朝田詩乃に家事全部して貰ってるクール系お姉さん   作:オズ

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Case15 アンラッピング・リストリクション

 

 

2026.04.27

東京都文京区・朝田詩乃の部屋

 

 一昨日の代々木公園で風林火山の五人を病院へ送り出してから、二日が経っていた。

 

 オーディナル・スケールでは今日も別のボスイベントが開催されていたが、詩乃たちは参加していない。クラインたちが何者かに襲われた可能性が残っている現場を目撃した以上、翌日に同じ形式のイベントに続けて出向く気にはならなかったし、一昨日の時点で警察へ伝えられることもすべて伝えてある。

 

 だからといって、一日中そのことばかり話していたわけでもない。

 夕食を終えた後の詩乃の部屋には、昨日の騒ぎとは不釣り合いなほど普段通りの時間が戻っていた。獅織はローテーブルの一角へ学校の課題を広げ、先ほどから同じ国語の長文問題と格闘している。詩乃はベッドを背もたれ代わりにして床へ座り、膝の上にノートパソコンを載せ、そのすぐ横では零奈が大学から持ち帰った医学書を読んでいた。

 

 三人とも同じ場所にいるのに、していることは別々だった。

 

 以前なら、用事もないのに零奈が詩乃の部屋へ居続ければ、どちらかがその理由を一度くらい口にしていたかもしれない。今では零奈がそこにいることも、詩乃が何時までいるつもりなのか尋ねないことも、わざわざ確認するほどのことではなくなっている。

 

 詩乃のスマートフォンが震えたのは、午後九時半を少し回った頃だった。

 表示された名前を見て、キーボードへ伸ばしていた指を止める。

 

「明日奈?」

 

 零奈も本から顔を上げた。

 詩乃は通話を受け、そのまま端末を耳へ当てる。

 

「もしもし。どうしたの?」

 

『シノのん、今、大丈夫?』

 

 聞こえてきた明日奈の声はいつもと変わらないものだった。だが、普段ならもう少し早く本題へ入る彼女が最初にこちらの都合を確かめたことが、詩乃には引っ掛かった。

 

「私は大丈夫。零奈と獅織もいるけど、それでもいい?」

 

『うん。二人にも聞いてほしい』

 

 詩乃はスマートフォンを耳から離し、スピーカーへ切り替えてローテーブルの中央へ置いた。

 

 零奈は医学書へ栞を挟んで閉じ、獅織もそれまで握っていたシャープペンシルをノートの上へ置く。一昨日の件を明日奈にも伝えてあることを考えれば、この時間になってわざわざ電話をかけてきた理由を軽く考える者はいなかった。

 

「聞こえてるわ。それで、何かあったの?」

 

『今日、病院へ行ってきたの』

 

「病院?」

 

『横浜港北総合病院。ユウキのことでお世話になった倉橋先生に診てもらってきた』

 

 その名前を詩乃も知っていた。

 木綿季を長く診ていた医師であり、医療用フルダイブ機器にも詳しい人物だったはずだ。零奈の目つきもわずかに変わったが、まだ口は挟まない。

 

「身体の調子が悪くなったの?」

 

『身体っていうより……記憶なの』

 

 明日奈の声が少しだけ慎重になった。

 

『夜にキリト君とSAOの頃のことを話してて気付いたの。私、SAOにいたこと自体は分かるのに、その中で何があったのか、ほとんど思い出せなくなってる』

 

 詩乃は反射的に原因を尋ねそうになり、一度飲み込んだ。

 まず知るべきなのは、今の明日奈がどこまで正常なのかだった。

 

「最近のことは覚えてる?」

 

『うん』

 

「学校や家族のことも?」

 

『大丈夫』

 

「キリトのことや、私たちのことも?」

 

『ちゃんと分かるよ。ALOに戻ってからのことも覚えてる。SAOに閉じ込められていたっていう事実も知ってる。でも、その二年間に何があったのか思い出そうとすると……そこだけ穴が開いたみたいになってるの』

 

 話し方は普段とほとんど変わらなかった。

 質問に対する答えも適切で、今日一日のことを説明することもできている。だからこそ、SAOの中で過ごした時間だけが選択的に失われているという状態が、単なる物忘れとは到底思えなかった。

 

「倉橋先生は何て?」

 

『メディキュボイドで調べてもらったんだけど……私の脳に、記憶を一部スキャンされた痕跡があるって』

 

 獅織が顔を上げた。

 零奈の視線も、ローテーブル中央のスマートフォンへ落ちる。

 

「スキャン?」

 

『うん。先生の説明だと、思い出している記憶に関係する場所を見つけて、そこを強制的に読み取ったような痕跡が残ってるって。だから、ただ忘れたのとは違う可能性が高いって言われた』

 

「……誰かに、ってこと?」

 

『そこまでは分からないって』

 

 詩乃はそこで一度黙った。

 気味が悪い、というのが最初に浮かんだ言葉だった。

 

 明日奈が自分で忘れたのではない。

 病気によって少しずつ失われたのでもない。

 何者かが脳の中にあるものへ手を伸ばした可能性がある。

 

『それと、私だけじゃないみたいなの』

 

「他にもいるの?」

 

『ここ数日、似た症状で診てもらった人が何人かいるって。その人たちも、特定の記憶だけ思い出せなくなってるみたい』

 

 今度は零奈が尋ねた。

 

「共通点について、倉橋医師から説明はあったか?」

 

『全員オーグマーを使ってて……オーディナル・スケールのイベントバトルに参加してたって』

 

「オーグマー自体が原因だという判断か?」

 

『それはまだ分からないって。イベントの中で何か起きてる可能性はあるけど、オーグマーそのものなのか、それとも別の何かなのかまでは調べないと分からないって』

 

「そうか」

 

 零奈はそこで黙った。

 一昨日まで存在しなかった情報が、一度に幾つも増えている。SAOに関係する選択的な記憶喪失。脳内情報を読み取られたことを示す痕跡。複数の類似症例。そして全員に共通する、オーディナル・スケールのイベントへの参加歴。

 それでも零奈がすぐに原因を一つへ決めようとしないことを、詩乃はもう知っていた。

 

『それと……今日、キリト君がクラインさんのお見舞いにも行ったの』

 

 その名前に、三人とも意識を戻した。

 

『一昨日のことを聞いたら、クラインさんもSAOの頃のことを思い出そうとすると、頭に霧がかかったみたいになるって』

 

 一昨日の代々木公園が、その一言で蘇った。

 地面へ倒れていた五人。右腕を庇いながら意識を取り戻したクライン。そして零奈から何が起きたのか尋ねられた時、本人が答えたこと。

 

 誰かいたような気がする。

 顔を見たかもしれない。

 けれど、よく思い出せない。

 

 一昨日の段階では、それ以上の意味を与える理由がなかった。強い疼痛や意識消失、転倒に伴う衝撃があれば、受傷前後の記憶が曖昧になることは考えられる。零奈もその場ではそう判断し、詩乃も疑問を持たなかった。

 しかし今では、同じ言葉を同じ意味では聞けない。

 

「……姉ちゃん」

 

 獅織が低い声で呼んだ。

 

「一昨日のクラインのも、これなのかな」

 

「その可能性を考慮する理由は十分に生じた」

 

 零奈は答えた。

 

