さよなら天さん ~今度こそナッパを倒す~ 作:鈴木デストロイヤー
ブラックホエール号、第五層。
市場は多くの乗客で混雑していた。新大陸への到着を待ちながら買い物をする者、食事を求めて歩く者、通路の端で商売をする者。様々な人間が入り乱れる中を、クロロとマチが歩いていた。
二人が話しているのはヒソカのことだった。
マチは自分がヒソカを殺すつもりでいる。だが、クロロも譲るつもりはなかった。今の旅団にとって、ヒソカは誰か一人の獲物ではない。全員がそれぞれの理由で奴を殺したがっている。
「見つけた奴がやればいい」
クロロは前を向いたまま言った。
「奴はこの船にいる。いずれ見つかる」
マチは不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
その二人から少し離れた場所を、一人の老人が歩いていた。
「……ここはどこじゃったかのう」
老人は立ち止まり、周囲を見回す。
どうして自分がこんな巨大な船に乗っているのか分からない。どこへ向かっていたのかも分からない。昔のことも、随分と忘れてしまった。
ただ一つだけ。
ナッパを倒さなければならない。
それだけは、何故か今も老人の中に残っていた。
「ナッパは……どこじゃったかのう」
ぶつぶつ呟きながら歩いていた老人が、人の流れの真ん中で足を止めた。
「おい」
背後から声を掛けられ、老人が振り返る。
「なんじゃ?」
数人の男が立っていた。
「邪魔だ。どけ」
「わしが?」
「他に誰がいるんだよ」
老人は少し考えてから横へ動いた。
男たちが通り過ぎようとする。
ところが老人も何故か同じ方向へ歩き出し、再びその前へ出た。
「爺さん、ふざけてんのか?」
「……何がじゃ?」
「だから邪魔なんだよ!」
肩を乱暴に押され、老人がよろめいた。
少し先では、クロロとマチがまだヒソカについて話している。第五層で起きた小さな揉め事など、気に留める理由もなかった。
「私は譲らないから」
マチが言った。
「分かっている」
クロロが答える。
その後ろで、男の一人が老人を殴った。
老人は倒れ、頭を床へ打ちつけた。
そのまま動かなくなる。
男が顔をしかめた。
「……やべ」
「放っとけ。行くぞ」
数人がその場を離れようとした、その時だった。
倒れていた老人の指が動いた。
老人が、ゆっくりと立ち上がった。
首は不自然に傾き、瞳には生気がない。
死んでいる。
それなのに身体だけが動いていた。
老人の周囲に、異様な念が満ちていく。
クロロが振り返った。
「……?」
マチも足を止める。
クロロの目が細くなった。
「死後の念か」
老人は歩き出した。
自分を殴った男ではない。
近くにいた、全く別の男へ向かって。
「……何だよ」
男が一歩下がる。
老人の歩みが速くなる。
「おい、来るな!」
男が逃げ出した。
老人も走り出す。
周囲の人間が悲鳴を上げ、道を空けた。
「何なんだこいつ!」
男は必死に逃げるが、人で溢れた市場では思うように進めない。
老人が追いついた。
背後から両腕を回し、男へ抱きつく。
「離せ! 離せって!」
クロロが老人を見る。
老人の身体へ、異常な量の念が集まり始めていた。
「マチ」
クロロが短く呼ぶ。
老人の口が開いた。
「さようなら天さん……」
抱きつかれた男が叫んだ。
「天さんって誰だよ!」
「どうか死なないで」
白い光が膨れ上がった。
◇
第一層。
ツェリードニヒは静かに目を閉じた。
絶。
全身からオーラが消える。
ノイズ。
次の瞬間、十秒先の光景が流れ込んできた。
いつもの部屋だった。
目の前にはテータがいる。護衛もいる。何もおかしなところはない。
だが数秒後、突然、床が跳ねた。
巨大な衝撃。
壁が軋み、棚の物が落ち、照明が激しく揺れる。テータが何かを叫び、その直後に警報が鳴った。
さらに床が傾く。
船体の奥から、何か巨大なものが壊れていく音が響いていた。
そこでツェリードニヒは目を開けた。
現実は静かだった。
何も落ちていない。
警報も鳴っていない。
テータもまだ、何が起きるのか知らない。
「…………」
「ツェリードリヒ様?」
ツェリードニヒは答えず、立ち上がった。
「全員、ここを出るぞ」
護衛たちが戸惑う。
「ただちにだ」
その命令から十秒も経たないうちに、ブラックホエール号が震えた。
凄まじい轟音が、遥か下方から船体を伝ってくる。
テータが壁へ手をついた。
「何が……!」
「知らん」
ツェリードニヒは歩き続ける。
原因など分からない。
だが未来は見える。
ならば、避ければいい。
再び絶に入る。
十秒先。
前方の通路の天井が崩落する。
ツェリードニヒは目を開け、その道を捨てて別の通路へ曲がった。
