8月31日。夏休みの最後の一日だった。
窓の外じゃ、蝉の声がまだ途切れずに続いていた。だが、その鳴き方にも、そろそろ終わりが近い響きが混じり始めている。人目を気にせず動ける時間は、今夜で仕舞いになる。
荷物の整理も、片付けも、特にやることは無かった。佐倉の問題、茶柱との貸借、櫛田との停戦。どれもまだ終わっちゃいねえが、少なくとも中身は全部、こっちの手の中にある。牌は一枚ずつ揃った。あとはそれを一枚ずつ切っていくだけだ。
夏休みの最初と今とじゃ、手札の中身がまるで違う。今はもう、この学校の面子の顔ぶれと、その裏で回ってる勘定の形が、大体は頭に入ってる。昭和の卓とは比較にならないぬるい勝負ばかりだったが、ここから何かが変わる、そんな予感がした。
昼間、寮の廊下ですれ違った佐倉が、カメラを片手に「今日で夏も終わりですね」と、いつもの調子で声をかけてきた。特に意味のある会話じゃなかった。だが、そういうやり取りが自然に交わせるようになっただけでも、四月の頃とは大違いだった。あの頃は、誰も彼もが、こっちを遠巻きに見てるだけだった。
ノックの音がしたのは、日が完全に落ちきる少し前だった。須藤でも、堀北でもない、間の取り方だった。
「――誰だ」
「オレだ」
短い返事で、誰かはすぐに分かった。ドアを開けると、廊下の薄闇に、綾小路が立っていた。誰かに見られていないか確かめるような素振りは、こいつは絶対にしない。目立たねえように動くってのは、そういう素振りすら見せないってことなんだろう。だが、この時間、この廊下に人の気配がまるで無いことを選んで来たこと自体が、既に一つの答えになっていた。
「珍しいな」
「たまにはな」
素っ気なく、そう返された。入れとも言ってねえのに、当然のように部屋へ入ってきた。断る理由もねえので、そのまま通した。
「怪我の調子はどうだ」
前置きなく、そう切り出された。取り繕う理由を探るような、そんな前置きは一切無かった。当然だ。あの夜、現場にいたのはこいつ自身だった。
「――治りかけだ」
「そうか」
それだけ答えると、綾小路は部屋の隅にある椅子を勝手に引いて座った。誰かの部屋で寛ぐような真似は、こいつには珍しいように思う。視線だけが、一瞬、側頭部の絆創膏に向いた。それ以上、傷の状態を確かめようとする素振りは見せなかった。既に見るべきものは見終わったということなんだろう。
「で、何しにした」
「言っておきたいことがあってな」
「あの夜のことを、話しに来たんじゃねぇのか」
「あれは、お前が男の口に銃口を突っ込んで、オレが手首を掴んで止めた。それが全部だ」
淡々と、そう言われた。だが、その言い方には、何か含みがあった。
「――ただ、少し気になっていてな」
「何がだ」
「お前が、あそこで止まった理由だ」
その一言で、部屋の空気が、わずかに変わった気がした。
「止まったわけじゃねえ。止められただけだ」
「――そうだったか」
軽い口ぶりだった。だが、目だけは、笑っていなかった。
「――もし、オレが止めていなかったら、お前はどこまでやってた」
前置きなく、そう問われた。今まで誰も、正面からこの問いを投げてこなかった。須藤なら訊かない。堀北なら訊けても、答えを聞く前に止めに来る。この男だけが、答えを聞くために、答えの中身に賭ける形で問うてきた。
「さあな。行けるところまで、だろうな」
「死なせるところまで、か」
「そうなりゃ、そうなったってだけの話だ」
誤魔化す理由もねえ。そのまま答えた。
「殴られてる間、一歩も退かなかったな」
前置きなく、そう続けられた。
「あんたも見てただろうが」
「見ていたから、訊いている」
淡々と、そう返された。殴り返しもせず突っ立ってたわけじゃねえが、退がらなかったのは事実だった。あの状況で退がってりゃ、もう少し軽い怪我で済んだのかもしれねえ。
「死ぬのは、嫌じゃないのか」
「嫌も何も、勘定に入れたことがねえ」
「――勘定に入れない、というと」
「退屈な方が、よっぽど嫌だ。死ぬかどうかは、その次のついでだ」
感情を込めるでもなく、ただそう返した。死ぬことより、何も賭けずに終わる方がよっぽど嫌だ。それが、昭和の卓の上で骨身に染みて思い知らされた勘定だった。
中身の詰まった一晩と、空っぽの一晩。嫌なのは、後者の方に決まってる。空っぽのまま終わった夜は、後から振り返っても、何も残っちゃいねえからだ。
綾小路は、しばらく黙ってこっちの顔を見ていた。いつもの、値踏みするような静けさとは、少し違う沈黙だった。
「――お前は、本当に、そう思っているんだな」
独り言のような、そういう声だった。普段のこいつなら、こういう風に思考の中身を声に出したりしない。
「思ってるも何も、そうとしか考えたことがねえ」
短く、そう言い切った。理屈で固めた答えじゃねえ。そう考えたことがある、というより、そう考える以外の生き方をしたことがねえ、というだけの話だった。
