『蒼』は荒野を駆ける   作:ぶっぱなす

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第十六話 アブナイ酒場サースティ

船を持っている男を断った当日から、俺は西へ走っている。

 

行き先は酒場、サースティという名の酒場だ。

グラップラーに逆らう連中が集まる店だと、俺はそれだけを事前情報として知っていた。

海から離れると、土は二日で赤みを取り戻していた。

唇を舐めても、もう味はしない。

 

そして俺はと言うと、月を見る癖がついた。

 

二つ目の月は、もう細い。

あと何日で見えなくなるのかを、俺は正確には知らない。

知らないままではあるが、それでも数えている。

 

デルタリオでは、十四人が門の内側に並べられているはずだ。

朝までそこに並べられ、狩られていくのだろう。

そのはずだ、としか言えない。

 

西に向かって四日目に、荷を積んだ車と行き違った。

三台とも、俺を見てから道の反対側へ寄った。

先頭の男が一度だけこちらを見て、それきり前を向いた。

 

俺はそれを砲のせいだと思った。

砲を積んだ乗り物を、荒野で好んで近づける人間はいない。

 

その推測は半分は合っていた。

合っていない半分に俺が気づくのは、この二日後、サースティについてからだ。

 

 

 

西に向かって六日目に、サースティに着いた。

 

サースティは、涸れた貯水槽の傍にあった。

貯水槽の鉄の脚が四本、錆びたまま立っている。

上の槽には穴が空いていて日が透けていた。

水をためていたその槽には、もう水は一滴も残っていない。

 

その横に、石と板で組んだ二階建ての建物がある。

入口の前に、乗り物が十三台停めてあった。

 

戸を開ける前に、中の音が外からでも分かった。

人の声が聞こえる、一人や二人の声ではない。

 

涸れた槽の下で、これだけの人間が飲んでいる。

店の名がサースティというのも、たぶんそういうことなのだろう。

 

俺は戸を押してサースティの中に入った。

押した先は、熱かった。

 

外は冬で、俺は六日走ってきた。

それなのに板を一枚隔てただけで、空気の温度が違う。

これは、人が出す熱だ。

 

六日間、俺は荒野の音の中にいた。

風と、砂と、エンジンに塗れた身体だ。

その耳のまま人の声の中に入ると、最初の何秒かは慣れず何も聞き取れない。

目も同じだ。

灯りが多すぎて、輪郭が全部にじんで見える。

身体をリセットして立て直すのに、数秒数えるくらいかかった。

 

数え終わってサースティに慣れていく内に、匂いが三つ分かった。

 

酒と、汗と、煙草だ。

 

煙草の匂いが、俺の鼻には一番遅れて来た。

一本や二本ではない。

十本か、二十本か、それ以上が同時に燃えている匂いだった。

 

六年間、俺はロールの吸う一日三本を数えて暮らしていた。

そして三本より多い日は、その日のうちに誰かが死んでいる。

 

ここでは、誰も数えていない。

 

そして、音があった。

音の発生源に目を向けると、ピアノがあった。

 

俺は戸口で足を止めた。

 

この世界に来て七年になるが、ピアノの音を聞いたのはこれが初めてだった。

 

 

 

中は、明るかった。

 

灯りが十四あって、全部点いている。

油を惜しんでいない店を見たのは、六年ぶりだった。

 

床は板で、その上に砂が薄く乗っている。

砂は掃かれていないが、掃かないのが正しい。

乾いた砂は、こぼれた酒を吸うからだ。荒野の酒場にはこれが合うのだろう。

 

奥に一段高い舞台があった。

その下手、壁際にピアノが置いてある。

弾いているのは痩せた男だった。

帽子を目まで下ろしていて、顔はよく見えない。

舞台の方を一度も見ない。

 

鍵盤が欠けていた。

数えると、白い鍵盤が二つない。

 

二つ足りないままではあったが、その音楽は成立していた。

足りない場所を、この男は最初から通らないように弾いているようだ。

 

そこまで見たところで、拍が変わった。

 

速くなったのではない。

気が変わったのだ。

 

さっきまでの拍が唐突に二つ縮んで、舞台の上の二人が一瞬慌てて合わせた。

横で革を張った樽を叩いていた男が、一拍遅れて追いついた。

 

