ケルムの姿へ誘われたティセを守るため、ロウたちは庭の捕食器官と正面から戦います。強力な一級遺物《大食らいの鞘》と、二つの弱い遺物を組み合わせたロウの戦いをお楽しみください。
ティセの二歩目が白い柵を越える前に、ロウの左手が外套の襟をつかんだ。
「離してください」
「鏡に映ってない」
「分かっています。だから近くで確かめるんです」
「近づいたら、確かめる前に触られる」
家の前に立つケルムは、兄妹の言い争いを懐かしむように笑っていた。差し出した右手は動かず、ティセが来るのを待っている。
「昔から変わらないな。ティセは納得するまで人の話を聞かない」
「兄さんが説明を途中でやめるからでしょう」
「三年前もそうだった。お前に来るなと伝えたのに」
ティセの身体から力が抜けた。
ケルムがロウへ託した伝言を、彼女が知ったのは大断層の夜である。この庭が、二人の会話をどこかから聞いていた可能性はあった。それでも兄の声で言われると、理屈より先に心臓が反応した。
「なぜ、来るなと言ったんです」
「ここが、お前に向いていないからだ」
「鑑定士だから?」
「優しいからだよ」
ケルムが一歩近づく。遅れ鏡には、五秒前の白い柵と閉じた扉しか映っていない。男の姿も足跡もなかった。
《毒震え歯》の震えは止まらない。
ティセは分かっていた。目の前の兄は、空地で見た一級遺物と同じ餌である。そう判断している自分と、兄の手へ触れたい自分が、身体の中で別々に動いていた。
「ティセ」
ケルムがもう一度呼ぶ。
「おいで」
差し出された右手が、あり得ない速さで伸びた。
袖の下から腕が二倍、三倍と長くなり、指先がティセの顔へ迫る。皮膚が裂け、五本の指が乳白色の触手へほどけた。
ロウはティセを後ろへ投げ、自分が前へ出た。
武器はない。短槍は宝の空地へ置いてきた。右腕は胸元へ固定され、動かせば折れた骨がずれる。
それでも左手だけで、伸びてきた触手を二本まとめてつかんだ。
足を白い土へ滑らせ、引く力を横へ逃がす。残る三本を頭上へ通し、つかんだ二本を自分の肩へ巻いて身体ごと回った。
ケルムの姿が宙へ浮く。
ロウはそのまま白い柵へ叩きつけた。
人間の身体が出す音ではなかった。湿った肉の塊が割れ、内部から無数の細い歯が飛び散る。
ケルムの顔が横へずれた。皮膚の下に頭蓋骨はなく、白い根が束になっている。片方の目が頬まで落ちても、口元だけは兄の笑顔を保っていた。
「ひどいな」
唇からケルムの声が出る。
「妹の前だぞ」
「兄さんの顔で話すな!」
ティセが毒瓶を投げた。透明な容器は偽物の胸へ当たって割れ、黒い液体が白い根へ染み込む。人間なら筋肉を動かせなくなる量だった。
偽物は動きを止めない。
「毒が効きません!」
「知ってる。今の歯は、こいつが出してる方に反応してる」
ロウは触手を離し、一歩下がった。
家の窓が一斉に開いた。
橙色の灯りだと思っていたものが、すべて瞳だった。丸い眼球が窓枠の内側で動き、五人へ焦点を合わせる。煙突から上がっていた湯気は甘い粉へ変わり、白い屋根の隙間から流れ始めた。
「全員、濾過布!」
ティセの声で、四人が口と鼻を覆う。ロウだけは腰の主索を左手へ巻き、倒れたケルムの偽物を見ていた。
偽物の背から、白い根が地面へ伸びている。その根は柵、畑、家、さらに後方の宝の空地へつながっていた。
「全部一つだ」
「家も?」
プクが遅れ鏡を向ける。
五秒前の鏡には家がない。白い土から、巨大な肉の袋が半分だけ地上へ出ていた。表面に十二個のくぼみが並び、底で脈を打っている。
「家も、兄も、宝も同じ捕食器官です!」
プクが叫んだ。
「地面の下へ、もっと大きい身体があります!」
庭が大きく揺れた。
人骨の柵が根元から抜け、脚のように土へ刺さる。白い家が中央から二つに割れ、屋根が硬い甲殻へ裏返った。窓の眼球は甲殻の内側へ並び、煙突が長い管となって空を向く。
畑の白い葉が刃へ変わる。井戸が開き、中から太い舌が這い出した。軒下に干されていた五人分の外套は、持ち主のいない身体を作り、立ち上がった。
