夏休みの終わりが、もう目前だった。二学期が始まれば、人目を気にせず動ける時間は減っていく。片付けとくべき話は、早いうちに片付けておいた方がいい。
昨日の屋上でのやり取りを、寝床の中で何度か反芻した。片が付いたわけじゃねえ。ただ、宙に浮いたまま、当面は動かねえ形になっただけだ。昭和の卓でも、こういう終わり方をした夜はいくつかあった。決着がついたようで、実は何一つ精算されちゃいねえ、そういう手仕舞いだ。
須藤にも、堀北にも、この一件の中身は話しちゃいねえ。話したところで、誰の得にもならねえ話だ。抱え込むと決めた勘定は、最後まで一人で持つ。それが、この学校に来てから変わらず続けてきたやり方だった。
昭和の時分から、そうしてきた。誰かに背負わせるより、自分の帳面に付けといた方が、後々の計算が楽になる。愚痴も相談も、性に合わねえ。
気が変わらねえうちに、と急かされるように、翌日の予定が決まった。指定されたのは、櫛田の部屋だった。
「――人に見られたくないのは、赤木くんも同じでしょ」
前日のやり取りが嘘みたいに、抑揚のない声でそれだけ言われた。異論はなかった。廊下で連れ立って歩くより、その方がよほど都合がいい。
約束の時間に部屋を訪ねると、机の上には既に参考書とノートが用意されていた。手際の良さに、少しだけ驚いた。昨日の今日で、もう準備を終えてる。
「――座って」
素っ気ない声だった。促されるまま、示された椅子に腰を下ろす。狭い部屋の空気が、やけに張り詰めていた。窓のカーテンが半分だけ閉まっていて、西日が机の端にだけ細く落ちていた。棚に並んだ小物や写真立ての類は、一つも見当たらなかった。誰かに見られて困るもんを、あらかじめ全部しまい込んだ後なんだろう。この部屋一つ取っても、この女の警戒の深さが透けて見えた。
「どこから、分かってないの」
「ほぼ全部だ」
「――は?」
「四則はわかる。あとはどこから手をつければいいかも、俺にはわからねえ」
正直にそう答えた。誤魔化す理由もねえ。この学校に来る前、まともに机に向かった記憶なんぞ、ろくにありゃしなかった。試験の点数は、いつも別の手段で埋めてきた。今更それを隠す意味もねえ。
櫛田は、しばらく黙ってこっちの顔を見ていた。呆れとも困惑ともつかねえ表情だった。
「――冗談かと思ったら、本気で言ってるんだ」
「冗談で人に頭下げるほど、暇じゃねえ」
短く、そう返した。櫛田は、小さく息を吐くと、参考書の一冊を開いた。
机に置かれたノートの表紙には、几帳面な字で科目名が振ってあった。教科ごとに色分けまでされている。付け焼き刃の準備じゃねえ、日頃からこういう管理をしてる人間の手つきだった。
「じゃあ、この辺からね」
指し示されたページを覗き込む。並んだ文字に、目が滑った。何が書いてあるのか、字面すら頭に入ってこない。
「――マジで、何も分かってないんだ」
呆れた声だった。だが、その声の端に、さっきまでとは違う響きが混じっていた。怒りでも、皮肉でもねえ、もっと素の驚きに近いもんだった。
「言ったはずだ」
「言葉の意味と、実際の酷さは別でしょ」
言い返しながらも、櫛田の手は止まらなかった。基礎の基礎から、順を追って説明していく。教え方は、思いのほか丁寧だった。感情を抜きにして、ただ淡々と、必要な手順だけを積み上げていく話し方だ。
「ここ、なんでこうなるか分かる?」
「わからねえ」
「じゃあ、一個前に戻るよ」
苛立った様子もなく、そう言って前のページを開き直す。何度同じ説明を繰り返しても、口調が荒れることはなかった。教師役という枠組みの中に、きっちり自分を収めてる、そういうやり方だった。
途中、何度も同じ場所で手が止まった。文字の意味は分かっても、それがなんだというのか、頭の中で繋がらねえ。苛立ちが顔に出てたんだろう、櫛田が横から一言挟んできた。