再び未来を見る。
人の群れが階段へ殺到している。
そこも避ける。
別の経路へ向かう。
未来。
隔壁が閉じる。
閉じる前に通過する。
未来。
天井の一部が崩れる。
避ける。
未来。
転倒した兵士に巻き込まれる。
避ける。
ツェリードニヒは死なない。
未来を見るたび、その瞬間に自分を殺すものだけは確実に避けていった。
テータたちは必死にその後を追う。
だが何度目かの未来を見た時、ツェリードニヒは足を止めた。
十秒先。
通路が傾いている。
別の方向を見る。
そちらも傾いている。
階段へ向かえば、押し寄せる群衆。
別の経路は崩落。
さらに先では、大量の海水が流れ込んでいた。
目を開ける。
別方向へ進む。
もう一度未来を見る。
同じだった。
上へ向かおうとする。
封鎖。
別の通路。
崩落。
さらに別の道。
浸水。
未来を見れば見るほど、選択肢が消えていく。
「ツェリードニヒ様……どちらへ?」
息を切らしたテータが尋ねる。
ツェリードニヒは答えなかった。
ようやく理解した。
誰かが自分を狙っているのではない。
この部屋でも、この区画でもない。
自分が今いる場所そのものが壊れている。
「……沈むのか」
小さく呟いた。
未来が見える。
だから分かってしまう。
この先へ進めば死ぬ。
右へ行っても死ぬ。
左へ行っても死ぬ。
戻っても死ぬ。
未来を知らなければ、どこかに逃げ道があると信じることもできただろう。
ツェリードニヒには、それすら許されなかった。
未来を見るたび、そこにも助かる道がないという事実だけが突きつけられる。
「ふざけるな……」
再び絶。
未来。
船体がさらに傾く。
壁に亀裂。
濁流。
現実へ戻る。
走る。
また絶。
未来。
天井が落ちる。
避ける。
未来。
床が割れる。
避ける。
未来。
水。
別の未来。
崩落。
また未来。
水。
ツェリードニヒは最後まで死を避け続けた。
一度。
二度。
何度も。
その瞬間の死だけなら、未来を見て避けられる。
しかし、それだけだった。
ブラックホエール号から出ることができない。
周囲は海。
巨大な船体そのものが傾き、内部構造は次々に壊れ、避難経路は乗客で埋まり、区画は分断されていく。
十秒先が見えても。
十秒で海の上から陸へ行くことはできない。
やがて。
ツェリードニヒは最後の未来を見た。
逃げ道はなかった。
しばらく黙ったまま、その光景を見つめる。
そして目を開いた。
数秒後。
未来で聞いたのと同じ音がした。
◇
気がつくと、ツェリードニヒは白い場所に立っていた。
身体に傷はない。水にも濡れていない。周囲には多くの人間がいたが、そんなものに興味はなかった。
少し考えれば分かる。
自分は死んだ。
問題はただ一つ。
何が自分を殺したのか。
ツェリードニヒは第五層で巨大な爆発が発生し、それをきっかけにブラックホエール号が沈んだことを突き止めた。
さらに話を追っていく。
第五層に老人がいた。
何者かと揉めて殺された。
死体が立ち上がった。
近くにいた人間を追いかけた。
捕まえて抱きついた。
そして何か妙な言葉を口にした直後、爆発した。
やがてツェリードニヒは、白い世界の一角にできた人だかりへ辿り着いた。
その中心に老人がいる。
近くにはクロロとマチもいた。
ツェリードニヒが近づく。
「こいつが爆発したのか?」
クロロが老人を見る。
「ああ」
「何者だ」
「知らない。能力については聞いた」
「話せ」
クロロは簡潔に説明した。
老人は生前、念の出力を一割に制限していた。
他人に殺された時だけ、死後の念によって能力が発動する。
死体が近くにいる人間を追跡し、捕まえて抱きつき、決められた言葉を口にした後、自爆する。
発動した時には本人は既に死んでいるため、追跡に成功したのか、自爆できたのか、その結果を知ることもできない。
さらに、自爆の威力だけをおよそ九十年間鍛え続けていたという。
ツェリードニヒは老人を見る。
異常な能力ではある。
だが、念の理屈としては理解できた。
「それだけじゃない」
クロロが続けた。
「この老人はかなりボケている」
「ボケてる?」
「ああ。自分がブラックホエール号に乗っていたことすら覚えていない」
ツェリードニヒの眉がわずかに動く。
「何で乗ってた?」
「本人に聞いたが、分からないそうだ」
クロロは老人を見る。
「どうやら目的があって乗ったわけじゃない。徘徊しているうちに、いつの間にか船に入り込んでいたらしい」
「…………」
「第五層にいた理由も分かっていない。どこへ行こうとしていたのかも覚えていない」
ツェリードニヒはしばらく老人を見つめた。
能力の仕組みは分かった。
何故ブラックホエール号で発動したのかも分かった。
