2026.04.28
東京都文京区・朝田詩乃の部屋
朝田詩乃の部屋に三人分の朝食が並ぶことは、もう特別な出来事ではなくなっていた。
炊き上がった白米と味噌汁、昨夜のうちに下味を付けておいた魚、それに簡単な副菜が小さな食卓へ収まっている。食べる量だけを見れば獅織の分が頭一つ抜けて多く、零奈の分はその半分にも満たないが、それも今では誰も気にしない。詩乃が料理を作り、獅織が食卓へ運び、零奈は少なくとも呼ばれれば食べに来る。三人で暮らし始めてから繰り返されてきた朝の形は、誰かがわざわざ役割を確認しなくても勝手に出来上がるようになっていた。
食事を終えた詩乃は、一足先に学校へ出る支度を整えていた。今日は放課後に明日奈、リズ、シリカとカラオケへ寄る予定があり、帰宅は普段より遅くなる。そのこと自体は昨夜のうちに伝えていたものの、玄関へ向かう前になって、詩乃は制服のポケットへ端末を入れながらもう一度二人を振り返った。
「夕飯までには戻るつもりだけど、遅くなりそうなら連絡するから。獅織、帰ってきてお腹空いてても、お菓子だけで済ませないでよ」
「分かってるよー」
零奈は二人のやり取りを聞きながら、残っていた茶を飲み、詩乃が玄関へ向かえば、それに合わせるように僅かに顔を上げる。
「明日奈の状態について、昨日と違うことに気付いたら覚えておいてくれ。無理に聞き出す必要はない」
「分かってる。でも診察に行くわけじゃないんだから、普通に見てくるだけよ」
「ああ。それでいい」
詩乃は靴を履き終えると、二人へ軽く手を上げて部屋を出ていった。扉が閉じた後もしばらく廊下を歩いていく足音が聞こえていたが、それもやがて階段の方へ消え、部屋には食後の静けさと、獅織が最後まで残していた味噌汁を飲む音だけが残った。
零奈は詩乃が出ていった扉から食卓へ視線を戻した。昨夜の話が長引いたせいで睡眠時間が多少減っていることを除けば、身体の状態に問題はない。明日奈からの電話を受け、菊岡へ照会を送り、その後に詩乃へ自分自身の判断基準について話した。その一連の出来事は今も頭の中に残っていたが、昨夜最後に詩乃へ答えた時と比べれば、思考は随分整理されている。
向かいでは、獅織が空になった椀を食卓へ戻していた。
「姉ちゃん」
「何だ?」
「昨日さ。アタシが風呂行ったあと、詩乃とずっと何話してたんだ?」
問いかける声そのものはいつもと変わらなかったが、獅織は視線を逸らさなかった。昨夜、風呂から戻った後も二人が話を続けていることには気付いていたはずだし、その内容を詩乃から聞いた様子もない。零奈は残っていた茶を飲み切ってから、ゆっくりと話し出した。
「私の判断の仕方についてだ」
「姉ちゃんの判断?」
「ああ。私が何かを決める時、自分の中だけで検討を完結させることが必ずしも安全ではない、という話をした。私が自分の判断を疑う必要がある時、外から異論を出してほしいと頼んだ」
獅織は食器を重ねようとしていた手を止めた。
すぐに問いを返すのではなく、一度、今聞いた言葉を自分の中へ置いているらしい。数秒後、重ねた皿を両手で持ち上げながら零奈を見る。
「……それ、詩乃だけ?」
「いや」
零奈が即答すると、獅織の顔から僅かに力が抜けた。しかし、それだけで終わりではなかったらしく、食器を持ったまま立ち上がった後も、その場から動こうとはしない。
「だったらアタシにも言ってよ。もし姉ちゃんが間違ってたら止めるって、ずっと前から言ってるだろ」
「覚えている。君が私の判断へ異論を出すことを禁じた覚えもない」
「そういうことじゃなくてさ」
獅織はそこで少し言葉を探した。零奈が続きを待っていると、やがて不満を隠さないまま眉を寄せる。
「詩乃にだけ先に『止めてくれ』って頼んだの、なんかずるい」
零奈はすぐには答えなかった。
獅織が使った「ずるい」という言葉を、そのまま感情表現として受け取って終わらせるのではなく、何に対する不満なのかを考えた。
昨夜の会話は詩乃との間で生じた話題から始まったもので、獅織を意図的に除外したわけではない。しかし獅織から見れば、以前から自分が担う意思を示していた役割を、零奈が改めて詩乃へだけ依頼したように見えた可能性はある。
