【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜 作:GC
月曜の朝、隣の席には、まだ椅子が引かれていなかった。
机の上には何も無い。机の中にも、何も無い。
いつもなら、始業の五分前には座っている人だった。座って、何も見ていない顔で窓の外を見ている人だった。
五分前が過ぎた。
チャイムが鳴った。
茶柱先生は、出席簿を開かずに教壇に手をついた。
「綾小路清隆は、今朝、退学届を提出した」
教室の音が、止まった。
「受理された。本日付で、この学校の生徒ではない」
最初に声を出したのは、須藤くんだった。
「は?」
誰も続かなかった。
須藤くんは、自分の声が一人だけ教室に残ったことに気づいて、口を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。
「ちょ、待てよ。先週まで普通にいたじゃねえか。体育祭だって出てたろ」
「出ていたな」
「何かやらかしたのかよ」
「何もしていない。学校が生徒を退学させたのではない。生徒が学校を辞めた」
茶柱先生の声は、いつもより低かった。
平田くんが、立ち上がりかけて、座り直した。
「先生、理由は」
「本人の意思だ」
「それだけですか」
「それだけだ。私に言えるのは、そこまでだ」
茶柱先生は、そこで一度だけ私を見た。
見て、すぐに目を逸らした。
それから、もう一つ付け加えた。
「Aクラスの坂柳も、同じく今朝、届を出した」
教室が、今度は本当に静かになった。
池くんが、山内くんの方を見た。山内くんは、首を横に振った。
軽井沢さんが、机の下で携帯を握っていた。握ったまま、画面を見ていなかった。
誰も、二つの名前を一つの話として繋げられなかった。
Dの一番目立たない男子と、Aの頭。
同じ朝に、同じ紙を出した。
繋げられるのは、この教室に二人しかいない。
私と、教室の後ろの方で、頬杖をついている人だった。
赤木くんは、窓の外を見ていた。
茶柱先生の話が終わるまで、一度もこちらを向かなかった。
私は、隣の机を見た。
土曜の午後、あの机の主は私に言った。お前が勝って、無事教室に来れればの話だがな、と。
私は来た。
来た教室に、言った本人がいなかった。
一時間目の数学が始まっても、隣の机は空いたままだった。
黒板の数式を写していて、ふと、消しゴムを探して左手が隣へ伸びかけた。
伸ばした先には、誰もいない。
四月から、何度か、隣の消しゴムを勝手に使った。使うたびに、持ち主は何も言わなかった。
手を、引っ込めた。
自分の筆箱から、自分の消しゴムを出した。
体育祭のあと、Dクラスの点は200落ちた。
514から、314。
体育祭の前に、私は兄に言った。最下位は避けます、と。
避けられなかった。
避けられませんでした、と言いに行った兄の部屋の前の階段を、言えないまま引き返した。
あの日、私は自分が逃げたのかどうか分からなかった。
今なら分かる。
逃げた。
逃げて、その週の土曜に、逃げられない卓に座った。
200は戻っていない。
戻す手が、一本減った。
四月から、私はこのクラスを自分が動かしているつもりでいた。
そのうちのいくつかは、隣の席の人の手だった。
私が知っているのは、いくつかあったということだけだ。いくつだったのかは、最後まで教えてもらえなかった。
教えてもらえないまま、その人はいなくなった。
これからは、私がやる。
全部をやれるかどうかは、分からない。
分からなくても、座っている。
一時間目の終わりのチャイムが鳴った時、私はノートの端に、314と書いていた。
書いた数字の横に、線を一本引いた。
そこから、戻す。
昼休み、購買から戻る廊下で、龍園くんが赤木くんの前に立った。
私は、少し後ろを歩いていた。同じ列に並んでいただけだ。
二人が立ち止まったのは、階段の前だった。そこを抜けなければ、教室には戻れない。
横を抜ける気には、なれなかった。龍園くんの声が、もう廊下の空気を変えていた。
私は、階段の手前の掲示板の前で足を止めた。貼られている紙を、読むふりをした。
聞くつもりは無かった。ただ、そこからだと、全部聞こえた。