地面の下から現れたのは、家ほど大きな擬態獣だった。
丸く膨れた胴を十二枚の甲殻が覆い、腹の下には人骨を束ねた脚が幾十本も生えている。頭にあたる部分はなく、前面へ並んだ窓の眼球と、井戸だった口が獲物の方向を追っていた。
胴のあちこちから、遺物の形をした餌が実る。
ガッドには帰路を開く輪。
メノには死者を戻す針。
プクには庭の地図を記した本。
ティセには、白い根につながれたケルム。
ロウにだけは、何も実っていなかった。
「何と呼びます?」
プクが後ずさりながら聞く。
「今、名前が必要か」
ガッドは主索を近くの木へ回そうとしたが、幹の枝が伸びてきたため断念した。
「記録に必要です!」
ティセは腰の短剣を抜く。「擬態型の捕食器官。暫定名《擬態獣》!」
「そのままですね!」
「生きて戻ってから考えます!」
擬態獣の眼球が細くなる。
人骨の脚が一斉に地面を蹴った。
「散れ!」
ロウの声に合わせ、五人は左右へ分かれた。
巨体が先ほどまでいた場所を通り過ぎる。十二枚の甲殻が白い木を何本もへし折り、枝へ実っていた笛や装備を巻き込んだ。果実は壊れず、擬態獣の表面へ吸い込まれ、新たな甲殻として並び直す。
ガッドがプクの腰をつかみ、地面の口を飛び越える。メノはティセの背を押し、自分も横へ転がった。
ロウは一人だけ、擬態獣へ向かって走った。
「ロウ!」
ティセが呼ぶ。
擬態獣の骨脚が上がる。先端には赤笛、蒼笛、黒笛が埋まり、刃のように尖っていた。
ロウは足を止めず、振り下ろされた脚の内側へ入った。左肩をわずかに傾け、骨の刃を外套一枚の距離で避ける。続く二本目を踏み台にし、三本目の関節へ踵を落とした。
乾いた破裂音がする。人間の大腿骨を束ねた関節が折れ、巨体が片側へ沈んだ。
ロウは倒れかけた甲殻へ駆け上がる。右腕を使えないため、左手と両脚だけで突起を選び、眼球の並ぶ窓枠まで一息に進んだ。
眼球が彼を追う。
窓の一つへ左拳を打ち込んだ。
眼球が潰れ、透明な液体が噴き出す。
隣の瞳へ肘を入れ、さらに膝で三つ目を砕いた。硬い甲殻に守られていても、見えるための穴までは塞げない。
「片腕の動きじゃないですよ、あれ」
プクが呆然とする。
「両腕があってもやるな」
ガッドが短剣で迫る触手を切った。
「見てないで援護! 後ろから来ます!」
ティセが毒瓶を二本投げる。擬態獣そのものには効かないが、地面から生えた小さな捕食口へ入ると、その周囲だけ筋肉の動きが鈍った。
メノは動きを止めた口へ杭を差し込み、閉じられないよう固定する。ガッドがそこへ残った主索を通し、プクと二人で引いた。
擬態獣の後脚が縄へ取られ、さらに姿勢を崩す。
「効いてます!」
プクが叫ぶ。
「喜ぶのはまだだ!」
ガッドが縄を手へ巻いた直後、擬態獣の胴から白い輪が飛び出した。彼にだけ息子へ帰る道を見せていた餌である。
輪が主索へ触れる。
縄の先が、輪の向こうへ吸い込まれた。
「本物の力までまねるのか!」
ガッドはすぐ縄を切った。吸い込まれた先がどこへ続くか確かめる余裕はない。切断面から白い根が生え、残った縄へ侵入しようとする。
彼はさらに半歩ぶん切り捨てた。
「俺の縄ばっかり食いやがって!」
「餌だと思われてるんじゃないですか!」
「嬉しくない!」
擬態獣が胴を激しく振った。
甲殻の上にいたロウが宙へ投げ出される。彼は白い木の枝を左手でつかみ、勢いを殺さず一回転して地面へ降りた。
右腕の包帯へ血がにじむ。
ティセが駆け寄ろうとしたが、ロウは左手を上げて止めた。
「骨はずれてない」
「見ただけで分かるんですか」
「ずれたときの音を知ってる」
「知りたくなかった情報です」
「なら近づくな。次が来る」
擬態獣の甲殻が持ち上がり、内側から無数の管が現れた。先端が膨らみ、甘い粉を蓄えている。
「粉を出します!」
プクが遅れ鏡を見た。鏡の中では五秒前、管が現在より大きく膨らんでいる。
「違う、もう出した後です!」
五秒遅れの情報だった。
現在の管はすでにしぼんでいる。
透明な粉が上空から降り始めた。
「外套をかぶれ!」