「一昨日の時点では、クラインの記憶混乱は外傷、疼痛、意識消失などによって説明可能だった。だが、明日奈に外傷を伴わない選択的な記憶障害が発生し、さらに記憶を読み取られた痕跡と複数の類似症例まで確認された以上、一昨日の状態を単純な外傷後の混乱だけに固定することは適切ではない」

 

 そのまま明日奈にも聞こえるよう、少し声を明瞭にする。

 

「現時点で確認できる共通項は、SAO生還者であること、オーディナル・スケールのイベントバトルに参加していること、そして失われている記憶がSAOに関係していることだ。ただし、この三つのうちどれが直接条件であるかはまだ分からない。イベントへ参加したSAO生還者であれば必ず起きるのか、特定の場所や敵、行動が必要なのか、あるいは私たちがまだ知らない別の条件が存在するのか。それを判断するには情報が足りない」

 

『じゃあ、やっぱりイベントには出ない方がいいよね』

 

「少なくとも今はな。通常のオーグマー使用にまで同じ危険があるかは判断できないが、異常がイベント参加者へ集中しているという情報がある以上、原因が明らかになるまでわざわざ同じ条件へ近付く理由はない」

 

「アタシも行かない」

 

 獅織がすぐに言った。

 

「ゲームは別に逃げないし。それで記憶なくなるとかだったら嫌だ」

 

「そうね」

 

 詩乃も頷いた。

 

「明日奈も、しばらくはやめておいた方がいいわ。少なくとも先生から何か分かるまでは」

 

『うん。私もそうする』

 

「それと」

 

 詩乃は少し迷った後で続けた。

 

「思い出せないのを確認するために、ずっとSAOのこと考え続けたりしてない?」

 

 電話の向こうに少し間ができた。

 

『……してたかも』

 

「でしょうね」

 

 詩乃は責めるようには言わなかった。

 自分だったとしても、何かを失ったと知れば、どこからどこまで残っているのか何度も確かめたくなるだろう。

 

「でも今日はもうやめなさい。思い出そうとして戻るって分かってるわけでもないんでしょ」

 

『うん』

 

「だったら、今夜くらい頭を休ませた方がいい。もし新しく分からなくなったことが出たら、その時は一人で確認し続けないで、キリトでも倉橋先生でもいいから話して」

 

『分かった』

 

 その返事に、ようやく詩乃も少しだけ肩の力を抜いた。

 零奈も、記憶の状態に変化があれば無理に再生を試みず、内容と時間を記録して倉橋医師へ伝えるよう話した。それ以上は今夜できることではないと判断したらしく、独自に何かを調べろとも、自分たちでイベントへ確認に行こうとも言わなかった。

 

『ありがとう。急にこんな話してごめんね』

 

「謝ることじゃないでしょ」

 

 詩乃はすぐに返した。

 

「何かあったら連絡して。時間は気にしなくていいから」

 

『うん。おやすみ、シノのん』

 

「おやすみ」

 

 通話が切れた。

 スマートフォンの画面から明日奈の名前が消え、部屋には再び時計の音と、窓の外を走る車の音が戻ってくる。

 

 通話を終えた詩乃がスマートフォンから手を離しても、零奈は閉じた医学書へすぐには戻らなかった。明日奈の声が消えたことで、さっきまで三人の間を占めていた話だけが、そのまま部屋へ置き去りにされたようだった。獅織も問題集を開いたままシャープペンシルへ触れず、詩乃もノートパソコンへ戻る気にはなれないまま、隣にいる零奈が何かを考えているのを黙って待っていた。

 

 やがて零奈は、机の上に置いていた自分の端末へ手を伸ばした。

 

「……条件が変わったな」

 

 画面を点けながら零奈がそう言ったので、詩乃はその横顔を見る。一昨日の代々木公園で五人を見つけた時にも、零奈なりに何か引っ掛かるものはあったのだろう。それでも警察が暴行の可能性を調べ、病院へ運ばれたクラインには現実の外傷もあった以上、そこから先を勝手に組み立てようとはしなかった。

 だが今日になって、その時にはなかったものが増えた。

 

「明日奈のこと?」

 

「ああ。クラインの記憶混乱だけなら、あの場で受けた外傷や意識消失の影響として扱えた。だが、外傷のない明日奈にもSAOの記憶だけを選んだ異常があり、同様の症例が他にもあると分かった。今の時点で原因を決めることはできないが、少なくともクラインと明日奈を最初から無関係な事例として扱う理由は薄くなった」

 

 それ以上、一昨日の判断について弁明するようなことは言わなかった。零奈は連絡先を開き、何人か並んだ名前の中から一つを選ぶ。詩乃には画面の文字まで見えなかったが、選ばれた相手を尋ねる前に、零奈の指は既に短い文章を打ち始めていた。

 

「誰に?」

 

「菊岡だ」

 

 その名前を聞いて、詩乃はようやく零奈が何をしようとしているのか理解した。

 死銃事件の時に和人たちと関わっていた総務省の人間で、あの一件以来、零奈も必要なら直接連絡を取れる相手になっている。普段から頻繁にやり取りするような関係ではなかったはずだが、自分たちだけでは見えない範囲の情報を探すなら、少なくとも選択肢にはなる。

 零奈は入力を続けていた。詩乃が横から画面を覗くことはしなかったが、何を伝えるつもりなのかは気になった。

 

「何を聞くの?」

 

「同じような事例を他に把握していないか。それだけだ」

 

 指を止めないまま、零奈は答えた。

 

「一昨日、オーディナル・スケールのイベントに参加していたSAO生還者に記憶の混乱があったこと。今日になって、別のSAO生還者にもSAO内部の記憶に限った異常が確認されたこと。倉橋医師から聞いた内容も、明日奈が話した範囲で伝える。こちらから原因を付け加える必要はない」

 

「オーディナル・スケールが原因かもしれない、とは?」

 

「書かない。まだ分からないからな」

 

 その返答は短かった。

 詩乃もそれ以上は尋ねなかった。オーグマーなのか、イベントなのか、それともそこへ入り込んだ誰かなのか。分からないものについて零奈が何か一つを選んでしまわないことは、つい先ほどの電話でも見ている。それなら今することは、答えを作ることではなく、自分たちの外にも同じものがないか確かめることなのだろう。

 

 送る文章は長くなかったらしい。

 零奈は最後まで入力すると一度だけ最初から読み直し、途中の一文を消して書き換えた。

 何を削ったのか詩乃には見えなかったし、零奈も説明しなかった。数秒後には指が送信欄へ触れ、静かな部屋の中で短い電子音だけが鳴った。

 

「返事、すぐ来ると思う?」

 

「分からない。急ぎで確認してほしいとは付けた」

 

「そう」

 

 零奈は端末を伏せて机へ戻した。それきり菊岡からの返信を待って画面を見続けることも、自分で検索を始めることもしなかった。今夜新しく得られた情報に対して必要な手を一つ打ち終えれば、それ以上を無理に進めようとはしない。

 

 詩乃は何となくその端末を見てから、すぐ隣に置かれている三台のオーグマーへ視線を移した。

 明日奈とクラインの共通点を考えていた時には、二人に起きた異常をどう結び付けるかばかりを考えていた。けれど、零奈が菊岡へ連絡するところまで見た後で同じ条件を並べ直すと、そこにはまだ異常が起きていない人間も含まれることに気付く。

 

 SAO生還者で、オーディナル・スケールを遊んでいる人間。

 その条件なら、すぐ隣にも一人いた。

 

 獅織は問題集へ戻ろうとはせず、机の端に並んだ三台のオーグマーを見ていた。

 

