夏休みの終わりが近づく。
窓の外では、蝉の声が最後の粘りを見せるように鳴き続けている。夏休み特有の間延びした空気も、あと数日で終わる。
夜風が、昼間の熱をまだ完全には拭いきれていなかった。虫の声が、どこからか小さく響いていた。
「クックック、お前から呼び出すとは珍しいじゃねぇか」
暗がりに姿を現した龍園が、前置きなくそう訊いてきた。ポケットに手を突っ込んだまま、壁に背を預ける。夜風に、髪が僅かに揺れていた。
「前に頼んでた件だが」
俺が切り出すと、龍園の目つきが僅かに変わった。
「――ああ、まだ何もわかっちゃいねぇよ」
悪びれた様子もなく、そう言った。
「もう探らなくていい」
「あ?」
不意を突かれたのか、龍園の動きが止まった。
「――見つけた」
短く、そう答えた。
龍園の目が僅かに見開かれ、すぐに鋭い光を帯びる。
「……なんだ無駄骨ってか?」
目を細めて、探りを入れるようにそう訊いてきた。
「――言う気はねえ」
短く、そう突っぱねた。
「ククッ……まあいい。結果が全てだ」
面食らったようだが、すぐに口の端を上げて不敵に笑った。
「それで? わざわざ俺を呼び出して自慢話で終わりってわけじゃねえだろ」
「ああ。ここから先、結末を見るには見物料が必要だ」
「……見物料ね」
片眉を上げて、そう繰り返した。
「利子は面白いもんを見せろ、だったな。今度はそっちの番だ」
龍園が僅かに目を細めた。自分の言葉をそのまま返されたと気づいたんだろう。
「――で、いくら積めばいいんだ」
「フフ、意外と高くつくかもしれねえよ。」
突き放すように、そう返した。
「……あ?」
虚を突かれたような声だった。
「あんたを賭けてくれ。対価はそれだけだ」
「――バカバカしい。得られる情報が何かもわからねぇ上に、値切りようもねえ話に付き合えってか。なら降りるぜ、やめだ」
つまらなそうに鼻を鳴らして、そう吐き捨てた。
「あらら、じゃあしょうがねぇな」
俺は短く応じ、あっさりと踵を返した。引き止める気も、これ以上交渉を続ける気もない。
数歩歩き出したところで、背後から声がかかった。
「……チッ。ちょっと待て」
苛立ったような舌打ちと共に、龍園が引き留めてきた。足を止め、振り返る。
「分かった。……何を払えばいい」
龍園は、自分の持ち駒を並べ始めた。掻き集めたポイントの額に、方々に回してある貸しの名前をいくつか。使えそうな札を、思いつく限り積み上げてくる。
黙って聞き終えた。
「寝ぼけるなよ、龍園――足りねえな」
短く、そう返した。
「あ?」
「あんたが今並べたのは、全部よそから借りてきた札だ。あんた自身の持ち物は、一つも混じっちゃいねえ」
龍園の目つきが、変わった。
「おい……ずいぶん舐めた口利くじゃねぇか」
凄むように言って、距離を詰めてくる。伸びてきた手が、胸倉に掛かった。
だが、それだけだった。掴まれた胸元も、鼻先まで迫った顔も、こっちの表情を揺らすほどのもんじゃなかった。
「クク、一人だけ安全圏から見物なんて、つまんねぇ勝負すんじゃねぇよ」
しばらく睨み合った末、龍園がゆっくりと手を離した。突き放すというより、力が抜けて落ちた、そんな離し方だった。
「……参った。降参だ降参」
苦笑交じりに、そう吐き捨てる。悔しさより、どこか愉快そうな響きの方が強かった。
「見物料も払えねえ相手に見せるもんはねえよ」
淡々と、そう返した。
「違いねえ、クックック、さぞ極上のエンターテインメントだったんだろうな、残念だぜ」
あっさりそう認めて、龍園は肩をすくめた。それ以上食い下がる素振りもなく、踵を返す。振り返ることもなく、暗がりの向こうへ消えていく足音を見送った。
しばらくして、物陰から足音が近づいてくる。櫛田だった。
「――何の用、赤木くん」
低く、警戒した声だった。こっちの姿を見て、碌でもない話だともう察しがついてるらしい。屋上での一件から、まだ日も浅い。表向きの笑顔は張り付いていたが、その下の警戒だけは、隠しきれちゃいなかった。