「よぉ、赤木。杖が消えた。Dの地味な奴も消えた。同じ朝にな」
「そうらしいな」
「てめえだけが残ってる。てめえも、何か賭けてたんだろ」
「さあな」
「体育祭の前の日に言ったよな。まだ払ってねえもんがある、って」
「言ったな」
「払う前に消えられちゃ、俺の勘定が合わねえんだよ。てめえは、俺の取り分を抱えたまま、自分を卓に乗せやがった」
廊下を通る人が、二人の周りだけ足を速めていた。
赤木くんは、パンの袋を持ち替えた。
「なら、今払う」
「ほう」
「Dの頭は俺だと、あんたは数えてたろ。もう一人いた。あんたが数えそこねてた奴だ」
龍園くんの目が、細くなった。
「綾小路だ」
掲示板の紙の上で、目が止まった。
その名前を、この廊下で、赤木くんが口にするとは思っていなかった。
綾小路くんが何をしてきたのか。全部ではないけれど、私は知っている。知っていて、誰にも言わずにきた。
その名前が、パンの袋と一緒に、龍園くんへの支払いに出されていた。
龍園くんの顔から、笑いが消えた。
「……綾小路」
龍園くんは、その名前を一度、口の中で転がした。
「あの、何も喋らねえ奴か」
目が、廊下の先を見ていた。Dの教室の方だった。
見ているうちに、龍園くんの顔が変わっていった。
何かを、一つずつ並べ直している顔だった。
「……そうかよ」
低い声だった。
「島でも、船でも、俺の網に引っ掛からなかった分がある。ずっと、てめえ一人で説明がつくと思ってた」
龍園くんの拳が、握られた。
白くなるまで、握られていた。
「俺は、影を殴ってたってわけか」
影。
私は、掲示板の端を指で押さえた。
島で、龍園くんの前に立っていたのは私だった。立っていた私の後ろで何が動いていたのか、私自身、全部は見ていなかった。
龍園くんが殴っていた影の何割かは、私の背中に隠れていた。
「さあな」
「消えてから教えやがって」
龍園くんが、赤木くんの胸ぐらを掴みかけて、途中で止めた。
止めた手が、震えていた。
殴る先が、もうこの学校のどこにも無かった。
「……今、それを言うか。もういねえ奴の名前だろうが」
「払えって言ったのは、あんただ」
龍園くんは、しばらく黙っていた。
黙ったまま、掴みかけた手を、ゆっくり下ろした。
「……ククッ。ククク……」
笑い声が、途中で乾いた。
「てめえは本当に、間尺に合わねえことしかしねえな」
「そうかい」
「払ったことにしてやる」
龍園くんは、赤木くんの肩に自分の肩を当てて、通り過ぎていった。
赤木くんは振り返らずに、パンを一口かじった。
私は、何も言わなかった。
言うことが、無かった。
二人がいなくなってから、ようやく掲示板から目を離した。
貼られていたのは、図書室の休館日の案内だった。一文字も、頭に入っていなかった。
赤木くんは、いなくなった人間の名前で、借りを一つ片付けた。
綾小路くんが聞いたら、たぶん、何とも思わない。
いなくなったから、払える名前になった。いる間は、誰もあの名前を数えなかった。龍園くんも、クラスの皆も。
知っていて黙っていた、私も。
私だけが、少し腹を立てていた。
腹を立てている相手の中に、自分が入っているのは分かっていた。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、佐倉さんが赤木くんに声をかけた。
私のすぐ隣でのことだった。
「赤木くん。あの、これ」
佐倉さんは、茶色の封筒を両手で差し出した。
「夏の、写真です。前に、渡すって言ってたので。遅くなって、ごめんなさい」
赤木くんは封筒を受け取った。中は見なかった。
「……私が写ってるのは、入れてません。撮ったのは私なので」
「そうかい」
「週末、どこか行ってましたか」
「行ってた」
佐倉さんは、それ以上は訊かなかった。
「帰ってきてくれて、よかったです」
小さく頭を下げて、佐倉さんは出ていった。
赤木くんは、封筒を鞄に入れた。
私は、靴紐を結び直していた。
隣で聞こえた話に、口を挟む理由は無かった。
昇降口を出たところで、櫛田さんに呼び止められた。
「堀北さん」
いつもの声だった。
「ちょっといい?」
「ええ」
櫛田さんは、校門とは反対の方へ、少しだけ歩いた。
人の少ない、植え込みの脇で止まった。
