グラウンドの隅で、リレーのバトンパスを何度も繰り返している連中がいた。
「今のタイミング、完璧! これなら本番も絶対いけるって!」
弾んだ声が聞こえる。何度も練習して、同じ手順を重ねて、自分たちだけの正しい答えを作った気になっている。
だが、本番で隣のコースの奴が派手に転んで足元に滑り込んできた瞬間、そんな手順は一瞬でゴミになる。
あらかじめ決まった答え合わせしか知らない奴は、他人が絡む勝負じゃ一番脆い。
放課後、寮へ戻る道で、後ろから声をかけられた。
「赤木くん」
振り返ると、堀北が立っていた。
三日ぶりに、こっちを真っ直ぐ見ていた。
「話があるの」
「そうかい」
「……場所を変えてもいいかしら」
「どこでもいい」
非常階段の踊り場だった。
寮の外側にくっついている鉄の階段で、風が通る。ここから見えるのは、駐輪場と、その向こうのケヤキ並木だけだ。
十月が近いのに、日はまだ長い。
堀北は手すりに手を置いて、しばらく黙っていた。
黙ったまま、二回、口を開いて閉じた。
俺は待った。
三度目に、声が出た。
「坂柳有栖に、勝負を申し込まれているわ」
「そうかい」
「……驚かないのね」
「驚く順番が来たら驚く」
堀北は一度だけ息を吸って、そこから先は止まらなかった。
「私のせいで兄さんは学園の最後に泥を塗るわ」
条件は五つあった。
一つ。勝てば、五月八日の夜の件は破棄される。坂柳の口からも、他の誰の口からも、二度と出ない。
二つ。負ければ、五月八日の夜の件が流れ、堀北学は立場を失う。
三つ。種目は後日通知。学力も体力も一切関係のない、読み合いの勝負。
四つ。期限は体育祭当日まで。
五つ――
そこで、また止まった。
「五つ目は」
「……赤木くんの身には、この勝負で何も懸からない、と」
「ほう」
「勝っても負けても、あなたが失うものは一つもない。そう言われたわ」
風が下から吹き上げてきて、堀北の髪が一度大きく動いた。
「相手は、あなたなの」
聞いて、最初に来たのは、不快感だった。
何も懸からねえ。
だが、同時に感心した。
……なるほど。
――フフ、あいつらしい置き方だな。
本気で俺を相手にするってのは、言葉通りらしい。
だから、あいつはこの形にした。
俺の予想通りなら、堀北も坂柳もとことんついてねえ。
学との約束は思ったより早く使う時が来たらしい。
口の端が上がった。
「フフ」
「……何がおかしいの」
「ずいぶんと回りくどいやり方をしやがる」
堀北は、俺が坂柳のことを言ったと思ったらしい。頷きかけて、途中で止まった。
「……今の」
「なんだ」
「坂柳さんに向けた言い方では、なかったわ」
そこまでは、よく見ている。
「あなたも気付いているの?」
「さあな」
この女は、まだそこまで届かない。届いたら、卓が一つ減る。
「ところで、なんであんたなんだ」
「訊いたわ。『私の都合です』としか」
「そうかい」
「赤木くん」
堀北が、手すりから手を離した。
「負けて、ほしいの」
言った。
言ってから、俺の顔を見ていた。目を逸らさなかった。
逸らさずに言うために、三日かかったんだろう。
「あなたにとっては、何も懸かっていない勝負よ。負けても、あなたは何も失わない。でも、私は――」
「断る」
言葉を切った。
「……理由を」
「勝負じゃねえからだ」
俺は手すりに背中を預けた。
「あんたが勝つんじゃねえ。俺が譲るんだ。譲られて守った兄貴の顔を、この先あんたはどう見るんだ」
「見られればいいわ。顔が残っていれば」
「できるだろうな」
そこは認めた。
「できるが、その何かを決める時、あんたは毎回今日のことを思い出す。俺に頼んで、俺が譲った日のことをだ」
堀北は、何も言わなかった。
「つまんねぇことすんじゃねぇよ」
「……勝手なことを言わないで」
声が震えていた。
震えたまま、続けた。
「私が何を持って歩こうと、私が決めることでしょう。生きて持って歩ける方がいいに決まってる。あなたに何が分かるの」
「分からねえよ」
即座に返した。
「分からねえから断ってる」
堀北が俺を睨んだ。
本気で睨まれたのは、いつ以来か思い出せなかった。
「じゃあ、どうしろって言うの」
「勝てばいい」
「無理よ」
「無理か」
「無理だわ」
言い切った。
「読み合いの勝負ですって。私が今まで生きてきて、一度もやったことのない種類のものよ。私が勝ってきたのは、答えのあるものだけ。答えのあるものを、答えの通りに解いてきただけ」
「そうだろうな」
「あなたは、答えの無いところにしかいない人でしょう。勝てるわけがない」
「勝てねえよ」
俺は言った。
「勝てねえよ。あんたは負けるのが怖いんじゃねえ。間違えるのが怖いんだ」
堀北の顔から、色が抜けた。
「……なら」
「だから、やる」
「え」
「勝負は受ける」
聞き違いだという顔をしていた。
「何を言って」
「勝負を受けると言ってる。譲らねえで、正面からやる」
「それは、兄さんが終わるということでしょう」
「クク、そうかもな」
俺は、手すりに肘を置いた。
「あんた、さっき何て言った」
「……何の話」
「勝てるわけがない、と言った」