「またかよ!」

 

樽の男が笑いながら怒鳴った。

ピアノ弾きは顔も上げない。

 

そこで俺は一つ、分かったことがあった。

 

この店で順番を決めているのは、舞台の上の二人ではない。

帽子のピアノ弾き、あの男だ。

 

 

 

舞台の上に、女が二人いた。

 

恐ろしく美人の双子だった。

 

背丈が同じで、髪の色が同じで、肩から腕までの線が同じだ。

衣装の面積は少ない。

少ないのだと一目で分かる作りをしていた。

 

その二人は、同じ形では動いているのではなかった。

 

左右が逆だ。

 

片方が右腕を上げると、もう片方が左腕を上げる。

片方が右へ回れば、もう片方は左へ回る。

 

鏡写しだ。

 

「はやいってば!」

 

片方が笑いながら叫んだ。

ピアノは速いままだった。

 

「もう一回言うよ、はやいの!」

「知らねえよ」

 

初めてピアノ弾きが喋った。

喋りながら、また少しだけ速くした。

 

店が沸いた。

 

「いいぞ!」

「そのまま早くするんだ!」

「あんまり早くするなよ、明日も踊り見るんだからな!」

 

前の卓の三人が同時に立ち上がって、また座った。

座ってから、一人が銅貨を投げた。

 

銅貨は舞台の縁で跳ねて、床に落ちる。

拾う者はいない。

拾うのは後だ、という決まりがこの店にはあるらしかった。

 

投げているのは前の三列だ。

後ろの卓の連中は投げない。

投げないが、全員が舞台を見ている。

 

「リサーッ!」

 

後ろの方で誰かが叫んだ。

右の娘が、そちらへ手を振った。

 

「はいはい、あたしね」

「ちがう! おれはそっちのが好きなんだ!」

「うるさいねえ」

 

左の娘が言い返して、店がまた笑った。

そして次の拍で、右と左が入れ替わった。

俺はその入れ替わりを、意味も分からず数え、憶えた。

六年間、俺は意味の分からないものを憶えるのが得意だった。

 

ついでに、酒場に居る人を数えようとした。

三十までは数えたけれど、その先は動き始めてしまって数えられなくなった。

数えるのをやめたほどの大人数は、この六年で初めてだった。

そう思った俺は一度、目を閉じることにする。

 

と、ピアノが、そこで急に遅くなった。

 

遅くなった、というより、落ちた。

速い拍のまま走っていたものが、一つ手前で止まって、そこから歩き始めた。

 

店が静かになった。

 

誰も叫ばないし、誰の銅貨も飛ばない。

樽の男は、途中で手を止めて叩くのをやめてしまった。

 

舞台の二人は、遅い拍に合わせて動きを変えていた。

さっきまでと同じ形を、半分の速さでやっている。

それだけで、まったく違うものに見えた。

 

「……ずるいなあ」

 

片方が小さく言った。

言いながら、ちゃんと合わせていた。

 

「ちゃんと合わせられるじゃねえか」

 

やはり舞台の方は見ていないまま、ピアノ弾きが言った。

六十人が、誰も喋らずに同じものを見ている。

全てを、帽子のピアノ弾きが指十本で決めていた。

 

遅い拍の中で、右側の娘が跳んで、降りた。

 

遅い分だけ、降り方がよく見えた。

降りた時に、左の膝をわずかに逃がしている。

 

古い捻挫だな。

治ってはいる。癖だけが残っている。

 

そこまで見やって、俺は苦笑して目を伏せた。

見るなと自分に言うのは、思っていたよりずっと難しい。

六年やってきたことを、六日でやめるのだから当たり前だった。

 

顔を上げた時には、二人はまた入れ替わっていた。

どちらがどちらかは膝を見れば瞬時に分かるが、俺はもう医者ではないのだからと膝は見ないことにした。

 

俺は舞台に背を向けて、卓の方へ歩いた。

途中で三度、客と肩がぶつかった。

 

「邪魔だ、ガキ」

 

そう言われたのは一度だけで、残りの二度は何も言われなかった。

言われないのは失礼だからではない。

舞台に熱中しすぎて、俺がそこにいることに誰も気づいていないからだ。

 

