夏の空気は、まだ緩む気配を見せない。
頬の痣もほとんど引き、鏡を見ても、もう気にする者はいなくなった。日々は表向き、いつも通りに流れていく。それでも、全体の空気は、少しずつ何かへ向けて動き始めていた。
食堂で昼を済ませていると、須藤が向かいの席にトレーを置いた。少し離れた席では、堀北が一人、資料に目を通しながら昼食を摂っていた。
「――最近、静かだな」
何気ない調子で、そう漏らした。
「静かで悪いか」
「悪くはねえけどよ」
須藤は、それ以上突っ込んでこなかった。パンを頬張りながら、窓の外に目をやる。夏の日差しが、まだ校庭の芝を白く照らしていた。
食堂の隅では、佐倉が一人、静かに食事をしている。目が合うと、小さく会釈してきた。頷き返すと、佐倉は、少しだけはにかむように笑って、それからようやく自分の皿に視線を戻す。以前なら、目を伏せてすぐに逸らすだけだった。今は違う。何気ないやり取りのはずが、その分だけ、少しだけ長く続いた。
視線を戻すと、堀北がこっちを見ていた。目が合った瞬間、すぐに資料の方へ目を落とす。何かを言いたそうな、それでいて言葉にする気はねえ、そういう横顔だった。
「――何だ」
「別に。何でもないわ」
短く、そう返された。それ以上、続く言葉はなかった。
「二学期になったら、また忙しくなんだろうな」
「さあな」
短く返すと、須藤は肩をすくめて席を立った。「体育館、また空いてる日教えろよ」と言い残して、トレーを持って歩いていく。
昼過ぎ、談話スペースを覗くと、堀北が資料に目を通していた。目が合うと、小さく頷いてくる。それだけの挨拶だった。深追いしない距離感は、いつも通りだ。さっきの硬さは、もうどこにも残っちゃいなかった。それとも、最初から気のせいだったのかもしれねえ。
寮の廊下で、龍園とすれ違った。
「――よお」
軽い調子で、片手を上げてくる。
「何か掴んだか」
「さあな。まだ、探りの途中だ」
そう言うと、龍園は肩をすくめた。だが、口の端に浮かんだ笑みだけは、いつもより深い。
「そっちは、随分と落ち着いた面してるじゃねえか」
「暇なだけだ」
「暇な奴の目じゃねえけどな。まあいい」
軽口のようで、軽口じゃねえ言い方だった。この男の勘は、時々馬鹿にできねえ精度で当たる。
「せいぜい、足元掬われねぇようにな、赤木」
それだけ言い残して、先に歩いていった。振り返らなかった。この男の中で、既に何かの目算が立ち始めてるんだろう。
遠ざかっていく背中を、しばらく見送った。龍園がわざわざこっちに声をかけてくる時は、大抵、何かの布石を打った直後だ。今回も、例外じゃねえんだろう。廊下の窓から差し込む午後の光が、その背中を白く縁取っていた。
放課後、部屋で時間を潰していると、板が短く震えた。櫛田からだった。
『屋上で、少しだけ話せないかな?』
用件は書かれていない。書かれていないこと自体が、用件のうちだった。この女が何を考えてるのか、まだ読み切れちゃいねえ。断る理由もねえ。断って何かが変わるわけでもねえ。
『行く』
それだけ返して、部屋を出た。屋上に続く階段を上がる間、辺りに人の気配は無かった。この時間帯を選んだのも、計算のうちなんだろう。何を用意して待ってるのか、見当はつかねえ。それでも構わなかった。手の内が読めねえまま卓に着くのは、昭和の頃から慣れっこだ。踏み込んでみなきゃ、何が転がり出るかなんて分かりゃしねえ。
屋上に着くと、櫛田は既にそこにいた。フェンスに背を預けて、こっちを待っている。夕暮れの光が、赤く長く伸びていた。風が、屋上の砂埃を薄く巻き上げる。人の気配は、他にどこにもねえ。この時間帯を選んだ理由が、それだけでよく分かった。
「――あっさり来てくれるとは思わなかったよ」
いつもの笑顔だった。だが、目の奥の色だけは、いつもと違う。追い詰められた獣に近い光だった。
「呼んだのはあんただろ」
「そうだけどさ」
櫛田は、フェンスから体を離して、こっちに近づいてきた。距離の詰め方に、迷いがない。何度も練習してきた手順を、なぞってるだけの動きのようだった。夕日を背に受けた輪郭が、影になって浮かび上がる。
「――今日は、少しだけ本音で話そうと思って」
声のトーンが、また一段変わった。優しさの皮を、一枚だけ薄くしたような話し方だった。
「――もう一回聞くね.赤木くんは、私の何を見たの」
初めて、笑顔の仮面が薄くなる。声のトーンが、ここに来て初めて素に近づいた。夕暮れの光の中で、その変化だけは、はっきりと見て取れた。