「なんかさ」

 

 少しして、獅織が言った。

 

「今まで普通に使ってたのに、急に気持ち悪く見えるな」

 

「機械そのものに問題があると確定したわけではない」

 

「分かってるよ。でも、明日奈の頭の中を勝手に読んだかもしれない何かと繋がってるって思ったら、気分悪いじゃん」

 

 零奈はそこで訂正しなかった。

 

「ああ。それは理解できる」

 

「姉ちゃんもイベント行かないんだろ?」

 

「行かない」

 

「よし」

 

「なぜ君が確認する」

 

「姉ちゃん、危なそうだと逆に見に行く時あるから」

 

「危険性を評価することと、自分から不明な危険へ曝露することは同義ではない」

 

「でも、やる時あるだろ」

 

 獅織の言葉に、零奈は僅かに黙った。

 詩乃はその間を見逃さなかったが、今は何も言わなかった。

 

 それから三十分ほどすると、獅織はどうにか課題を終えた。途中から何度も欠伸をしていたため、最後の数問まで本当に理解して解いたのかは怪しかったが、本人はやり切った顔で問題集を閉じる。

 

「アタシ、風呂入ってくる。姉ちゃんまだこっちいる?」

 

「ああ」

 

「詩乃、姉ちゃんがやっぱイベント見てくるとか言ったら止めてな」

 

「だから行かないと言っている」

 

「分かった分かった。じゃ、おやすみ」

 

 獅織はノートと問題集を抱え、扉の向こうへ消えていった。足音が隣室へ遠ざかり、少しして別の扉が閉じる。

 

 二人だけになっても、すぐに会話が始まったわけではなかった。

 

 零奈は閉じていた医学書をもう一度開いた。

 詩乃もノートパソコンへ視線を戻したものの、先ほどまで読んでいた文章はほとんど頭に入ってこない。何度か同じ行へ視線を滑らせた後、諦めて画面を閉じた。

 

 明日奈の声が耳に残っていた。

 

 SAOにいたことは覚えている。

 でも、そこで何があったかは思い出せない。

 

 詩乃自身、かつては自分の記憶を消してしまいたいと思ったことがある。

 郵便局で起きたことを思い出すたび、身体が勝手に反応した。拳銃を見るだけで呼吸が乱れ、あの日の感触も音も、望んでもいないのに鮮明に蘇った。あんな記憶などなければいいと、何度願ったか分からない。

 だからこそ、今夜の明日奈の話が妙に引っ掛かっていた。

 

「……変なものね」

 

 本から零奈が顔を上げた。

 

「何がだ」

 

「昔は、嫌な記憶なんてなくなればいいって本気で思ってた」

 

 零奈は何も挟まなかった。

 詩乃は閉じたノートパソコンの端へ指を置いたまま、ゆっくり続ける。

 

「思い出すくらいなら最初からなかった方がいいって。忘れられたら普通に戻れるんじゃないかって、そう思ってた時もあった。でも……明日奈が本当に記憶を奪われたかもしれないって聞いたら、全然違った」

 

「どう違う?」

 

「自分で忘れたいって思うのと、知らないうちに持っていかれるのは別なんだ、って」

 

 詩乃は少し考えた。

 

「それに、嫌だった記憶だけ抜けば、その後の自分がそのまま残るわけでもないんでしょうね。私はあの日のことが好きになったわけじゃないし、必要だったなんて言う気もない。でも、今の私がどうしてこうなったのかっていう話をするなら、そこだけなかったことには出来ないから」

 

 零奈はしばらく詩乃を見ていた。

 

「妥当な認識だと思う」

 

「零奈は?」

 

「何がだ」

 

「SAOのこと、忘れたいと思ったことある?」

 

「ない」

 

 返答はほとんど即答だった。

 

「……迷わないのね。嫌なことだって相当あったでしょうに」

 

「あったことと、失いたいかどうかは別の問題だ。SAOで得た経験の全てを肯定するつもりはない。死んだ人間もいるし、起きなくてよかった出来事も多い。ただ、それらを経験したという事実を失えば、その後の私が行った判断の一部について、なぜそうしたのかを自分自身で参照できなくなる」

 

 零奈は一度、手元の本へ視線を落とした。

 

「少なくとも私にとって、記憶は感情的に好ましいものだけを保存しておく場所ではない」

 

「じゃあ、もしSAOの二年間だけ全部なくなったら?」

 

 詩乃は少し身を起こした。

 

「明日奈みたいに、自分がそこにいたってことだけ知識として残って、中身だけなくなったら。今の零奈とはかなり変わる?」

 

「変化はするだろう」

 

 零奈は少し考えてから答えた。

 

「そこで得た知識、人間関係、経験を直接参照できなくなる以上、現在の私と完全に同一ではいられない。ただ、根本から別人になるとも思わない」

 

「どうして?」

 

「私の思考や判断の基礎は、SAOで初めて生まれたものではないからだ」

 

 詩乃はそこで、数日前に神保町で交わした会話を思い出した。

 零奈が自分の判断基準として使った言葉。

 

「人道も?」

 

「ああ」

 

 零奈は本を閉じた。

 

「名称を与え、明確な基準として意識するようになったのは後だが、それを必要とする理由自体はSAOより遥かに前からあった」

 

「必要とする理由?」

 

 問い返した後、詩乃は零奈がすぐ続きを話さないことに気付いた。

 普段なら、彼女は必要な説明がある時にここまで間を置く人物ではない。何を言うかではなく、どこまで言うかを考えている。

 そう見えた。

 

「……その理由まで説明すると、私の幼少期の話が必要になる」

 

 詩乃は少しだけ姿勢を直した。

 さっきまでと同じ調子で「じゃあ聞かせて」と言う気にはならなかった。

 

「話したくないなら、別にいいわよ」

 

「話せないわけではない」

 

「それと話したいは違うでしょ」

 

 零奈の目が僅かに動いた。

 

「私は気になって聞いただけ。そこまで聞くつもりで最初から話振ったわけじゃないし、嫌ならここで終わっていい」

 

 少しの沈黙があった。

 やがて零奈は、本をローテーブルへ置いた。

 

「君には、話しても構わないと思う」

 

 その言葉の方が、詩乃には思っていたより重く聞こえた。

 

「……そう」

 

 何か茶化すことも出来なかった。

 

「じゃあ、聞く」

 

 零奈は一度だけ頷いた。

 

「私は乳児期に遺棄されている」

 

 最初の一文から、詩乃は返事を失った。

 

「両親も、親族も分かっていない。九重零奈という名前も、両親から与えられたものではない。保護された後、行政上必要な手続きを経て付けられた名前だ。以後は児童養護施設で育った。父親や母親の顔も知らないし、一緒に生活した記憶もない」

 

 零奈はいつもと同じ声で話していた。

 けれど、その平坦さを「何とも思っていないから」だと決めつけるのは違う気がして、詩乃はすぐには何も言わなかった。

 

「……知らなかった」

 

 ようやく出た言葉は、それだけだった。

 

「ああ。話していなかったからな」

 

「そうだけど……」

 

 そこで当然、一人の顔が浮かんだ。

 壁一枚隔てた向こう側にいる少女。いつも当たり前のように「姉ちゃん」と呼び、零奈もそれを当たり前のように受け入れている。

 

「獅織は?」

 

 自分でも分かるくらい、問いかける声が慎重になった。

 

「妹だ、少なくとも今は」

 

 零奈は迷わず答えた。

 

