それから、しばらくして。
相変わらず客の少ない店内に、ドアベルの音が響いた。
カラン――。
「いやぁ、久しぶりですねぇ」
聞き覚えのある、どこか飄々とした声。
店に入ってきた男を見て、千束が真っ先に反応した。
「あれ? 鈴木さんじゃない?」
「おや、千束ちゃん。お久しぶりです」
「ほんと久しぶりー!」
鈴木。
いつも掴みどころのない男だ。
軽い口調。
どこか胡散臭さすら感じさせる笑顔。
何を考えているのか、表情から読み取るのは難しい。
俺は横目で鈴木を一瞥する。
「…………」
鈴木も一瞬だけこちらを見た。
だが、互いに声はかけない。
まるで俺の存在など気にも留めていないように、鈴木は店内を見渡す。
そして――。
「ああ、ミズキちゃん」
「何よ?」
「今日もかわいいですねぇ」
「はいはい」
「どうです? そろそろ僕と結婚しません?」
いつもの調子だ。
普段ならミズキも適当にあしらうところだが――今日は違った。
「いやよ」
即答だった。
「あら」
「あんたみたいなおっさんと結婚なんて絶対イヤ」
「いやぁ、今日も手厳しい」
「それに――」
ミズキは一度、鈴木の顔を見る。
「あんた、信用できないしね」
そう言い残すと、ミズキは鈴木から離れていった。
「…………」
俺はその様子を横目で見ていた。
「ハハハ……」
鈴木が困ったように頭を掻く。
「振られちゃいましたねぇ」
「ご、ごめんね、鈴木さん!」
千束が慌ててフォローに入る。
「今日、ミズキちょっと機嫌悪いみたいだから!」
「いえいえ。気にしてませんよ」
そこへミカがやってくる。
「すまない。うちの店員が失礼なことを言った」
「いや、本当に大丈夫ですって」
「これはお詫びのコーヒーだ。もちろん代金はいらない」
ミカは鈴木の前にコーヒーを置く。
そして軽く頭を下げた。
「本当にすまない」
「いやいや、気にしてませんよ」
鈴木はいつもの笑顔を浮かべる。
そして、目の前のコーヒーを見ると――。
「でも、コーヒーはありがたくいただきます」
「ふふっ、そこは貰うんだ」
千束が笑う。
「せっかくですからねぇ」
鈴木は楽しそうにコーヒーへ口をつけた。
しばらくして――。
「すいませーん」
鈴木が手を上げる。
「はーい!」
千束が返事をする。
「お手洗い、借りてもいいですか?」
「いいよー!」
千束が店の奥を指差す。
「あっちだよ」
「ありがとうございます」
鈴木は立ち上がると、そのまま店の奥へ向かった。
「…………」
俺はその姿を横目で見送る。
そして、鈴木が店内から見えなくなったところでテーブルへ向かった。
「お皿、下げますね」
返事はない。
当然だ。
鈴木は席を外している。
俺はテーブルの上に置かれた皿を重ねる。
その時――。
一枚の折り畳まれた紙が目に入った。
「…………」
皿を取る動作に紛れ込ませ、その紙を拾う。
誰にも見られないよう、そのままポケットへ入れた。
何事もなかったかのように皿を持ち上げる。
「…………」
千束は気づいていない。
ミズキもこちらを見ていない。
ミカも何も言わない。
俺はそのまま厨房へ戻った。
皿を洗い終える。
その頃には、鈴木もすでに店を出ていた。
俺は手を拭くと、ミカへ声をかける。
「マスター」
「どうした?」
「少し休憩に入ってもいいですか?」
ミカはすぐには答えなかった。
一度、店内を見渡す。
相変わらず客は少ない。
「……分かった」
ミカが頷く。
「ただし、すぐ戻るように」
「了解です」
エプロンを外す。
すると――。
「また!?」
案の定、千束が反応した。
「…………」
「レン、さっき休憩したばっかりじゃん!」
千束は今度はミカへ向き直る。
「先生、贔屓だ!」
「千束」
「だってぇ!」
ミカは困ったように息を吐く。
「いいんだ」
「なんでー?」
「レンが忙しくなるのは午後からだからな。それまでは融通を利かせている」
「むぅ……」
納得していない顔だ。
俺はミカへ軽く頭を下げる。
「すいません。いつも」
「気にするな」
「…………」
次に千束を見る。
まだ不満そうに頬を膨らませている。
俺は千束の前まで歩く。
「千束」
「なに?」
「すぐ戻る」
そう言って、軽く頭を撫でる。
「…………」
先ほどまで文句を言っていた千束が静かになった。
「……うん」
短い返事。
それを確認して、俺は店を出た。
外へ出る。
店から少し離れ、人目のない場所まで歩いた。
そこで一人になる。
「…………」
やがてポケットへ手を入れる。
鈴木が残していった紙を取り出した。
折り畳まれた紙を開く。
そこには、一人の男の写真。
そして簡潔な情報が記されていた。
比山勇三――四十四歳。
テロに関与している可能性あり。
目標を確保せよ。
確保が困難な場合についても、別途指示が記されている。
さらに――。
後方支援部隊が待機。
必要であれば自由に使用して構わない。
最後には短く、
――Kより。
とだけ記されていた。
「…………」
写真の男を見つめる。
比山勇三。
四十四歳。
テロへの関与疑惑。
俺はその顔と情報を記憶する。
用済みになった紙は、その場に残らないよう処分した。
そして目を閉じる。
喫茶リコリコで働いている、朽木レン。
何者でもない存在。
あの店では――それでいい。
だが。
俺には、別の仕事がある。
ゆっくりと目を開く。
「……了解」
誰に聞かせるでもなく。
俺は、それだけを呟いた。