五人は頭と顔を覆った。粉が布へ積もり、わずかな隙間から甘い匂いが入る。
ガッドの前に息子が現れ、メノの耳元で夫が名を呼び、プクの足元へ黒笛が落ちる。ティセのすぐそばでは、ケルムが手を差し出していた。
ロウには何も見えない。
そのため、仲間が何へ引かれているかも分からなかった。
「全員、名前を言え!」
「ガッド・ボルグ!」
「メノ・アサル!」
「プク・ナナイ!」
ティセの返事がない。
ロウは声の代わりに主索の重さを数えた。ガッド、メノ、プク。三人ぶんしかない。
「ティセ!」
甘い霧の向こうで、彼女はケルムの偽物へ歩いていた。兄は擬態獣の腹から上半身だけを生やし、安心させるように笑っている。
「大丈夫だ。もう帰れる」
「兄さんが、本物なら」
ティセは短剣を握ったまま言う。「私しか知らないことを、もう一つ答えて」
「何でも聞け」
「私が初めて鑑定した遺物は?」
「《鳴き石》。たたくと鳥の声を出す、四級遺物」
正しい答えだった。
ティセの短剣が下がる。
「よく覚えていたな、豆鑑定士」
兄の手が彼女の頬へ触れようとする。
その前に、ロウが二人の間へ入った。
伸びた腕を左手でつかみ、肘とは逆の方向へ折る。
白い骨が皮膚を破った。
「何をするんです!」
ティセがロウの背をたたく。
「答えを知ってるだけだ」
「二人しか知らない!」
「庭は、お前の頭を読んでる」
「でも――」
「本人なら、最初にお前を逃がす」
ロウは折った偽物の腕を擬態獣の腹から引き抜いた。断面には筋肉も血管もなく、透明な管が何本も通っている。
「来るなと伝えた奴が、こっちへ来いと言うか」
ティセの抵抗が止まった。
ケルムの偽物は笑顔を消した。
「余計なことを」
声が兄から、幼い子供、メノの夫、ガッドの息子、プク自身へ次々に変わる。
最後にロウの声になった。
「お前には、何を見せればいい」
「捨てられたあとで考えろ」
ロウは偽物を擬態獣の腹へ蹴り戻した。
ティセの腰帯をつかみ、仲間の方へ投げる。ガッドが受け止め、メノがすぐ瞳孔と呼吸を確認した。
「私は正常です」
「正常な奴は、怪物の腹へ歩かない」
「少し判断を誤っただけです」
「それを異常と言う」
メノが濾過布を新しいものへ替えた。
ロウは擬態獣へ向き直る。
眼球を三つ潰され、後脚を一本折られても、動きは鈍っていない。傷口の周囲から白い根が伸び、すでに修復を始めている。
彼の短槍は甲殻の一枚へ取り込まれ、半分だけ外へ突き出していた。取り返すには、巨体の正面へ入らなければならない。
「外側から削っても戻る」
ロウが言った。
「核を探します」
プクが遅れ鏡を構える。「身体が大きくなったので、今度は音が返ります」
音響棒を地面へ当て、短く鳴らす。
擬態獣の内部を通った振動が、低い反響となって戻った。複雑な空洞が幾つもある。中央よりやや下、甲殻の奥に液体を満たした大きな袋があり、その周囲だけ規則的に収縮していた。
「腹の下に大きな空洞。たぶん心臓です。ただ、甲殻が一番厚い」
「厚さは?」
「僕の腕より少し長いくらい」
「普通の刃では届きません」
ティセは鑑定器で甲殻の表面を測る。「硬度は二級遺物の保護板と同等。毒への耐性、自己修復あり。墜腕なら割れるかもしれませんが――」
「右腕が先に割れる」
メノが断言する。
「《薄明の殻》は?」
ガッドが尋ねた。
「受ける力を半分にできても、攻撃する力は増えない」
ロウは腰の筒へ左手を置いた。
中に短槍はない。
一級遺物《大食らいの鞘》だけが残っている。
「鞘だけで何をするんです」
プクが聞いた。
「食わせる」
「何を?」
「落下と、熱だ」
ロウは背負い袋を地面へ下ろした。
擬態獣がこちらへ向きを変える。残った眼球が開き、井戸の口から太い舌が伸びた。
「三十秒稼げ」
「短くないですか?」
プクが声を上げる。
「長い方だ」
「こういう時だけ前向きですね!」
ガッドが残った縄をプクの腰へ結ぶ。「三十まで数えろ。途中で死にそうなら飛ばしていい」
「数える意味がないでしょう!」
舌が五人へ迫る。