「ただ、私たちは同じ家庭で姉妹として育ったわけではない。保護された時期も、その後に置かれた環境も異なる。そこから先は獅織自身の過去だ。本人が君に話すなら止めないが、私から説明するつもりはない」

 

「……分かった」

 

 気になるものがなくなったわけではない。

 それでも、獅織本人がいない場所でその過去まで聞き出すのは違う。詩乃はそれ以上踏み込まず、零奈へ視線を戻した。

 

「それで……人道が必要になった理由っていうのは、施設で育ったこと?」

 

「直接結び付けるつもりはない」

 

 零奈はすぐに訂正した。

 

「家庭環境と、これから話す私の性質との間にどの程度の因果関係があるのかは分からない。同じ境遇で育った人間が同じ性質を持つわけでもないし、恵まれた家庭で育てば必ず正常な価値観が形成されるわけでもない。そこは分けて考えてくれ」

 

「分かった。じゃあ、また別の話なのね」

 

 詩乃は今度は素直に頷いた。

 

「ああ」

 

 零奈は少し視線を落とした。

 

「私は幼い頃から、生物の身体に強い興味を持っていた。人間も動物も、外から見えている形の内側で何がどう動いているのか知りたかった。図鑑に載っている骨格や臓器の図を見ることも好きだったらしい」

 

「らしい?」

 

「幼児期のことまで、現在の私が全て鮮明に覚えているわけではないからな。ただ、周囲から後に聞いた話と、自分自身に残っている記憶は概ね一致している」

 

 そこまで話したところで、零奈は珍しく一度言葉を止めた。

 

「七歳頃だったと思う。施設の裏に、小さな飼育小屋があった。白いウサギが何羽か飼われていた」

 

 声の調子は変わらなかった。

 それでも、その先を聞く前から、詩乃の中には薄い緊張が生まれていた。零奈がわざわざ幼少期まで話を遡ったことも、そこで一度言葉を選んだことも、これから続くものが単なる昔話ではないことを示していた。

 

「ある日、そのうちの一羽を殺した」

 

 詩乃の指が、閉じたノートパソコンの縁で止まった。

 零奈はすぐには続きを重ねなかった。

 

「図鑑に描かれていたものが、本当にその通りなのか確かめたかった。外から触れた時に分かる骨の位置と、その内側に描かれている臓器がどう繋がっているのか、自分の目で見たかったんだ。施設にあったステンレス製の浅いバットを持ち出して、その上で身体を開いた」

 

 その言葉とともに零奈の中へ戻ってきたのは、出来事の全景ではなく、奇妙に鮮明ないくつかの感覚だった。

 

 小さな掌に残った柔らかな毛の感触。冷たい金属の上をゆっくり広がっていく赤。その中央で、図鑑の絵と目の前にあるものが一致しているか、一つずつ確かめようとしていた自分の指先。

 しかも、恐ろしかったから覚えているのではない。それが今の零奈にとっての問題だった。

 

 詩乃はすぐには声を出せなかった。

 頭の中ではもっと軽い解釈を探していた。飼育小屋で死んでいたウサギを見つけて、それを開いたのではないか。零奈が「殺した」と言ったのは、別の何かを省略しただけではないか。

 けれど、零奈の語り口はそんな余地を残すようなものではなかった。

 

「……待って」

 

 ようやく口を開いた詩乃の声は、先ほどまでより明らかに慎重になっていた。

 

「解剖したって、死んでたのを見つけたとかじゃなくて……生きてたウサギを、自分で?」

 

「ああ」

 

 零奈は否定しなかった。

 その短い返事を聞いて、詩乃は一度視線を落とした。

 

「……何で、そこまでしたの?」

 

 責めるような問いにはしたくなかった。それでも、何も感じていないように聞くことも出来なかった。

 

「知りたかったからだ」

 

「それは分かる。さっき聞いたから。でも……」

 

 詩乃は言葉を探した。

 

「知りたいって思った後に、その子が死ぬからやめようとは、思わなかったの?」

 

「思わなかった」

 

 今度も零奈は飾らなかった。

 

「死ぬこと自体は理解していた。一度死ねば元に戻らないことも知っていた。ただ、その事実が『だから実行してはいけない』という結論に、当時の私の中では繋がらなかった」

 

 詩乃は何も返せなくなった。

 零奈の言葉には、自分を異常に見せようとする誇張も、幼かったことを理由に許されようとする響きもなかった。

 

 知りたかった。

 そのためには中を見る必要があった。

 だから開いた。

 

 その三つの間に、本来なら多くの人間が説明を必要とせず置くはずの「それはしてはいけない」というものが、当時の零奈には存在しなかった。

 

「苦しませたかったわけではない」

 

 零奈は、詩乃がまだ黙っているうちに続けた。

 

「殺すこと自体に興味があったわけでもない。むしろ、それらは目的から見れば不要だった。ただ、構造を確認するためには内部を見る必要があると判断した。それだけだ」

 

「……今は、それがおかしかったって分かってるのよね?」

 

 詩乃は今度こそ、慎重に聞いた。

 零奈はすぐには答えなかった。

 

「ああ。問題だった理由も理解している」

 

「その時は?」

 

「分からなかった。院長に見つかって、初めて自分と周囲の反応が大きく違うことを認識した」

 

 零奈は膝の上で指を組み直した。

 

「強く叱られたよ。私が何をしたのか、なぜしてはいけなかったのか、一つずつ説明された。知識を得たいという自分の目的だけで、生きているものを傷つけ、必要もないのに生命を奪ったこと。相手が痛みや恐怖を感じる存在であるのに、それを判断材料へ入れなかったこと」

 

 一度そこで言葉を切った。

 

「最後に、『人道を外れてはいけない』と言われた」

 

 詩乃はその言葉を聞き、ほんの少しだけ息を止めた。

 何度も零奈の口から聞いてきた、人道という言葉。今までなら、それは零奈自身が後から選び取った信条なのだと思っていた。けれど、その始まりはもっと幼く、もっと危うい場所にあった。

 

「……それ、ずっと覚えてたんだ」

 

「ああ」

 

「怒られたから?」

 

「それだけではない」

 

 零奈は静かに首を横へ振った。

 

「説明された後なら、なぜ私の行動が問題だったのか理解できた。だが、説明されるまで自分では止まれなかった。そのことの方が残った」

 

 詩乃はすぐに言葉を返さなかった。

 冷たい金属の上に置かれた小さな動物と、その身体の内側を確かめようとしていた七歳の零奈を、想像しないことは出来なかった。

 けれど同時に、今目の前でその過去を話している零奈も見ていた。

 

 同じ人物だった。

 だからこそ、簡単にどちらか一方だけを見ることは出来なかった。

 零奈は少しだけ視線を下げた。

 

「当時の私にとって重要だったのは、ウサギを殺したことが悪いと教えられたことだけではない。周囲の子供たちは、そもそも同じことをしようと思わなかった。私は考えた。そして、それを止める理由を自分の中から見つけられなかった」

 

 その一文には、これまでより僅かに重さがあった。

 

「説明された後なら理解できた。なぜ行うべきではないのかも分かった。だが、説明される前の私は分からなかった」

 

「……それが怖かったの?」

 

 詩乃が尋ねると、零奈はすぐには答えなかった。

 

「今なら、そう表現してもいい」

 

「その頃は?」

 

「興味の方が強かった。なぜ他の人間には最初からある停止が、私にはなかったのか。それを知りたかった」

 