背中で、店がまた沸いた。

ピアノが速さを戻したらしい。

 

この店で一番賑やかな夜において、俺が欲しいものは船の話だ、双子は割とどうでもいい。

俺は明らかに場違いだった、たぶんこの時初めて自分に使ったのだと思う。

 

 

 

酒場の卓は長かった。

天板は四枚を繋いであって、繋ぎ目の一つが他より深く抉れている。

何かが繰り返し当たった跡だ。

 

その向こうに、男が立っていた。

 

背は低く、腕がやたらに長い。

硝子のコップを拭いていた。

俺が卓の前に立っても、男は顔を上げなかった。

 

「水をいただけませんか」

「酒場でただ水を頼む客ってのは久しぶりだな」

「……すみません」

 

他に何を頼めというんだ、と思ったが言わなかった。

いくら荒野とは言え十三のガキに酒を出す店の方が、どう考えても問題がある。

程なくして水が出た。

 

水は冷たかった。

 

上の槽は涸れていた筈だ。

涸れているのに、水が冷たい。

ということは、この店の水は上からではなく下から来ている。

 

井戸があるな、それも深いやつだ。

 

井戸のある場所に人が集まるのは、荒野ではどこでも同じだった。

この店が大きい理由の半分は、それで説明がつく。

だが残りの半分は、まだ分からない。

 

探そうと、俺はこの男の癖を探した。

 

六年間、俺はそうやって人の来歴を読んできた。

手か、目か、足か、喉のどれかに必ず一つはある。

 

手を見るといくつか傷はあったが、どの傷にも来歴がなかった。

刃物でも、火でも、機械でもなく、ただ古いだけ。

 

目を見ようとしたが、こちらを見ない。

足を見ようとしたが、卓の向こうなので見えない。

 

意図して見えない位置に立ち続けているということだけが、この男についての俺の唯一の所見だった。

 

そういう人間は、大抵、読まれて困ることがあった側だ。

それ以上は、分からない。

 

分からないまま、俺は用件を出した。

 

「船の話はありませんか。買いたいんですよ」

「うちは酒場だぞ」

「人の話は水より高いと聞きました」

「そりゃ荒野の水売りの相場だ、ここは店だぞ」

 

俺は椀を置いた。

置く時に音が鳴らないように置いた。

それだけは、うまくできた。

 

「西に、デルタ・リオという街があります」

 

拭く手は止まらない。

 

「そこの話は、入っていませんか」

 

止まらない。

 

「……ふた月ほど前に、人攫いが入った街です」

 

男は答えなかった。

 

三度聞いて、三度とも返ってこなかった。

返さないという返し方を、この男は一度も崩していない。

 

崩していないということは、崩し方があるということだ。

どこかに、この男が答える形の問いがある。

 

それが何なのかを、俺はまだ知らない。

俺はもう一歩踏み込んだ、踏み込むしかなかったからだ。

 

「バイアス・グラップラーが——」

 

そこまでで、俺は続きを言えなくなった。

近くの三人が黙ったからだ。

 

一人は椀を口の前で止めた。

一人は連れとの話をやめた。

一人は腰の後ろへ手をやって、それからその手を卓の上に戻した。

 

店の音は、少しも変わっていない。

ピアノは速いままだし、舞台の二人は同じ拍で動いている。

銅貨もまだ跳ねている。

 

何も変わっていないのに、俺の周りだけ人が半歩ぶん空いた。

そして、男の手は止まらなかった。

三人が止まって、この男だけが止まらない。

止まらないというのが、たぶんこの店で一番強い合図だった。

 

「あんた、何しに来たんだ」

 

横から声がした。

 

若い男だった。十七か、十八。

盆を抱えて立っている。

喋る前に、鼻を一度鳴らす癖があった。

 

「ふん……デルタ・リオ、って言ったな。そこからガキが、砲を積んだ単車で出たと」

「知ってるんですか。その単車を」

「東から来た奴が言ってたぜ。デルタリオを出た、砲を積んだ単車のハンターがいるってな」

 

また聞きだ。

 

三人を経由している。

三人を経由して、話は形を変えていなかった。

砲を積んだ単車。

デルタ・リオを出た。

その二つだけが、正確に残っている。

 

