「へっ、威勢だけは一人前だな、英雄サマよ!」
俺は手の甲で口元の泡をガシガシと拭うと、二杯目のジョッキをドスンとテーブルに叩きつけた。
「おい親父、追加だ! この灰髪の兄ちゃんのおごりで、一番濃いのを持ってきてくれ!」
「おいおい、人の財布を勝手にアテにするなよ。……まあ、今夜くらいはいくらでも奢るがね」
ジークフリートは困ったように眉を下げつつも、どこか楽しそうに口元を綻ませた。彼もまた、手に持った木のジョッキを一気に傾け、ぐびぐびと音を立てて安酒を喉奥へ流し込んでいく。龍退治の英雄が、下町の雑多な酒場で、粗末な木杯を煽っている。その非現実的な光景が可笑しくて、胸の奥からこみ上げる笑いを抑えきれなかった。
「……ぷはっ! ふぅ、なかなか強い酒だな。宮殿の上等なワインとは、まるで喉越しが違う」
ジークフリートが荒く息を吐きながら、空になったジョッキを置く。その頬はほんのりと赤みを帯び、先ほどまでの不自然なほど硬かった表情は跡形もなく消え去っていた。
「だろ? あんな気取ったぶどう酒なんて、飲んだ気もしねえよ。こういう泥臭くてガツンと来るやつじゃなきゃ、一日の鬱憤なんて晴らせやしない」
肘をテーブルにつき、ガニ股で腰掛けたまま、俺はジークフリートの顔を改めてじっと見つめた。
燭台のゆらめく焔が、彼の端正な側顔を照らしている。普段の完璧な「英雄」の鎧を脱ぎ捨てた彼は、驚くほど等身大の、どこにでもいる青年の顔をしていた。
(……不思議な奴だ)
心の中で、ぽつりと呟く。
前世の成人男性としての自我を持つ俺にとって、この世の男たちは皆「自分を縛りつける存在」でしかなかった。完璧な貴婦人としての仮面を強要し、飾り人形として扱い、女として愛そうとしてくる気味の悪い存在。
だが、目の前にいる男は違った。
私の「男装」という最大の秘密、貴婦人としての失格、下衆な酒場で安酒をあおる素顔――そのすべてを目撃しながら、咎めるでもなく、引きつるでもなく、「生き生きとしていて良い顔だ」と爽やかに笑ってみせた。
「……なあ、ジークフリート」
「ん? なんだい、クリームヒルト」
「お前……本当に幻滅しなかったのか? 国一番の美姫だと噂されていた妻が、中身はこんなガサツで泥臭い『男』だったんだぞ」
自分の声が、わずかに震えているのが分かった。どこかでまだ信じ切れていない自分がいたのだ。明日になれば冷たい目で見られるのではないか、母上や教官に言いつけられて自由を完全に奪われるのではないかという、幼少期から刷り込まれたトラウマが胸を突く。
ジークフリートはジョッキを弄ぶ手を止め、青い瞳を真っ直ぐに俺へと向けた。その眼差しには、微塵の濁りも、嘘も存在しなかった。
「幻滅なんて、とんでもない。……むしろ、心が軽くなったんだ」
「心が……軽い?」
「ああ」
彼は自嘲気味に小さく笑うと、視線を少し落とし、己の大きな手のひらを見つめた。
「宮殿での君は、あまりに完璧で、あまりに遠かった。俺のような不器用な男が声をかけても、いつも冷たい壁一枚を隔てられている気がしていたんだ。……俺はね、君にどう接すればいいのか分からず、ずっと怖かったのさ」
無敵の英雄が、「怖かった」と吐露した。
「だが、いま目の前にいる君は……ずっと魅力的だ。変に飾り立てることもなく、己の足で立ち、己の意思で酒を飲んでいる。……そちらの方が、ずっとずっと好ましい」
言葉足らずで口下手だと思っていた男が、拙いながらも、どこまでも真っ直ぐな言葉を投げてくる。
胸の奥が、熱く打ち震えた。
(……ああ、そうか)
俺が欲しかったのは、膝を屈して跪く騎士でもなければ、俺を「至宝」と崇め奉る民衆でもない。
ありのままの「俺」を見つめ、対等な一人間として笑い合ってくれる……そんな「相棒」だったのだ。
「……ハッ、お前、本当に空気が読めない奴だな」
俺はそっぽを向き、照れくささを隠すように鼻を鳴らした。
「宮殿の連中が聞いたら卒倒するぞ。龍退治の英雄が、姫君の男装姿を絶賛してるなんてな」
「はは、いいじゃないか。あそこは息が詰まる。……ここだけの秘密だ」
ジークフリートが、少年のように悪戯っぽく微笑み、片目をキュッと瞑ってみせた。
その瞬間、俺の中で「ジークフリート」という男に対するすべての警戒と隔絶が、跡形もなく崩れ去った。
夫としては、相変わらずぎこちないかもしれない。男同士で睦み合うような真似は、これからも勘弁願いたい。だが――「男同士の最高の親友」としてなら、俺たちは誰よりも深く分かり合えるはずだ。
「決まりだ」
俺は運ばれてきた新しいジョッキを掴み上げ、ジークフリートの前に突き出した。
「今日からお前は、俺の最高の『相棒』だ。宮殿では完璧な夫婦を演じるが……ここに来たら、ただの男同士として腹を割って飲もう」
ジークフリートは一瞬目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、自分のジョッキを力強くぶつけてきた。
ガツン!
