フィクサーの憂鬱 作:とくめい
平日の夕暮れ時。高度育成高等学校の生徒たちで賑わうケヤキモール。
その一角にあるカラオケの個室は、分厚い防音扉によって外部の喧騒から完全に切り離されていた。
モニターの電源は落とされ、室内の照明は限界まで絞られている。
安っぽい芳香剤の匂いが漂う中、ソファの端で周囲を警戒するように座るAクラスの男子生徒・
乾は備え付けの端末でコーヒーを一つだけ頼み、すぐにテーブルの上へと端末を置く。
密室に、重苦しい沈黙が落ちる。
「……何の用だ」
警戒心と苛立ちを剥き出しにする真田に対し、乾はジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと首を鳴らした。
オールバックに撫でつけられた黒髪の下で、一切の感情が読み取れない三白眼が真田を捉える。
「理由は二つだ。一つは……最近、お前がAクラスで上手くやっていないという『噂』を聞いてな」
「なんだと?」
「お前は正直、
「ふざけるな。俺が坂柳を裏切るとでも? たかがCクラスの、
真田の声がわずかに上擦る。
対照的に、乾の声はただただ平坦だった。
「落ち着けよ」
真田は無意識にテーブルの下で拳を握り、身体を強張らせていた。
乾から自然と放たれる静かな威圧感に、本能が警鐘を鳴らしている。
乾はその様子を冷徹な眼差しで見透かした。
「これが二つ目の理由だ」
乾は自身の手をポケットから抜き、携帯をテーブルの上に無造作に放り投げた。
「お前の端末だ。つい最近無くしたよな?」
「なんで、お前が……!」
「超難解なパスワードにはひどく手こずった。たしか『1・2・3・4・5・6』……ほら、開いた」
淡々と、心底呆れたように告げる乾の皮肉に、真田の顔から血の気が引く。
乾は画面を数回スワイプし、一枚の写真を表示させたまま端末を真田へ向けた。
画面に映し出されていたのは、自撮りをする真田自身の顔。その後ろ、乱れたベッドの上で、シーツから上半身を無防備に覗かせて眠りこけている女子生徒の姿だ。
女子生徒ーーーーAクラスの西川。
最近、坂柳の側近に猛アプローチをかけ、見事付き合い始めたばかりの女だ。
乾は真顔から急ににっこりと笑みを浮かべた。その目は、どこまでも冷たい。
「いけない子だな。お前も西川も」
真田は平静を保とうとしているが、呼吸が浅い。
乾は運ばれてきたコーヒーのカップに手を伸ばすことなく続けた。
「うまく女の仕込んだまでは感心したんだぞ。すぐに事後のこんなマヌケな写真を残したままにしてるとわかって呆れたが助かったよ」
「ふざけるなッ——!」
真田が血相を変え、身を乗り出そうとする。
だが、彼が腕を伸ばすより早く、乾はスマートフォンをテーブルの上で静かに滑らせ、真田の手元へ返した。
「力ずくで奪い返そうとするなよ。もう用済みだ、返す」
何を言われたのか理解できず、真田の動きが硬直する。
乾は眉一つ動かさず、冷めゆくコーヒーを見つめた。
「落ち着け。皆に聞かれたらどうする。もし知られたら……あの坂柳が、お前たちをどう処分するか、あまりにも気の毒な未来しか見えない、そうだろ?」
乾の静かな脅迫に、真田は自分の置かれた絶望的な状況を悟る。
データを抜き取られているかどうかの確認すら、もはや無意味だった。
「……何が望みだ」
「保険が欲しい」
「保険……?」
