【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第52話「南場」

9月1日。二学期の始業日だった。

 

教室に足を踏み入れると、夏休み前とは、空気の密度が違って感じられた。日焼けした顔、伸びた髪、少しだけ変わった距離感。40人分の夏が、思い思いの形でそこに転がっていた。

 

黒板の隅には、まだ誰かの落書きが薄く残っている。窓は開け放たれ、外の蝉の声が、遠慮なく教室の中まで入り込んでいた。

 

4月に見た顔と、今ここにある顔と、そう大きくは変わっちゃいねえ。変わったのは、こっちを見る目の方だ。

 

 

 

「おっす」

 

須藤が、いつもの調子で片手を上げてきた。

 

「よお」

 

短く返して、自分の席に着く。

 

「なあ赤木、夏休み何してた」

 

「寝てた」

 

「嘘つけ。一回も部屋いなかっただろ、俺何回か行ったぞ」

 

「じゃあ出てたんだろう」

 

「どっちだよ」

 

須藤は納得しねえ顔をしたが、それ以上は訊いてこなかった。訊いて答えが返らねえことを、もう何度か学んでる。

 

窓の外はまだ夏の光のままだったが、教室の中の温度だけは、確かに切り替わっていた。

 

教室の後ろの方で、櫛田が数人の女子に囲まれて、屈託のない笑い声を上げていた。夏休みの土産話でもしてるんだろう。誰もが知ってる、あの人当たりのいい顔だった。目が合うと、向こうから軽く手を振ってきた。

 

「――赤木くん、おはよっ!」

 

普段通りの、明るい声だった。

 

「ああ」

 

短く、そう返した。

 

特別な間も、意味ありげな沈黙も、どこにもなかった。

 

それだけで、櫛田はまた輪の中に戻っていった。

 

 

 

夏休みの間に積んだ勘定は、まだ何一つ片付いちゃいねえ。

 

茶柱との一件、龍園の借り、櫛田との停戦。それに、昨夜部屋を訪ねてきた綾小路。

 

 

 

堀北が、いつもの席に着いていた。目が合うと、小さく会釈してくる。

 

「おはよう」

 

「ああ」

 

「夏休みの課題は」

 

「出した」

 

「……本当に?」

 

「疑うなら職員室で訊け」

 

堀北は少しの間こちらを見ていたが、それ以上は言わずに資料へ視線を戻した。

 

何気ないやり取りだったが、視線が僅かに長く止まった気がした。深追いする話でもねえ。

 

 

 

チャイムが鳴ると同時に、茶柱が教室に入ってきた。心当たりのある夜から、まだ数日しか経っていない。だが、顔つきにも声にも、そんな素振りは一切出ていなかった。教壇に立てば、ただの担任教師の顔だ。

 

出席を取る声も、いつも通り淡々としていた。だが、名前を呼ぶ順で、こっちの番だけ、ほんの一拍、間が長かった。気のせいと言われりゃそれまでの差だったが、数えてりゃ分かる程度には、はっきりした間だった。目を合わせてくることはなかった。それも含めて、この女なりの筋の通し方なんだろう。

 

切り替えの速さだけは、大したもんだと思った。

 

「二学期の始業式は以上だ。船上試験の結果は、既に通知済みの通り。改めて説明する必要はないだろう」

 

淡々と、そう切り出した。教室のあちこちから、小さくため息とも安堵ともつかない声が漏れる。

 

「それより、次の話をする」

 

茶柱の声のトーンが、一段変わった。教室の空気が、わずかに張り詰める。

 

「10月頭に、体育祭が行われる。三学年合同のイベントだ」

 

黒板に、簡潔な文字が並んでいく。

 

「今回は、赤組と白組に分かれての対抗戦になる。赤組はAクラスとDクラス、白組はBクラスとCクラス」

 

一瞬、教室がざわついた。堀北の眉が、微かに動いたのが見えた。

 

「種目は、全員参加と推薦参加に分かれる。個人競技と団体戦もある。詳しい種目一覧は、後日配布する資料を確認しておけ」

 

説明は、そこから淡々と続いた。クラスごとの合計点で学年内の順位を争うこと、個人競技には勝てば賞金が出ること、逆に最下位には罰則として持ち点が削られること。数字が読み上げられるたび、教室の温度が、また少しずつ上がっていくのが分かった。

 

「数字で言う。クラス別の学年順位は、一位が五十の加点、二位が増減なし、三位が五十の減点、四位が百の減点だ」

 

黒板に、四つの数字が縦に並んだ。

 

「それとは別に、赤白どちらが勝つかでも動く。負けた組は、両クラスとも百の減点だ」

 

「先生、それって――同じ組でも、クラス同士では争うってことですか」

 

平田が、珍しく話の途中で手を挙げた。

 

「そうだ」

 

茶柱は、それ以上何も言わなかった。

 

その一言に、教室の空気が、一段と張り詰めた。池が小さく「うわ、罰ゲームきつすぎだろ」と漏らし、隣の山内が青ざめた顔で頷いている。負けた時の下げ幅の話になった途端、教室のあちこちで顔色が変わった。誰も彼もが、自分のクラスが負ける側に回った時のことを、勝手に想像し始めてるんだろう。

