商談が流れること自体は、珍しくねぇ。
値が合わなけりゃ流れる。流れたら次を探す。そういうもんだ。
今日のは違った。
俺が出した条件は、こっちが損をする側の条件だった。情報を先に渡す。金も点も要求しない。恩だけ残して、請求は後回し。買う側にとっては一方的に得な話で、断る理由がどこにも無え。
恩ってのは、首にかける縄の別名だ。
赤木は断った。
タダのもんに、値はつかねえ。
それだけ言って、あとは黙ってこっちを見ていた。黙られると、こっちが勝手に喋る。喋った分だけ手の内が減る。分かっていて喋った。
フェンスから二十歩ほど歩いて、足を止めた。
「ねえ」
物陰から伊吹が出てきた。離れて見ていろと言っておいたから、そうしていたんだろう。
「どうだったの」
「あ?断られた」
「……は?」
「タダでくれてやると言った。要らねえとよ」
伊吹の眉が寄った。こいつは分かりやすい。分からねえ時は分からねえ顔をする。
「意味が分かんない」
「だろうな」
「あんた、あいつのこと買いかぶってない?」
「クックック、そうかもしれねぇな」
そう返したら、それ以上は突っ込んでこなかった。石崎なら五回は訊いてくる。訊かねえところが、こいつの使い道だ。
「明日は」
「見てろ。見たままを喋れ。意味をつけるな」
「……いつもそうしてる」
「それでいい」
伊吹が行った後で、もう一度だけ考えた。
今日、赤木の顔を動かしたのは俺の札じゃねえ。伊吹が見たままを喋った一言だ。
堀北が坂柳の方角だけ見ない。
伊吹はそこまで言っていない。こいつが言ったのは「こっちを向かない」までで、「坂柳の方角だけ」と切ったのは赤木本人だという。
自分で口に出した一言が、一日で俺の手元に届いていた。
届いたことに、あいつは今日気づいた。
寮へは戻らず、校舎の裏を回った。
歩くのは考えるためじゃねえ。座っていると、都合のいい結論で手を打ちたくなる。
この半年、俺が一番長く値踏みしてきた相手は、坂柳でも葛城でもねえ。
最初は六月だ。
Dクラスの誰かが十万を出したという話を掴んで、二週間張った。金の出所を握れば、Dの首を握ったのと同じだ。実際、握った。
握った時には、その首に値が無くなっていた。
赤木は、俺の教室に一人で入ってきて、自分から答えを置いた。出したのは俺だ、と。
本当かどうかは締め上げりゃいい話だった。教室には石崎もいたし、こっちの人数の方が多い。吐かせて終わりにできた。
結果、できなかった。
この教室に十人いる、とあいつは言った。一発殴れば、あんたは十人に弱みを配ることになる、と。
安いかどうかはあんたが決めりゃいい、とも言った。
計算した。計算した結果、殴らない方が安かった。それだけの話だ。
それだけの話なのに、あいつの名前だけは帳面から消してねえ。
取り損ねた分は、利息をつけて回収する。俺はそういう商売をしてきた。
釣り上げた魚が、痩せてただけだ。
そう言われて、俺は笑った。腹を立てる前に笑っていた。
値の消えたものを、消える前の値段で買わせる。買った側は、買った後で自分が何を買ったのか知る。
俺の手口だ。
先にやられた分は、二度目で取り返す。二度目が無え相手なら、作る。
八月、島で同じ形を返した。
拠点から物が減っていることに、赤木は自力で気づいた。だから先に言ってやった。無いというのも売り物になる、と。
あんたに教わった、とも言った。
教えた覚えはねえ、という顔をしていた。
実際、教える気なんぞ無かったんだろう。あいつは手の内を隠さない。隠さずに勝つから、後から真似ができる。真似ができるってことは、いつか抜けるってことだ。