「明後日、上位クラスのリーダー陣が集まって、ささやかな『お茶会』を開くのは知っているな」
「ああ……」
「いいか」
乾はテーブルの下から黒い布に包まれた掌サイズの箱を取り出し、真田の前に置いた。
「お前は今後何も聞かず、この箱を話し合いの場に持ち込んで隠せ。雑務担当のお前なら事前に会場へ出入りできる。目につかない場所へ設置しろ。さもないと、あの写真を坂柳に送る」
「無理に決まってるだろ! 大体、この中身はなんだ……!? ふざけるな、龍園もその話し合いに出るんだろ。盗聴なんて意味がないじゃないか!」
「本気で平和協定が結べると思っている馬鹿はいない。皆、建前で腹を探り合うためにテーブルに着くだけだ。そして真田、無理じゃない。考えろ」
乾の冷たく這うような声が、真田の鼓膜を打つ。
「そもそも龍園が席にいる間の会話なんざどうでもいい。予定ではすぐ抜けるからな。価値があるのは、龍園が来る『前』と、帰った『後』だ」
「……ッ」
「上位クラスの連中が、俺たちがいない場所でどう結託するか。もし結託するなら問題だ。その密約を知るための『耳』だ。まぁ、お前に選択肢はない。そうだよな?」
「…………」
「真田、お前は今、Aクラスの弱点だ。自分の女と俺にタマを握られて身動きが取れない」
真田は俯き、唇を噛み締めて押し黙った。
乾は身を乗り出し、真田を射抜くように見据える。
「さあ、言ってみろ。プライドの高いお前が、指示を聞くかどうか確かめたい」
「……」
「『俺はAクラスの弱点だ』と」
長い沈黙の後、絞り出すような、ひび割れた声が漏れた。
「…………俺が、弱点だ」
「隠し場所が決まれば連絡しろ。わかったな」
「…………くそっ」
乾は立ち上がり、敗北した獲物を見下ろした。
「お前も辛い立場だよな」
結局一口も飲まなかったコーヒーを残し、乾は事務的な足取りで店を出て行った。
◆
翌日の放課後。Cクラスの誰もいない教室は、西日に照らされて埃が舞っていた。
窓枠に腰掛けて薄笑いを浮かべる
「例の件、仕掛けは終わった。Aクラスの雑兵は、今後こちらの言う通りに動く」
「ククッ……相変わらず手回しが早いな。報酬はすぐ振り込む」
「ああ、助かる。……それと、報酬を前借したい」
乾の言葉に、龍園はわずかに目を細めた。
この男が自らポイントの支出を要求してくるのは珍しい。
「構わねぇがなぜだ?」
「調べたい相手がいる」
「ほう? お前がわざわざ自腹を切ってまで調べる相手か」
「Dクラスの生徒だ。まだ確証はないが……妙な違意感がある」
「違和感、か」
「俺の仕事は先を読んで常に安全策を考えることだ。無駄足になってもクラスには迷惑をかけない」
「ククッ。そうか……いいぜ、好きにやれ」
◆
夜の特別棟裏。監視カメラの死角となる暗がりを、
(入学してまだ数ヶ月。各クラスが手探りで牽制し合う中、Cクラスの動きだけが異質だ)
暗闇に溶け込みながら、綾小路は脳内で龍園の不気味な動向を整理する。
(表向きは不良たちを力でねじ伏せて暴れ回っているが、水面下でAクラスやBクラスの弱みを握るための工作が見て取れる。そして異様に緻密すぎる。龍園のやり方とはまた違う、何か妙だ)
その思考を、前方で唐突に弾けた強烈な閃光が断ち切った。
「ッ……」
数千ルーメンのタクティカルライトによるストロボ照射。
市販のアウトドア用ライトを改造し、最大光量での激しい点滅に特化させた手製の武器。