荷車の三台が道の反対側へ寄った理由が、そこで分かった。

 

砲のせいではなかった。

砲を積んだ単車の話が、ここサースティに先に着いていたからだ。

 

俺は自分より速いものを一つ、この荒野に放しているわけだ。

 

近くの卓で、誰かが笑った。

俺のことを笑ったのかどうかは分からない。

分からないが、笑い声というのは、当てはまる方に当たる。

 

「帰んな」

 

若い男が顎で戸を指した。

 

「うちは子供の来る店じゃねえ。飲めもしねえだろ」

 

 

 

俺は動かなかった。

動かなかったのは、思い出したことがあったからだ。

アズサの門の手前でマリアが言った。

 

「何回か聞かれる」

「だが違うものがある」

「3回聞かれて言われなかったら、その時は4回目をあんたが言うんだ」

 

その時、俺は意味が分からなかったが、分からないまま言葉だけを憶えた。

そして今、店の音の中で、一つだけ引っかかっているものがある。

俺は卓の男を見た。

 

「あなたはさっき、俺に一度も何も聞いていませんね」

 

拭く手は止まらない。

だが男は、初めて口を挟んだ。

 

「坊主……東から来たのか」

 

俺は息を止めた。

 

東から来た、事実としてはそうだ。

海は東で、桟橋は東で、轍が消えたのも東だった。

だがここで聞かれているのはそう言う意味ではなかった。

 

そう、アズサの時と同じ合言葉なのだ。

 

「……いえ」

「西かい?」

「いえ」

「北かい?」

 

三つだ。

 

三つとも、語尾が上がっている。

問いの形をしている。

 

三つとも違うときは、と一月前に言われている。

四つ目は、俺の方から答えるのだ

 

「いいや、南だね」

 

分かっていた内容なのに、言い終わるまで、俺は自分の声が裏返らないかだけを気にしていた。

けれども裏返らなかった。

 

店の音は、何も変わらなかった。

ピアノも、歓声も、銅貨も、そのままだ。

 

変わったのは、男の手に合った布だ。

 

男の手から布が離れて、卓の上に置かれた。

置いてから、男は初めて顔を上げた。

目が、思っていたより若かった。

 

「坊主、誰に聞いた?」

「アズサで」

「誰にだ」

「……名前は、ここでは言わない方がいいと思います」

 

男は少しのあいだ俺を見た。

それから、若い男の方へ顎を向けた。

 

「盆を置け。二階から女将を呼んでこい」

 

若い男は、鼻を鳴らさなかった。

盆を卓に置いて、そのまま奥の階段へ行った。

背中が、さっきまでと違っていた。

 

「坊主。その言い方は、ここでは一度しか使えん」

「一度でいいです」

 

男は布をもう一度取った。

取ったが、拭かなかった。

 

「水は下げるが、酒は出さんぞ」

「はい、それで構いません」

「だが飯は出そう」

 

 

 

二階は、下の音が半分になった。

 

床が厚い。

厚くしてある、と言った方が正しい。

下で六十人が騒いでいても、ここで喋る声が聞こえるように作ってある。

 

それでもピアノの音だけは、床を抜けてそのまま上がってきていた。

 

女が一人、卓の向こうに座っていた。

 

五十は越えている。

髪を後ろで一つに縛って、袖を肘まで上げていた。

 

袖を上げているのを見て、俺の手が一瞬だけ止まった。

ロールもそうしていた。

それだけの話で、この人とあの人には何の関係もない。

 

「あんたかい。南だねって言った坊や、アブナイお客さんは」

「はい」

「……いくつだい?」

「十三です」

 

女は少し笑った。

 

笑ってから、卓の上の紙を見て、何かを数えた。

指は動かさなかったが、俺はそれを見ていた。

 

六年間、市場でも診療所でも、勘定をする人間は必ず指を折った。

折らないのは、頭の中で全部終わる人だ。

この店で一番読みにくいのは、下の男ではなくこの人かもしれない。

 

「うちは酒だけの店じゃないよ。品物があるんだ」

「見せてください」

 

 

 

女が最初に出したのは、ヘッドホンだった。

 