「――オレには、それが分からない」
ぽつりと、そう漏らされた。
「損得で動く人間。感情で動く人間。見栄で動く人間」
短く、区切るように並べられた。
「大抵は、その三つのどれかに当てはまる」
「だが、お前は、そのどれでもない」
お前は異常だ、と面と向かって言われたことに、大した感慨は湧かなかった。
「だから何だ」
「お前だけが、オレの計算に乗ってこない」
そう言うと、綾小路は少しだけ、こっちの反応を窺うような目をした。今まで見たことのない類の目だった。
「オレが、この学校に来た理由は、一つだけだ」
「――なんだ」
「自由を知りたかった。誰にも縛られず、目立たず、普通に生きる自由をだ」
短く、そう答えられた。感情の色は無かった。だが、わざわざこれを口にしたこと自体が、こっちの反応を見るための一手なんだろう。本音を漏らして油断させる、そんな安い手じゃねえ。見せて何が返ってくるか、それを確かめる方が目的だった。
思わず、笑いが漏れた。
「フフ、柄にもなく、随分と喋るじゃねえか、あんた」
からかうように、そう続けた。綾小路の目元が、ほんの一瞬だけ強張った。狙って見せた手の中身じゃなく、その手を使ったこと自体を笑われる、そこまでは読み切れていなかったらしい。
「……口数の多さは、性分の外だ」
短く、そう言い返してきた。いつもの平坦な声に、すぐに戻っていた。
「大抵のことは、想定の範囲に収まる。だが、お前だけは、いまだに収まらない」
感情の乗らない言い方だった。だが、こいつがここまで自分の内側を言葉にすること自体、滅多に無いことだった。以前、互いに「取っておかれている」という同じ答えに辿り着いていたと確認し合った夜があった。あの時は、答えが一致してることを確かめるだけで十分だった。今日は、その答えにどうやって辿り着いたのか、理由の方を初めて明かされている。それだけの違いがあった。
「――それを聞いて、俺にどうしろってんだ」
「ただ、確かめたかっただけだ」
そう返してくると、綾小路はまた、いつもの平坦な声に戻っていた。だが、一瞬だけ見えたさっきの表情を、こっちは見逃さなかった。
「あんたが計算できねえのは、俺が何か特別だからじゃねえ。あんたが、勝手に線を引いてるだけだ」
「――線、というと」
「損得、感情、見栄で測れる範囲と、測れない範囲。あんたは最初からその線を引いて、俺をこっち側に放り込んでる。それだけの話だ」
特別扱いされることに、興味なんぞ端から無かった。言葉を切らず、続けた。
「線引きをやめりゃ、あんたにも見えるようになるかもしれねえ。それとも、線を引いたまま眺めてる方が、あんたにとっちゃ都合がいいのか」
その一言に、綾小路は、しばらく何も返さなかった。答えるか、拒否するか、そのどちらかしかしない男が、今回選んだのは拒否だった。だが、いつもの即答するような拒否とは違う、長い間を挟んだ拒否だった。
「――なんでもっとスカッと生きねえのかな」
柄にもなく、そう口をついて出た。損得も、線引きも、いちいち勘定に入れなきゃ動けねえ生き方は、傍から見てりゃ、ただただ窮屈なだけだった。
綾小路は、それには何も答えなかった。だが、沈黙の質が、また少しだけ変わった気がした。
窓の外で、蝉の声が、一段と強くなった。狭い部屋の中に、二人分の沈黙だけが残った。机の上の参考書のページが、風も無いのにわずかに揺れた気がした。
長い沈黙の後、綾小路が、また口を開いた。今度は、遠回しな言い方じゃなかった。
一つ一つ、思い当たる違和感を並べ始めた。
「スマホ一つ、まともに扱えない」
「常識の抜け方も、生半可じゃない」
一つ、また一つと、間を挟んで並べられた。
「命への執着の薄さも、な」
「――まだあるのか」
「あの夜も、そうだ」
一拍置いて、そう続けられた。
「エアガンを握った瞬間の手つきに、迷いが一切無かった」
淡々と、そう言い切られた。あの夜のことまで、そこまで見られていたとは思わなかった。
「初めて人を撃とうとする人間の手つきには、見えなかった」
淡々と、そう続けられた。
「その死生観も、はじめは演技かと思っていた。だが、誰も見ていない時も同じ顔をしてる。だとすれば、演技には見えない。余計に厄介だ」
淡々と、そう言い切られた。これには、少し虚を突かれた。誰に見せるでもなく振る舞う癖なんぞ、いちいち意識したこともなかった。
「――疑ってる、ってわけか」
「いや」
短く、否定された。
「オレはもう結論に至っている」
積み上げた違和感を、答えの形にした。
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
「――フフ、今、自分が何を言おうとしてるのか、分かってんのか」
「分かっている。それでも、これが一番筋の通る答えだ」
即座に、そう返してきた。理屈の外にあるもんを、理屈だけで押し切ろうとしている。それが、こいつなりの踏み込み方なんだろう。