 

罰則の数字そのものには、何の感慨も湧かなかった。負けて何かを失うのが嫌なら、最初から卓につかなきゃいい。それだけの話だ。この教室の連中は、失うことそのものより、失う可能性を先に恐れてる。順番が逆だった。恐れは、負けた後についてくるもんだ。先に恐れてちゃ、勝てる勝負も勝てやしねえ。

 

命まで取られるわけでもねえのに、大袈裟な奴らだと思った。持ち点が多少減ったところで、死にゃしねえ。減った持ち点で何かが変わるとすりゃ、それはそいつがそこまでの人間だったってだけの話だ。数字一つで震え上がる連中を見てると、たまに笑いそうになる。この程度の勝負で震えるくらいなら、賭場になんぞ最初から近づかねえ方がいい。

 

須藤が、身を乗り出すようにして言った。

 

「つまり、坂柳んとこと組むってことかよ」

 

「表向きは、ね」

 

堀北が、静かにそう応じた。視線だけが、教室の反対側――Aクラスの担当区画がある方向へ向いていた。まだ何も起きちゃいないのに、既に品定めを始めてる顔だった。

 

赤組。白組。表向きの味方と敵。

 

聞きながら、頭の中で勝手に組み合わせが浮かんでいた。表じゃ味方のはずの坂柳とは、裏じゃ一度、こっちの手の内を覗かれた借りがある。あの日の問答は、まだ何一つ精算しちゃいねえ。表じゃ敵のはずの龍園とは、裏で妙な貸し借りがまだ片付いちゃいねえ。

 

面白えかどうかは、まだ分からねえ。だが、少なくとも、表と裏でねじれた組み合わせってのは、賭場じゃそう滅多にお目にかかれるもんじゃなかった。

 

「順位も点数も、今の段階じゃ意味を持たねえ」

 

内心で、そう独り言ちた。勝ち負けそのものより、この歪みの中で誰が何を仕掛けてくるかの方に、よほど興味があった。退屈な数字遊びで終わるかどうかは、まだ誰にも決まっちゃいねえ話だった。

 

「種目には、全員参加のものと、推薦で決める枠がある。個人競技と団体戦、両方だ。詳細な種目一覧と参加登録の締切は、後日資料を配る」

 

黒板の文字が、また一段増えた。100m走、200m走、ハードル競走、障害物競走、騎馬戦、棒倒し、綱引き、二人三脚、玉入れ。

 

「棒倒しは男子のみ、玉入れは女子のみだ。綱引きは男女別で行う」並んだ種目名を、須藤が食い入るように見つめていた。

 

「個人競技は、1位から3位まで賞金が出る。中間テストの加点に回すことも選べる。最下位は、逆に持ち点が引かれる仕組みだ」

 

淡々と、そう続けられた。

 

「団体戦は、事前に誰がどの回に出るか登録が必要だ。無断欠場は原則欠場扱い、代役を立てるには相応の代償がいる」

 

制度の細部が積み上がっていくたび、教室の空気が、少しずつ実感を伴ったものに変わっていく。他人事だった数字が、自分の身に降りかかるかもしれない額へと変わる瞬間だった。

 

「種目そのものは選べん。全員参加の種目には、全員がどこかの組に入って出る」

 

教室の何人かが、露骨に嘉をしかめた。

 

「提出するのは配置希望だ。何戦目に入りたいか、団体戦でどの位置を希望するか。用紙は今週中に出せ。以上」

 

そう言って、茶柱は教壇を離れた。ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴る。

 

 

 

 

 

平田が、席を立って教室の前に出た。

 

「みんな、種目の希望はできるだけ早めに出してくれ。あと、団体戦は人数調整があるから、決まったら声かけ合おう」

 

いつもの、まとめ役の声だった。素直に頷く生徒がいる一方、面倒臭そうに聞き流す奴もいる。それでも、平田の呼びかけには、いつもある程度の重みがあった。誰かがまとめ役を引き受けねえと、こういう場は前に進まねえ。損な役回りだと思うが、それを厭わずやり続けてる時点で、大したもんなんだろう。

 

「なあなあ、赤木は何に出んだよ」

 

須藤が、椅子を引きずるようにしてこっちを向いた。

 

「さあねえ」

 

「お前、中学の頃は運動会とかどうだったんだ?」

 

「知らねえよ、そんなもん」

 

短く突っぱねると、須藤は「相変わらず素っ気ねえな」と笑って、自分の資料に目を落とした。教室の中では、あちこちで似たようなやり取りが始まっていた。誰と組むか、何に出るか、そういう話題で、夏休みの余韻はあっという間に塗り替えられていく。

 

 

 

 

 

昼、食堂に向かう道すがら、佐倉とすれ違った。手には、いつものカメラ。

 

「体育祭、楽しみですね」

 

いつもの調子で、そう声をかけてきた。

 

「さあな」

 

「そっけないですね」

 

「撮るのか」

 

「え」

 

「そのカメラだ」

 

佐倉は、手の中のものを見下ろした。

 