距離を取ったまま、こっちの様子を窺ってる目だった。
「今更、命乞いでもする気かな?」
「それはねぇな」
「あっそ、二学期、赤木くんの席、あるといいねっ?」
夏の夜特有の生温い風が、二人の間を吹き抜けていった。
「――あんたの中学の話、こっちはもう掴んでる」
淡々とした声を保ったまま、そう告げた。虚勢でも、脅しの上乗せでもない、ただの事実の提示のつもりだった。
「ッ――何の話?」
硬い声で、そう訊き返してきた。まだ惚けるつもりらしい。目だけが、忙しなく揺れていた。
「――言う気はねえ、って言ったろ。中身まで説明してやる義理はねえよ」
黙って値踏みするような間があった。ハッタリかどうか、探ってるんだろう。だが、こっちの表情には、探られて崩れるようなもんは最初から無え。
しばらくして、櫛田の口の端が、微かに上がった。張り付いていた愛想笑いが、剥がれた。
「――ふぅん。じゃあ聞くけど、赤木くんはさ、その"秘密"とやらを盾に、何ができると思ってるの?」
声の温度が、一段落ちていた。今までの震えも怯えも、綺麗さっぱり抜け落ちた声だった。
「脅すつもり?それとも私を奴隷にでもする気?無駄だから。そんな昔の話、今更関係――」
「――大アリだろ」
言い終わる前に、被せるようにそう返した。
「あんたは、高校に上がった時点で、中学の話は全部片付けたつもりでいたはずだ。綺麗にリセットして、猫を被ったまま、誰にも気づかれずに終わらせる。それが今、丸ごと引っくり返ろうとしてる。関係無え?笑わせんな」
一瞬、櫛田の表情が固まった。図星を突かれたことに、初めて本物の苛立ちが浮かぶ。
「……あはは、別に本当に気にしてないんだけど」
「本当にそうなら、こんな回りくどい猫かぶりなんぞ、とっくに脱ぎ捨ててるだろ」
淡々と、そう続けた。
沈黙が落ちた。今までの沈黙とは、明らかに質が違った。
「――中学の時、クラスを潰したのはあんただ。理由まではまだ拾ってねえが、やったことだけは掴んでる」
追い打ちのつもりはなかった。ただ、手の内を見せるついでに、そう付け加えた。
櫛田の顔から、貼り付けていた表情が、音もなく剥がれ落ちていくのが分かった。
「――ふざけないでよ」
低く、地の底から響くような声だった。今まで聞いた、どの声とも似ていなかった。
「あんたに、何が分かるの。あの時、私が何を――」
そこで、言葉が止まった。言いかけて、自分で止めたんだろう。震える拳を、きつく握り直していた。
「猫かぶんなよ。もっとストレートにこい」
淡々と、そう促した。
「――うるさい」
吐き捨てるように、そう返してきた。猫を被った声とは似ても似つかない響きだった。
――逃げ道を、自分で切った。
そう思った。誤魔化しも、猫かぶりも、もう使う気がねえ。絶二門で押し切る気の据わり方だった。他の目が全部見えてる状態で、それでも一本槍で来る。並みの人間にできる真似じゃねえ。
「――あんたになんか、絶対に負けない」
低く、そう言い放った。今までのどの啖呵よりも、芯の据わった声だった。
「――もういい。はっきりさせてあげる。今この瞬間から、私、赤木くんの敵に回るから」
低く、地を這うような声だった。
「明日から、みんなに言いふらしてやる。赤木くんに脅された、気持ち悪いことされそうになった――何とでも好きに盛ってやる。赤木くんの言葉と、私の言葉。この学校のみんなは、どっちを信じると思う?」
口の端だけで、笑ってみせた。今まで積み上げてきた信頼を、ここぞとばかりに武器に変えるつもりらしい。
「――さあな。だが、その勝負、もう堀北も座席についてる」
「――は?」
「あんたの中学の話、堀北も知ってんだろ。俺が教えたわけじゃねえ。もう知ってる、ってだけの話だ」
淡々と、そう続けた。龍園から船上で聞いた駒を使った。
一瞬、櫛田の顔から血の気が引いた。だが、すぐに立て直したように、乾いた笑みを浮かべる。
「――知ってるよ、そんなこと。とっくに」
低く、そう吐き捨てた。