重い木音が響き、泡立った安酒が飛び散って、俺たちの手を濡らす。
「ああ、約束しよう! 最高の親友に……乾杯だ!」
ふたりして首を反らし、濁った酒を一気に煽る。
喉を焼く粗悪なアルコールの熱さが、今夜はたまらなく心地よかった。
(姫としての私を叩き込んだ奴らに見せてやりたいよ。俺の本当の相棒は、龍を殺した英雄だってな)
胸の中で、熱い決意が込み上げる。
いつか、この男を心の底から「夫」としても愛せる日が来るかもしれない。そんな予感すら抱かせるほど、この薄暗く汚い酒場の夜は、優しく、あたたかな光に満ちていた。
酒場でのあの一夜を境に、俺たちの世界を支配していた冷たく重苦しい空気は一変した。
昼間の宮殿において、俺たちは相変わらず「理想の夫婦」を演じ続けている。
「クリームヒルト様、ジークフリート様。本日も誠に睦まじく、麗しいお姿でございますね」
回廊ですれ違う老貴族が、恭しく頭を下げて称賛を贈る。
俺は真珠を転がすような淑やかな声で、「ありがとうございますわ。夫の深い愛に、いつも感謝しておりますの」と答え、完璧な角度で微笑んでみせる。
その隣で、ジークフリートもまた「私の妻はブルグントの誇りだ」と、凛とした英雄の顔で胸を張る。
だが、互いの視線がほんのコンマ数秒交錯する瞬間、そこには以前のようなぎこちなさや冷え切った隔たりは一切存在しなかった。
(……ふん。上手く騙されているな、あの老いぼれども)
(君のその完璧な仮面劇には、毎回感服させられる)
言葉を交わさずとも、瞳の奥に潜む微かな悪戯っぽい光だけで、互いの思考が手に取るように伝わってくる。宮殿の重苦しい空気や退屈な儀式も、二人だけの「秘密の共有」という密かな悦楽によって、退屈な余興へと姿を変えていた。
そして、夜が訪れ、宮殿が完全な静寂に包まれると、俺たちの「本番」が始まる。
自室の鍵を閉め、互いに粗末な服へと身を包む。俺が手慣れた手つきでサラシを胸に巻きつけ、男装を整えるのを、ジークフリートは嫌がる風もなく、むしろ興味深そうに手伝ってくれたりもした。
「よし、今夜も行こうか、クリームヒルト」
「ああ、待たせたな、ジークフリート」
湿った給水路の抜け道を二人で潜り抜け、下町の雑多な街並みへと飛び出す。
肩を揺らし粗暴に歩く俺の隣で、ジークフリートもまた一人の青年の顔をして軽やかに歩を進める。
あの薄暗く、泥と汗の匂いに満ちた酒場の扉を開ければ、そこは俺たちが心の底から息のできる、真の隠れ家だ。
「おい親父! いつものやつを二つ、なみなみ頼む!」
ガタつく丸テーブルにどっかりと腰を下ろし、肘をついて叫ぶ俺に、ジークフリートが爽やかに笑いかける。
「今夜は俺にも奢らせておくれよ。昼間の退屈な軍事会議の鬱憤を、全部この酒で洗い流したいんだ」
「ハッ、いい度胸だ。龍退治の英雄が、酒の量で俺に勝てると思うなよ!」
重い木のジョッキが激しくぶつかり合い、安酒の泡が飛散する。
周囲の荒くれ者たちは、目の前にいる二人が「ブルグントの至宝」と「無敵の英雄」であることなど知る由もない。ただの仲の良い男二人組として、雑多な喧噪の中に俺たちを混ぜ込んでくれた。
酒を煽りながら、俺たちは腹を割って語り合った。
宮殿の貴族たちのくだらない見栄、互いの生まれ故郷のくだらない思い出、そして、この中世の窮屈な社会に対するちょっとした愚痴。
「……本当にお前は不器用な奴だな、ジークフリート。昼間の挨拶だって、もっと上手く言えないのか?」
「すまない……言葉を選ぶのが昔から苦手でね。だが、君が隣で上手くフォローしてくれるから助かっている」
「たくっ、世話の焼ける相棒だ」
俺は呆れ顔を作りながらも、ジョッキ越しに彼の爽やかな笑顔を見つめ、胸の奥があたたかな熱で満たされるのを感じていた。
最初は「男同士で結婚するような気味悪さ」しか抱けなかった相手だ。可憐な妻としての自分を強要される恐怖に、毎日押し潰されそうになっていた。
だが、いま目の前にいるこの男は、俺の「泥臭い素顔」を丸ごと包み込み、対等な「最高の親友」として隣に立ってくれている。