ガッドとプクは左右へ分かれ、縄を張った。太い舌が間を通った瞬間、二人が同時に引く。縄が表面へ食い込み、軌道をわずかにそらす。
メノは舌の先へ残った麻痺毒を打ち込み、ティセは白い葉の刃を拾って付け根へ切りつけた。完全には止められない。それでもロウの背負い袋から注意を外すには十分だった。
ロウは袋の奥から、濁った小瓶を取り出した。
内部に水滴が一つだけ入っている。
《一滴さま》。力場の歪みへ影響されず、どこでも本当の下へ落ちようとする遺物である。水を作らず、方角も示さず、ただ一滴が下へ向かう。それだけの性質が、迷路では五人の命を救った。
次に《大食らいの鞘》を地面へ置く。
外から見れば腕ほどの長さしかない筒だが、内部には折り畳まれた長い空間がある。収めた槍は短くなったのではない。人の目と手が届かないほど深い内部へ、長さを保ったまま飲み込まれていた。
「鞘の奥へ落とすんですか」
ティセが意図に気づく。
「一滴さまは、底へ着いても落ちようとする」
「でも、水の量は増えません」
「量じゃない。落ちた距離を食わせる」
ロウは小瓶の栓を抜き、鞘の口へ固定した。瓶を逆さにしても、水滴はすぐには外へ出ない。真下の方向を確かめるように側面を這い、鞘の暗い内部へ落ちていった。
外から見れば、ほんの一滴が消えただけだった。
鞘の内部では落下が続く。
折り畳まれた距離を進み、底へ触れ、それでもさらに下を求める。《大食らいの鞘》は終わらない落下を飲み込み、吐き出せない力を内側へ蓄え始めた。
筒の表面が細かく震える。
「十二!」
プクの数える声が聞こえた。
擬態獣の舌が縄を引きちぎる。ガッドが転がり、白い土へ肩を打った。
「十三、十四、十五!」
「急に速くなってるぞ!」
「飛ばしていいと言ったじゃないですか!」
「死にそうになってからだ!」
「もう十分死にそうです!」
ティセが白い葉の刃を舌へ突き立てた。刃は途中で折れたが、その隙にメノがガッドを引き起こす。
ロウは鞘の震えを左手で確かめた。まだ足りない。
擬態獣が前脚を上げる。骨の束が四人の頭上へ影を落とした。
「二十二!」
プクが叫ぶ。
ガッドは切れた縄の金具を投げ、骨脚の隙間へ引っかけた。メノと二人で全体重をかける。振り下ろされた脚がわずかに遅れ、ティセとプクが下から逃げた。
金具が外れ、骨脚が地面を砕く。
「二十七、二十八――」
「もういい!」
ロウは小瓶を鞘から外した。
瓶の内側に水滴はない。底から細い亀裂が広がり、濁った硝子が白く変色している。
《大食らいの鞘》を左脇へ抱え、擬態獣へ口を向ける。
「プク、核の位置!」
「正面から左へ二歩、地面から胸の高さ!」
「全員、伏せろ!」
鞘の留め具を外した。
飲み込まれていた落下が、一度に吐き出された。
音より先に、白い線が擬態獣へ伸びる。
水だった。
量は一滴のはずなのに、鞘の内部で蓄えた落下の力が、途切れない細い噴流となって放たれる。針ほどの水が甲殻へ当たり、表面を削り始めた。
擬態獣の巨体が後ろへ押される。
甲殻が一枚、中央から割れた。
水の線は止まらず、二枚目へ食い込み、肉色の内部まで達する。傷口から赤黒い液体が噴き出した。
擬態獣が庭全体を震わせる声で鳴いた。
ケルム、ニア、トマ、メノの夫、プク、ティセ、ロウ。これまで読み取ったすべての声が重なり、痛みを訴える。
ロウは鞘の向きを変えず、左足を前へ出して反動を受け止めた。
小瓶の亀裂が端まで届く。
《一滴さま》が、彼の手の中で砕けた。
噴流が途切れる。
擬態獣の甲殻には、人が身体を横にすれば入れるほどの亀裂ができていた。その奥で赤黒い肉が収縮し、傷を閉じようと白い糸を伸ばしている。
「核まで届いていません!」
プクが音響棒を鳴らす。水で削られた通路は深いが、心臓らしき袋まであと二歩ほど残っていた。
擬態獣は傷口を地面へ押しつけ、白い土から新しい肉を吸い上げる。割れた甲殻の縁にも薄い膜が張り始めていた。
「今度は、こっちが三十秒もらうぞ」
ガッドがロウの前へ立った。靴底を失った片足を引きずりながら、短くなった縄を擬態獣の骨脚へ投げる。
「十五秒でいい」
