9月1日。二学期の始業日だった。
教室に足を踏み入れると、夏休み前とは、空気の密度が違って感じられた。日焼けした顔、伸びた髪、少しだけ変わった距離感。四十人分の夏が、思い思いの形でそこに転がっていた。
黒板の隅には、まだ誰かの落書きが薄く残っている。窓は開け放たれ、外の蝉の声が、遠慮なく教室の中まで入り込んでいた。廊下では、他クラスの生徒たちの笑い声が、途切れ途切れに響いている。夏休み明けの学校ってのは、どこも同じ顔をするもんらしい。四月に見た顔と、今ここにある顔と、そう大きくは変わっちゃいねえ。それでも、あの頃とは違う目で見られるようになった、そういう自覚はあった。
「おっす」
須藤が、いつもの調子で片手を上げてきた。
「よお」
短く返して、自分の席に着く。窓の外はまだ夏の光のままだったが、教室の中の温度だけは、確かに切り替わっていた。
教室の後ろの方で、櫛田が数人の女子に囲まれて、屈託のない笑い声を上げていた。夏休みの土産話でもしてるんだろう。誰もが知ってる、あの人当たりのいい顔だった。目が合うと、向こうから軽く手を振ってきた。
「――赤木くん、おはよっ!」
普段通りの、明るい声だった。
「ああ」
短く、そう返した。それだけのやり取りだった。特別な間も、意味ありげな沈黙も、どこにもなかった。だからこそ、この平坦さそのものが、二人だけに分かる合図みてえなもんだった。表向きは他人、ではなく、ただのクラスメイト。あの女が望んだ形は、こういうもんだったんだろう。
それだけで、櫛田はまた輪の中に戻っていった。何一つ変わらない、いつもの光景だった。
夏休みの間に積んだ勘定は、まだ何一つ片付いちゃいねえ。茶柱との一件、龍園の借り、櫛田との停戦。それに加えて、昨夜の綾小路のことも、頭の隅に居座ったままだった。だが、教室に一歩入りゃ、そういう事情はひとまず脇へ退く。表向きは、ただの生徒に戻る。それだけの話だった。
堀北が、いつもの席に着いていた。目が合うと、小さく会釈してくる。何気ない挨拶だったが、視線が僅かに長く止まった気がした。夏休み前、食堂で見かけたあの一瞬の硬さを、まだ引きずってるのか、それとも気のせいか。深追いする話でもねえ。目を逸らすと、堀北も資料に視線を戻した。
チャイムが鳴ると同時に、茶柱が教室に入ってきた。心当たりのある夜から、まだ数日しか経っていない。だが、顔つきにも声にも、そんな素振りは一切出ていなかった。教壇に立てば、ただの担任教師の顔だ。
出席を取る声も、いつも通り淡々としていた。だが、名前を呼ぶ順で、こっちの番だけ、ほんの一拍、間が長かった。気のせいと言われりゃそれまでの差だったが、数えてりゃ分かる程度には、はっきりした間だった。目を合わせてくることはなかった。それも含めて、この女なりの筋の通し方なんだろう。
切り替えの速さだけは、大したもんだと思った。
「二学期の始業式は以上だ。船上試験の結果は、既に通知済みの通り。改めて説明する必要はないだろう」
淡々と、そう切り出した。教室のあちこちから、小さくため息とも安堵ともつかない声が漏れる。
「それより、次の話をする」
茶柱の声のトーンが、一段変わった。教室の空気が、わずかに張り詰める。
「十月頭に、体育祭が行われる。三学年合同のイベントだ」
黒板に、簡潔な文字が並んでいく。
「今回は、赤組と白組に分かれての対抗戦になる。赤組はAクラスとDクラス、白組はBクラスとCクラス」
一瞬、教室がざわついた。堀北の眉が、微かに動いたのが見えた。
「表向きは味方同士、ってわけね」
誰かが、そう小さく呟いた。
「種目は、全員参加と推薦参加に分かれる。個人競技と団体戦もある。詳しい種目一覧は、後日配布する資料を確認しておけ」
説明は、そこから淡々と続いた。順位に応じてクラスポイントが動くこと、個人競技には勝てば賞金が出ること、逆に最下位には罰則として持ち点が削られること。数字が読み上げられるたび、教室の温度が、また少しずつ上がっていくのが分かった。
「なお、赤白どちらが勝つかでも、全クラスのポイントが変わる。負けた組は、両クラスとも大きく減点だ」
その一言に、教室の空気が、一段と張り詰めた。池が小さく「うわ、罰ゲームきつすぎだろ」と漏らし、隣の山内が青ざめた顔で頷いている。負けた時の下げ幅の話になった途端、教室のあちこちで顔色が変わった。誰も彼もが、自分のクラスが負ける側に回った時のことを、勝手に想像し始めてるんだろう。
罰則の数字そのものには、何の感慨も湧かなかった。負けて何かを失うのが嫌なら、最初から卓につかなきゃいい。それだけの話だ。この教室の連中は、失うことそのものより、失う可能性を先に恐れてる。順番が逆だった。恐れは、負けた後についてくるもんだ。先に恐れてちゃ、勝てる勝負も勝てやしねえ。
