少し格好いい名前を……」
「上層部に言え」
「嫌だ」
アクア・ガンダムのコクピットに、若い女性パイロットが乗り込む。
ミリア・ハート中尉。
「司令」
『なんだ』
「本当に鮫と戦うんですか?」
『そうだ』
「ガンダムで?」
『そうだ』
「鮫と?」
『そうだ』
「……」
『何か問題があるか』
「ありません」
ミリアはヘルメットをかぶった。
「軍人ですから」
その隣では、一機のズゴックが水中へ降ろされていた。
MSM-07。
ジオン公国軍が一年戦争で使用した水陸両用MS。
終戦後、連邦軍が接収し、修復した機体である。
パイロットは作戦隊長、グレイ大佐その人だった。
「大佐」
副官が言った。
「なぜズゴックなんです?」
「水中戦だからだ」
「それは分かります」
「ならいいだろう」
「でも大佐、ズゴックの操縦経験は?」
「ない」
「……」
「昔、一度だけシミュレーターで触った」
「それは経験とは言いません」
「細かいことを言うな」
「死にますよ」
「鮫に食われるよりはマシだ」
「比較対象が狂っています」
やがて。
二機のMSが海へ出た。
アクア・ジム二機。
そしてアクア・ガンダム。
さらにズゴック。
連邦軍の対鮫部隊が編成された。
その規模。
過剰である。
あまりにも過剰である。
しかし敵は巨大だった。
「ソナー反応!」
アクア・ジム隊から通信が入る。
「距離二百!」
「アクア・ガンダム、前進!」
ミリアが操縦桿を倒す。
白い機体が海中を突進した。
その後ろからズゴックが続く。
「こちらグレイ!」
『どうぞ!』
「鮫を見つけた!」
『大きさは?』
「……」
グレイは前方を見た。
巨大な魚影。
「でかい」
『どのくらいです?』
「アクア・ジムの二倍!」
『了解!』
「いや、待て!」
『なんです?』
「三倍かもしれん!」
『了解!』
「おい!」
巨大鮫が突進してきた。
「来るぞ!」
ミリアが叫んだ。
アクア・ガンダムが横へ回避する。
鮫が海水を巻き上げ、ズゴックへ突っ込んだ。
「うおおおおっ!」
グレイが操縦桿を引く。
ズゴックの巨体が回転した。
鮫の鼻先をかすめる。
「やった!」
エディが叫ぶ。
「隊長、今です!」
「撃て!」
アクア・ジムが攻撃する。
しかし。
鮫はひらりと回避した。
「速い!」
「逃げられた!」
「追え!」
三機のMSが一斉に追跡する。
ところが。
鮫は突然、海底へ潜った。
「消えた?」
ミリアが周囲を見回す。
「ソナー反応なし」
「どこへ行った?」
その瞬間。
巨大な影が真下から飛び出した。
「うわっ!」
アクア・ガンダムが弾き飛ばされる。
「ミリア!」
「大丈夫!」
彼女は機体を立て直した。
「こいつ……」
鮫を睨む。
いや。
モニターに映ったその姿を見て、ミリアは眉をひそめた。
「……鮫?」
何かがおかしい。
口。
妙に四角い。
背びれ。
不自然に大きい。
そして何より――。
海中で機械的な音がした。
『ギギギ……』
「司令」
『どうした』
「鮫が」
『鮫が?』
「機械音を出してます」
『……』
「鮫って機械音を出します?」
『普通は出さん』
「ですよね」
アクア・ガンダムが接近する。
そして、海中に浮かぶ巨大鮫の装甲をよく見る。
継ぎ目。
ボルト。
推進器。
そして、装甲の隙間から覗くモノアイ。
「……」
ミリアは絶句した。
「これ、MSじゃないですか」
グレイも絶句した。
「……」
「司令?」
「……」
「どうしました?」
「鮫ではない」
「はい」
「鮫の格好をしたMSだ」
「はい」
「ジオンだ」
「はい」
「……」
グレイは怒鳴った。
「ふざけるなァァァァッ!」
その怒声が海中通信に響き渡った。
* * *
戦闘終了後。
捕獲された「鮫」の装甲が外された。
中から現れたのは、一年戦争時代の水陸両用MSだった。
それを改造し、巨大な鮫型の外装を取り付けていたのである。
そして近くの海岸洞窟を捜索した結果、ジオン残党の秘密基地が発見された。
「つまり」
グレイは尋問室で腕を組んだ。
「お前たちは、鮫騒ぎを起こしていたわけだな?」
捕らえられたジオン残党兵がうなずく。
「そうです」
「なぜだ」
「基地を隠すためです」
「それで鮫の着ぐるみを?」
「着ぐるみではありません。増加装甲です」
「そこはどうでもいい」
「我々としては重要な問題です」
「どうでもいい!」
グレイは机を叩いた。
「漁師の船を沈めたのも?」
「……まあ」
「まあ、じゃない!」
「必要だったんです」
「必要だから船を沈めるな!」
「はい」
「返事だけはいいな!」
こうして、サウス・ベイの「巨大鮫事件」は解決した。
数日後。
町には再び平和が戻った。
海水浴場には人が戻り、漁師たちは船を出し、商店には観光客が増えた。
新聞の一面には、
【巨大鮫の正体はジオン残党の偽装MS!】
という見出しが躍った。
「結局、鮫じゃなかったんだな」
「そうらしい」
「じゃあ安心だ」
「そうだな」
誰もが笑っていた。
海は青く。
空は晴れ。
夏がやってきた。
だが。
その頃。
サウス・ベイから数十キロ離れた沖合を、一隻の小型船が航行していた。
船には、摘発を逃れたジオン残党兵が数名乗っている。
「くそっ……!」
「基地まで失うとは!」
「全部あの鮫MSのせいだ!」
「誰があんなものを作ろうと言った!」
「お前だ!」
「俺じゃない!」
「もういい! とにかく逃げるぞ!」
船は沖へ進んでいく。
誰もいない海。
波は穏やかだった。
その時。
船底から。
ごん。
と音がした。
「……?」
兵士たちが顔を見合わせる。
もう一度。
ごん。
「何だ?」
「岩礁じゃないのか?」
「この海域に岩礁は――」
船の横を、何かが通過した。
巨大な影。
あまりにも巨大な影。
「……」
「……」
「……」
誰も言葉を発しない。
そして海面が盛り上がった。
巨大な背びれが姿を現す。
金属ではない。
装甲でもない。
推進器もない。
ただの、生き物だった。
巨大な鮫が海面を割った。
ジオン残党兵の一人が、震える声で言った。
「……なあ」
「なんだ」
「今度のは」
鮫が船の横をゆっくり通り過ぎる。
「本物……だよな?」
誰も答えなかった。
鮫は海中へ消えていく。
数秒後。
巨大な尾びれが海面を叩いた。
船が大きく揺れる。
「うわああああああ!」
「逃げろォォォォ!」
「どこへだ!」
「知らん!」
夏の青い海に、男たちの悲鳴が響き渡った。
そして。
誰も知らない。
あの海にはまだ、もう一匹。
人類が一年戦争を始めるより遥か以前から、この星の海を泳ぎ続けてきた巨大な捕食者がいることを。
ましてや。
その鮫が、ジオン残党の作った偽物より、ほんの少しだけ大きかったことなど。
もちろん――。
連邦海軍も知らない。
サウス・ベイの町民も知らない。
そしてグレイ大佐も知らない。
知らないまま、夏は始まった。
海は今日も青かった。
そして海の底では。
何か巨大なものが、ゆっくりと泳いでいた。