「知ってるからこそ、放っておけなかった。だから――先に潰す側に回ってるだけ」
言い切った後、値踏みするような目で、こっちの反応を窺ってきた。切り札を切ったつもりなんだろう。虚勢を張り返してくるとでも思ってたのか、あるいは怯むと踏んでたのか。
だが、こっちの返しは、それより先にあった。
「――龍園には期待すんな。あいつはもう、あんたに手を貸す気はねえ」
沈黙の後、櫛田はため息をついた。
「――それも、察してるよ」
低く、そう言い返してきた。
「あんたら、随分仲良さそうだし。四六時中つるんでるわけでもないのに、妙に息が合ってる。勘ぐるなって方が無理でしょ」
強がりのつもりか、挑むような目でこっちを見据えてきた。だが、声の芯までは誤魔化しきれちゃいない。
「気づいてたなら話は早い。今夜、あいつに何をさせて、何を代わりに差し出させたと思ってる。あんたが頼りにしてるその手駒は、もう俺の側に付いてる」
淡々と、そう続けた。龍園が今夜この一件を通して寝返ったようにみせる――あえて曖昧なまま突きつけた。手の内を全部明かしてやる義理はねえ。
櫛田の顔から、今度こそ完全に余裕が消えた。
「あっそ」
掠れた声で、そう漏らした。仲がいいと勘ぐってたのと、実際に寝返ってると突きつけられるのとでは、重みがまるで違ったんだろう。信じたくないというより、信じるための材料が、もうどこにも無えと悟った声だった。
軽い調子で、そう返した。
しばらく、二人とも黙ったままだった。夜の静けさだけが、屋上を満たしていた。
「――もういい。今から自分でバラしてやる、あんたも私も終わり」
震える声で、そう吐き捨てた。捨て鉢というより、追い詰められた獣が最後に見せる、剥き出しの光が目に宿っていた。
「好きにしな。ただ、失って困るもんなんぞ、俺には最初からねえ。あんたの方だけが、丸ごと持っていかれる話だ」
軽い調子で、そう答えた。
櫛田は、しばらく何も言わなかった。両手を、胸の前できつく握りしめている。爪が、手のひらに食い込むくらいの力だった。喉が、小さく鳴った。逃げ道を探すように、視線が忙しなく泳いでいる。だが、どこを見渡しても、拾える手札はもう残ってねえと、本人が一番よく分かってるはずだった。
「――どうやって、中学の時の話、知ったの。堀北さんはそういうこと口割らないでしょ」
掠れた声で、そう訊いてきた。答える気はなかった。黙ったまま、櫛田の顔を見返した。
「答える義理はねえ」
短く、それだけ返した。その沈黙自体が、かえって不気味だったんだろう。櫛田の顔から、また一段、血の気が引いていった。
櫛田は、しばらく口を開かなかった。フェンスに背を預けたまま、こっちの出方を窺うような目でこっちを見ていた。この学校に来てから、この女がこんなに長く沈黙を保つところを、見た覚えがなかった。
追い詰められた末の、捨て鉢な声が漏れた。
「あーあ、うまくやってたと思ったのにな」
「・・・・・・」
「――明日、退学届出してくる。それでいいでしょ。あんたのことなんてもうどうでもいい」
投げやりな声だった。開き直ったような、それでいて挑むような目だった。負けを認める代わりに、自分から先に幕を引こうとしてる、そういう手だった。
「何いってやがる、まだ終わっちゃいねえ、続行だ」
淡々と、そう返した。
「――は?」
「気が変わった。まだ降りるのは許さねぇ」
櫛田の顔に、初めて本物の困惑が浮かんだ。今までのどの表情とも違う色だった。
一瞬、目に強さが戻った。開き直りとも、賭けとも取れる色だった。
「――だったら、私も黙ってないから。あんたのことだって、探れば何か出てくる」
売り言葉に買い言葉のつもりだったのか、そんな風に凄んできた。
「好きに探れ。出てくるもんがあるかどうかは知らねえが、探ってる間、あんたの首根っこはずっとこっちが握ってる。それでもいいならな」
淡々と、そう返した。虚勢を張り返す価値もねえと言わんばかりの声だった。
櫛田の顔から、また一段、強さの色が引いていった。