「綾小路くん、辞めちゃったね」
「そうね」
「坂柳さんも」
「ええ」
「なんかさ、変な感じ。綾小路くんって、いるのかいないのか分かんない人だったのに、いなくなったら、教室の後ろの方が広いんだよね」
櫛田さんは、笑った。
教室で使う方の笑い方だった。
「……ねえ、一個だけ訊いていい?」
櫛田さんは、私の顔を見ていた。
「この前、ケヤキモールで。頼むわねって、言ったよね」
「言ったわ」
「あれ、何を頼まれたのか、ずっと分かんなかったんだけど」
櫛田さんは、首を傾けた。いつもの角度だった。
「結局、何だったの?」
私は、少し考えた。
考えても、答えは一つしか出てこなかった。
「私が負けた後のことよ」
「負けた後?」
「負けていたら、しばらく、クラスの前に立てる顔をしていなかったと思うから」
「負けるって、何に?」
「言えないわ」
櫛田さんの首の角度が、少しだけ戻った。
「だから、クラスのことを頼んだの。あなたに」
「……私に?」
「ええ」
「なんで、私なの」
「一番、クラスの顔を見ている人だから」
櫛田さんは、黙った。
黙ったまま、植え込みの葉を一枚、指で弾いた。
「でも、終わってみたら、立っていられた。今日も、クラスの前に立ってる」
私は言った。
「だから、もう頼まなくていい」
櫛田さんの顔から、いつもの表情が一瞬だけ抜けた。
抜けた後に何が出てきたのか、私には名前が分からなかった。
笑顔ではなかった。
怒った顔でもなかった。
手に持っていたものを、渡す前に取り上げられた人の顔に、少しだけ似ていた。
「……そっか」
櫛田さんの声が、少しだけ低かった。
それから、いつもの顔に戻った。
戻るのに、一秒かかった。
一秒は、櫛田さんにしては長かった。
「そういえばさ」
いつもの声だった。
「赤木くんの勉強会、今日からまた始めるの」
「そう」
「来週からって、言ってたんだよね。あの時」
櫛田さんは、校舎の方を見上げた。
「その来週が、今週なんだけどさ。今週になったら、綾小路くんも、坂柳さんもいなくなってた」
「……ええ」
「変な週だね」
「そうね」
「でも、赤木くんは来るんだよね。いつもの時間に」
櫛田さんは、私を見ずに言った。
「来たら、私、扉開けるから」
「そう」
「開けるだけだよ。それだけ」
念を押すように言って、櫛田さんは寮の方へ歩いていった。
振り返らなかった。
私は、植え込みの脇に残った。
扉を開けた時に、櫛田さんがどんな顔をするのか。
私には、見ることができない。
見ることができないまま、それは今夜も起きる。
私が頼むのをやめたものを、櫛田さんは、誰にも頼まれずに持っていく。
櫛田さんと別れてから、私は兄の部屋の前の階段を上った。
体育祭の翌日に、一度ここまで来て、引き返した階段だった。
避けられませんでした、と言いに来た。あの日の私は、その一言の先を持っていなかった。
今日も、持っていない。
持っていないまま、上った。
扉を叩いた。
二回。
「入れ」
兄は、机に向かっていた。
机の上に、黒い手帳が一冊あった。
土曜と日曜に、会議室で開かれていた手帳だった。
「座れ」
言われて、座った。
座ってから、自分が何も持ってきていないことに気づいた。
「兄さん」
「なんだ」
「314です」
兄は、手帳から顔を上げた。
「体育祭の後の、Dクラスの点です。514から、200落ちました。最下位でした」
「知っている」
「知っていると思っていました。それでも、自分の口で言いに来ました」
兄は、何も言わなかった。
「体育祭の翌日に、ここまで来て、帰りました。言えなかったからです」
「今日は、言えたな」
「言えました」
私は、膝の上で手を握った。
握った手は、冷たくなかった。
「戻します。314から」
「一人でか」
「一人ではありません。クラスには、まだ38人います」
兄は、少しの間、私を見ていた。
それから、黒い手帳を閉じた。
「今月で、俺は会長を降りる」
「……はい」
「この手帳は、会長の名で残した最後の記録になる。誰にも見せない。誰にも渡さない」
「燃やすのですか」
「残す。俺が持っている」
兄は、手帳を机の引き出しに入れた。
入れる前に、一度だけ、北一局の頁を開いた。