「――焦らなくていいよ。ここで躓く人、結構多いから」
慰めでも、励ましでもねえ、ただの統計的な事実として、そう言われた。それが逆に、素直に頭へ入ってきた。
一時間ほど経った頃、ようやく最初の一問が解けた。大した問題じゃねえ。誰でも解けるような、初歩の一問なんだろう。それでも、自分の手で答えに辿り着いた実感があった。
「――できたじゃない」
小さく、そう漏らした。皮肉の色は、そこにはなかった。
「まぐれだ」
「まぐれでも、できたのは事実でしょ」
ノートに答えを書き付けると、櫛田の視線が、一瞬手元で止まった。
「――この字、何」
「あ?」
指差された箇所を見返した。他の生徒とは書き方が違う、それくらいの自覚はあった。どこがどう違うのかまでは、自分でもうまく説明できねえ。
「おじいちゃんが書く字みたいなんだけど。誰に習ったの、それ」
軽口めかした口調だったが、笑いは目まで届いていなかった。
「さあな。誰にも習ってねえ」
「――は。ますます謎なんだけど」
呆れたように、そう吐き捨てた。それでも、それ以上は突っ込んでこなかった。だが、さっきまでとは、目の色が少しだけ違って見えた。
そう言うと、櫛田は次の問題を指差した。表情に、昨日までの張り詰めた色は、まだ完全には抜けていない。それでも、机に向かう横顔には、教師役に徹しようとする妙な律儀さがあった。
「――なんで、こんなにちゃんとやる」
ふと、疑問を口にした。手を抜こうと思えば、いくらでも抜けるはずだった。適当に流したところで、こっちには見抜く術がねえ。わざと間違った教え方をされたところで、気づける保証もどこにもねえ。
「中途半端が、一番嫌いなだけ」
素っ気ない答えだった。
「頼まれた以上は、ちゃんとやる。それだけ」
その言い方には、昨日までの作り笑いも、剥き出しの憎悪も、どちらの色も無かった。ただの、事実の説明だった。
「クク、昨日の今日で、よく普通に喋れるな、あんた」
「普通になんか、喋ってない」
即座に、そう返された。
「これは、仕事。赤木くんに教えなきゃいけないから教えてるだけ。それ以上でも、それ以下でもない」
線を引くような言い方だった。だが、その線引きの仕方そのものが、昨日までの作り笑いとは明らかに質の違うもんだった。仮面を被り直す代わりに、割り切りという名の新しい線を引いた、そういう感触があった。
仕事と割り切ると決めた以上、余計な感情を挟むだけ無駄だと踏んだんだろう。損得の勘定だけで動くと決めた人間の頭の切り替え方は、存外似通うもんらしい。
「――それで十分だ」
短く、そう返した。それ以上、踏み込む理由もねえ。
英語の教科書に切り替わった頃には、頭の中身がすっかり熱を持ってた。単語の意味は分かっても、文の並べ方の理屈がまるで頭に入ってこねえ。
「――なんでこの順番になる」
「日本語と語順が違うから。慣れるしかない」
身も蓋もねえ答えだった。それでも、繰り返し声に出して読ませられるうちに、少しずつ耳が慣れていくのが分かった。
教科書の見出しにある、文字列を指差された。答えられなかった。数学の時とは、明らかに勘の働き方が違った。
「――この単語、知らないの」
「知らねえ」
「これ、中学一年の最初の方にやる単語なんだけど」
素っ頓狂な声だった。今までのクールな教え方とは、明らかに温度が違った。
「数学は勘良かったのに、なんで英語はこんなにできないの」
返す言葉が無かった。誤魔化しようもねえ。中学もへったくれも、この手の教科書に向かった記憶自体がありゃしねえんだから、当然といえば当然だった。
「――中学、ちゃんと行ってた?」
半分冗談めかした声だったが、目は笑っていなかった。
「行ってねえ」
短く、そう答えた。誤魔化す気も起きなかった。