 いかにも零奈らしい答えだった。

 自分自身の異常かもしれない部分に気付いた時でさえ、まず知ろうとする。

 

「最初は、してはいけないことと、その理由を教えられた。年齢が上がってからは、法律、倫理、道徳、生命倫理について自分でも調べた。何をしてはいけないのかだけではなく、なぜしてはいけないのか。人間は何を根拠に他者へ権利を認めるのか。本人の意思はどこまで優先されるのか。目的と手段の間に、どこで境界を置くべきなのか」

 

 零奈の言葉は少しずつ増えていった。

 普段なら他人へ何かを説明するために長くなるが、今夜は違う。

 自分自身が何年もかけて積み上げてきたものを、一つずつ言葉へ戻している。

 

「私は、説明されれば善悪を理解できる。相手が受ける損害も理解できる。人を傷つければ痛みが生じる。殺せばその人間は戻らない。周囲の人間にも損失が残る。それを認識することに問題はない」

 

 零奈はそこで一度詩乃を見る。

 

「だが、それを知っていることと、それを避けるための感情が自然に生じることは別だ」

 

 詩乃は黙って続きを待った。

 

「多くの人間が『そんなことはしてはいけない』と思う時、そこには理屈より先に嫌悪や恐怖、共感が働くことがある。私は、その反応が自分の中でも常に十分に働くとは考えていない」

 

「……全然ない、って言ってるわけじゃないのよね?誰かが痛そうにしてても何も感じないとか、そういう単純な話じゃなくて?」

 

「そうではない。君や獅織が傷つけば不快だし、助けたいとも思う。知らない相手でも、苦痛を認識することはある」

 

「でも、それを基準には出来ない?」

 

「その通りだ」

 

 零奈は頷いた。

 

「相手によって強さが変わるものを、生命へ関わる判断の最終基準にはできない。君を助けたいと思う感情が強いからといって、君の治療を優先するために別の人間を死なせてよい理由にはならない。逆に、私が嫌っている相手だから救命可能でも放置するという判断も許容できない」

 

 詩乃は少し考えた。

 

「それで、感情で止まれないかもしれないから、先にルールを決めた」

 

「そうだ」

 

「……枷ね」

 

 今度は、軽い言葉にはならなかった。

 零奈もすぐには答えず、数秒後に頷いた。

 

「そう呼ぶのが近い」

 

 詩乃は膝の上で手を組んだ。

 理解したつもりにはなれなかった。ただ、ここまで聞けば一つ分かる。零奈にとって人道とは、他人に見せるための信念ではない。無論、格好いい理想でもない。自分の中から自然に出てくるものを信用し切れないから、何度でも確認するために置いている。

 

「……でも」

 

 詩乃は少し迷った。

 

「今はもう七歳じゃないでしょう」

 

「ああ」

 

「何が駄目かも分かってる。医療の勉強もして、法律も倫理も知ってる。それでも、ずっと枷が必要だと思ってるの?」

 

 零奈が黙った。詩乃はその顔を見て、少し言い過ぎたかと思った。

 

「責めてるわけじゃないの。ただ……」

 

 自分でも何を聞きたいのか整理しながら続ける。

 

「子供の頃に一回そういうことをしたから、ずっと自分を信用しないっていうのも、それはそれで苦しくないのかなって思っただけ」

 

「一度だけだから、ではない」

 

 零奈の声は低かった。

 

「今でも同じ思考は存在する」

 

 詩乃の指が僅かに止まった。

 

「……どういうこと?」

 

「今の事件で説明できる」

 

 零奈は机の上のオーグマーを見た。

 

「さっき明日奈から情報を聞いた時、私が最初に考えていたものをそのまま話そう」

 

 詩乃はすぐには返事をしなかった。

 

「人道を外したら、ってこと?」

 

「正確には、それを評価基準から一時的に除外し、原因特定だけを目的にする」

 

「……分かった」

 

 詩乃は少しだけ身構えた。

 

「聞くわ」

 

 零奈は淡々と話し始めた。

 

「オーディナル・スケールのイベントへの参加と記憶障害の因果関係を最短で確認したいなら、発症を待つ必要はない。条件を満たすSAO生還者へイベントに参加してもらい、その前後で記憶状態を比較する。条件を変えながら複数回行えば、どの場面でスキャンが発生するかを絞り込める」

 

 そこまでなら、詩乃にも研究の話として理解できた。

 

「ただし、本当に原因特定だけを優先するなら、記憶喪失の危険性を全て説明することは効率が悪い。知れば参加を拒否する人間が増えるし、警戒によって普段と異なる行動を取る可能性もある。ならば情報を制限し、本人がオーディナル・スケールを遊んでいるつもりのまま条件に曝露した方が、自然なデータを得やすい」

 

 詩乃は何も言わなかった。

 零奈は続ける。

 

「一度で発症しなければ、条件を変えて再度参加させる。記憶の欠損が発生した場合は、それ自体を結果として扱う。原因の特定を最優先するなら、失われた記憶を回復できるかどうかは後から検討しても構わないな」

 

「……零奈」

 

 詩乃の声が少しだけ低くなった。

 零奈は止まらなかった。

 

「さらに対象数を減らしたいなら、一人へ繰り返し異なる条件を与える方が比較は容易になる。実行可能性を無視すれば、発症するまで──」

 

「もういい」

 

 今度ははっきり言った。

 零奈は即座に口を閉じ、部屋に妙な静けさが残った。表情も声も、いつもの零奈と何も変わっていなかった。だから余計に、今聞かされた内容だけが異物のように残る。

 

 詩乃はすぐには話せなかった。

 怖くないと言えば嘘になる。今まで隣で普通に本を読んでいた人間が、明日奈の話を聞きながらそんなことまで考えていた。簡単に飲み込めるものではない。

 詩乃は片手を額に当て、零奈が今しがた並べた話を、一つずつ順番に置き直そうとした。

 

「……ちょっと待って。今の、整理させて」

 

「ああ」

 

 零奈は急かさなかった。その顔には、相手を試したり、あえて怖がらせたりした人間にあるような色は何もない。そこもまた、詩乃には扱いに困るところだった。

 

「零奈は、それをやりたいって言ってるんじゃないのよね。実際にやるつもりもない。ただ、方法としては思いついた」

 

「そうだ」

 

「……いつ?」

 

「明日奈から記憶スキャンの痕跡と、類似症例について聞いた時点で大半は出ていた」

 

 詩乃はその返答の意味を飲み込むまで、ほんの少し時間がかかった。

 

「電話してる最中?」

 

「ああ」

 

 少し前まで、明日奈との通話で零奈が口にしていたのは、イベントには参加せず、無理に記憶を掘り起こさず、新しい情報が出るまで待つという、ごく慎重なものだった。聞いている側からすれば、それが零奈の考えた結論の全部に見える。

 その前に、本人の同意を外し、危険性の説明を制限し、条件を変えながら人間を実験に使うという選択肢まで同じ頭の中を通過していたとは思わなかった。

 

「……それを全部考えて、そのあとに『やらない』ってしたの?」

 

「そうだ。本人の同意なく危険に曝露することは許容できない。十分な情報を意図的に隠すことも同様だ。原因を早期に特定できる利益があったとしても、そのために第三者に不可逆的な記憶障害の危険を負わせることは、現在の状況では正当化できない」

 

「だから、その案は捨てた。それで、別の方法を考えたのね」

 

「問題自体は残っているからな」

 