私には、何が書いてあるのかは見えなかった。
「鈴音」
「はい」
「二度目の槓の前に、綾小路が言ったことを覚えているか」
「覚えています。その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る、と」
「お前は、知っていると答えた」
「知っていましたから」
私は、膝の上の手を見た。
「最後の一枚を数えたのは、私です」
兄は、何も言わなかった。
「五日間で覚えたのは、役と点数と、捨て牌の数え方でした。南三局で、あの人に西を切った時、数えたものは、味方に届けるために使えると知りました」
「それで、山を数えたのか」
「はい。一つ目の槓では、足りませんでした。あの人が、そう言いました」
「独り言だった」
「独り言でした。だから、私が勝手に数えました」
兄は、引き出しを閉めた。
「俺は、あの時、止めるべきかどうかを考えた」
「……不正だったのですか」
「不正ではない。お前は何も伝えていない。知っていると言っただけだ」
兄は、椅子の背にもたれた。
兄がもたれるところを、私は子供の頃から数えるほどしか見たことが無かった。
「止めるべきかどうかを考えたのは、立会人としてではない」
私は、息を止めた。
「兄として、だった」
兄の声は、変わらなかった。
変わらない声で、兄は続けた。
「止めなかった。お前の卓だった」
私は、何も言えなかった。
言えないまま、兄の顔を見ていた。
四月に、兄に何も言えないまま、この学校に入った。
この秋、兄の立場を、自分の勝負に懸けた。
十月の土曜日に、私はそれを自分の負けで失くしかけて、日曜日に取り返した。
取り返したのは、私一人ではなかった。
「兄さん」
「なんだ」
「ありがとうございました、とは言いません」
兄の目が、少しだけ細くなった。
「言えば、兄さんは、礼を言われることは何もしていないと言いますから」
「言うな」
「だから、言いません」
私は、立ち上がった。
「次に来る時も、悪い数字を持ってきます。良くなるまで、何度でも」
兄は、何も言わなかった。
扉を開ける前に、私は一度だけ振り返った。
兄は、机に向かっていた。
向かったまま、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
見間違いかもしれない。
見間違いでないなら、私は、あの顔を初めて見た。
日が落ちかけた頃、校舎の裏の自販機の前で、赤木くんを見つけた。
探していたわけではない。帰り道の途中にある。
私は、鞄を開けた。
土曜の朝から入れっぱなしだった紙袋を出して、突き出した。
「これ。遅れたけれど受け取ってくれるかしら」
赤木くんは、紙袋を見て、受け取った。
中身は、黒い革のキーケースだった。飾りも、文字も無い。
「鞄の中で鳴ってたやつか」
「……聞こえていたなら、何か言いなさいよ」
「言うほどのことじゃねえだろ」
赤木くんは、キーケースを内ポケットに入れた。
礼は言わなかった。言われるとも思っていなかった。
「誕生日、この前だったんでしょう」
「なんであんたが知ってんだ」
「綾小路くんから前に聞いたのよ」
赤木くんは答えずに、もう片方のポケットに手を入れた。
出てきたのは、煙草の箱だった。
一本抜いて、指の間で回した。
「は?」
声が出た。
「ちょっと。何してるの」
赤木くんは、答えなかった。
マッチを擦った。
「あなた、未成年でしょう。煙草は二十歳からよ」
赤木くんは、答えなかった。
「それに、ここは学校。見つかったら、あなた一人じゃ済まない。クラスの点まで引かれるわ。今、いくつだと思ってるの。314よ」
「知ってる」
「知ってるなら、しまいなさい」
私は、赤木くんの手首を掴んだ。
掴んだ手首は、少しも力が入っていなかった。
入っていないのに、動かせなかった。
赤木くんは、掴まれたまま、火をつけた。
小さな火が、風の中で一度揺れて、煙草の先に移った。
私は、手を離した。
離すしかなかった。
「……不良ね」
「そうかい」
赤木くんは、一口吸った。
吐いた煙が、校舎の壁に沿って上っていった。
この人から煙草の匂いがしたのは、初めてだった。
「十四になるな」
煙を見たまま、赤木くんが言った。
