その日、堀北は一度も口を開かなかった。
合同の練習は終わって、あとはクラスごとの仕上げになっている。校庭の割り当ては一クラス四十分。その中で並びを確認して、走る順を確認して、それで終わる。
仕切っているのは平田だ。名前を読み上げていくのも、紙を抱えて走り回るのも、全部あの男がやる。
「じゃあ綱引き、一回戦の並びで。須藤くん先頭、池くん二番」
呼ばれた順に列が出来ていく。紙は持っているが、ほとんど見ていない。四十人分を覚えているらしい。
こういうことを苦もなくやる人間が一人いると、クラスというのは回る。
終わった後で、いつもなら抜けている点を拾う役がいる。
誰の足が滑りやすいとか、二回戦で入れ替えた方がいいとか。訊かれてもいないことを言って、たいてい煙たがられて、それでも言う。言われた方は面倒くさがるが、半分は当たっている。
拾わなかった。
「堀北さん、何か足しておくことある?」
「……いいえ」
「そっか。じゃあ、今日はここまでで」
それで解散になった。
誰も何も言わなかった。言わない方が早く帰れる。
池も山内も、何か足りないとは思っていない。足りないものを足していた人間が黙った日は、何も起きなかった日に見える。
平田だけが、名簿を抱えたまま、しばらく動かなかった。
「なあ赤木」
須藤が横に来た。
「あいつ、なんも言わなくなったな」
「そうだな」
「前は池の位置がどうとか、山内が手抜いてるとか、いちいち言ってたじゃん。うるせえなって思ってたけど」
タオルで首を拭きながら、言葉を探している。
「言われねえと、なんか落ち着かねえんだよな」
その言い方で足りていた。
平田が名簿を抱えて寄ってきた。
「赤木くん、須藤くん。……ちょっといいかな」
「なんだ」
「当日の配置、堀北さんの分も僕が書いてるんだよね」
「あ? なんでだよ」
「頼まれたんだ。やっておいてって」
須藤が黙った。
「本当は半分ずつやってたんだ。彼女が自分から仕事を渡してきたの、初めてでさ」
「それとさ」
平田が一度、口を閉じた。
「昨日、堀北さんに『何かあったら言って』って言ったんだ。そしたら」
「なんて言われた」
「『あなたに言えることなら、もう言ってるわ』って」
須藤が眉を寄せた。
「それ、どういう意味だよ」
「分からない。でも……彼女がああいう言い方をするの、初めてでさ」
平田はそれ以上言わなかった。
言わなかったが、名簿を抱え直す手つきが、いつもより慎重だった。
あなたに言えることなら、もう言っている。
裏を返せば、言えないことがある、と自分から言っているのと同じだ。
あいつは、嘘をつくのが下手なんじゃねえ。嘘をつく気が最初からねえ。
Aクラスの列が、入れ替わりで校庭へ入ってきた。
先頭に葛城がいて、その後ろに三十人ばかり。列の最後に坂柳がついて歩いている。
すれ違いざま、こっちを見た。
前に会った時は、向こうから話しかけてきた。アンカーの意味がどうとか、堀北はどうかとか、長い雑談をしていった。
今日は何も言わなかった。
杖の音だけが、列と一緒に遠ざかっていった。
校門の近くで、白組の列とすれ違った。
Bクラスが仕上げを終えて戻ってくるところらしい。列の先頭を歩いていたのが一之瀬だった。
こっちに気づいて、手を上げた。
「あ、赤木くん。お疲れさま」
「ああ」
「そっちも今終わったところ?」
「終わった」
一之瀬は列を先に行かせて、その場に残った。
残る理由が無いはずだが、残った。
「あのね。変なこと訊いていい?」
「言ってみろ」
「堀北さん、何かあった?」
「なんでそう思う」
「んー……測定の時に一回だけ話したんだけどね。あの時の彼女、意外にすごく喋る人だったから」
そう言って、少し笑った。
「今日、すれ違ったんだけど、こっちに気づかなかったの。前は絶対、向こうから会釈してくれる人だったのに」
Bクラスの人間が、Dクラスの一人の様子の違いを覚えている。