「さっきより短いじゃないですか」
プクが言う。
「二回目は慣れた」
「何にです?」
「死にそうな方に」
「慣れたくありません!」
擬態獣の井戸口が開いた。内部で、先ほど飲み込んだ雨裂きの肉と、古い探窟装備が半ば溶けた状態で混ざっている。太い舌が再び飛び出し、今度はロウの背負い袋だけを狙った。
ガッドが横から縄をかける。メノとプクが加わり、三人で軌道をそらした。舌の先端がロウの脇を通り、地面へ深く刺さる。
ティセは舌の根元へ駆け、毒ではなく油を入れた瓶を割った。粘りのある液体が表面を覆い、白い舌が土をつかめず滑る。
「殺せなくても、転ばせるくらいはできます!」
擬態獣の脚がもつれ、巨体が傾いた。
ロウは砕けた《一滴さま》を地面へ置かなかった。小瓶の破片を左手の中でまとめ、布に包んで背負い袋の口へ押し込む。
その間にも、傷口の再生は進んでいる。
「それ、今やる必要あります?」
プクが舌を避けながら叫んだ。
「ある」
「後で拾えばいいでしょう!」
「後で残ってる保証がない」
白い土は足元へ落ちた血や装備をすぐに飲み込む。砕けた遺物を一度でも地面へ置けば、庭の一部にされる可能性が高かった。
「ロウらしいと言えば、らしいな!」
ガッドが舌へ引かれ、両足を滑らせた。プクとメノが背後から腰帯をつかみ、地面の口へ落ちる寸前で止める。
「感心してないで、早くしてください!」
ティセの声に、ロウは袋の別の場所へ左手を入れた。
取り出したのは赤茶色の小石だった。表面を走る橙色の光は弱く、掌へ載せても少し温かいだけである。
「《ぬる火》……?」
ティセが目を見開く。「寄生体を誘い出したときに壊れたはずです」
「あれとは別だ」
《ぬる火》は、同じ性質を持つ個体が幾つか見つかっている珍しい低級遺物だった。ロウが所持していた二つのうち、一つはメノへ入り込んだ寄生体とともに焼けた。今手にしているのが、残る一つだった。
「同じものを二つも持っていたんですか」
「温かさが少し違う」
「違いがあるんです?」
「前のは三十八度。こいつは三十九度」
「一度だけで、よく分かりますね」
「毎晩使ってた」
プクが一瞬だけ振り返る。
「湯たんぽ代わりですか?」
「靴下を乾かす」
「ちょっと欲しいです」
「触るな。今から壊す」
「先に言わないでくださいよ!」
擬態獣が脚を踏み鳴らした。白い地面が波打ち、ガッドたちの足元へ亀裂が走る。
ロウは《ぬる火》を《大食らいの鞘》へ入れた。
普通なら、小石は鞘の入口近くで止まる。武器ではないため、長さを保ったまま飲み込む必要がないからだ。
ロウは筒を逆さにし、何度か強く振った。内部で小石が転がる音が遠ざかる。折り畳まれた空間の奥へ、無理に落としているのだ。
「一滴さまと同じ使い方ではありませんね」
ティセは擬態獣から目を離さず、ロウの手元も観察していた。
「今度は、鞘の中を温める」
「人肌までしか上がりません」
「中は長い。全部の空気を三十九度へ戻そうとする」
鞘の内部は、外見の何百倍もの距離を持つ。その空間を満たす冷たい空気が《ぬる火》へ触れるたび、小石は奪われた熱を補い、周囲を人肌まで温め直す。
小さな石一つを温めるだけなら、火傷もしない弱い作用である。しかし、折り畳まれた長い空間が際限なく熱を奪えば、遺物は同じだけ熱を作り続ける。
《大食らいの鞘》の表面が赤くなり始めた。
「これを吐き出したら、どうなります」
ティセが聞く。
「長い空間が、腕一本ぶんの出口へ戻る」
「温めた空気も?」
「全部だ」
「それは、ぬるいでは済みません!」
「だから使う」
鞘の内側で、小石が高い音を立てた。熱を作る速度へ自分の身体が耐えられず、亀裂が入り始めている。
擬態獣は危険を察した。
ロウの目には餌を見せられなくても、熱と振動は読める。残ったすべての眼球が《大食らいの鞘》へ向き、骨脚が地面をえぐった。
巨体がロウへ突進する。
「十五秒、終わり!」
ガッドが叫ぶ。
「全員、左へ逃げろ!」
「ロウは?」
ティセが問う。
「右だ」
四人が左へ走ると同時に、ロウは擬態獣の正面へ踏み込んだ。