風が下から吹き上げてきた。
「勝てるわけがねえと思ってる奴は、負ける。必ず負ける。だから俺は、あんたが勝つ方に賭ける気がねえ」
「……だったら」
「今はな」
堀北が黙った。
「今のあんたには賭けねえ。当日のあんたがどうなってるかは、今日の俺には分からねえ」
風が止まっていた。
「まだ日がある」
「三日よ。体育祭は三日後だわ」
「勝負の日取りは決まってんのか」
「……いいえ。後日通知だと」
「なら、三日じゃねえだろ」
手すりから手を離した。
「三日で人が変わるところを、俺は何度か見ている。それより長けりゃ、もっと変わるかもしれねぇ」
しばらく、堀北は動かなかった。
やがて、手すりをもう一度掴んだ。
掴んだ手に、力が入っていた。
「……教えて」
「何をだ」
「読み合いの勝負で勝つ方法を。あなたが知っていることを、全部」
「クク、教えたら、俺が負ける」
「構わないでしょう。あなたには何も懸かっていないんだから」
言ってから、自分の言葉に自分で気づいた顔をした。
俺は笑った。
「そいつは、いい返しだ」
「種目は分からねえんだろ」
「ええ」
「読み合いだとだけ言われてる」
「ええ」
「なら、一番きついのを教えとく」
「一番きついもの」
「それが出るとは限らねえ。ただ、一番きついのを知ってる奴は、それより下のものに困らねえ」
堀北が、少し考える顔をした。
「何のこと」
――――
――――――
――――――――――
その話は、日が落ちるまで続いた。
俺が喋ってばかりで、堀北は一度も筆記具を出さなかった。出さずに、全部聞いていた。
最後に一つだけ、口の中で繰り返していた。
その話はそこで終わった。
「一つ、訊いていい」
「なんだ」
「なぜ、私に教えるの」
「訊かれたからだ」
「それだけ」
「それだけだ」
堀北は納得しない顔をした。
「あなたは、私が勝つ方には賭けないと言ったわ」
「言った」
「賭けない相手に手札を渡すのは、損でしょう」
「フフ、損だな」
俺は認めた。
「素人が卓について、訳もわからないまま死ぬのはつまんねぇだろ」
「……何の話をしているの」
「あんたが何も知らねえまま座って、俺が全部知ってて勝ったとする。その卓で分かることは何もねえ。俺が今日ここで口を閉じたってだけだ」
堀北は、何か言おうとして、やめた。
「私、あなたのそういうところが」
「なんだ」
「……何でもないわ」
「もう一つ、言っておくことがあるの」
「まだあるのか」
「兄さんに、訊かれたわ。Dクラスは今度の行事で何位を取るつもりだ、と」
「なんて答えた」
「最下位は避けます、と」
堀北は、そこで少しだけ目を伏せた。
「言ってから、後悔したわ。何の根拠もない。ただ、あの人の前でだけは、言えないことがあるの」
「だろうな」
「四クラスのうち、組が負ければ全員が百引かれる。その上で、クラス別の順位でもう一度引かれる。最下位ならもう百。合わせて二百」
数字を並べている時の声だけは、落ち着いていた。
「五月に千を落として、夏で戻して、今それを二百落とすの。私が最下位は避けますと言ったのは、そういう意味だったはずなのに」
「今は、そっちどころじゃねえって顔だな」
「……ええ」
「両方やれよ」
「無茶を言わないで」
「無茶じゃねえ。片方を捨てた人間は、残った方も落とす。俺は何度か見ている」
堀北は、返事をしなかった。
返事の代わりに、手すりから手を離して、腕を組んだ。
考える時の形だった。
「今日教えてもらったこと、全部覚えるのは無理よ」
俺は笑った。
「クク、俺が覚えた時は一晩で足りたけどな」
「あなたと比べないで」
「学力なんて関係ねぇってことだ」
「そもそも、覚えたところで何に役立つのかもわからないわ。私とあなたの勝負で使うわけでもないのでしょう?」
「そうだな」
「……だったら」
「嫌ならやめればいい、どっちにしたって勝負は受けてやる」
「……覚えたらどうなるの」
「三日で座れるようにはなる」
夕方の風が、また下から吹いてきた。
「勝たなくていいの」
「勝ちたきゃ勝て」
俺は振り返らずに言った。
「ただし、勝ちに行く前に、まず座れ」
「……どうやって、覚えればいいの」
「好きにしろ。覚え方まで人に訊くなよ」
堀北が、少し呆れた顔をした。
「あなたが言うと、変な感じがするわ」
「そうかい」
俺は階段を降りながら言った。
「一つだけ約束しろ。降りるな」
「おりる」
「勝てねえと分かった勝負でも投げるな、ってことだ。投げ方は、最後に覚えればいい」
その夜、部屋の窓を開けた。
向かいの棟の、二つ下の階の窓に、遅くまで灯りが点いていた。
あの女は、俺に頼んで、断られた。
断られてから、教えてくれと言った。
順番としては、悪くねえ。
頼んで通る相手なら、頼み続けて生きていける。通らないと分かった時に何を言うかで、その人間の底が出る。
底は、まだ見えちゃいねえ。
灯りは、俺が窓を閉めるまで消えなかった。
決着をつけてほしいのはどれ?
-
坂柳との再戦
-
龍園との貸借
-
綾小路との関係
-
堀北との距離感
-
櫛田との停戦