俺は、一度見た人間の顔を忘れない。
便利な性質だと言われたことがあるが、便利だと思ったことは一度もない。忘れられないというのは、選べないということだ。消したい顔ほど残る。
五月八日の未明に見た顔が、そのうちの一つだった。
その日の四限目、南雲が書類を取りに来た。
「体育祭の進行、去年とほとんど同じですね」
「同じでいい」
「同じでいいんですか。三年間ずっと同じで」
「回るものを変える理由が無い」
南雲は笑った。感じの悪い笑い方ではない。この男の笑い方は、いつも感じがいい。
「変える理由が無いんじゃなくて、変えられた時のことを考えてないだけでしょう」
そう言って、書類を持って出ていった。
扉が閉まってから、俺は進行表をもう一度見た。
去年と同じだ。去年は一昨年と同じだった。
回る。毎年、間違いなく回る。
回すために俺が何をしているかを、この学校の誰も知らない。知らないまま卒業していくのが正しい。
そう思ってきたが、南雲の言い方は、それを褒めていなかった。
扉が二度鳴った。
「一年Dクラス、赤木しげる」
名乗りだけだった。用件が無い。
二年生の書記が、俺を見た。指示を待つ顔だった。この部屋に来る人間は、必ず用件を先に言う。言わない人間は、どう扱えばいいのか誰も知らない。
俺は決裁の途中だった。万年筆を置いた。置いた自覚があった。
「堀北学をだせ」
部屋の中の二人が、同時に俺を見た。
この一年は誰だという顔だった。分からなくていい。
「席を外せ」
会計の三年が書類を抱えて出ていった。理由は訊かれなかった。この部屋ではそういうものだ。訊かれない立場を、三年かけて作ってきた。
書記は残った。残れとも出ろとも言わなかったので、どちらとも決めかねている顔だった。
俺は窓際へ寄った。座って迎えるべきではないと判断した。
判断した、というのは正確ではない。座っていられなかった。
顎で扉を示すと、書記が鍵を外した。
扉が開いた。書記はこちらの顔と扉の外の顔を見比べて、何か言いかけ、結局何も言わずに横へどいた。
顔は、五月の夜と何も変わっていなかった。
「きたか」
俺は続けた。
「あの夜を覚えているか」
「フフ、覚えてるさ」
「あの時と、同じ顔をしている」
その男は、否定も弁解もしなかった。
俺は、書記に目をやった。
「お前も出ろ。鍵は開けたままでいい」
書記は書類を胸に抱えて出ていった。出る間際に一度だけ振り返ったのが、視界の端に映った。
五月八日、午前一時過ぎ。一年生寮の裏手。
俺は鈴音の手首を掴んでいた。
あの夜、俺が何を確かめようとしていたのかは、今も自分でうまく言葉にできない。言葉にできるものなら、掴む必要は無かった。
そこへ、声がかかった。
暗がりから、痩せた男が姿を見せて、こう言った。
――余裕のある人間は、確かめねえんだ。
――妹に置いていかれるのが、怖えんだ。
内容の問題ではない。
あの時間、あの場所に、俺と鈴音以外の人間がいる可能性を、俺は考えに入れていなかった。入れていなかった場所から、声が出た。
俺は鈴音の手を離し、その男の襟を掴んで持ち上げた。
足が地面から離れる高さまで上げた。空手の段位は素人相手に振るうものではないが、あれは振るったうちに入らない。持ち上げただけだ。
その男は、瞬きをしなかった。
苦しがりもしなかった。抵抗もしなかった。恐れた顔も、強がった顔も無かった。
持ち上げられたということが、その男にとっては何も起きていないのと同じだった。
俺は手を離した。
「上のクラスに上がりたかったら、死に物狂いで足掻け」
そう言って、その場を離れた。
つまらん男だ、と思った。その夜のうちに、そう整理して終わらせた。
整理して終わらせたはずの顔が、翌朝から消えなくなった。
一年Dクラスは、五月に千クラスポイントを丸ごと失った。ゼロだ。あそこまで落ちたクラスを、俺は在学中に見たことがない。
落ちたクラスは沈む。例外を見たことがない。取り返そうと無理をして、もう一度落ちる。二年前も、去年もそうだった。落ちた年の夏に生徒会へ上がってくるのは、退学の申請と、無茶な貸し借りの届けだけだ。
だが、Dは沈まなかった。
夏の二つの試験で、戻してきた。クラス別の通算では今も最下位のままだ。上との差は、まだ埋まる形をしていない。だが、最下位の戻り方ではない。
誰かがいる。
そう判断したが、それ以上調べなかった。
調べる立場にない、と言えば嘘になる。生徒会長は調べられる。調べた記録が残るだけだ。
正確に言えば、俺は、答えが出るのが嫌だった。
予想していたことが当たっていた場合、俺は生徒会長として、あの夜の件をどう処理したかを自分に説明しなければならなくなる。処理していない。届も出ていない。被害者もいない。
つまり俺は、三年間積み上げてきた運用の外側に、一つだけ手つかずの穴を開けたまま卒業しようとしていた。
穴を見ないでおくのは、塞ぐより簡単だ。