「反対でしょう!」
ティセの声を背中で聞き、突進してくる巨体を見据える。逃げれば追いつかれる。傷口へ鞘を差し込むには、擬態獣の方から距離を縮めさせるのが一番早かった。
骨脚がロウの頭を狙う。
彼は上体を沈め、一本目を避けた。二本目を左手の鞘で受け流す。熱くなった筒へ骨が触れ、焦げた匂いが上がった。
三本目が右側から来る。
固定された腕では防げない。
ロウは身体をひねり、骨脚の内側へ肩からぶつかった。衝撃を逃がしながら関節を押し上げ、相手の巨体の下へ潜る。
地面すれすれを滑り、先ほど水で開けた亀裂へ到達した。
傷口は半分ほど塞がっている。
ロウは熱を持つ鞘を左手だけで持ち上げ、再生膜へ突き立てた。
膜が焼け、肉の奥へ筒が入る。
擬態獣の身体が暴れた。
ロウの背へ骨脚が落ちる。
ガッドが残った縄の金具を投げ、脚の先へ巻きつけた。メノとプクが加わって引き、骨脚をわずかにそらす。
別の脚をティセが短剣で受ける。刃は折れ、肩へ強い衝撃が伝わった。それでもロウの背中へ届く前に軌道を変えた。
「今です!」
ロウは《大食らいの鞘》の留め具を外した。
折り畳まれていた長い空間が、入口へ向かって一度に戻る。
温められた空気は細い筒の中で圧縮され、人肌の温度を保てなくなった。熱と圧力が重なり、鞘の口から白い炎となって噴き出す。
炎は外へ広がらない。擬態獣の傷口へ差し込まれた鞘から、甲殻の内側だけを走った。
赤黒い肉が膨張する。
内部の液体が沸騰し、透明な管が次々に破裂した。十二個の捕食口へつながる神経が焼け、宝や人間へ見せかけていた餌が一斉に形を失う。
ガッドの前にいた息子が白い泥へ崩れた。
メノの夫は顔から溶けた。
プクの黒笛が肉の管へ戻る。
ティセへ手を伸ばしていたケルムも、最後まで彼女の名を呼びながら燃えた。
擬態獣の巨体が内側から持ち上がる。
十二枚の甲殻の隙間から炎が噴き出し、膨れた胴が裂けた。庭を震わせる叫びが一つの低い音へまとまり、やがて途切れる。
人骨の脚から力が抜けた。
巨体がロウの上へ崩れる。
「ロウ!」
ティセが走る。
甲殻が地面へ落ちる寸前、下から鈍い音がした。
ロウが左肩と両脚で内側を支えていた。
家ほどの巨体すべてを持ち上げているわけではない。割れた甲殻の一枚を支点にし、落ちる方向をずらしている。それでも、常人なら押し潰される重さだった。
「右へ杭!」
ガッドがすぐ意図を読み、地面へ太い杭を打つ。プクが縄を通し、メノとティセも引いた。
甲殻が半歩ずれ、隙間が開く。
ロウは中から転がり出た。
直後、擬態獣の身体が完全に地面へ落ちる。白い土が大きくへこみ、周囲へ赤黒い液体が広がった。
五人は液体を避け、高い根の上まで退いた。
擬態獣は動かない。
プクが音響棒を鳴らす。内部から規則的な反響は戻らず、液体の泡が破裂する音だけが聞こえた。
「核、止まっています」
「本当に?」
ティセが遅れ鏡を向ける。
五秒前にも巨体は動いていない。現在の目にも、偽物の遺物や人間は見えなくなっていた。
「倒した……」
プクはその場へ座り込みかけ、白い地面を思い出して踏みとどまった。「座れる場所、ありません?」
「俺の背中以外なら探せ」
ガッドが答える。
「候補に入れてませんよ」
「なら聞くな」
緊張が切れ、二人の声に疲れがにじんだ。
ロウは会話へ加わらず、擬態獣の傷口へ戻った。
まだ熱い《大食らいの鞘》を外し、布の上へ置く。筒の表面は黒く変色しているが、形は保っていた。内部から、小さな石が砕ける音がする。
鞘を逆さにして振る。
赤茶色の破片が三つ、掌へ落ちた。
橙色の光は消えている。
《ぬる火》だったものは、普通の冷たい石になっていた。
ロウは先ほど袋へ入れた《一滴さま》の包みも取り出した。濁った小瓶は六つに割れ、内側にあった水滴はどこにも残っていない。
二つの低級遺物は、もう働かなかった。
「手を見せてください」
ティセが隣へ来た。
「火傷はない」
「遺物ではなく、あなたの手です」
「同じだ」
「同じではありません」