あの時、Aとの裏取引まで言い当てられた。
東だ、と言われた。Aクラスか、とも。
否定する意味が無かったから認めた。見返りの中身だけは只じゃねえと言って伏せたが、伏せたところであいつは欲しがりもしなかった。
欲しがらねえ相手からは、何も毟れねえ。
毟れねえ相手に対して、俺が持っている手は一つしかねえ。
潰す。
六月に一度やって、勘定が合わなかった。合わなかったのは、獲り方を間違えたからだ。
金でも点でも、あいつは痛まねえ。
なら、痛む場所を探すまでの話だ。
船の上でも一度やり合っている。
優待者の法則をあいつが持っていて、俺が受け取った。値は払っていない。借りにしとくぜ、と言って預かった格好だ。条件は一つ、子の組には手を出すな。
出さなかった。出す理由が無かった。
受け取った紙に法則を当てはめりゃ、子の組の優待者が誰かは、その場で出る。
赤木自身だ。
自分を的にしたまま、的の場所を俺に渡していた。渡した相手に、自分を探すなと条件を付けた。
理由は下船の朝に本人から聞いた。Dが一人勝ちすりゃ残り三クラスから恨みを買う、恨みの次は詮索だ、だからあんたを使った、と。
筋は通っている。通りすぎてやがる。
人間は、あそこまで自分を安く置けねえ。置けるとしたら、最初から惜しくねえ奴だ。
惜しくねえ奴は、何を賭けても痛まねえ。
厄介なのは、そこだ。
同じ朝に、一度だけ正面から訊いた。
てめえ、金にも点にも興味ねえ癖に、なんでそこまで踏み込む。
返ってきたのは一行だった。
賭ける価値があるかどうか、それだけだ。
つまらねえ答えだと思った。今も思っている。
思っているのに、あれ以来ずっと引っかかっている。
この学校の連中は、全員同じ勘定で動いている。増やすか、減らさないか。俺もその一人だ。百を毟られるのが嫌だから、くだらねえ行事に顔を出す。
赤木の勘定には、その軸が無い。
怖がるべきところで、一切怖がらねえ。
褒めちゃいねえ。値踏みだ。
値がついた相手は、いつか卓に引きずり出す。それだけの話だ。
一番引っ張り出したくねえのは、夏の終わりだ。
あいつが俺を呼び出して、調べさせていた件を打ち切ると言った。その上で、見物料を払えと言ってきた。
何を払えばいい、と訊いた。
言葉の意味は分かった。分かった上で、俺は払えるものを並べた。
掻き集めた点の額と、方々に回してある貸しの名前をいくつか。必要なら、まだ出せた。惜しいと思ったことは一度も無え。
並べてから、向こうに言われた。
全部よそから借りてきた札だ、あんた自身の持ち物は一つも混じっちゃいねえ、と。
その通りだった。惜しくねえものを出すのは、支払いとは言わねえ。
足りねえな、と言われた。
一人だけ安全圏から見物なんて、つまんねぇ勝負すんじゃねぇよ。
――降参だ降参。
そう言って、俺が降りた。
自分の口で降りたのは、この学校であの一回だけだ。
今日、俺は同じことをやった。
葛城に人をやって、何も出なかった。あの男は島の一件から、坂柳の下で紙を配る側に回っている。俺は来るもの拒まずで乗っただけだが、乗った結果、こっちの耳が一つ死んだ。笑い話だ。
坂柳は坂柳で、島の頃から赤木の名前を気にしていた。いずれあの二人はやり合うだろうと踏んでいたし、潰し合ってくれりゃ儲けもんだと思っていた。
思っていた頃の方が、まだ勘定が単純だった。
Aは静かだ。伊吹の報告以外に引っかかるものが無い。
だから買いに行った。タダで渡す。恩だけ残す。請求は後回し。
断られた。
俺が出そうとしたのは、また減っても痛まねえ札だ。夏と一文字も違わねえ。
だからあいつは座らねえ。座らねえ相手の首は、獲れねえ。