俺はその簡単な方を選んだ。歴代最高の生徒会長と呼ばれたこの俺が、だ。
九月の第一週に、一度だけ、こちらから声をかけた。
校舎の渡り廊下だった。一年が移動する時間に、わざわざその時間を空けた。
何を言うつもりだったのか、決めていなかった。
決めていないまま人に声をかけたのは、あれが初めてだった。
「一年Dの赤木だな」
「...ああ、あんたか」
「体育祭の配置希望は、期限内に出せ」
我ながら、ひどい用件だった。
一年の配置希望など、生徒会長が個人に言う話ではない。クラスの委員が回収し、担任が束ねて上げてくるものだ。
あの男は、それを笑わなかった。
「......フフ、用がねぇなら話しかけんな」
それだけ言って行こうとした。
俺は呼び止めなかった。呼び止めていれば、何かを訊いていた。訊けば、答えが出る。
だから、行かせた。
何も置いていかなかったのは、こちらではなく向こうの方だと、しばらく経ってから気づいた。
――用件の無い人間に、俺は用件を作って近づいた。
――用件を作らずに来たのは、今日が初めてだ。
「用件を言え」
「あんたが俺に用があんだろ」
「なんのことだ」
「あんたは俺を見た」
俺は黙った。
三日前、天幕の下で目が合った。生徒会長として全体を見ていた。見ていた中に、この男がいた。それだけのことだ。
それだけのことを、この男は三日持って歩いた。
「……それだけか」
「それだけだ」
「用件の無い人間を、俺は通さない」
「通したのもあんただろ」
言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。
俺は、言い返す言葉が出てこないという状況を、この学校で経験したことがない。
俺は窓の外を見た。校庭では、どこかのクラスがまだ仕上げをやっている。笛が鳴っている。
「一つ、確認していた」
Dの数字のことを話した。落ちたクラスは沈むこと。Dが沈まなかったこと。誰か一人いると考えていたこと。
「平田って男が頑張ってる」
「平田洋介は人を繋ぐ。数字は作らない」
「堀北がやってる」
「鈴音は」
そこで、言葉が切れた。
自分の声が、途中で止まったのが分かった。
「――鈴音は、答えを欲しがる人間だ。答えを欲しがる人間の作る数字は、あの形にはならない」
言いながら、自分で自分の言葉を聞いていた。
そう育てたのは俺だ。
勉強をしろ。運動をしろ。これをするな、あれをするな。あれが俺の後ろを歩くようになったのは、俺が後ろを歩けと言い続けたからだ。
十四のあれに、髪の長い女が好きだと言ったことがある。試したかった。俺の言葉をどこまで真に受けるのかを。
あれは、伸ばした。
以来、俺はあの髪を見るたびに、自分の嘘の長さを測っている。
「......なぜあれ以降見ないことにしていたのか、訊かないのか」
「フフ、見なかったことにできなかったから話しかけてきたんだろ」
「......そうだな」
俺は、五月の夜のことを考えていた。考えに入れていなかった場所からこいつがでてきたこと。夏の間、放っておく方が安全だと判断したこと。
「お前が何をする人間なのか、分からない。分からない人間を動かすと、想定していない方向に動く」
「動いたら困るのか」
「困る」
はっきり言った。
「俺は三月に卒業する。それまでに、この学校で俺が積み上げたものを、順番通りに次へ渡す。順番が狂うことだけは避ける」
言ってから、天井を見た。
順番は、もう狂い始めている。
本来十二月の生徒会選挙が、十月に前倒しされる。南雲が動かした。前倒しの手続きそのものに不備は無い。不備が無いように作ってから持ってきた男だ。
十月を過ぎれば、俺は会長ではない。
俺が三年かけて作った運用は、俺が座っている間しか意味を持たない。次に座る男は、俺の運用を一つ残らず捨てると公言している。
――積み上げたもの、と俺は今、この一年に向かって言った。
――積み上げたものが、あと一か月で紙になると知っていながら。
「一つ訊いていいか」
「言え」
「あんた、あの夜に何を確かめたかったんだ」
俺の手が、机の上で止まった。
止まったのが自分でも分かった。分かったが、直せなかった。
「答える必要はない」
「だろうな」
それ以上、この男は訊かなかった。
訊かれていれば、答えていたかもしれない。
「――なら、こっちから一つ言っとく」
「なんだ」
「あんたの妹は、今、何かを一人で抱えてる」
止まっていた手が、動かなくなった。
「中身は知らねえ。訊いてもいねえ。ただ、口を利かなくなった。飯の時も、練習の時もだ」
「……そんなことを、俺に言いに来たのか」
「今思いついただけだ」
嘘を吐いている顔ではなかった。
用件無く入ってきた人間が、話しているうちに口から出した。それだけのことを、それだけのこととして言っている。
俺は、声の高さが変わったのを自分で聞いた。
「お前は、なぜそれを俺に言う。言えば俺が動くと思ったか」