彼女はロウの左手を取り、指を開かせた。鞘の熱を受け、掌の皮膚が赤くなっている。甲殻を支えたときに爪も二枚割れていた。
消毒薬を塗り、薄い布を巻く。右腕は固定され、左手まで包帯が増えた。
「これで両手が使いにくくなりました」
「左は動く」
「動かす前に、私へ確認してください」
「また命令か」
「お願いです」
ティセの声が少しだけ弱くなった。
ロウは返事をせず、遺物の破片を拾い集める。小瓶の透明な欠片は赤黒い液体へ落ち、肉の隙間へ入り込んでいた。左手が包帯で滑るため、一つをつまむにも時間がかかる。
ティセは彼の横へしゃがんだ。
「私が拾います」
「割れてる。手袋をしろ」
「分かっています」
二重の手袋をつけ、鑑定用の細いピンセットで破片を探す。一つ見つけるたび、白い布の上へ並べた。
《一滴さま》は六片。《ぬる火》は三片。ロウは何度も数え直し、足りない欠片がないか傷口の奥まで調べた。
「全部です」
ティセが言う。
「小瓶の底が一つない」
「これでは?」
肉の襞へ埋まっていた曇った硝子を取り出す。
ロウは受け取り、欠けた縁を合わせた。形がつながる。
「全部だ」
ティセは安堵したが、次に言う言葉を選び損ねた。
「また、同じものを拾えば――」
途中で止まる。
ロウは彼女を責める顔をしていなかった。ただ、九つの破片を見下ろす目が、擬態獣へ向けていたときよりずっと静かだった。
同じ性質の遺物が、アビスのどこかに残っている可能性はある。だが、同じ場所で拾われ、同じ人間に使われ、同じ時間をロウの荷で過ごした物は二度と手に入らない。
「ごめんなさい」
ティセは言い直した。「同じものはありませんね」
「ああ」
「以前の私は、作用が同じなら同種の遺物だと記録していました」
「鑑定なら、それで正しい」
「あなたにとっては違う」
「俺は鑑定士じゃない」
「知っています。とても向いていません」
ロウがわずかに眉を上げた。
「そこまで言うか」
「価値がある物を値なしで隠す人ですから」
ティセは小さな標本袋を二つ出した。片方へ小瓶の破片、もう片方へ赤茶色の石を入れる。表面に名前と破損した日付を書き、口を丁寧に閉じた。
「《一滴さま》は、いつ拾ったんですか」
押収するためでも、鑑定記録を作るためでもない、素直な質問だった。
ロウは少し黙ったあと、擬態獣の死骸へ背を預けない距離で腰を下ろした。ティセも隣へ座る。白い土へ直接触れないよう、二人の下にはガッドが投げた予備布が敷かれていた。
「六年前。二層から戻った日の、組合裏の排水路だ」
「アビスの中ではないんですね」
「廃棄箱から雨で流れた。元の持ち主はキオ・サニア。月笛の測量士」
ティセは名前を聞いたことがあった。大断層の古い北側経路を測った探窟家で、晩年は上昇負荷の後遺症から平衡感覚を失い、地上でもまっすぐ立てなくなったという。
「キオは、この水滴を机へ置いていた。自分の身体が床を忘れても、これだけは下を間違えないと日誌に書いてた」
「亡くなったあと、価値なしで廃棄された?」
「家族には、ただの濁った瓶に見えた」
「あなたは、日誌まで読んだんですか」
「捨てられた紙も一緒に拾った」
「徹底していますね」
「濡れて、半分は読めなかった」
ロウは標本袋の小瓶を指で押さえた。「初めて使ったのは、その日の夜だ。寝床の床が傾いてると思って、瓶を置いた」
「実際は?」
「俺の枕が曲がってた」
ティセは思わず笑った。
声を立ててから、こんな場所で笑ったことへ少し驚いた。ロウも気を悪くした様子はない。
「キオさんも、同じ使い方をしていたかもしれません」
「月笛と一緒にするな」
「黒笛の台詞ではありません」
会話はそこで終わらなかった。
ティセはもう一つの袋を持ち上げる。
「こちらの《ぬる火》は?」
「四年前、オースの南斜面にある共同宿の焼却炉」
「また地上ですか」
「ガラクタは地上の方が拾いやすい」
元の持ち主はサナという赤笛だった。身体が弱く、冬に潜ると指が動かなくなるため、手袋の中へ《ぬる火》を入れていた。湯も沸かせず、暖房にもならない遺物だが、彼女の指先だけは守った。