夫としては、相変わらず手探りでぎこちないかもしれない。
けれど――男同士の絆を重ね、互いの魂を支え合うこの時間の中で、俺の中の何かが確実に変化し始めていた。
(……この男となら)
安酒のグラスに映る己の顔を見つめながら、俺は静かに心の中で誓う。
(今はまだ『最高の相棒』だが……いつか、この男を心の底から『夫』としても愛せるようになりたい)
言葉には出さず、けれど固い決意を込めて、俺は目の前の相棒に向かってジョッキを掲げた。ジークフリートもまた、青い瞳を輝かせ、嬉しそうに自分のジョッキを重ねてくる。
跳ね上がる泡と、あたたかな笑い声。
この悲劇の渦中に芽生えたあまりにも清らかで愛おしい絆が、永遠に続けばいいと、俺は心から願っていたのだった。
夜が明けると、再びあの息詰まるほどの「劇」が始まる。
自室の重々しい木製扉が開かれ、朝の清廉な光とともに侍女たちがなだれ込んでくる。
「まあ、クリームヒルト様! 本日もなんと神々しくお美しい……」
香油の甘い香りが部屋に立ち込め、俺を現実へと引き戻す。ドレスの紐が締め上げられ、骨組みが肋骨を容赦なく圧迫する。爪の先まで磨き上げられ、銀の髪が完璧な美しさで編み込まれていく。
鏡の中に立つのは、誰もが息を呑むブルグントの至宝、完璧な貴婦人クリームヒルト。
「ありがとう。皆の手際が良くて助かるわ」
鈴を転がすような淑やかな声で応じ、練習し尽くした微笑みを浮かべる。かつてなら、この瞬間に胃の腑が雑巾のように絞られ、自責と嫌悪で吐き気がこみ上げていたはずだった。
だが、今の俺は違う。
(……誰も気づいちゃいない。このドレスの下で、昨夜煽った安酒の熱がまだくすぶっていることなんて)
胸の内でそっと不敵に笑う。それだけで、重苦しいドレスの重量も、過酷な仮面劇も、すべては二人だけの愉快な「秘密の悪戯」へと昇華された。
大広間へと続く回廊を進むと、前方から騎士たちを従えたジークフリートが歩いてくるのが見えた。
眩しい灰色長髪に、太陽を映したような青い瞳。一歩踏み出すごとに滲み出る、龍退治の英雄としての圧倒的な覇気と威厳。立ち並ぶ貴族や使者たちが、恐縮と憧憬の混ざった眼差しで彼を見送っている。
彼が俺の前で足を止めた。
「おはよう、クリームヒルト。夕べはよく眠れたかい?」
「ええ、ジークフリート様。あなたのお側におりますと、いつになく穏やかな朝を迎えられますわ」
互いに一寸の隙もない、完璧な主君と姫としての挨拶。
だが、ジークフリートが俺の手を取ろうとわずかに屈んだ瞬間、彼の青い瞳がいたずらっぽく細められた。ほんのコンマ数秒、彼が口元を歪めてみせた小さな仕草は、昨夜酒場でともに飲み明かした青年の顔そのものだった。
私の手袋越しに伝わってくる、熱い手のひらの感触。
以前なら男同士で手を取られているような強烈な異物感に身を竦めていたはずのその熱が、いまは不思議と愛おしく、誇らしかった。
(不器用な相棒だ。だが……この男となら、悪くない)
「……参りましょうか、ジークフリート様」
「ああ、行こう」
並んで歩く回廊。大理石の床に響く俺たちの足音は、驚くほど完璧なリズムを刻んでいた。
宮殿の誰一人として知らない。俺たちが夜な夜な下町の泥に塗れ、くだらない冗談で腹を抱えて笑い合っていることも。この男が無敵の英雄などではなく、酒場で「財布をアテにするな」と呆れ顔を作る一人の青年であることも。
夫としては、まだ互いに手探りで、不器用な距離感が残っているかもしれない。
けれど、俺には分かっていた。 世界中の誰もが私の仮面しか見ようとしないこの冷たい王国で、この男だけが「俺」という人間の魂を救い上げてくれたのだと。
(最高の相棒……そして、いつか心の底から愛する夫へ)
溢れる光の中で、俺は隣を歩く相棒の側顔を密かに見つめ、胸の奥で静かに、けれど二度と消えない確信を深めていた。
このあたたかな絆の先にあるのが、破滅へ向かう惨劇の引き金になろうとは、この時の俺はまだ知る由もなかったのである。