「潜在能力のやつさ。使ったことは」

「ありません」

「一生に一度、扉が開くんだよ。開いた奴は別の職の技を憶える」

 

俺は黙っていた。

 

黙っていたのは、それを知っているからではない。

俺には、その扉がどうなっているのかが分からないからだ。

開きっぱなしなのか、最初からないのか、六年考えて答えが出ていない。

 

分からないものに金は払えない。

 

「すいませんがそれは要りません、もうすでに使えます」

「じゃあ鉄だねえ。接近戦用の長物かい、それともぶっぱなす短いのかい」

「それも間に合ってます、自身の武器はあるので」

 

言ってから、俺は口を閉じた。

その言い方を、俺は七日前に聞いている。

桟橋で、油差しを持った男が同じことを言った。

断る側に回ると、人はこういう言葉を使うらしい。

 

「クルマは表の単車だろう。あれだと装甲が薄いだろう」

「薄いです」

「クルマの話もあるよ、ここ近辺の話だ」

 

俺は首を振った。

 

二年前、オルガは乗り物には名前をつけた方が長持ちすると言った。

俺はつけたら乗り換えられなくなりますよと答えた。

あの人は樽の縁を二度叩いて、それきりその話をしなかった。

つけてしまったので、その通りになった。

 

それにサースティの近場のクルマは、レナのものだ。

 

「名前が付いてるので」

「……そうかい」

 

女は品物を仕舞った。

仕舞ってから、こちらを見た。

 

「あんた、うちから買うものが一つもないねえ」

 

俺は返事をしなかった。

 

返事をしなかったのは、その通りだからだ。

ヘッドホンは要らない。鉄も間に合っている。クルマは乗り換えられない。

薬は自分で作れる。工具は持っている。

 

この店に並んでいるものは、全部、俺が自分で持っているか、自分でできるかのどちらかだった。

それなのに、俺の欲しいもの、船の話はここに一つもない。

 

 

 

若い男が皿を持って上がってきた。

豆と、干した肉と、平たいパンが一枚。

頼んでいない。

 

皿を置いて、何も言わずに降りていった。

鼻は鳴らさなかった。

鳴らさない代わりに、俺の顔も見なかった。

 

「いくらですか。頼んでませんし金はあります」

「知ってるよ。座んな」

 

俺は座った。

 

金を払わずに飯が出てくるのは、六年ぶりだった。

デルタ・リオでは、街が俺に払っていた。

払っていたのは、俺が医者だったからだ。

 

ここでは誰も俺を医者だと思っていない。

思っていないのに、皿が出てきた。

 

理屈が合わない。

 

「なんで、くれるんですか」

「あんた、変なことを聞く坊やだねえ」

 

女は頬杖をついた。

 

「腹の減ってるガキに飯を出すのに、理由が要るのかい」

 

俺は何も言えなかった。

 

言えなかったのは、その理由を六年間、一度も使ったことがなかったからだ。

俺が誰かに何かを渡す時は、いつも順番と量が先にあった。

先に理由があって、後から手が動いた。

 

この人は逆だった。

 

「一つ聞いてもいいですか」

「ああ、言ってごらん」

「下で砲を積んだ単車の話をされました……ああいう話は、どのくらい残りますか」

 

女は少し考えた。

考える時も、指は動かさなかった。

 

「荒野ってのはね、人の顔はすぐ忘れるよ。三月も経てば、誰も憶えちゃいない」

「話の方は」

「話は忘れない」

 

俺は皿の縁を見ていた。

 

顔は忘れる。

話は忘れない。

荒野に残るのは、俺ではなく俺の話の方だ。

 

デルタ・リオでもそうだった。

連中は俺の顔も名も知らないまま、帳面の一行を頼りに二百四十人の門まで来た。

来られたのは、話の方が先に着いていたからだ。

 

同じことが、今また始まっている。

始まっているのに、止める方法がない。

 

砲を外せば戦えない。人を避ければ何も聞けない。

桟橋の手前で脇へ置いた矛盾が、そっくりそのまま皿の向こうに座っている。

 

 

 

女が棚の上の箱を取ろうとして、右腕を上げた。

上がりきる手前で、肩が一度逃げた。

 

古い脱臼だ。

入れ方が雑で、そのまま固まっている。

上げる角度を三十度落として、肘を先に出せば痛みは半分になる。

 