「......」
櫛田は、それ以上は追及してこなかった。ただ、しばらく黙ってこっちの顔を見ていた。今までの授業中には無かった類の間だった。
「――別に、詮索する気はないから」
不意に、そう続けられた。
「何にも聞かないのが優しさだと思ってる訳でもないから、あんた相手にそんなこと思うわけないけど」
踏み込むでも、退くでもねえ、微妙な間合いの取り方だった。
「話すことなんぞ、特にねえよ」
「――あっそ」
それだけ返すと、櫛田は視線をノートに戻した。それ以上、突っ込んでは来なかった。
教える中身によって、やり方をきっちり切り替えてくる。行き当たりばったりで進めてる様子は、どこにも無かった。
問題を三つ、四つと解いていくうちに、窓の外は、もう夕方に近い色をしていた。約束の時間は、とうに過ぎている。
「――今日は、ここまでね」
参考書を閉じながら、そう言われた。
「また、いつだ」
「明日も同じ時間。文句ある?」
「ねえよ」
短く答えて、席を立った。部屋を出ようとしたところで、背中越しに声がかかった。
「――一つだけ、訊いていい?」
「なんだ」
「なんで、こんなことしようと思ったの。私を潰す方が、よっぽど簡単だったでしょ」
しばらく、答えなかった。理由らしい理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。
「潰したところで、何も残らねえ。それだけの話だ」
礼を言われる筋合いも、恨まれる筋合いも無かった。ただの勘定の話だ。それだけ返して、部屋を出た。廊下の照明が、いつもより白く感じられた。
翌日も、その次の日も、同じ時間に同じ部屋へ通った。教わる中身は少しずつ難しくなっていったが、教え方の呼吸は初日から変わらなかった。淡々と、必要な分だけを積み上げる。三日目には、最初の一問より幾つか歯応えのある問題を、自分の手で解けるようになっていた。
机に向かい続けて、指先に鉛筆だこの気配が僅かに戻ってきていた。桟橋で握った拳の感触とは、また別の種類の感触だった。
「――思ったより、飲み込み早いじゃない」
三日目の終わり、ノートを覗き込みながら、櫛田がそう漏らした。皮肉でも、世辞でもねえ、ただの感想に近い声だった。
「そりゃどうも」
「褒めてない。事実を言っただけ」
そう言い返しながらも、口の端が、ほんの僅かに緩んでいるのが見えた。だが、それに気づいた途端、櫛田は表情を元に戻した。緩んだこと自体を、自分に許さなかった、そういう戻し方だった。
ノートを片付けながら、櫛田がふと手を止めた。
「――ねえ。指紋のこと、本当に気にならないの」
唐突な問いだった。今までの授業とは、明らかに毛色の違う声色だった。
「気にしたところで、何も変わらねえ」
「あっそ。変なの」
「起きたことに、起きた分だけ払う。それだけだ。先に怯えたところで、勘定は変わらねえ」
淡々と、そう答えた。櫛田は、しばらくこっちの顔を見つめていた。値踏みするような目でも、蔑むような目でもねえ、ただ純粋に測りかねてる、そういう目だった。
「――ほんと変な人」
「あんたもな」
軽く言い返すと、櫛田は小さく肩をすくめた。参考書を閉じかけた手が、ふと止まる。
「二学期始まったら、どうする気?」
「表向きは他人だ。今まで通りにな」
迷う理由もなかった。即答した。
「――別に他人ってことないでしょ。クラスメイトとして普通に接して」
それだけ返すと、櫛田は小さく鼻を鳴らして、参考書をまとめ始めた。会話は、それで終わりだった。だが、その短いやり取りの中に、探りとも興味ともつかねえ何かが、確かに紛れ込んでいた。