雨は降らなかった。予報が外れて、朝から乾いた風が吹いていた。
その朝、石崎が教室で喚いていた。
「龍園さん、聞きました? Bのクラス、朝練やってるらしいっすよ」
「そうかよ」
「うちもやります?」
「やりたきゃやれ」
「え、いや、龍園さんが出ねえと意味ねえっつうか」
「意味なら、出なくてもある」
石崎が首を捻っている。
「あの、龍園さん。最近Dのことまた調べさせてるって聞いたんすけど。……なんかあったんすか」
「あ?聞いてどうすんだ」
「いや、手伝えることあんならと思って」
真っ直ぐな顔で言ってくる。こいつは嘘をつかねえ。使えるかどうかの前に、まずそこがある。
だからこそ、こいつの首を積んでも、それは俺の首じゃねえ。
「要らねえよ」
「……はい」
素直に引き下がった背中を見送った。
使い減りしねえ駒は、使い時を選ばねえで済む。
昼、Aクラスの教室の前で待った。
呼び出せば構えられる。構えた坂柳と話しても面白くもねえ。
杖の音が近づいて、止まった。
「あら。龍園くん」
「よう」
「白組の方が、何かご用ですか」
「近くを通っただけだ」
「Aクラスの前を」
「通ることもあるだろ」
坂柳は笑った。笑ったまま、こっちの目から視線を外さねえ。
「一つ訊く。Dの誰かと話したか」
「たくさんの方とお話ししますけれど」
「鈴音だ」
杖の頭に指が乗った。乗っただけで、顔は動かねえ。
「体育祭の打ち合わせで、何度か」
「そうかよ」
それ以上は訊かなかった。訊いても出てこねえ。
出てこねえこと自体が、答えの半分だ。Dに用があるなら平田を通せば済む。あの男は誰にでも公平に時間を使う。使わずに鈴音を選んだってことは、平田じゃ足りねえ種類の用だったってことだ。
鎌をかけることにした。外れたら外れたで、外れ方が見られる。
「てめえ、赤木を使う気だろ」
坂柳の指が、杖の頭で止まった。
一秒あったかどうかだ。止まった、というより、それまで指が動いていたことに気づかされた。
外れちゃいねえ。少なくとも、外れた人間の止まり方じゃねえ。
「……どうして、そう思われるのです」
「訊いてんのは俺だ」
「あら」
「クックック、一つ忠告しといてやる。俺も同じことをやったからだ」
夏の終わりの話をした。中身は伏せた。あいつに何かをやらせようとして、対価を積もうとして、断られたとだけ言った。
「足りねえ、と言われた」
「何が足りなかったのでしょう」
「俺だ」
坂柳は黙っていた。
「点でも人でも時間でも、いくらでも出せた。出しても足りねえと言われた。理由は言われなかったが、後から勘定が合った。減っても俺が痛まねえものを、いくら積んでも支払いにはならねえ」
「……なるほど」
「で、てめえはどうだ。赤木に、何を懸けさせる気だ」
坂柳は、少しの間こっちを見ていた。
それから、ふふ、と笑った。
「龍園くん。あなたは今、二つのことを同時になさっていますね」
「あ?」
「忠告を装って、私が赤木くんに何をさせようとしているかを測っておいでです。……お答えすると思われましたか」
「はっ、思っちゃいねえな」
「でしょうね」
杖の先が、床を一度叩いた。
「では、言い当ててごらんになりますか」
乗ってきやがった。
この女は、隠すより当てさせる方を選ぶ。当てさせた分だけ、こっちがどこまで見えているかが向こうに渡る。分かっていて乗る。
「そうだな、あいつには何も懸けさせねえ。負けても痛まねえ形にして、席だけ用意してある。どうせお前の考えてることなんてそんなところだろうが」
坂柳は何も言わなかった。
否定もしなかった。
「そいつが地雷だ」