突然、強烈な断続光を至近距離から浴びせられると、人間の脳は視覚情報の処理が完全にパンクし、空間把握能力と方向感覚を強制的に喪失させられる。
暗闇に慣れきっていた綾小路の視界も、眼球を突き刺すような白い光によって一瞬にして視界不良を起こした。
(退学のリスクを負ってまで、一般生徒を闇討ちするメリットなど存在しない。なら、この襲撃の目的は暴行じゃない)
暗闇と閃光を利用した、極めて洗練された奇襲。
相手の狙いは俺を壊すことではなく、俺が『この絶対的な死角からの攻撃にどう対応するか』という反射——つまり、隠し持っている実力の底を測ることと予想。
だが、俺は入学以来、徹底して無害で平凡な生徒を演じきってきた。
成績も行動も完璧に平均値へと調整し、誰の目にも留まらないよう立ち回っている。
俺の疑う要素など、どこにもないはずだ。
網膜に白濁した残像がこびりつき、足元すら覚束なくなる絶対的な隙。
奇襲を仕掛け、マスクで顔を覆う乾が放った追撃は拳ではなく手に握られていた、頑丈な硬質ジュラルミン製のライトだ。
乾はそれを警棒のように巧みに操り、死角から的確に綾小路のこめかみへと叩き込もうと軌道を走らせる。
コンパクトでありながら、一撃で意識を刈り取るための極めて合理的な武器術。
——だが、直前。
視界を完全に奪われているはずの綾小路は、空気の揺らぎと気配だけでその軌道を看破していた。
半歩身を沈め、飛来するライトを紙一重で頭部にかする程度にいなす。
同時に、その懐へ滑り込むように踏み込み、乾の脇腹へ強烈な掌底を叩き込んだ。
(……ッ!)
乾は衝撃を逃すように体を捻り、すぐさまライトの柄を反転させて即席の盾とする。
綾小路の追撃の手刀をその硬い筐体で強引に受け止め、生まれたわずかな隙に、乾は軸足を払う下段回し蹴りを放った。
しかし、綾小路は重心を寸分もぶらさず、その蹴りをすくい上げるように足首を掴み、バランスを崩し転倒させようとするが乾は体を捻り回転しつつ距離をとる。
(強い、恐ろしく)
乾は反射的にライトのスイッチを切って闇夜へと身を隠した。
わずか数秒の、息を呑むような近接戦闘。
再び静寂に包まれた空間。
(……ただの学生が、数千ルーメンのストロボ照射に対応するだけじゃない。視界が真っ白に飛んだ状態から、こちらの動きをあそこまで冷静に完全に読み切り、至近距離の攻防をノータイムで制圧しにかかるなど……スポーツ感覚の格闘技経験では絶対にありえない)
掌には、強烈な手刀を強引に受け止めた時の重い痺れが残っている。
完全な『藪蛇』だった。これ以上の接触は命取りになる。
(極限状態での最適解を、一切の思考を挟むことなく叩き出してくる。……冗談じゃない。このまま正面からやり合えば、かなり厳しい戦いになる)
冷や汗を流しながらも、乾は迎撃の体勢を整えた綾小路に対し、一切の躊躇なく踵を返した。
これ以上の情報は不要とばかりに気配を絶ち、特別棟の裏口方面へと足早に撤退していく。
残された綾小路は、暗闇の中で少しだけ痺れた腕を振りながら静かに分析を始める。
(凶器の代わりにライトを警棒のように扱い、あの体術は一般の生徒のものじゃない。暗闇の中で俺の反撃を的確に捌き、即座に離脱の判断を下す冷静さ……)
――――強い。
そして一番の問題点、それはやはり……。
(なぜ俺を狙った?)