荷物をまとめながら、ふと考えた。この女が今まで積み上げてきた仮面は、脅しが効かねえ相手には、そもそも意味を持たねえ。刺さらねえと分かった今、この女がこっちにどんな手を使ってくるのか、それはまだ見えちゃいねえ。だが、少なくとも今日までは、変な手を仕込んでくる気配は無かった。それだけで、十分だった。
寮の廊下で、龍園とすれ違ったのは、その帰り道だった。
「――よお」
壁に背を預けて、缶ジュースを片手に、こっちを見るなり口の端を上げる。
「何がだ」
「隠さなくてもいいぜ。あの女の部屋に、毎日通ってるだろ」
耳の早さに、驚きはなかった。この男が知らねえことの方が少ねえ。
「勉強を教わってるだけだ」
「――クックック……懐柔したか、赤木」
愉快そうに、そう茶化してきた。
「懐柔じゃねえ。使えるもんを使ってるだけだ」
「同じことだろうが」
軽口を叩くように、そう返された。否定する気にもならなかった。龍園は、缶を潰してゴミ箱に放り込むと、それ以上は突っ込んでこなかった。
「まあいい。面白えもんが見られそうなら、また教えろ」
いつもの台詞を残して、先に歩いていった。この男なりの興味の示し方だ。深く探る気はねえ、ただ嗅ぎつけただけ、そういう距離感だった。
遠ざかる背中を見送りながら、ふと思った。この男に懐柔と評されるくらいには、傍から見て妙な組み合わせに映ってるんだろう。当人同士の間じゃ、まだ休戦の域を出ちゃいねえのに、外から見りゃ随分と様変わりして見えるらしい。
食堂で佐倉とすれ違ったのも、ちょうどその帰り道だった。目が合うと、いつも通り小さく会釈してくる。今日はカメラを首から下げていた。
「――また撮ってんのか」
「はい、撮ってます」
素っ気なく、そう返した。佐倉は小さく笑うと、カメラを首から提げ直した。
「――最近、夕方あんまり見かけない、ですね。前は、よく、渡り廊下にいたのに」
ふと、そう続けられた。責めるような色はねえ、ただ気づいたことをそのまま口にしただけ、そういう声だった。
「用事があっただけだ」
「そう、ですよね」
短く応じただけで、佐倉はそれ以上訊いてこなかった。カメラのレンズキャップを弄る指先だけが、少しの間、落ち着かなげに動いていた。
短いやり取りだけで、それ以上は互いに踏み込まなかった。この距離感は、この距離感で悪くねえ。
部屋に戻る道すがら、今日一日を頭の中で並べ直した。あの女の教え方は、思ったより悪くなかった。感情を挟まず、ただ必要な手順だけを淡々と積み上げていく――昭和の卓で見てきた、腕のいい代打ちの打ち筋に、どこか似ていた。
得意なもんが違うだけで、この女も、それなりに腕のある人間なんだろう。今まで、その腕を人を騙すことにしか使ってこなかった、それだけの話だ。使い道を変えれば、まだ随分と使い出のある手駒だった。
信用したわけじゃねえ。指紋の一件も、退学の話も、まだ何一つ消えちゃいねえ。ただ、この数日だけは、互いに手を出さねえと決めた、それだけの停戦だ。長く続くかどうかは、まだ読めねえ。
二学期が始まりゃ、教室の中でまた元通り、猫を被ったあの女に戻るんだろう。それでいい。裏の関係と表の関係を、きっちり使い分けられる頭の良さも、この女の武器の一つだ。中途半端に馴れ合う方が、むしろ都合が悪い。
次に何かで踏み外す時が来るとすりゃ、腕っぷしでも、度胸でもねえ、頭の中身が足りねえせいになるかもしれねえ――今日一日で、そういう予感の輪郭が、初めてはっきりした気がした。埋め合わせる当てが、一つできただけでも、悪くねえ収穫だった。焦って埋める話でもねえ、じっくり積んでいけばいい。
窓の外では、夏の蝉が、まだ力強く鳴いていた。もう何日も残っちゃいねえその声を聞きながら、ノートに書き込んだ数式を、もう一度だけ頭の中でなぞってみた。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園