「――意味、分かんない。だったら、何がしたいの」
「あんたには、これからも今まで通り、猫を被って生きてもらう。中身を知ってる人間が三人に増えた、それだけを抱えたままな」
「――生殺しじゃない。そんな中途半端、こっちが冗談じゃない」
吐き捨てるように、そう漏らした。責めるような目が、真っ直ぐこっちに向いていた。
「そう思うなら、止める気はねえ」
「――できるわけ、ないでしょ」
震える声で、そう返してきた。分かってて言わせた質問だった。この女には、その選択肢を本当に選ぶ度胸なんぞ、最初から無えと分かってる。
「……あんたらが裏切らない保証なんて、どこにもない」
「嫌なら、指紋のことを好きに使え。訴えるなり、警察に駆け込むなり、好きにしな」
淡々と、そう告げた。取引でも脅しでもない、ただの事実の提示だった。
櫛田の目が、値踏みするようにこっちの顔を探ってきた。ハッタリかどうかを見極めようとする目だった。だが、こっちの表情には、探られて崩れるようなもんは最初から無えと、すぐに気づいたらしい。目を逸らして、小さく唇を噛んだ。
櫛田は、しばらく何も言わなかった。俯いたまま、肩だけがかすかに震えていた。
「――それだけ?私を縛り付ける、それだけのために、こんなことしたの?」
震える声で、そう訊いてきた。
しばらくの沈黙の後、櫛田が小さく息を吐いた。矛を収める気はなさそうだったが、今この場で潰し合う勝負じゃねえと踏んだんだろう。値踏みするような目のまま、一呼吸置いて切り出した。
「もう一つできた」
「――何」
短く、そう問い返された。
「勉強を教えろ」
一拍の間があった。手を止め、櫛田の表情が、完全に固まった。
「……は?」
呆然とした声だった。聞き返す声に、これまでのどんな瞬間よりも大きな動揺が滲んでいた。脅しにも、罰にも、報復にも聞こえない一言だったからだろう。
沈黙が、しばらく続いた。頼りない月明かりが、二人の輪郭だけを薄く縁取っていた。
「聞こえたはずだ。勉強を教えろ」
声が、完全に裏返っていた。
「――は? は? なんで、私が」
「あんたが一番、都合がいいからだ」
淡々と、そう続けた。理由を並べる気はなかったが、それだけは言っておくべき気がした。
「堀北にでも頼めば済む話だ。だが、あいつに俺のためだけに時間を使えとまでは頼めねえ。あんたになら、貸しを作らずに命令ができる。それだけの話だ」
貸し借りの重さが違う。堀北に頼むとすりゃ、また新しい借りを一枚積むことになる。今はまだ、その積み方をする気にはなれなかった。
しばらく黙って、こっちの顔を見つめていた。
「――命令、ね」
低く、そう繰り返した。さっきまでの震えが、いつの間にか消えている。代わりに、値踏みするような光が目に戻っていた。
「だったら、こっちにも条件がある。一方的に飼われるつもりはないから」
「――言ってみな」
「勉強を教える代わりに、一つ教えて。今回、私を泳がせずに、最初から潰しにかかった理由。本当の理由」
その問いに、僅かに間が空いた。
見抜かれてるとまでは言わねえが、的を外してもいない。惚けた笑顔の下に隠してきた頭の回転が、今はそのまま剥き出しになっていた。
「――悪くねえ勘だ」
素直に、そう返した。世辞のつもりはなかった。並みの人間なら、この状況でここまで頭が働くもんじゃねえ。
「今は答えねえ。だが、あんたに価値があると思っただけだ」
不満げに眉を寄せたが、それ以上は食い下がってこなかった。多少なりとも、手応えを拾えたと踏んだんだろう。
しばらく、二人とも口を開かなかった。夜の静けさだけが、その沈黙を埋めていた。
「――今まで散々脅しといて、最後がそれ?」
呆れの中に、僅かな余裕が滲んだ声だった。
「悪いか」
本気で分からねえ、そういう声だった。
「悪いに決まってる……頭おかしいんじゃないの」
震える声に、隠しきれねえ何かが混じっていた。怒りでも、恐怖でもねえ、もっと別の色だった。