 零奈には、それがあまりにも当然らしかった。

 一つの方法が使えないと分かれば、そこで思考を止めるのではなく次へ移る。次も使えなければさらに別のものを探し、それを実行してよいのかまた確かめる。

 危険な発想をすること以上に、その工程そのものが零奈の中で特別ではないらしいことの方が、詩乃には次第に気になり始めた。

 

「……それ、ずっとやってるの?」

 

「程度の差はある」

 

「何か起きるたびに先のこと考えて、方法を出して、それをやっていいか見て、駄目なら次を考えるってこと?」

 

「概ねは」

 

 詩乃はすぐ次を尋ねず、零奈の顔を見た。聞かなくても返事の想像はついたが、それでも確かめておきたかった。

 

「人と話してる時も?」

 

「ああ」

 

「私と話してる時も?」

 

 今度だけ、零奈の返事までに僅かな間があった。

 

「ある」

 

「……何も起きてない時まで?」

 

「何も起きていないという判断自体、周囲の情報を確認した結果ではあるな」

 

 予想通りの返答に、詩乃は小さく息を吐いた。

 

「そういう返しすると思った」

 

「事実だからな」

 

「分かってるわよ」

 

 今までにも、零奈が何か起きるたび異様なほど先まで考える場面は何度も見ている。

 何が起こり得るのか、誰へ影響が出るのか、最悪の場合に何が残るのか。その時に自分たちは何をすればいいのか。

 

 詩乃はそれを、慎重な性格だからだと思っていたし、それ自体は間違っていないのだろう。

 ただ、今聞いたものまで含めれば、その言葉一つで片付けるには随分足りなかった。

 

「……頭の中、煩くないの?」

 

 零奈の目が僅かに動いた。

 

「何?」

 

「今言ったこと、ほとんど頭の中でやってるんでしょ。次に何が起きるか考えて、方法を考えて、その方法を使っていいか確認して、駄目ならまた次を出す。相手が何をするかも、自分が何か見落としてないかも見る。それがずっと動いてたら……煩くない?」

 

 零奈は答えなかった。

 今日初めて幼い頃の話へ踏み込んだ時よりも長い沈黙だった。

 やがて零奈が僅かに視線を落とした。

 

「……煩いな」

 

 声は低かった。冗談でも、自嘲でもない。

 

「かなり」

 

 詩乃は思わず顔を上げた。

 零奈が出来ないことや苦手なことを話すのは珍しくない。家事が不得意だとか、感情を読むのが得意ではないとか、その程度なら本人も平然と認める。けれど今の言葉は、それらとは少し違って聞こえた。

 

「止められないの?」

 

「完全には難しい。考えないことを意識すれば、それ自体を考えることになる」

 

「……まあ、それはそうか」

 

 零奈は膝の上へ置いていた手を僅かに組み直した。その動きを見ているうちに、詩乃は自分から続きを促す必要がないことに気付いた。

 

「何かを見れば、その後どう変化するかを考える。人間なら、次に何をするか、何を言わない可能性があるか、その行動が誰へ影響するかを考える。危険があれば回避する手段を探し、誰かが傷つけば治療方法と優先順位を考える。目的があれば、それを達成するための手段が幾つか出る」

 

 そこで一度言葉を区切り、零奈は少しだけ話す速度を落とした。

 

「その後で、それを使ってよいか確認する。法的に可能でも倫理的に許容できないことはある。倫理上の問題が小さくても、本人の意思を侵害する場合もある。一人を救うために別の人間へ過度な負担を押し付けることもある。使えなければ別の方法を探す」

 

 詩乃は口を挟まなかった。

 零奈の話は、自分が人より多くの方法を考えられるという自慢とは正反対だった。思いつくこと自体を才能として語っているのではない。思いつけてしまうからこそ、その一つ一つへ線を引かなければならないのだ。

 

「私が警戒しているのは、衝動的に誰かを傷つけたくなることではない」

 

 零奈の声が僅かに低くなった。

 

「むしろ、理由がある時だ」

 

 詩乃は顔を上げた。

 

「十分に重要な目的があれば、どこまでを許容していいのか考えられてしまう。救える人数が増えるなら、一人へどこまで負担を負わせていいか。誰か一人を確実に救えるなら、別の人間の意思をどこまで無視していいか。結果が良ければ、その途中にあるものをどこまで犠牲として扱えるか」

 

 さっき聞いたウサギの話とは違う怖さがあった。

 七歳だったから知らなかった、という話ではない。今の零奈は知識も倫理も、その行為が相手へ何をもたらすかも理解している。その上で、それでも方法として考えることができる。

 

「だから、人道という基準がいる。ただ、それを持っていれば完全に安全というわけでもない」

 

「……どうして?」

 

「基準を作ったのも、それを適用するのも私だからだ」

 

 零奈はそこで詩乃を見る。

 

「今回は必要な例外だ、目的の方が重要だ、他に手段がない。そうやって、自分に都合のいい説明を組み立てることもできる。だから、自分の判断を疑う工程は外せない」

 

 以前なら、その言葉を聞いても単に慎重な人なのだと思ったかもしれない。

 

 今は違う。知ってしまう。考えてしまう。使える方法を見つけてしまう。そして、それを使っていいのか自分自身へ問い直す。

 人より先まで考えられることを才能として語っているのでもない。少なくとも、零奈自身はそれを便利な才能として扱っているようには見えなかった。

 

「……疲れるでしょう」

 

「慣れている」

 

 詩乃はすぐに眉を寄せた。

 

「慣れてるかじゃなくて、疲れるかって聞いたの」

 

 言い直されると、零奈は少しだけ視線を逸らした。

 

「疲れることはある」

 

「やっぱり」

 

「だが、それを理由に止めるわけにはいかない」

 

「別に、もう考えるなって言ってるんじゃないわ」

 

 詩乃はそう返しながら、自分が何に引っ掛かっているのかを探した。

 

「ただ……今まで零奈が長く説明してる時って、その時考えてるものを全部出してるんだと思ってた。でも違うのね。口に出す前にもっとあって、私が聞いてるのは、その中を通って残ったものだけ」

 

「概ねそうだ」

 

「……そりゃ煩いわね」

 

「ああ」

 

 今度の返事は早かった。

 その短い肯定を聞いた瞬間、詩乃の中へ三月の終わりの夜が戻ってきた。

 何日もまともに休めないまま大学から戻ってきた零奈へ食事をさせ、乾かしきっていなかった髪へドライヤーを当てた夜。零奈は、自分が何もしなくても問題が増えないこと、何を食べるか、いつ休むかを一つずつ確認しなくて済むことを話し、最後に「ここは楽だ」と言った。

 

 あの時は、生活のことだけだと思っていた。

 

「……前に、ここは楽だって言ったの、覚えてる?」

 

「ああ」

 

「あれって、食事とか睡眠とか、私が勝手にやるから考えなくていいってだけじゃなかったの?」

 

「それも理由だ」

 

「じゃあ、他にもあるのね?」

 

 零奈は少し考えた。

 その間、詩乃は問いを言い換えたり、答えを予想して口にしたりはしなかった。

 

「君がいると、全ての判断を私一人の中だけで完結させなくて済む」

 

 詩乃の指先が僅かに止まった。

 

「どういう意味?」

 

「君は、私が言ったことをそのまま正しいとは扱わない。納得できなければ聞くし、嫌なら嫌だと言う。私が問題ないと判断していても、君がそう思わなければ別の見方を出してくる」

 