つまり、そこには何の計画もない。
何の意図もない。
ただボケた老人が徘徊していた。
そこで偶然殺された。
それだけだった。
だが、一つだけ分からない。
「何でそんな能力を作った?」
老人が顔を上げた。
「……ナッパを倒すためじゃ」
ツェリードニヒが黙る。
「ナッパ?」
「そうじゃ。ナッパじゃ」
「誰だよ、それ」
「強い奴じゃ」
「だから何者だ」
老人はしばらく考えた。
そして何かを思い出したように頷く。
「漫画に出てきた奴じゃな」
「…………漫画?」
「ああ。昔読んだ漫画じゃ。ナッパという、とても強い奴がおった」
ツェリードニヒの眉間に皺が寄った。
「待て」
老人を見る。
「お前は漫画の登場人物を倒すために、この能力を作ったのか?」
「そうじゃったと思う」
「何で?」
「餃子がおったんじゃ」
「……餃子?」
「小さい奴じゃ。その餃子がナッパに抱きついて、自爆した」
老人は懐かしそうに頷く。
「じゃが、ナッパは倒せんかった」
「それで?」
「わしは考えたんじゃ。どうして倒せんかったんじゃろうとな」
ツェリードニヒは無言で続きを待った。
「威力が足りんかったんじゃろう」
「…………」
「なら、もっと強く爆発すればナッパを倒せると思ったんじゃ」
「それで自爆の威力を鍛えた?」
「そうじゃ」
「九十年?」
「うむ」
ツェリードニヒは老人を見たまま黙った。
やがて、ゆっくりと尋ねる。
「そのナッパは実在するのか?」
老人は考え込んだ。
しばらくして首を振る。
「せんのう。漫画の中の奴じゃからな」
「…………は?」
「実在はせんのう」
沈黙が落ちた。
ツェリードニヒは老人を見つめる。
「ちょっと待てよ」
老人が首を傾げる。
「なんじゃ?」
「餃子とかいう漫画のキャラが自爆した。でもナッパとかいう漫画のキャラを倒せなかった」
「そうじゃ」
「お前は、それを見て自爆の威力が足りねェと思った」
「そうじゃ」
「それで九十年、自爆だけ鍛えた」
「うむ」
「そのナッパは実在しない」
「せんのう」
「しかも今は自分が何処にいるのかも分からねェくらいボケて、船に乗った理由すら覚えてない」
老人は少し考えた。
「そうみたいじゃのう」
「…………」
ツェリードニヒは黙った。
自分は十秒先を見た。
崩落する未来を変えた。
浸水する未来を避けた。
閉じる隔壁を先回りした。
死ぬ未来を何度も潰した。
それでも最後には逃げ道がなくなった。
船そのものが沈んだからだ。
その原因は。
実在しない漫画の登場人物を倒すためだけに九十年間自爆を鍛えた老人が、年老いてボケ、自分が何故そこにいるのかも分からないままブラックホエール号を徘徊し、たまたま第五層で殺されたことだった。
ツェリードニヒの頬が引きつった。
「……ハ」
乾いた笑いが漏れた。
「ハハ……」
老人はきょとんとしている。
「すげェな、お前」
「?」
「ここまで救いようのねェ馬鹿、初めて見たぜ」
老人はよく分かっていない。
ツェリードニヒの笑みが消えた。
「馬鹿が勝手にくだらねェ人生送って、勝手に死ぬ分には好きにすりゃいい」
声が低くなる。
「漫画のキャラを倒すために九十年使おうが、ボケてどこを徘徊しようが、そんなもんオレにはどうでもいい」
老人が瞬きをする。
「だけどな」
ツェリードニヒのこめかみに青筋が浮かんだ。
「何でそんな馬鹿のせいで、オレが死ななきゃならねェんだよ」
「…………」
「十秒先が見える。死ぬ未来も避けられる。実際、何度も避けた」
一歩、老人へ近づく。
「それなのに最後は船ごと沈没だ。逃げ道そのものがなくなった」
老人はツェリードニヒを見上げている。
「その原因を調べてみりゃ、実在もしねェ漫画のキャラを倒したいボケ老人が、たまたま船に紛れ込んで、たまたま殺された?」
ツェリードニヒの顔が歪んだ。
「ふざけんなよクソジジイ!!」
怒声が白い世界に響いた。
「何でそんなくだらねェ理由で、このオレが死ななきゃならねェんだよ!!」
「しかもナッパ実在してねェじゃねェか!!」
「…………」
「九十年も何やってたんだテメェは!!」
ツェリードニヒの怒声を受けても、老人は状況を理解できていないようだった。
右を見る。
左を見る。
クロロを見る。
マチを見る。
もう一度、怒っているツェリードニヒを見る。
だが、どうしてこれほど怒られているのか。
老人にはよく分からなかった。
そして最後に、悪びれもせず老人は言う。
「……よう分からんが、すまんかったのう」
老人はそのまま続けた。
「それよりも聞きたいんじゃが」
ツェリードニヒが怒りに顔を歪めたまま老人を睨む。
「ナッパは倒せそうだったか?」
「知るかァァァァ!!」
ツェリードニヒの絶叫が、白い世界に響き渡った。