「勝った後に何を取るかで、その男の性根が分かるもんだ。俺は、あんたの人生を取るほど、あんたに興味がねえ。ただ、使えるもんは使う。それだけだ」
淡々と、そう続けた。人の一生を賭け金にするような真似は、性に合わなかった。命を取り合う勝負と、暇つぶしの勝負とじゃ、賭けていいもんの重さがまるで違う。今回の一件は、後者の側だった。
「……」
櫛田は、長い間、何も言わなかった。フェンスに預けた背中は、強張ったままだった。睨みつけるような目だけが、こっちに据えられ続けている。折れる気配は、最後まで見せなかった。夜の帳が、いっそう深くなっていた。
「――勝ったつもりでいなさいよ、今回だけは」
低く、そう吐き捨てた。負けを認める響きは、一片も無かった。土壇場まで手札を切り続け、最後の一枚まで諦めなかった目の色だった。
――大したもんだ。
内心で、そう独り言ちた。まさかここまで粘るとは、正直踏んでいなかった。
こんだけ剥き出しの、混じり気のねえ執念をぶつけられたのは、多分これが初めてだ。技術で言えば、大したもんじゃねえ。手も甘えし、詰めも粗い。三流と言われりゃ、それまでの手だ。
――だが、熱い。
腹の底が、僅かに疼いた。ここで完全に潰すのは、ちいと惜しい。そういう感触があった。
踏み抜く覚悟のねえ人間には、逆立ちしたって出せねえ色だ。俺と同じ側の人間だと理解するのに、大した時間はかからなかった。
それに、こっちにも負い目がある。
声の温度を、少し落とした。
「――一つ、教えといてやる」
さっきまでとは、僅かに調子を変えたつもりだった。凄む声じゃなく、宥めにかかる声に。
「……何」
警戒を解かないまま、そう訊き返してきた。だが、刺々しさの角が、僅かに丸くなっていた。
「あんたの中学の話、こっちが自力で掘り当てたわけじゃねえ。回りくどい真似をして、よそから引っ張り出した反則手だ。真っ向から見抜かれたつもりで凄んでたなら、そこは訂正しとく」
軽い調子で、そう続けた。虚勢を張るつもりも、恩を売るつもりもなかった。ただ、正面から勝った顔をする気にはなれなかった。
一瞬、櫛田の目が細まった。値踏みするような色から、少しだけ違うもんに変わっていた。
「――何それ。今更、良心の呵責?」
皮肉っぽく、そう訊いてきた。だが、声から刺々しさが幾分か抜けていた。
「そんな上等なもんじゃねえ。正面から踏み抜いてきた相手に、後ろから殴った顔で勝ち誇るのは、性に合わねえ。それだけだ」
淡々と、そう返した。ただ、口調とは裏腹に、これ以上追い詰める気はもう無かった。
「あっそ」
張り詰めていたもんが、どちらからともなく緩んでいくのが分かった。
しばらく、二人とも黙ったままだった。夜の静けさだけが、屋上を満たしていた。
風が、屋上を吹き抜けていった。夏の終わりの匂いが、その風に混じっていた。
部屋に戻る道すがら、今日一日を頭の中で並べ直した。片付けた用事のことも、龍園との一幕のことも、屋上での顛末のことも、どれも一本の線で繋がっていた。線の端がどこから伸びてるのか、今はまだ誰にも明かす気はなかった。明かすとすりゃ、全部がきっちり終わった後だ。
指紋の一件は、まだ完全には消えちゃいない。あの女がいつかそれを使う日が来るかもしれねえ。来たら来たで、そん時はそん時だ。
腹の底には、まだ小さな疼きが残っていた。坂柳との一局で味わった物足りなさは、結局、こんな形でしか埋まらなかった。派手な勝負も、大きな代償も無かった。それでも、悪くねえ拾い物だった気がした。
桟橋の男を追い詰めた夜も、屋上で櫛田と決着をつけた今日も、それぞれ別の卓での話だった。共通してるのは、どっちも狙って組んだ手じゃなく、成り行きで転がり込んできた勝負だってことだけだ。狙って取りに行った手より、こういう拾い物の方が、後々まで腹に残るもんらしい。
二学期が始まるまで、もう数えるほどしか残っちゃいねえ。夏休みの終わりに、また一つ、妙な牌が積み上がった。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園