「言う気はねえって、何度も言ったはずだ」
「そう」
短く応じると、櫛田はそれ以上近づくのをやめた。しばらく、黙ってこっちの顔を見つめている。何かを覚悟したような、そういう間だった。
「――赤木くんって、誰にも興味なさそうに見えて、実はよく見てるよね」
独り言に近い口調だった。答えを期待してる響きじゃない。
「見てねえよ。勝手に目に入るだけだ」
「――そういうところだよ」
小さく笑った。今日初めて見せる、乾いた笑い方だった。愛想笑いでも、作り込んだ表情でもねえ、ただ疲れたような笑い方だ。目の下の隈が、いつもより濃いことには気づいていた。
夕日が、屋上の柵に長い影を落としている。風が、ふいに強く吹き抜けた。フェンスの金網が、風を受けて微かに軋む音を立てる。潮の匂いが、この高さまで薄く漂ってきていた。
それから、櫛田は動いた。多くを語らず、いつも通っていた手順で、こっちの手を自分の方へ引き寄せる。
慣れた仕草だった。何度も、誰かに対して繰り返してきた動きなんだろう。
躊躇いの色は、一瞬たりとも見えなかった。
櫛田の狂気を、手のひらで感じた。
「――これで、指紋がついたね」
冷たい声だった。仮面の下の素が、初めて言葉になって出てくる。
「痴漢されたって私が言えば、困るのは赤木くんの方だよ」
今までの猫撫で声とは、まるで別人の声だった。答える気にもならなかった。表情も、変わらない。夕日が、二人の輪郭を赤く縁取っていた。
「――脅しのつもりか、それ」
「脅しじゃないよ。事実だよ。あはは、なんか同じような台詞、聞いたことない?」
念を押すように、そう嗤いながら、繰り返してきた。
「フフ......事実には見えねえけどな」
「……っ」
言葉を返した瞬間、櫛田の手に力がこもった。怯えるどころか冷めた目で見据えてくることに、計算が狂った焦りが滲んだらしい。声が、初めて震えを帯びた。
「あっそ。じゃあ……これで、どう?」
震える声で吐き捨てるように言いながら、櫛田は俺の手のひらをぐっと引き込み、自分の胸元へとさらに強く押し当てた。
布越しに、激しく波打つ心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。逃げ場のない至近距離で、彼女の冷え切った双眸がまっすぐ俺を捉えていた。
「……ッ、これで、本当に痴漢の証拠ができたよ。現行犯だね」
震える声で、そう吐き捨ててきた。
だが、脅しのつもりの一手のはずが、こっちが眉一つ動かさねえことに、かえって自分のペースを崩されてるのは、櫛田の方だった。
「……」
腕を引き抜く気にもならなかった。ただ、目の前で震える女の顔を見下ろしていた。
「......それで、俺の何が困るっていうんだ」
淡々と、そう問い返した。
「――は?」
聞き返す声に、初めて動揺の色が滲んだ。想定してた反応と違う。そう気づいたらしい。
「あんたが訴え出たところで、俺にとっちゃ何も変わらねえ。噂も、評判も、はなから持ち合わせちゃいねえ。困る材料が、そもそも無えんだよ」
淡々と、そう告げた。ここに来る前から、失って困るもんなんぞ、最初から持ち合わせちゃいなかった。
「あっそ。じゃあこのまま職員室行くから」
「好きにしろ」
「退学?最悪、逮捕されるかもね?あはは」
「フフフ...」
「な、なにがおかしいのよ」
「狂気の沙汰ほど、面白い」
風の音だけが、しばらく屋上を満たしていた。夕日が、少しずつ橙から赤へと色を変えていく。櫛田の顔から、初めて笑顔が完全に消えた。作った表情の下にあった素の顔が、そのまま剥き出しになっている。今まで、この手が通じなかった相手なんぞ、一人もいなかったんだろう。
「……なんで」
掠れた声だった。喉の奥から絞り出したような響きだ。この女が、こんな声を出すところを見るのは、初めてだった。
「なんでって聞かれてもな」
それだけ返した。
「今まで、誰にでも通じてきたんだろ、その手」
「――だったら、何」
「別に。ただ、外れたことのねえ武器ほど、外れた時が一番厄介だ。使う相手を、見極める癖がついちまってるからな。今日は、その見極めそのものが外れたんだろう」
淡々と、そう続けた。櫛田は、それに何も言い返さなかった。ただ、俺の手首を強く握りしめている。爪が、手のひらに食い込むくらいの力だった。
「――赤木くんって、本当に何なの」