命まで取られるわけでもねえのに、大袈裟な奴らだと思った。持ち点が多少減ったところで、死にゃしねえ。減った持ち点で何かが変わるとすりゃ、それはそいつがそこまでの人間だったってだけの話だ。数字一つで震え上がる連中を見てると、たまに笑いそうになる。この程度の勝負で震えるくらいなら、賭場になんぞ最初から近づかねえ方がいい。
須藤が、身を乗り出すようにして言った。
「つまり、坂柳んとこと組むってことかよ」
「表向きは、ね」
堀北が、静かにそう応じた。視線だけが、教室の反対側――Aクラスの担当区画がある方向へ向いていた。まだ何も起きちゃいないのに、既に品定めを始めてる顔だった。
赤組。白組。表向きの味方と敵。
聞きながら、頭の中で勝手に組み合わせが浮かんでいた。表じゃ味方のはずの坂柳とは、裏じゃ一度、こっちの手の内を覗かれた借りがある。あの日の問答は、まだ何一つ精算しちゃいねえ。表じゃ敵のはずの龍園とは、裏で妙な貸し借りがまだ片付いちゃいねえ。
面白えかどうかは、まだ分からねえ。だが、少なくとも、表と裏でねじれた組み合わせってのは、賭場じゃそう滅多にお目にかかれるもんじゃなかった。
「順位も点数も、今の段階じゃ意味を持たねえ」
内心で、そう独り言ちた。勝ち負けそのものより、この歪みの中で誰が何を仕掛けてくるかの方に、よほど興味があった。退屈な数字遊びで終わるかどうかは、まだ誰にも決まっちゃいねえ話だった。
「種目には、全員参加のものと、推薦で決める枠がある。個人競技と団体戦、両方だ。詳細な種目一覧と参加登録の締切は、後日資料を配る」
黒板の文字が、また一段増えた。100m走、障害物競走、騎馬戦、綱引き。並んだ種目名を、須藤が食い入るように見つめていた。
「個人競技は、1位から3位まで賞金が出る。中間テストの加点に回すことも選べる。最下位は、逆に持ち点が引かれる仕組みだ」
淡々と、そう続けられた。
「団体戦は、事前に誰がどの回に出るか登録が必要だ。無断欠場は原則欠場扱い、代役を立てるには相応の代償がいる」
制度の細部が積み上がっていくたび、教室の空気が、少しずつ実感を伴ったものに変わっていく。他人事だった数字が、自分の身に降りかかるかもしれない額へと変わる瞬間だった。
「参加種目の希望調査は、今週中に提出だ。以上」
そう言って、茶柱は教壇を離れた。ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴る。
平田が、席を立って教室の前に出た。
「みんな、種目の希望はできるだけ早めに出してくれ。あと、団体戦は人数調整があるから、決まったら声かけ合おう」
いつもの、まとめ役の声だった。素直に頷く生徒がいる一方、面倒臭そうに聞き流す奴もいる。それでも、平田の呼びかけには、いつもある程度の重みがあった。誰かがまとめ役を引き受けねえと、こういう場は前に進まねえ。損な役回りだと思うが、それを厭わずやり続けてる時点で、大したもんなんだろう。
「なあなあ、赤木は何に出んだよ」
須藤が、椅子を引きずるようにしてこっちを向いた。
「さあねえ」
「お前、中学の頃は運動会とかどうだったんだ?」
「知らねえよ、そんなもん」
短く突っぱねると、須藤は「相変わらず素っ気ねえな」と笑って、自分の資料に目を落とした。教室の中では、あちこちで似たようなやり取りが始まっていた。誰と組むか、何に出るか、そういう話題で、夏休みの余韻はあっという間に塗り替えられていく。
昼、食堂に向かう道すがら、佐倉とすれ違った。手には、いつものカメラ。
「体育祭、楽しみですね」
いつもの調子で、そう声をかけてきた。
「さあな」
「そっけないですね」
小さく笑って、佐倉は先に食堂の方へ歩いていった。夏の間に少しだけ縮まった距離が、二学期になっても変わらず続いている。それだけで、十分だった。
食堂に入ると、須藤と池が既にテーブルを取っていた。
「なあ、騎馬戦って須藤出るだろ、絶対」
池が、そう囃し立てるように言った。
「当たり前だろ、燃えてきたわ」
須藤が、拳を握って見せる。単純な奴だと思ったが、こういう分かりやすさは、悪くねえもんだった。少なくとも、腹の探り合いよりは呼吸が楽だ。
「赤木はどうすんだよ、まさか全種目パスとか言わねえよな」
池が、こっちに水を向けてきた。
「まだ決めてねえ」
「相変わらず読めねえ奴だな」