こういう女だ、というのは聞いていた。実際に見ると、思っていたのと少し違った。
「他所のクラスだろ」
「うん。だから訊くだけ。何かできるとは思ってないよ」
言い訳をしなかった。
「ただ、放っておいて後で『やっぱりね』って言うのが、一番嫌なだけ」
「当日、敵だぞ」
そう言ったら、一之瀬は目を丸くして、それから笑った。
「そうだね。綱引き、負けないから」
「そっちの組は強いらしいな」
「誰から聞いたの?」
「龍園だ」
名前を出した瞬間、笑い方が少しだけ変わった。
「……あの人、そういうこと言うんだ」
「言ってた。あんたのとこは誰も途中で抜けねえ、とよ」
一之瀬はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「抜けないんじゃないよ。抜けられないの」
言い直した。
「私が全員に声かけちゃうから。声かけられたら、抜けにくいでしょ」
そう言って、また笑った。
「……ずるいよね」
それだけ言って、列の方へ走っていった。
言っていることは分かる。
分かるが、あれを全員に対してやる人間がいるというのは、まだ腑に落ちない。
白組が勝つかもしれねえ、と龍園は言っていた。根拠は一之瀬だと。あの女のところは誰も途中で抜けない、とも。
抜けない理由が、今のでいくらか見えた。
損得じゃねえ。あれは、後で自分が嫌な思いをしないために先に動いている。自分のためにやっていて、しかも人のためになる。
そういう作りの人間は、卓では一番厄介だ。
降りる理由を持っていないからだ。
そして、堀北はもう覚悟を決めねえといけない段階にきた。
教室に戻ると、櫛田が女子の輪の中にいた。
こっちを見て、教室で作る方の顔で軽く会釈をした。それだけだ。
勉強会は今週いっぱい休みになっている。行事の週だから、と向こうが言った。
テストは体育祭の後だ。今週休めば、その分どこかで詰めることになる。
この女は損得を間違えたことがない。
その女が、間違える方を選んでいる。
理由は訊かなかった。訊いて出てくるものは、この女の場合、たいてい本当じゃねえ。
昇降口で、伊吹が待っていた。
Cクラスの人間が一年Dの昇降口にいる理由は無い。あるとすれば、待っていた場合だけだ。
「伝言」
前置きも無かった。
「龍園から。『先に言え』だってさ」
「それだけか」
「それだけ。意味は知らない」
言い方に嘘は無かった。この女は、知らないことを知らないと言う。
「返事は」
「ねえ」
「……はあ?」
「ねえって伝えろ。それでいい」
伊吹は露骨に嫌な顔をした。
「あんたら、ほんっとに面倒くさい」
「そうかい」
「こっちは伝えるだけだから。ちゃんと言ったからね」
念を押してから、それでも帰らなかった。
「……ねえ」
「なんだ」
「あんた、また何かやるの」
「さあな」
「別に止めないけど」
そう言って、鞄を持ち直した。
「うちに飛んできたら、私が怒られるの。あんたじゃなくて」
それだけ言って、今度こそ帰っていった。
言われてみれば、そうなんだろう。
上が勝手にやったことの尻拭いは、たいてい下がやる。この学校だけの話じゃねえ。
火の粉が来る形でやるなら先に言え、と言われている。値を訊く、とも。
先に言う気は無かった。言えば、あの男は必ず何かを寄越そうとする。寄越されたものは、いずれ返すことになる。
今は、どこにも借りを作りたくない。
その夜、寮の廊下で堀北とすれ違った。
目が合って、向こうが先に逸らした。
逸らしてから、思い直したように足を止めた。
「赤木くん」
「ああ」
「……当日、よろしく」
「分かってる」
それだけだった。
当日が何を指すのかは、言わなかった。
体育祭のことだと言えば、そう聞こえる。組が同じで、同じ縄を引く。よろしく、で通る。
だが、この女が用件を言う時は、必ず中身を言う。