何のことか、分からなかった。
私が訊いたことの、答えだった。
「……何を言ってるの」
「
冗談を言う顔ではなかった。
未成年でしょう、と言ったのは、ついさっきの私だった。
冗談を言う人でもなかった。
入学した日、この人は端末の触り方を知らなかった。言葉が古かった。点が減る話をしている時だけ、楽しそうな顔をした。
一つずつなら、ただの変わった人だった。
並べると、今この人が言ったことの形になる。
認めたくなかった。
認めたくないのに、並べ終えてしまっていた。
十四。
私より、二つ下だ。
中学の教室にいるはずの歳の人が、半年、同じ教室の後ろの席に座っていた。
その人に、私は、降りるなと言われた。手が冷てえなと言われた。あの卓で、逃げた先で待たれた。
腹が立った。
誰に対してなのかは、分からなかった。
その歳で、あの卓に平然と座れる人間がいることにか。その人に、半年かけてようやく追いついたつもりでいた自分にか。
腹が立って、それから、少しだけ怖くなった。
怖いと思ったことは、この人には絶対に言わないと決めた。
代わりに、別のことを言った。
「年下なの、あなた」
「そうなるな」
「二つも」
「数えたのか」
「数えるわよ。……だったら、敬語を使いなさいよ」
赤木くんが、煙を吐きながら、少しだけこちらを見た。
「フフ、堀北さん、とでも呼ぶかい」
「……やめて。気持ちが悪いわ」
「だろうな」
口の端が、上がっていた。
笑われたのだと分かって、また腹が立った。
腹が立つのに、さっきまでの怖さが、少しだけ薄くなっていた。
夏の前に、綾小路くんが一度だけ言ったことがある。
あの男の入学の書類は、どこか
あの時は、意味が分からなかった。分からないまま、仕舞っておいた。
今、その引き出しが、勝手に開いた。
辻褄が合わないのは、書類だけではなかった。
博打打ちの年寄りみたいな口を利くくせに、この人は、時々ひどく子どもだった。
缶を開けずにポケットに入れる。パンをかじりながら廊下を歩く。要らない千点棒を、出したいからと言って出す。晒した当たり牌を、平気で見逃す。
学校の裏で、生徒会長の妹の目の前で、煙草に火をつける。
向こう見ずだと思っていた。
向こう見ずなのではなかった。
向こうを見る歳に、まだなっていないのだ。
見ないまま、見えている大人より先に、卓の一番奥まで歩いていってしまう。
腑に落ちた。
落ちたことが、少しだけ悔しかった。
「どうして、私に言うの」
「訊かれたから答えた」
それだけだった。
それだけのはずがない、と思った。
言えば、この人は「さあな」と言う。
だから、別のことを言った。
「年下なら、少しは年上の言うことを聞きなさい」
「卓の上で、俺に差し込んだ奴がか」
「……あれは、作戦よ」
「そうかい」
「そうよ。あなたが南三局で、ちょうどだな、なんて言うから」
「言ったな」
「言われたら、出すしかないじゃない」
「出さなくてもよかった」
「出したのよ」
赤木くんの肩が、少しだけ揺れた。笑ったのかどうかは、煙で分からなかった。
「そもそも、それ、どこで手に入れたの。この学校の売店には置いていないはずよ」
「さあな」
「……やっぱり」
言うと思った。思った通りの答えが返ってきて、なぜか少しだけ可笑しかった。
「来年の誕生日は、遅れずに渡すわ」
言ってから、自分で驚いた。来年のことを、この人に向けて口にしたのは初めてだった。
「来年か」
「何よ」
「先の話は、性に合わねえ」
「合わなくても、来るわよ。九月は」
赤木くんは、答えなかった。
煙だけが、壁を上っていった。
煙草が半分まで短くなったところで、赤木くんはそれを空き缶に押しつけた。
箱を一度開けて、ポケットに戻した。
七本、見えた。
「一本、減ったわね」
「そうだな」
「減点されたら、あなたが戻しなさいよ」
「されたらな」
赤木くんは壁から背を離して、校舎の角を曲がっていった。
私は、空き缶から上る細い煙を、踏み消すものも無いまま見ていた。
鞄が軽かった。
土曜の朝から入っていた紙袋が、もう無かった。
翌朝、昇降口で、赤木くんが下駄箱の前で止まっていた。
上履きの上に、白い封筒が一枚、置かれていた。宛名も、差出人も無い。