独り言に近い声だった。返事を待つ間もなく、黙ったまま、櫛田の顔を見返した。表の笑顔でも、脅しの声でもねえ、三枚目の顔がそこにあった。これが、あの船の夜、廊下の陰で見た顔と同じもんなのか、それとももっと奥にあるもんなのか、まだ判別がつかねえ。
風が、また一つ強く吹き抜けた。夕日の残光が、櫛田の頬に赤黒い陰影を作っていた。今まで、この島の誰にも見せてこなかった顔なんだろう。少なくとも、自分から進んで晒す類のもんじゃねえ。
「今日のところは、これで十分だ」
それだけ言うと、櫛田の手を振り解き、背を向けて歩き出した。振り返らなかった。夕日は、もうほとんど沈みかけている。空の色が、赤から紫へと変わり始めていた。屋上のフェンスが、暮れなずむ空を背に、黒い線となって浮かび上がっていた。
「――待ってよ」
呼び止める声に、足を止めなかった。
「まだ、何も終わってない」
「クク、終わってねえのは、あんたの方だろ」
それだけ返した。屋上の扉に手をかけて、一度だけ振り返る。櫛田は、フェンスに背を預けたまま、動けずにいた。夕日を背にした輪郭だけが、やけにはっきりと見える。今まで見せてきた、どの顔とも違う顔だった。追い詰められた獣が、逃げ場を探して立ち尽くしてる、そういう格好だった。
扉を開けて、階段を下りた。一段ずつ降りるごとに、屋上の気配が遠ざかっていく。階段の踊り場から見える窓の外は、もう夜の色に染まりかけていた。寮に戻ると、廊下の照明が既に灯っていた。部屋に入り、汗ばんだシャツを着替える。窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
夜、天井を見上げながら、今日の一幕を頭の中で並べ直した。あの手が空振りに終わったのは、初めてのことなんだろう。刺さらねえ武器を、それでも使うしかなかった。他に持ち札がねえ、そういうことだ。昭和の卓でも、手詰まりの人間ほど同じ手を繰り返す。次の一手が見えねえまま、使い慣れた手順に縋る。何度も見てきた光景だった。だが、あの女の場合は少し違う気がした。追い詰められての一手じゃなく、追い詰められる前から、ずっとその一手しか持ってなかったんじゃねえか。手札そのものが、最初から一枚しかなかった。だとすりゃ、崩れた後に何が残るのか、想像もつかねえ。今日見た顔は、船の夜、廊下の陰で見た顔よりも深い場所にあるもんだった。だが、まだ底じゃねえ。
それに、今日のはただの空振りじゃねえ。あの女は、無実の人間に犯罪者の濡れ衣を着せようとした。仕掛けてきたのは向こうだ。昭和の卓でも、先に仕掛けてきた奴の勝負を断る道理はなかった。断れば、それはそれで舐められる。受けて立つのが、卓に着く者の作法だ。
腹の底に、疼きがあった。坂柳との一局以来、忘れかけてた種類の疼きだ。桟橋の夜の疼きとは、質が違う。あの時は肉と骨がぶつかり合う疼きだった、これは頭の芯の方が疼く類のもんだ。あの時は、踏み込んでくるかと思ったところで、向こうが自分から手前で引いた。肩透かしってやつだ。今日の女は、引く代わりに、外れると分かってても手持ちの一枚を投げてきた。質は低くても、賭けそのものへの向き合い方だけは、坂柳より余程まっすぐだったのかもしれねえ。悪くねえ拾い物だった。
夏はもう、あと数日で終わる。二学期が始まれば、動ける人間も、動く理由も変わってくる。龍園がどこまで嗅ぎつけてるのかも、まだ見えちゃいねえ。
食堂で見た堀北の横顔が、ふと頭を過った。あの一瞬の硬さが、本当に気のせいだったのか、それとも別の何かだったのか。どちらであろうと、こっちからどうこうする話じゃねえ。放っておけばいい類のもんだった。それでも、頭の隅に、小さく引っかかったまま残っていた。
窓の外で、夏の蝉が最後の力を振り絞るように鳴いている。その声を聞きながら、しばらく目を閉じていた。明日には、また普段通りの一日が始まる。だが、ここに来てから積み上げてきた日々の中で、今日ほど多くの牌が一度に動いた日は、そうなかった気がした。
夜も更けた頃、板が短く震えた。
呼び出される心当たりが無いわけじゃない。だが、こんな早く向こうから先に動いてくるとは、正直、思っちゃいなかった。今日の一件と、何か関係があるのか。それとも、ただの偶然か。
板を閉じ、天井を見上げた。今夜だけで、片付けなきゃならねえ相手が、また一人増えたらしい。
飽きねぇな、悪くない。そうおもった。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園