「……はい。頼まれてて。記録係みたいなものです」

 

「誰にだ」

 

「平田くんです。人の写真は苦手なんですけど、断る理由も無くて」

 

「苦手なのか」

 

「撮られるのが、です。撮る方は、平気です」

 

そう言って、少しだけ笑った。

 

「赤木くんは、撮られるの嫌ですか」

 

「どっちでもいい」

 

「じゃあ、撮ります」

 

小さく笑って、佐倉は先に食堂の方へ歩いていった。

 

 

 

 

 

食堂に入ると、須藤と池が既にテーブルを取っていた。

 

「なあ、騎馬戦って須藤出るだろ、絶対」

 

池が、そう囃し立てるように言った。

 

「当たり前だろ、燃えてきたわ」

 

須藤が、拳を握って見せる。単純な奴だと思ったが、こういう分かりやすさは、悪くねえもんだった。少なくとも、腹の探り合いよりは呼吸が楽だ。

 

「赤木はどうすんだよ、まさか全種目パスとか言わねえよな」

 

池が、こっちに水を向けてきた。

 

「まだ決めてねえ」

 

「相変わらず読めねえ奴だな」

 

「赤木、お前足は速えのか」

 

須藤が割り込んできた。

 

「知らねえ」

 

「知らねえって何だよ。走ったことねえのか」

 

「追われたことならある」

 

池が噴き出した。

 

「何それ、ヤクザにでも追われたのかよ」

 

「そんなところだ」

 

二人は冗談だと思って笑っていた。笑って済む話にしておく方が、こっちも楽だった。

 

池はそれ以上突っ込んでこず、須藤との話に戻っていった。手の内を見せずに卓に着けるってのは、悪い気分じゃねえ。

 

 

 

 

 

食堂を出た廊下で、坂柳とすれ違った。杖の先が、廊下の床を軽く叩く音がする。

 

「ふふ、奇遇ですね。同じ組になるとは」

 

微笑みを浮かべたまま、そう声をかけてきた。値踏みするような目の質は、あの日から何一つ変わっちゃいねえ。

 

「紙の上だけの話だろ」

 

素っ気なく、そう返した。

 

「あら、つれない。――もっとも、あなたと表向きが成立したことなんて、これまで一度もありませんでしたね」

 

あの日の問答を、そのまま匂わせる言い方だった。答えを急かす気配はねえ、ただ忘れちゃいねえと、それだけを伝えに来たような一言だった。

 

「忘れちゃいねえよ、こっちも」

 

短く、そう返した。それ以上の踏み込みは、互いにしなかった。

 

坂柳は、満足そうに小さく笑うと、会釈して廊下の向こうへ歩いていった。あの女が今、何を企んでるのか、まだ読み切れねえ。だが、味方面をするつもりが端から無えことと、あの日の勘定をまだ帳消しにする気もねえことだけは、確かだった。

 

 

 

 

 

食堂の隅で、龍園とすれ違った。

 

「――よお、赤木」

 

壁に背を預けたまま、片手を軽く上げてくる。

 

「クックック……赤組と白組、ねじれた組み合わせだな」

 

「そうだな」

 

短く応じた。

 

「面白くなりそうじゃねえか、赤木よ」

 

口の端を上げて、そう続けてきた。何かを企んでる目つきだったが、中身までは言わなかった。まだ具体的な話をする段階じゃねえんだろう。焦って引き出す話でもねえ。

 

「一つ訊く」

 

「あァ?」

 

「あんたは赤と白、どっちだ」

 

龍園は、少しだけ間を置いた。

 

「聞いてどうする」

 

「どっちでもいい」

 

「……だろうな」

 

それきり、龍園は答えなかった。答えねえこと自体が、一つの答えではある。

 

「せいぜい、種目登録は考えて出せよ」

 

それだけ言い残すと、龍園は興味を失ったように視線を外し、先に歩いていった。振り返ることもなかった。この男が「面白くなりそうだ」と口にする時、大抵の場合、既に何かの絵図を頭の中に描き始めてる。今回も、例外じゃねえんだろう。

 

 

 

 

 

窓の外では、夏の名残の蝉が、まだ力なく鳴いていた。

 

寮に戻ってから、配られた種目一覧の紙に目を通した。個人競技のいくつかに丸をつける。目立つ団体戦の主要な役どころには、あえて手を挙げなかった。

 

紙を折り畳んで、机の端に置いた。締切はまだ数日先だ。誰がどう出るかを見極めてから、最後に決めても遅くはなかった。

 

赤組と白組。表向きの味方が、裏じゃ何の関係もねえ相手。表向きの敵が、裏じゃ片付いてねえ貸し借りを抱えてる相手。

 

坂柳の値踏みするような目も、龍園の企んでる目も、今日一日で二つとも見た。どっちも、まだ手の内を明かす気はねえらしい。

 

それでいい。

 

牌が配られたばかりだ。手の中身が見えてくるのは、これからだった。

決着をつけてほしいのはどれ?

  • 坂柳との再戦
  • 龍園との貸借
  • 綾小路との関係
  • 堀北との距離感
  • 櫛田との停戦
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