◆
翌日。屋上へ続く階段の薄暗い踊り場で、乾と龍園は再び向かい合っていた。
「 Dクラスの様子はどうだった」
「現時点では、やはり障害にはならない」
乾は短く答え、冷たいコンクリートの壁に背を預けた。
「現時点、か」
「
乾の分析に一切の誇張はない。現状のDクラスは、それぞれが致命的な欠陥を抱え、足並みを揃えられないでいる単なる不良品の集まりだ。
「ただし……それらを完璧に統率するリーダーが現れれば、手が付けられなくなる可能性はある」
「ククッ、あのポンコツ共がまとまるのか見ものだな」
「楽観視できないぞ、龍園」
乾の低く、一切の冗談を含まない声色が響いた。
その即答と尋常ではない空気感に、龍園の口元から薄笑いがスッと消え去る。
踊り場を支配する静寂。龍園は言葉の真意を探る様に乾を凝視した。
「……それで? お前がわざわざ前借りしてまで探っていた奴は、誰だ」
「綾小路清隆」
「アヤノコウジ? ……知らねぇ名前だな」
龍園は記憶を探るように首を傾げたが、すぐに興味を失ったように鼻を鳴らした。
「まあいい。お前がそこまで言うなら何かあるんだろう。何かわかれば、すぐに俺に教えろ」
「ああ」
「……そこまでするほどに、そいつは危険なのか?」
「間違いなく」
短い、しかし確信に満ちた乾の返答。
常に余裕を崩さず、最悪の事態でも冷静に計算を弾き出すこの男が、ここまで警戒心を露わにするのは極めて珍しい。
龍園は少しの沈黙のあと、喉の奥で低く笑い、短く息を吐いた。
「……いいぜ。任せた」
乾が壁から背を離し、階段を降りようとした背中へ、龍園が声をかける。
「おい」
「なんだ」
「期待してるぜ、乾」
龍園の声には、隠しきれない愉悦と未知の獲物に対する好奇心が滲んでいた。
◆
規則的な革靴の音だけが、コンクリートの壁に冷たく響いていた。
ふと、乾のポケットの中でスマートフォンが無機質な振動を伝える。
画面に表示されたのは、登録のない番号。
短い通話を経て、乾は寮への帰路を外れた。
向かった先は、学生寮の裏手にある自動販売機の死角。
そこには、缶のホットティーを両手で包み込み、ひどく退屈そうに壁によりかかるAクラスの女子生徒——
「最悪。あのサディスト、平気で人をパシリに使うんだから」
「人使いが荒いトップを持つと苦労が絶えないな」
乾が自販機からガコンと落ちてきたブラックコーヒーを取り出しながら同意すると、神室は同情と呆れが混ざったような視線を向けてきた。
「……あんたの所の龍園も大概でしょ。よくあんなのの相手が務まるわね」
「ああ見えて意外と身内には甘いぞ」
「驚いた、乾って冗談言えるんだ?」
「俺を何だと思っているんだ」
「血も涙もない猟犬?」
「…………」
乾が呆れたように肩をすくめると、神室は小さく鼻を鳴らした。
冗談とも本気ともつかない軽口の応酬の中に、不思議な連帯感が生まれる。
クラスは違うが、暴君に振り回される「裏方」としての苦労は痛いほど共有できた。
冷え込む夜気の中、二人の深い溜息が見事にシンクロして白く濁る。
「……で、クイーンからどんな無茶振りだ?」
「『この番号に連絡しろ』だってさ」
神室は一枚のメモ書きを乾に押し付け、飲み終えた空き缶をゴミ箱へ放り投げると、ジロリと彼を睨みつけた。
「あんた、あの女に何をしたの? ここのところ、あんたの話題ばっかりで何考えているのかわからなくて気味が悪いんだけど」
「何もしてない。向こうが勝手に執着してるだけだ」
乾はコーヒーのプルタブを開けることなく、夜空を見上げた。
「……これ、絶対に電話しないとダメか?」
「私なら心底嫌だけど、しておくわね」
神室は吐き捨てるように言い、気怠げな足取りで寮へ向かって歩き出す。
「じゃ、伝言は伝えたから」
ヒラヒラと背中越しに手を振りながら去っていく神室の姿を、乾は見送った。
誰もいなくなった自販機の横。
乾はもう一度、深く重い溜息を吐き出した。
ポケットから端末を取り出し、先ほど渡されたメモの番号を入力する。
発信ボタンを押す直前、暗い画面に反射した自分の顔は、これから始まる面倒事を予感して酷く歪んでいた。
「……クイーンのご機嫌取りをするか」
発信の電子音が、冷たい静寂の中に吸い込まれていった。