「動かねえだろ」
「なぜ」
「あんたが動いたら、順番が狂う」
しばらく、何の音もしなかった。
窓の外の放送だけが、遠くで続いていた。
「……そうだな」
自分の声が、思ったより低かった。
「俺は動かない。動けば、あれが自分で立つ機会を奪う」
「立てなかったら」
「そこまでだ」
言い切った。
言い切ってから、その言葉を今まで一度も口に出したことがないと気づいた。
四か月、俺はこの男を見ないことにしていた。
見ないことにしていた相手に向かって、俺は今日、三年分の言い訳を並べている。
「赤木しげる」
「なんだ」
「一つ、聞いておきたい。お前は、鈴音をどうしたい」
「どうもしねえ」
「なぜ」
「どうにかしてやろうって奴は、もう足りてる」
答えになっていなかった。
なっていなかったが、俺は追わなかった。
追えば、この男は答えを作る。作られた答えには意味が無い。
俺はこの男の顔を、端から端まで見た。
一度見た顔を忘れない人間が、四か月ぶりに同じ顔を見ている。
同じだった。何一つ変わっていない。あの夜、襟を掴んで持ち上げても瞬き一つしなかった顔と、今日この部屋に用件無く入ってきた顔が、まったく同じだった。
この学校の人間は、場所によって顔を変える。教室と、部活と、生徒会室で、全員が別の顔を使う。俺もそうだ。
変えない人間を、俺は初めて見た。
「鈴音は、答えを欲しがる」
さっきと同じことを言った。
「答えを与える人間の近くにいる限り、あれは伸びない。だから俺は与えなかった。与えないことが、あれのためだと考えていた」
「今も考えてるのか」
「考えている」
「なら、それでいい」
「だが」
そこで、言葉を切った。
切ってから、続けた。
「答えを与えない人間なら、他にもいる。――答えを持っていない人間は、めったにいない」
俺は引き出しから紙を一枚出した。
体育祭の進行表の裏だった。
万年筆で一行だけ書いて、机の上を滑らせた。
三年間で、俺が誰かに何かを約束した紙を渡すのは、これが初めてだった。
赤木しげるは、それを読んだ。読んで、そのまま押し返した。
「フフ、燃やしとけ」
「……理由を言え」
「あんたの字で、あんたの名前で、俺に何か約束した紙だ。誰かの手に渡ったら、困るのはあんただろ」
俺は、押し返された紙を見た。
この学校で三年、俺は記録を残すことで秩序を作ってきた。残っているから守られる。残っていないものは無かったことになる。
その原則を、潰された。
「こちらの心配をしているのか」
「してねえよ。紙が残ってると、こっちも動きにくい」
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「破られたらどうなんだ」
「俺が在任している間は、破らせない」
在任している間は。
そこまでは、本当だ。
「それ以上の保証は無い。三月を過ぎれば、ただの紙だ」
三月ではない。十月だ。
そう言い直さなかったのは、この男が期限を知れば、期限の中で動く人間だからではない。
期限を知っても、この男は動き方を変えないだろうと思ったからだ。
変えないと分かっている相手に、こちらの都合を渡す必要は無い。
「充分だ」
「いつ、何のために使うかは訊かない。お前が必要だと言えば、一度だけ守る」
「見返りは」
「無い」
「無いわけがねえだろ」
「見返りを取れば、取引になる。取引にすれば、俺はお前を動かす側になる」
迷いは無かった。
「俺は、お前を動かしたくない」
赤木しげるは、笑った。
この部屋で人が笑ったのを、俺は久しぶりに聞いた。
「何がおかしい」
「いや」
理由は言わなかった。
「もう一つ訊く。あんた、それを渡したら、順番が狂うかもしれねえぞ」
「狂うだろうな」
「いいのか」
「よくはない」
進行表を元の位置に戻した。
「だが、順番通りに渡して、渡した先が保たなければ、順番に意味は無い」
扉に手をかけた背中に、俺は声をかけた。
「赤木」
初めて名字だけで呼んだ。
「一つだけ、条件を付ける。その場を使う時、鈴音を客席に置くな」
振り返る気配があった。
俺は窓の方を向いていた。
「あれが見物人として座っているなら、俺は認めない。座るなら、賭ける側に座らせろ」
「あんたが決めることか」
「俺が決めることだ。生徒会長として認めるかどうかの話だからな」
「……ずいぶん、手が込んでるな」
「褒め言葉として受け取っておく」
扉が閉まった。
俺が鈴音から取り上げたのは、答えだけではない。
賭ける場だ。
あれは、賭けたことがない。勝負に代償がつく場所に、一度も立たせなかった。
今から俺が与えても意味が無い。俺が用意した場は、勝ち負けの形をした課題にしかならない。
外から持ち込まれるなら、話は別だ。
俺は決裁の続きに戻り、万年筆を取った。
一行目で、手が止まった。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