中身が無いまま置いていったのは、これが初めてだった。
行きかけた背中に、声をかけようとした。
口を開く手前で、やめた。
呼び止めて出てくるものは、呼び止められて出したものだ。自分から出したものとは、重さが違う。
それに、この女はもう一度、自分で口を開こうとしていた。廊下で足を止めたのが、その証拠だ。
止めて、やめた。
やめたということは、まだ決まっていないということだ。決まっていないものを引っ張り出しても、半端なものしか出てこねえ。
待つのは、嫌いじゃねえ。
部屋の扉が閉まる音を、廊下で聞いた。
窓を開けて、煙草の箱を出した。一本抜いて、火はつけずに指の間で回した。
三日前、天幕の下で目が合った。
止まって、逸れた。
箱に戻した。
明日行く、と決めたわけじゃない。
決めたと言えるほど、考えちゃいねえ。
ただ、窓を閉めた時には、行く側に体が傾いていた。
「は?なにしに?」
翌日、須藤が本気で驚いた顔をした。
「お前みたいなのがフラフラ行ったら摘み出されんじゃねぇか?」
「知ってる」
「何されるか分かんねえぞ」
「何かされるなら、行く価値がある」
「は?」
須藤は口を開けたまま、何か言おうとしてやめた。
「……お前さ、たまにそういうこと言うよな」
「そうかい」
「普通は逆だろ。何されるか分かんねえから行かねえんだろ」
「分かってる場所に、行く用がねえだろ」
須藤が黙った。
「こえーんだよ、そういうとこ」
笑いながら言って、それから真面目な顔になった。
「堀北のことか」
こっちを見ていた。
この男は頭が回らないと自分で言う。言うくせに、こういう時だけ外さない。
「さあな」
「隠してもいいけどよ。俺、なんもできねえし」
そう言って、階段の方へ歩いていった。
数歩行ってから、振り返らずに付け足した。
「でも、なんかあったら言えよ。頭は使えねえけど、体は空いてる」
放課後、校舎を上へ上がった。
上がるにつれて、すれ違う人間が減っていく。
三階を過ぎたあたりで、誰ともすれ違わなくなった。
四階は空気が違った。廊下が静かで、足音がよく響く。扉の間隔も広い。
金をかけて静かにしてある場所だ。
こういう場所は知っている。金が動く部屋ほど静かだった。大きい話は、声を張らずにやる。
廊下の途中で、掲示板の前を通った。
体育祭の進行表が貼ってある。時刻と種目が縦に並んで、係の名前が横に並んでいる。
決める側と、並べられる側が、この一枚で分かれている。
うちのクラスの並びも、この階で決まった。
一番奥に、その部屋があった。
扉の前で、一度止まった。
中から人の声がしていた。何人かいる。数字と日付が、切れ切れに聞こえた。
この向こうで、うちのクラスの並びも決まっている。誰がどこに立つか、何時にどこへ集まるか。この学校の段取りを組んでいる。
面白い話だ。
ここまで来て、何を言うかは決めていない。
決めていないまま扉の前に立つのは、久しぶりだった。
昔は、いつもそうだった。何を握っているかも分からない相手の部屋に、手ぶらで入っていった。入ってから決める。決められなければ、それまでの話だ。
扉を二度叩いて、名前だけ告げた。
「一年Dクラス、赤木しげる」
中で、椅子が引かれる音がした。
「用件は」
「堀北学をだせ」
言ってから、少し待った。
しばらく、返事が無かった。
長い沈黙だった。何人か動く気配がして、それから小さく言い交わす声がした。
やがて、扉が内側から開いた。
開けたのは書記らしい二年の女子で、こっちの顔を見て、何か言いたそうにして、結局何も言わずに横へどいた。
部屋の奥、窓を背にして立っている男がいた。
こっちを見ていた。
顔は、五月の夜と何も変わっていなかった。
「きたか」
あの夜から4ヶ月の間、アカギと生徒会長の間で一体何が、、、!?
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