「……まあ、そうね」

 

「その時、私は一度考え直す」

 

 零奈の言葉はそこで止まった。

 詩乃の方も、すぐには何も言わなかった。零奈が自分の判断をこちらへ渡そうとしているわけではないことくらいは、その言い方で分かる。ただ、自分だけで組み上げた結論の外側から、別のものを差し込まれることを嫌がっていない。

 

「……結構重いこと言ってるの、分かってる?」

 

「何がだ?」

 

「自分でずっと判断を疑ってる零奈が、私が何か言えば考え直すってところ」

 

「君が正しいと判断するわけではない」

 

 零奈はそこだけは明確にした。

 

「君が異論を出せば、その理由を確認する。私が見ていなかったものがあるなら判断材料に加える。それでも結論が変わらないことはあるし、最終的に判断した責任まで君へ移すつもりもない」

 

「それならいいわ」

 

 詩乃は思っていたよりあっさり頷いた。

 

「別に、私が零奈の代わりに正解を決めたいわけじゃないし」

 

「ああ」

 

「でも、自分でも危ないかもしれないって思った時くらいは言って。今みたいに」

 

 零奈は長く黙った。詩乃が待っている間、窓から入る夜風がカーテンを膨らませ、その端が机の脇へ垂れている紙へ一度だけ触れた。

 

「……そうだな」

 

「認めるのね」

 

「否定する理由がない」

 

「またそういう言い方する」

 

 少しだけいつもの調子が戻ったものの、詩乃はそこで話を軽くして終わらせなかった。

 

 ウサギの話を聞いた時、怖いと思った。他人を実験へ使う方法を零奈が平然と並べた時には、正直に言えば気味が悪いとも思った。それでも同時に、その方法を実行しないために零奈が何をしているのかも聞いた。

 

 一つの事実だけで人間全部を決めることが、どれほど簡単で、どれほど自分自身を追い詰めるかなら、詩乃も知っている。

 

「……昔は、私も自分が人を撃ったっていう一個の事実だけで全部決まると思ってた」

 

 零奈は何も挟まなかった。そのため詩乃は、自分の言葉を選びながらゆっくり続けた。

 

「何で撃ったのかとか、その後どうしたのかとか、自分が他に何を考えてるのかとか、そういうのを持ち出す方が言い訳だと思ってた。人を殺したなら人殺し。それで終わり。そのくらい単純な方が、自分を嫌うのも簡単だったから」

 

 一度息を吐く。

 

「だからって、零奈も同じだって言う気はないわよ。私と零奈は違うし、今の話を一晩で全部分かったつもりになるのも嫌。でも……正直に言えば、ちょっと怖い」

 

「ああ」

 

「ウサギのことも、さっきの実験の話も。聞いて何とも思わないほど私は平気じゃない」

 

「それでいい」

 

「零奈に許可されることじゃないけど」

 

「……そうだな」

 

 詩乃は僅かに目を細めたが、それ以上は突っ込まなかった。

 

「でも、それを聞いたからって、一昨日の零奈まで急に別の人間になったとは思わない。クラインたちを見つけた時、最初にやったのは犯人探しじゃなかったでしょう。五人とも生きてるか確かめて、私に救急車を呼ばせて、獅織に手伝わせた」

 

「人道はその判断基準に含まれている」

 

「だったら、それでいい」

 

 詩乃はゆっくり頷いた。

 

「助けたいって感情だけで動いたら本物で、そこに自分で決めた基準を通してる零奈は偽物だなんて、私は思わないから」

 

 もちろん、それだけで何も問題がないと言うつもりもなかった。零奈が自分を疑い続けている理由を、努力しているから大丈夫という綺麗な話へ変えてしまえば、今夜聞いたものの大半を無かったことにしてしまう。それは違う。

 

「ただ、一人で考えて、一人で自分を確認して、その確認まで自分で正しいか見るのが危ないって思ってるなら……迷った時くらい、外に出せばいいんじゃない?」

 

「君へ?」

 

「私じゃなくてもいいわよ」

 

 詩乃は一度言葉を切り、零奈が何か返す前に続けた。

 

「でも、私がいる時なら私に言えばいい。全部聞かせてなんて言わないし、聞かれたって分からないこともある。でも、自分でも『これは危ないかもしれない』って思った時くらいは、一回見せて」

 

 零奈はしばらく何も言わなかった。

 

「君の判断を最終基準にするつもりはない」

 

「そんなの頼んでない」

 

 詩乃の返答は早かった。

 

「私だって間違うし、零奈より知らないことだって山ほどある。ただ、一人で考えて、一人で決めて、その決め方が正しいかまで一人で見るよりは、別の人間が一回口を挟めた方がましなんじゃないかって言ってるの」

 

 零奈の視線が少し下がった。先ほどの「疲れるか」と同じように、反論しようと思えば幾つも材料を並べられるのだろう。それでも、しばらくして返ってきたのは短い言葉だった。

 

「……そうだな」

 

「じゃあ、そうして」

 

「ああ」

 

 詩乃はそこで一度肩の力を抜いたが、まだ一つだけ確認しておきたいことが残っていた。

 

「もし私が零奈の考えてることを聞いて、これは駄目だと思ったら、そう言っていいのね」

 

「構わない」

 

「零奈が自分では正しいと思ってても?」

 

「理由は聞く。その上で必要なら判断をやり直す」

 

 そこまでなら、先ほどまでの話の繰り返しだった。

 詩乃は少し考えてから、さらに先を尋ねた。

 

「それでも零奈が一人で押し切ろうとしたら?」

 

 零奈はすぐには答えなかった。

 詩乃も口を挟まず待った。床に置いたカップからは、もうほとんど湯気が上がっていない。長く続いた話の間に、最初は熱かったはずのコーヒーもすっかり冷めてしまっている。

 

「その時は、止めてくれ」

 

 長い説明はなかった。

 零奈は続けなかったし、詩乃も「どこまで」「どうやって」と細かく問い詰めることはしなかった。今まで聞いた話を考えれば、その一言を軽く扱う気にもならない。

 

「……分かった。覚えとく」

 

「ああ」

 

 そこまで言ってから、詩乃は何とはなしにローテーブルの端へ目を向けた。

 

 三台のオーグマーが並んでいる。

 明日奈から電話が来た後、零奈は菊岡へ連絡を入れた。今夜、自分からイベントに出向くつもりがないことも聞いている。それでも新しい情報が増えれば、零奈はまた判断を変えるだろう。一昨日には必要がなかった手を、今夜は必要だと判断して打ったばかりなのだから、それ自体は悪いことではない。

 

 ただ、その時に何をするのかまで零奈一人で決められるのは、別の話だった。

 

「……じゃあ、さっそくだけど」

 

「何だ?」

 

 詩乃はオーグマーから零奈へ視線を戻した。

 

「この件は、一人で動かないで」

 

 零奈はほんの僅かに目を瞬かせた。

 

「現時点では、自分で確認へ向かう予定はない」

 

「今夜の予定を聞いてるんじゃないわよ」

 

 詩乃はそこで少し身体の向きを変えた。

 零奈が「現時点では」と付けたことを責めたいわけではない。むしろ、その言い方が正しいことは分かっている。菊岡から新しい情報が返ってくるかもしれないし、明日になれば別の症例が見つかるかもしれない。その時にも今夜と同じ判断をしろと要求する方が無理がある。

 

「何か分かって、零奈が自分で見た方が早いって思った時の話。一人で行かないで」

 