赤木くんは封を切って、中の紙を読んだ。
読んで、少しの間、動かなかった。
それから、口の端だけで笑った。
「それ、誰から」
「さあな。書いてねえ」
「何が書いてあったの」
「フフ、
赤木くんは、封筒をポケットに入れて、階段の方へ歩いていった。
止める言葉を、私は持っていない。
止める理由も、たぶん無い。
赤木くんは、どこかの卓に座るために生きている。
私は、私の卓に座る。
隣の席は、今日も空いている。
空いた分だけ、私の仕事が増えた。
一時間目の前に、私はノートを開いた。
ページの間から、紙が一枚落ちた。
罫線の切れ端だった。数字が十一桁、並んでいるだけだった。名前はなかった。
字に、見覚えがあった。癖がなくて、誰が書いたのか分からないように書いた字だった。癖がないことが、あの人の癖だった。
いつ挟まれたのか、分からなかった。分からないのが、あの人らしかった。
この学校にいる間は、かける手段がない。
私は紙を、ノートのいちばん後ろに挟み直した。
314と書いた数字の横に、今日の日付を書き足した。
戻すのは、私だ。
降りずに、最後まで座る。
昨日の夕方、校舎の裏で嗅いだ煙草の匂いは、もう残っていない。
残っているのは、あの日曜日の卓で温まった、自分の手の温度だけだった。
チャイムが鳴った。
私の卓は、ここから始まる。
完
一週間後、赤木くんの席が空いた。
朝のホームルームで、茶柱先生は出席簿から顔を上げずに言った。
「赤木しげるは、昨日付で退学した」
理由は言わなかった。誰も訊かなかった。
机の中は空だった。教科書も、ノートも、最初から無かったみたいに。
煙草の匂いも、しなかった。
あの封筒が誰からで、どこの卓だったのか、私は知らない。
三度目の春が来た。
結論から言えば、私はAクラスでは、卒業できなかった。
三人が去ってから、あの週末を思い出す回数も減っていった。
逃げたわけではない。誰も私を知らない場所を選んだら、京都だった。
京都の春は、思っていたより騒がしかった。
大学の教室で、私は窓際のいちばん後ろに座る。誰も隣に来ない席を選ぶのは、もう癖になっていた。
降りずに座ると決めた卓から、いつ降りたのか、自分でも思い出せない。
その日、男が一人入ってきた。
細くて、目立たなくて、誰にでも似ている顔だった。
男は教室を見回して、私の隣を一つ空けて座った。
空いた席が一つ、そこに残った。
To be continued
Next ── 『ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い』
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
『アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜』は、これで完結です。
市川との一局を終えた十三歳の赤木しげるを、もしも高度育成高等学校の卓に座らせたら。思いつきから始まった話が、全75話になりました。アカギを頭のいい少年ではなく神域の男のまま書き切れたかどうかは、読んでくださった皆さんの判断に委ねます。
アカギの物語は、ここで一旦終わります。
けれど、堀北鈴音は自ら卓を降りました。
彼女の話は、まだ終わっていません。
続編『ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い』を投稿予定です。
舞台は三度目の春、京都。主人公は堀北鈴音。西尾維新〈戯言シリーズ〉とのクロスオーバーになります。
アカギを読んでいなくても楽しめるように書いていますが、読んでくださった方には、退学した綾小路、坂柳のその後や、まさかのあの子の零崎化、あちこちにアカギが残した傷跡を見つけてもらえるはずです。
卓から降りた堀北は、アカギのいない2年で何を感じていたのか。
いーちゃんの無為式から、何を学ぶのか。
アカギの退学、そしてよう実の世界にきた真相についていくつか謎が解かれる予定です。
本作への感想、評価、お気に入り登録をくださった皆さん、本当にありがとうございました。
続きを読んでくださる方は、また京都でお会いしましょう。