「サナは蒼笛になった日に、新しい発熱遺物を買った。こいつは宿の箱へ置いていった」
「亡くなったわけではないんですね」
「今は北の隊にいる。たぶん生きてる」
ティセは息を吐いた。「あなたの遺物の話は、持ち主が全員死んでいるのかと思いました」
「勝手に殺すな」
「そういう話ばかりしてきたのは誰です」
「聞かれなかった」
「これからは聞きます」
ロウが彼女を見る。
「八十二個、全部か」
「一度に話せとは言いません。時間はあります」
「帰れたらな」
「帰るんでしょう」
ティセは二つの標本袋を自分の胸元へ収めた。
「俺の荷だ」
「今のあなたは両手が包帯です。私が持ちます」
「押収か」
「違います」
少し考えて、ティセは答えた。
「預かるだけです。地上へ戻ったら、あなたへ返します」
「壊れてるぞ」
「壊れていても、あなたの物でしょう」
ロウは何も言わなかった。
拒まないことを返事だと受け取り、ティセは袋の留め具を二重に確かめた。
「それから、先ほどは助けてくれて、ありがとうございます」
「仕事だ」
「誰の?」
「先頭の」
「では、私も自分の仕事をします。次にケルムの姿が現れても、一人では近づきません」
「兄を疑えるのか」
「疑いたいわけではありません。でも、本物なら私たちを庭の口へ呼ばない。あなたの言ったとおりです」
「俺の言葉を信じるのか」
「今回は、事実と一致しています」
「監視役らしい答えだな」
「ほかの答えが欲しかったですか」
ティセが横を見る。
ロウは前を向いたままだった。
「いや」
短い返事だったが、二人の間に疑いや命令はなかった。
ガッドたちは、擬態獣の死骸が安全か調べていた。プクが音響棒を何度か鳴らし、メノが体液へ試験紙を浸す。核は止まり、毒の粉も新しく作られていない。
「二人とも、休憩は終わりだ」
ガッドが呼んだ。「こいつの腹に、消化されてない物がある」
ロウとティセは立ち上がった。
水で開け、炎で焼いた傷口から擬態獣の内部へ入る。甲殻の下には複数の胃袋が並び、それぞれに探窟装備や遺物の残骸が詰まっていた。
割れた兜。
片方だけの靴。
溶けた笛。
持ち主の名を刻んだ骨。
何年分もの獲物が、庭へ完全に取り込まれず残っている。
ロウは甲殻へ飲まれていた短槍を見つけ、《大食らいの鞘》へ戻した。刃に欠けはあるが、まだ使える。
その奥で、プクが金属音を聞いた。
「ここです。肉の下に板があります」
ガッドとメノが焼けた組織を持ち上げる。ティセが鉤を入れ、埋まっていた金属板を引き出した。
手のひら二つ分ほどの大きさで、探窟組合の印が刻まれている。
野営地へ残し、後続の隊へ人数と進路を伝えるための札だった。
表面の泥と血を拭う。
刻まれた日付は三年前。
隊名の欄には、ティセが探し続けた名があった。
――第四層特殊調査隊。隊長、ケルム・カルナ。
その下に、《第七野営地》と進行方向を示す矢印が刻まれている。
「兄の隊の野営札です」
ティセは金属板を両手で持った。擬態獣がケルムの姿と記憶を使えた理由は、彼本人を食べたからとは限らない。この札や装備から、隊の情報を得た可能性もある。
まだ、生死は決まっていない。
「裏にも何かあります」
プクが言った。
札を返す。
組合の正式な刻印ではなく、短剣の先で急いで削った文字が並んでいた。
ティセは兄の筆跡を知っている。直線を深く、曲線を浅く刻む癖まで同じだった。
そこには、短い警告が残されていた。
――野営地から声がしても、返事をするな。
プクが家のあった方向を見る。
擬態獣が倒れたあとも、さらに庭の奥には橙色の灯りが一つ浮かんでいた。
今度は家ではない。
幾つもの天幕が並ぶ、小さな野営地の灯りだった。
第14話をお読みいただき、ありがとうございます。
《大食らいの鞘》へ《一滴さま》の落下と《ぬる火》の熱を蓄え、擬態獣を倒しました。二つの弱い遺物は壊れてしまいましたが、その破片もティセが預かっています。
次回は第15話「声のある野営地」。三年前の装備や地図が残る無人の野営地で、持ち主を失った道具から声が聞こえ始めます。