 零奈はすぐには頷かなかった。

 返事を待っている間に、詩乃には彼女が何を考え始めたのか何となく分かった。危険性を測り、誰を連れて行くべきかを考え、その候補から詩乃を外せるだけの理由を探している。

 

「君はSAO生還者ではない」

 

 やはり、零奈はそこから話した。

 

「現時点で確認できている共通項の一つがSAO生還者である以上、仮にそれが発症条件なら、君は私より危険性が低い可能性がある。そうであるなら──」

 

「私の方が安全なら、なおさら一緒に行けるでしょ」

 

 零奈の言葉が途中で止まった。

 詩乃は勝ち誇るような気分にはならなかった。零奈が挙げた条件をそのまま考えれば、そういう結論も出せるというだけだ。自分が安全だと保証されたわけでもなければ、そもそもSAO生還者という共通項に本当に意味があるのかさえ分かっていない。

 

「零奈に記憶の異常が起きたら、自分で気付けるとも限らないでしょう。だったら、零奈一人より条件の違う人間がいた方がいい」

 

「危険性が低いことと、安全であることは同義ではない」

 

「知ってるわよ」

 

 詩乃は僅かに眉を寄せた。

 

「だから、何があっても絶対に私を連れて行けなんて言ってない。その時になったら話して。私が行くかどうかまで、最初から零奈一人で決めないでって言ってるの」

 

 零奈は黙った。

 詩乃自身、こんなことを零奈へはっきり言ったのは初めてだった。

 

 これまでにも三人で危険な場面へ立ったことはある。二日前の代々木公園でも、倒れている風林火山を見つけた後は、零奈が状態を確認し、詩乃が救急へ連絡し、獅織も必要な確認を手伝った。あの時は誰か一人が全てを処理したわけではない。

 

 それでも、零奈自身が危険に晒されるかもしれないとなれば話は別なのだろう。

 今しがた聞かされたばかりの思考の癖を考えれば、なおさら分かる。零奈は危険があれば、それを減らす方法を考える。その結果、自分一人が危険を引き受けることが最も単純だと判断すれば、それを選択肢へ入れることもある。

 

 そして詩乃が嫌なのは、危険そのものよりも、その結論が自分の知らないところで完成してしまうことだった。

 

「さっき言ったでしょう」

 

 詩乃は静かに続けた。

 

「何かあって、零奈が自分一人で押し切ろうとしたら止めてくれって」

 

「ああ」

 

「だったら、こういうのも含むんじゃないの?」

 

 零奈の視線が僅かに動いた。

 詩乃はそこで畳み掛けなかった。

 

「私を連れて行くかどうか、今決めろって言ってるんじゃない。でも、危ないからって最初から私の分まで決めないで。その時になったら、ちゃんと話して」

 

 ローテーブルの上には、菊岡へ連絡を送った端末と三台のオーグマーが並んでいた。事件の正体はまだ何も分かっておらず、明日になれば今夜とは違う情報が増えているかもしれない。

 

 だから今決められることは、それほど多くない。

 

 零奈はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……分かった。この件で私自身が動く必要が生じた場合は、先に君と獅織に話す。何も伝えず、私一人で確認へ向かうことはしない」

 

 詩乃はその答えを少しだけ考えてから、頷いた。

 

「それならいいわ」

 

 必ず自分を連れて行くという約束ではない。

 今後どんな状況になっても隣に置けと要求したいわけではないし、零奈の代わりに進む方向を決めたいわけでもない。

 ただ、気付いた時には全て終わっていた、という形だけは嫌だった。

 

「でも、全部分かったって意味じゃないから」

 

「それでいい」

 

 詩乃は膝の上へ置いていた手を一度組み直した。ここまで口にしてしまえば、残りは曖昧に濁す方が不自然だった。

 

「たぶん後で色々考えるし、明日になったらまた聞くかもしれない。それに、怖いって思ったことも取り消さない」

 

「取り消す必要はない」

 

 零奈は僅かに間を置いた。

 

「むしろ、その方がいい」

 

「どうして?」

 

「君まで私と同じ結論を出すようになれば、意見を聞く意味がない。私が見落としているものを、君には君の判断で見てほしい」

 

 詩乃は少しの間、零奈を見つめた。

 

「……そういうこと、普通の顔で言うのよね」

 

「何がだ?」

 

「何でもない」

 

 零奈はそれ以上追及しなかった。

 

 長く続いた話が途切れると、部屋の中へ、それまで意識から外れていた音が少しずつ戻ってきた。開け放した窓から入ってくる夜風は先ほどより少し冷たくなっており、カーテンの裾を揺らして、ローテーブルに置かれていた紙の端を何度か浮かせていた。

 

 詩乃はそこで、零奈の前に置かれているカップへ目を向けた。

 話を始める前からほとんど減っていない。表面からはもう湯気も上がっておらず、触れなくても冷めていることくらいは分かった。

 

「コーヒー、冷めてるわよ」

 

「ああ」

 

「飲むなら温めるけど」

 

 零奈もようやくカップへ視線を落とした。しばらく忘れていたらしく、取っ手へ手を伸ばすでもなく少し考える。

 

「……頼む」

 

「ん」

 

 詩乃はそれ以上何も言わず、カップを持って立ち上がった。

 

 詩乃はカップを持って部屋を出た。キッチンで電子レンジを動かし、その低い駆動音を聞いている間だけ、今夜聞いたことを最初から辿ろうとして、途中でやめる。

 七歳の零奈がしたことも、それから何年もかけて自分へ課してきた基準も、明日奈から電話を受けながら考えていたものも、一晩で一つの答えへまとめられるような話ではないし、無理にまとめる必要もなかった。

 

 電子レンジが短い音を鳴らしたところで扉を開け、温まったカップを取り出す。そのまま部屋へ戻ると、零奈はまだ医学書を開いていなかった。

 詩乃は何も言わず、その手元へカップを置いた。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 再び床へ座り、ノートパソコンを開こうとして、詩乃は一度だけ手を止めた。

 

「零奈」

 

「何だ?」

 

「今は……頭の中、煩い?」

 

 零奈はすぐには答えなかった。

 温め直したコーヒーから上がる湯気が、二人の間でゆっくり形を崩していく。窓から流れ込んだ風に押されて少し横へ傾き、それが見えなくなる頃になって、零奈はようやくカップへ手を伸ばした。

 

「……いつもよりは静かだ」

 

 詩乃は理由を聞かなかった。

 

「そう」

 

 それだけ返してノートパソコンを開く。

 隣では、少し遅れて医学書の表紙が持ち上がった。しばらくすれば紙をめくる音も戻ってきて、詩乃は画面に表示された文章を何行か読み進めた。途中で視線を上げると、開け放したままだった窓から入る風がまたカーテンを大きく膨らませている。

 

 夜も深くなり、さすがに少し冷えていた。

 

 詩乃は立ち上がって窓を閉めた。鍵を掛け、カーテンを戻してから元いた場所へ座り直す。その間も、零奈は本を読んでいた。

 

 何時に帰るのかは尋ねなかった。

 窓が閉じた後の部屋では、時折ページをめくる音だけが静かに続いていた。

 




零奈は昔、知るためだけに小さな命を奪った。
命の重さ、倫理の境界、人道という枷、
すべてを覚えたが、危うい答えは今も浮かぶ。
そこへ自分の判断を疑ってくれるヤツがやってきた。
少しだけ静かだ。迷った時は、話してみよう。
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