「……地雷、ですか」
「俺が避けた方の穴に、てめえは自分は落ちたんだ」
杖の音が一度鳴った。
「懸からない形にしてさしあげれば、相手は安心して座ります。……それの何がいけないのでしょう」
「普通の相手ならな」
普通じゃねえ相手には、逆に働く。
何も懸からねえ勝負を、あいつは勝負と呼ばねえ。座らせたつもりで、座らせていねえ。座らねえ相手を無理に座らせりゃ、条件を決める権利はそのうち座った側に移る。
そこまでは言わなかった。言えばそこだけ直してくる。直された仕掛けを見るのは面白くねえ。
「取引の中身は知らねえ。訊く気もねえ」
「でしたら、何をおっしゃりに来たのです」
「てめえのやり方が、俺と同じだからだ」
坂柳の眉が、わずかに動いた。
「自分は痛まねえ場所に立って、駒を動かして、結果だけ受け取る。効率はいい。俺もずっとそれでやってきた」
「否定はいたしません」
「否定しろとは言ってねえ。ただ、その立ち方はあいつにだけは通じねえ。通じねえどころか、一番やっちゃならねえ立ち方だ」
「……」
「安全圏から見てる奴は、いつか引きずり出される」
言ってから、口の端が上がった。俺は降りたんじゃねえ。順番を待ってるだけだ。
「ご忠告として、承っておきます」
坂柳は杖を突いて歩き出し、二歩ほどで止まった。
「龍園くん。一つ伺っても」
「なんだ」
「あなたは、どうしてそれを私にお話しになるのです。私が躓けば、あなたには得があるはずですのに」
いい質問だった。
「クックック、てめえに潰されちまったら、俺の番が回ってこねえだろうが」
残りの半分は、てめえには関係のねえ話だ。
「ふふ。……わかりました。では、私からも一つ」
杖の頭に、指が戻っていた。
「もし本当にあなたのおっしゃる通りになったなら、その時は、あなたも同じ場所に呼ばれます。ふふ、避けたのではなく、順番が後だっただけかもしれませんよ」
杖の音が遠ざかっていった。
放課後、伊吹が報告に来た。
「今日も同じ。堀北、坂柳の方を見ない」
「他には」
「Dの平田が名簿持ってうろうろしてた。あと、赤木が生徒会の方を見てた」
手が止まった。
「生徒会」
「天幕のとこ。三年が何人かいたでしょ。そのうちの一人をしばらく見てた。背の高いのが一人、座りもしないで立ってた」
「誰だ」
「知らないわよ。三年の顔なんて覚えてない」
「伊吹」
「何」
「明日から、三年を見ろ。生徒会の腕章をつけてる奴だけでいい」
「……あたし、Dを見てろって言われてたんだけど」
「気が変わった」
伊吹は不服そうな顔をしたが、それ以上は言わずに出ていった。
赤木が、三年を見ていた。
誰かは分からねえ。
分からねえなら、同じものを見ればいい。同じ札を持てば、同じ形が見える。
見えた時に、先に張れるのはこっちだ。
坂柳が鈴音に何か言っている。鈴音の様子がおかしい。赤木が何か抱えている。赤木が三年を見ている。
札は四枚ある。並べても、まだ一つの形にならねえ。
Aが動いて、Dが黙って、その間でうちは一つも毟られていない。
悪くねえ。
卓が荒れるのを待って、荒れ切った後で手を出す。……俺のやり方だ。
窓の外が暗くなるまで、教室に残っていた。
順番が後だっただけかもしれませんよ。
言い返さなかった。
順番が後だってことは、こっちには時間があるってことだ。
――クックック。
先に座った奴から、先に削られる。
削り終わった卓に、最後に座る。
出すのは、減って痛む方だ。
――赤木の首は、俺が獲る。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