池は、それ以上突っ込んでこず、須藤との話に戻っていった。何をするか読めねえと言われるのは、悪い気分じゃなかった。手の内を見せずに卓に着けるってことだ。
食堂を出た廊下で、坂柳とすれ違った。杖の先が、廊下の床を軽く叩く音がする。
「ふふ、奇遇ですね。同じ組になるとは」
微笑みを浮かべたまま、そう声をかけてきた。値踏みするような目の質は、あの日から何一つ変わっちゃいねえ。
「紙の上だけの話だろ」
素っ気なく、そう返した。
「あら、つれない。――もっとも、あなたと表向きが成立したことなんて、これまで一度もありませんでしたね」
あの日の問答を、そのまま匂わせる言い方だった。答えを急かす気配はねえ、ただ忘れちゃいねえと、それだけを伝えに来たような一言だった。
「忘れちゃいねえよ、こっちも」
短く、そう返した。それ以上の踏み込みは、互いにしなかった。
坂柳は、満足そうに小さく笑うと、会釈して廊下の向こうへ歩いていった。あの女が今、何を企んでるのか、まだ読み切れねえ。だが、味方面をするつもりが端から無えことと、あの日の勘定をまだ帳消しにする気もねえことだけは、確かだった。
食堂の隅で、龍園とすれ違った。
「――よお、赤木」
壁に背を預けたまま、片手を軽く上げてくる。
「赤組と白組、ねじれた組み合わせだな」
「そうだな」
短く応じた。
「面白くなりそうじゃねえか、赤木よ」
口の端を上げて、そう続けてきた。何かを企んでる目つきだったが、中身までは言わなかった。まだ具体的な話をする段階じゃねえんだろう。焦って引き出す話でもねえ。
「せいぜい、種目登録は考えて出せよ」
それだけ言い残すと、龍園は興味を失ったように視線を外し、先に歩いていった。振り返ることもなかった。この男が「面白くなりそうだ」と口にする時、大抵の場合、既に何かの絵図を頭の中に描き始めてる。今回も、例外じゃねえんだろう。
窓の外では、夏の名残の蝉が、まだ力なく鳴いていた。二学期が始まったばかりだというのに、もう次の局の気配が、あちこちで動き始めている。
寮に戻ってから、配られた種目一覧の紙に目を通した。個人競技のいくつかに丸をつける。目立つ団体戦の主要な役どころには、あえて手を挙げなかった。旗を振って前に立つ趣味はねえし、目立ちすぎりゃ、余計な目を引く。裏で何かを仕込むには、表では地味に立ち回っておく方が都合がいい。
紙を折り畳んで、机の端に置いた。締切はまだ数日先だ。急いで出す理由もねえ。誰がどう出るかを見極めてから、最後に決めても遅くはなかった。焦って先に手札を晒す方が、たいてい損をする。それも、昭和の卓で嫌というほど覚えたことの一つだった。
荷物を整理しながら、今日一日を頭の中で並べ直した。体育祭という表向きの行事は、それ自体は数字の遊びに過ぎねえ。順位も、罰則も、賞金も、卓に着いたことのねえ人間が決めた枠組みだ。そんなもんに本気で心を動かされる質じゃねえ。
だが、赤組と白組というねじれた組み合わせだけは、少し違った。表向きの味方が、裏じゃ何の関係もねえ相手。表向きの敵が、裏じゃ片付いてねえ貸し借りを抱えてる相手。この学校の連中が誰も気づいてねえ歪みが、今日という日にまた一つ積み上がった。坂柳の値踏みするような目も、龍園の企んでる目も、今日一日で二つとも見た。どっちも、まだ手の内を明かす気はねえらしい。それでいい。急いで見せろと催促する話でもねえ。
クラスの順位が上がろうと下がろうと、それ自体はどうでもいい話だった。だが、茶柱に一線を越えさせた借りの分だけは、話が別だった。あの時、頭の中で二倍にしてみたクラスポイントは、まだAには届いちゃいなかった。届くかどうかを確かめもせず途中で放り出すのは、賭場に金を置いたまま席を立つのと同じだ。始めた勝負を、中途半端に投げ出す趣味はねえ。
昨夜の綾小路のことも、まだ頭の隅に居座ったままだった。あいつが次にどう動くのか、まだ読めねえ。あの部屋で交わした問答は、答えの出ないまま宙に浮いたきりだった。だが、次の局が始まる前触れだけは、確かに感じ取れた。
牌が配られたばかりだ。手の中身が見えてくるのは、これからだった。二学期は、まだ始まったばかりだった。
窓の外の月明かりが、机の端に置いた種目希望の紙を、薄く照らしていた。丸をつけた欄の隣に、まだ空白の欄がいくつも残っている。急いで埋める理由はねえ。誰がどう動くか、しばらくは黙って見てるだけでいい。灯りを落として、布団に横になった。天井の木目を見つめながら、明日からの日々を、ぼんやりと思い描いた。窓の外で、夏の名残の虫の声が、まだ細く鳴いていた。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