そこまで見えたが言わなかった。

 

言わないというのは、こんなに手間のかかることだったのか。

六年間、俺は見えたものを全部言ってきた。

言ったせいで、フェイを怒らせ、ミシカを怒らせ、オルガに気持ち悪いと言われた。

 

今日は誰も怒らせなかった。

怒らせなかったのに、後味は同じくらい悪かった。

 

 

 

下の音が変わった。

 

ピアノが止まって、そのあとに拍手が来た。

椅子の音と、床の銅貨を拾う音がする。

 

どうやらショーが終わったらしい。

階段を上がってくる足音が二つあった。

同じ拍だった。

 

「ねえ女将さん。合言葉の子って、アブナイお客さんってこの子?」

「そうだよ」

 

双子は、俺の卓の両側に立った。

 

近くで見ても、分からなかった。

背丈も、髪も、目の形も、同じだ。

汗をかいている量まで同じだった。

 

「じゃあ当ててよ」

 

左が言った。

 

「あたし、ウェンディ?」

 

右が言った。

 

「わたし、ウェンディ?」

 

俺は二人を見た。

 

膝を見れば分かる。

片方に古い捻挫の癖がある。

だが、その娘が舞台のどちら側にいたのかを、俺は途中で見るのをやめている。

 

見ない、と決めたのは俺だ。

決めた通りにするしかない。

 

だから、言葉で分けた。

 

「あなたがリサさんで」

 

左を指した。

 

「あなたがウェンディさんですね」

 

しばらく誰も喋らなかった。

 

それから二人が、同じ拍で顔を見合わせた。

 

「なんで分かったの」

「さっき、舞台で聞きました」

「聞いた?」

「後ろの方から、リサさんって呼んだ人がいました。あなたは、はいはい、あたしね、と答えました」

 

左の娘が口を開けた。

 

「……そんなの憶えてるの」

「二人の一人称が、揃っていなかったので」

「ちょっと待って。あたしたち、あのあと何回入れ替わったと思う」

「見たのは途中までですが、十三回までは覚えています」

「うっそ、数えてたの!?」

「いえ……数えるつもりは、なかったんですが」

 

二人はもう一度顔を見合わせて、それから同時に一歩下がった。

下がってから、片方が笑い出した。

 

「顔で当てられたことはね、一度もないんだよ」

「そうでしょうね」

「そうでしょうねって何!? じゃあ何で見分けたのさ!!」

「そりゃ疲れるだろうねえ」

 

女将が言った。

俺にではなく、俺の頭に向かって言ったように聞こえた。

 

俺は椀を置いた。

 

同じ拍で動く訓練を何年もした二人が、一人称だけは揃えていない。

揃えなかったのか、揃えられなかったのかは分からない。

分からないが、そこだけが二人の分かれ目として残してある。

 

鏡には、右も左もない。

だが、鏡は言葉までは逆にできない。

 

顔は忘れる。話は忘れない。

さっき聞いたばかりの言葉が、そのままの形で目の前に二つ立っていた。

 

 

 

女将が卓の紙を裏返した。

 

「坊や、じゃあ今うちが坊やに出せるものを一つだけ出すよ。でも船の話じゃない、それはうちにも入ってきてないんだ」

「ええ」

「南東に行くと、山がある」

 

俺は顔を上げた。

 

「先月、その一部が崩れた」

「地震ですか」

「知らないよ。だが崩れた面から、鉄が出てる」

 

女は指で卓を一度叩いた。

 

一度だけだ。

オルガは二度叩く。

 

「大破壊の前のもんだ。建物じゃない。もっと下から出てるのさ」

「見に行った人は」

「三組行った。二組は入れずに帰ってきた」

「では、中に入った一組は?」

「三人で入って、一人だけ出てきたよ」

「その人はどうしました」

「何も喋らないまま、三日で死んだ、うちが出せるのはこれくらいだ」

「……ありがとうございます、それで充分です」

「金は要らないよ」

「はい」

 

 

 

その夜、俺は貯水槽の脚の下で寝た。

 

屋根の下には入らなかった。

理由は自分でもよく分からない。

分からないが、そうしたい夜だった。

 