「お前は、
――――
――――――
――――――――――
「――肯定も、否定もしないのか」
「答えようがねえ、が答えだ」
短く、そう返した。
「……悪くない答え方だな」
声のトーンは、いつもの平坦さに戻っていた。だが、戻すまでに、少しばかりの間があったことを、こっちは数えていた。数えていたことを、向こうも気づいてるはずだった。気づかれた上で、それでも平静を装う。それが、こいつなりの意地なんだろう。
張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。綾小路は椅子の背に軽くもたれかかると、部屋の中を、もう一度だけ見回した。
散々こっちの中身を読まれた後だ。せめて一つくらい、こっちも探り返しておきたい気になった。飾り気のねえこの部屋みてえに、綾小路の中身も空っぽなのか、それとも何か隠し持ってるのか。
「――お前の部屋も、似たようなもんか」
ふと、そう訊いてみた。返ってきたのは、肯定でも否定でもない、短い沈黙だけだった。この男が黙る時は、大抵、答えたくねえ時だ。今のも、その口だった。
「櫛田の部屋に、毎日通っているらしいな」
沈黙の後、話題を変えるように、そう切り出してきた。
「勉強を教わってるだけだ」
「――誰から聞いた」
「言う義理はない」
素っ気なく、そう返された。詮索する気配はねえ、ただ拒否しただけの言い方だった。わざわざこの話題を拾ってくること自体、いつもの無関心とは違う温度だった。それだけ、今夜の用件が向こうにとって特別だということなんだろう。
「――部屋の話、答えは無いのか」
先刻の問いを、思い出させるように蒸し返した。
「今は、無い」
短く、そう言うと、綾小路は椅子から立ち上がった。
「怪我、早く治せ」
それだけ言い残すと、来た時と同じ静けさで、部屋を出ていった。ドアが閉まる音は、ほとんど聞こえなかった。廊下に、足音一つ残らなかった。
しばらく、部屋の中に一人残った。二学期の始まりを翌日に控えた夜が、いつもよりわずかに長く感じられた。
自分から誰かの部屋を訪ねてくること自体、あの男には滅多に無いはずだった。それが今夜起きたということは、あの夜の勘定は、まだ綾小路の中で片付いちゃいねえということだ。片付いていない勘定は、いつか必ずどこかで清算を求めてくる。それが、この学校のルールであろうと、昭和の卓の作法であろうと、変わりはしない。
あの夜、綾小路を呼び出したのは、こっちの都合だった。加減が利かなくなるかもしれねえ夜には、理由も聞かずに来る男が要る。そう踏んで、須藤じゃなくこの男を選んだ。だが、今夜自分の足でここまで来たのは、向こうの都合だった。呼ばれてもいねえのに動いたのは、初めてのことだ。
次にどう動くのか、今はまだ読めない。だが、少なくとも今夜、こっちの手の内に一歩だけ踏み込んできた。それがどれだけの重さを持つものなのか、まだ測りかねていた。今日綾小路に突きつけられた言葉は、俺にも正直なところ、よくわからない。俺すら正確には把握してねえんだ、答えられるわけがない。
計算に乗らない相手を前にした時、大抵の人間は苛立つか、遠ざかるかのどちらかを選ぶ。だが、綾小路は違った。計算が外れたこと自体を、面白がってるようにも見えた。それが厄介なのか、都合がいいのか、今の段階じゃまだどっちとも言えねえ。少なくとも、遠ざかる気配だけは無かった。
窓の外の蝉が、ふっと鳴き止んだ。
明日から、二学期が始まる。教室に戻れば、また元通りの日常が待ってる。堀北は成績のことでうるさく言ってくるだろうし、須藤はバスケの話をしたがるだろう。だが、今夜あったことだけは、二学期が始まった後も、頭の隅に居座り続けるんだろう。片付いていない勘定は、片付くまで消えやしねえ。それも、昭和の卓の上で嫌というほど学んだことの一つだった。
灯りを消す前に、もう一度だけ窓の外に目をやった。夏の名残の熱気が、まだ空気の中に居座っていた。この熱気も、明日にはきっと薄れ始める。だが、今夜綾小路が置いていったものは、そう簡単には薄れそうになかった。
二学期にどんな行事が待っているのか、詳しいことはまだ何も知らねえ。だが、今までの調子からして、ただ大人しく授業を聞いて終わる期間になるとは、端から思っちゃいなかった。牌はまだ、揃い切っちゃいねえ。
灯りを落として、布団に横になった。天井の木目を見つめながら、今夜の綾小路の顔を、もう一度だけ思い返した。あそこまで踏み込んできたのは、今日が最初で最後じゃねえはずだ。次に踏み込んでくる時、こっちはどんな手を切るのか。答えは、まだ出ちゃいなかった。
蝉の声はもう完全に止んでいた。代わりに、遠くで秋の虫の音が、ぽつりぽつりと鳴き始めていた。季節は、誰に断りも無く、勝手に切り替わっていく。それでいいんだろう。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園