店からは、まだピアノが聞こえていた。

 

踊りはとうに終わっているのに、あの男は弾くのをやめていない。

拍は、もう誰にも合わせていなかった。

 

月を見ると細かった。

あと二日か、三日で消えるだろう。

西を見た。

何も見えなかった。

 

六年間、俺は煙で異常を測ってきた。

でも煙は昼に見えるもので、夜になれば何も測れない。

 

懐を数えた。

 

二千二百三十から、二千百六十になっていた。

減ったのは油と水の分だけだ。

 

飯の代金は、最後まで受け取ってもらえなかった。

俺はまた、返せないものを一つ受け取った。

 

数えていないと、そのうち忘れる。

忘れた借りは、返しようがないので数えた。

 

 

 

数え終わってから、俺はもう一つ思い出した。

三人で入って、一人だけ出てきた男の話だ。

 

何も喋らないまま三日で死んだ。

 

三日というのは、いろいろなものにちょうどいい長さだった。

外から入った毒が体の芯まで届くのにも。

悪い空気を吸った肺が、静かに固まっていくのにも。

 

分からないが、俺の頭は勝手に候補を三つ並べていた。

まあ並べたところで、確かめる方法は一つもない。

その男はもう埋められている。

 

俺は起き上がって、南東を見た。

細い月が、ちょうどその方角へ落ちようとしている。

 

明日、得た情報の建造物、恐らく大破壊前の遺跡へ行くことにした。

 

行って、崩れた面を見て、何かを持って帰る。

何を持って帰るのかは、まだ分からない。

 

分からないなら、見て、数えて、順番をつけて、決めるしかない。

でも大丈夫、六年間ずっとやってきたことだ。

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目が覚めたらそこは最悪の街だったーーー▼ふと気づくと2020年代のナイト・シティ。▼体は時代錯誤(2077)のクロームまみれ。能力はMOD基準。▼企業にバレたら実験動物よろしく解剖コース。▼生き残る道を探しながら、ジョニー達と関わっていくことになる奮闘劇。▼本作品は設定作成、本文一部にAIを利用しています。▼


総合評価:3460/評価:8.86/連載:28話/更新日時:2026年07月30日(木) 00:00 小説情報

皇国の守護者・守原英康(作者:オシドリ)(原作:皇国の守護者)

自己中心的な性格で、内乱を企てて射殺された、良い所無しな守原英康に憑依した。▼※ハーメルンへ投稿中の「短編置き場」にて、2017年01月21日(土)~2020年05月31日(日)までに投稿された作品を分離、再投稿したものになります。 ▼「短編置き場」でお気に入り登録、感想、評価をくださった皆様には、再投稿となりますことをお詫び申し上げます。


総合評価:4278/評価:8.95/完結:6話/更新日時:2026年07月28日(火) 21:00 小説情報

銀河腐れ伝説(作者:ウヅキ)(原作:銀河英雄伝説)

キガ ツク トワ タシ ハギ ンガ テイ コク ノキ ゾク ニナ ッテ イタ▼ソレ デモ ワタ シハ カツ テノ ユメ ヲワ スレ ナイ▼今更ながら原作キャラの血縁者に生まれたオリジナルキャラクターを主人公に、銀河英雄伝説の二次創作に挑戦してみました。クロスオーバー作品ですが片割れはほぼ出番がありません。▼本作品はらいとすたっふ規定(2015年改訂版)を遵守…


総合評価:7004/評価:8.82/連載:48話/更新日時:2026年09月08日(火) 22:15 小説情報

愛と勇気と正義にかけて、市民をお守りいたします!(作者:イングラマン)(原作:機動警察パトレイバー)

某巡査の娘が特車二課第二小隊に配属される、原作再構成二次小説です。▼自分が読みたいがために投稿しました。▼・TVアニメ版を軸にOVA、漫画版や小説版をミックスしています。▼・転生オリ主最強です。▼・一部キャラクターの生年と経歴を変更しています。▼・作者は警察組織や軍事関係、コンピュータについてはネットで調べた程度の知識しかありません。▼以上の点を踏まえて、本…


総合評価:3894/評価:9.02/連載:25話/更新日時:2026年09月04日(金) 18:00 小説情報


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