「……君が以前から『私が間違えたら止める』と言っていたのに、私がその役割を詩乃にだけ新しく頼んだように聞こえた、ということか」
獅織は一度目を瞬かせた。
「そう。それ」
「なら、私の説明が不足していた。昨夜は詩乃との会話の中でその話題が生じたから、先に彼女へ頼んだだけだ。君をその役割から外したつもりはない。私が判断を誤っていると考えたなら、君も止めてくれ」
零奈はそこで言葉を切り、獅織が持ったままになっている皿へ一度視線を落とした。
「それで君の言う『ずるい』は解消されるか?」
「……たぶん」
獅織はまだ少し納得しきっていないような顔をしていたが、少なくとも先ほどよりは口元が緩んでいた。そのまま流し台へ食器を運び、戻ってきたところで鞄を肩へ掛ける。
「でも、ちゃんとアタシにも話してよ。姉ちゃんが考えてアタシが動くの、アタシ嫌いじゃないけど、アタシだって何も考えてないわけじゃないんだからな」
「知っている」
「ならいいけど」
獅織は玄関へ向かい、靴を履きながら一度だけ振り返った。
「じゃあ、行ってくる!」
「ああ。行ってこい」
扉が閉じる。
零奈は少しだけ静かになった部屋を見回した後、食卓に残された自分のカップと、流し台へ運ばれただけの食器を見た。洗っておこうという考えが一瞬浮かんだものの、以前余計な仕事を増やしたことを思い出し、そのままにして自室へ戻ることにした。
十十十十十十十十十十
2026.04.28
東京都文京区・九重零奈の部屋
菊岡から返答が入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
零奈は午前中、昨日までに得られた情報を改めて時系列へ並べ直していた。
二十五日の代々木公園では、三人が別のボスイベントへ移動した後、風林火山の五人が何者かから襲撃されている。現場へ戻った時には全員が倒れており、クラインは右腕に骨折が疑われる外傷を負っていた。意識を取り戻した本人から得られたのは、誰かに襲われたらしいことと、相手の顔を見たかもしれないという曖昧な証言だけで、その時点では単純な暴行事件として考えても大きな矛盾はなかった。
翌二十六日、明日奈がオーディナル・スケールのイベントへ参加し、その後、SAO内部に関係する記憶だけを選択的に失った。さらに倉橋医師の検査では、該当する記憶領域に外部から情報を読み取られた可能性を示す痕跡が認められている。そしてクラインにも、単なる頭部外傷後の混乱では説明しづらいSAO記憶の異常が確認された。
二十五日の時点では無関係だったはずのものが、二十七日には同じ線の上へ近付き始めていた。
零奈はそこまでを書き終え、紙の余白に《目的不明》とだけ記したところで、机の端に置いていた端末が震えるのを見た。
「九重だ」
『こんにちは。昨日の件、少し分かったことがあるよ』
菊岡の声は普段と変わらず穏やかだったが、単なる途中経過だけを伝える時よりも僅かに早い。零奈は通話を耳へ当てたまま、机に広げていた紙を手元へ引き寄せた。
「聞こう」
『まず、桐ヶ谷君からも同じ件について連絡が来ている。彼は昨日の東京ドームシティのイベントへ参加していたんだけど、そこでユイ──彼のナビゲーション・ピクシーが妙な挙動を拾ったらしい。旧SAOのボスから特定のプレイヤーが攻撃を受けた時、通常のゲーム処理とは別のプログラムがオーグマー側で動いている可能性がある』
零奈は《オーディナル・スケールボス攻撃時》と書き、その下へ線を引いた。
「対象がSAO生還者であることまで判別できているのか?」
『そこまではまだ。ただ、少なくとも毎回全員に動いている処理ではないらしい。今確認されている記憶異常と無関係だと切り捨てるには少し気になる』
「同意する。続けてくれ」
『それから、桐ヶ谷君が今追っているプレイヤーが一人いる。エイジ、という名前だ』
零奈のペンが一度止まった。
「知らない名だ」
『オーディナル・スケールのランキング二位。旧SAOのボスが出現したイベントに姿を見せていて、桐ヶ谷君は何か知っている可能性があると見ているらしい。彼が調べた結果、そのエイジとオーグマーの開発者を結ぶ場所として、東都工業大学の研究室が出てきた』
「重村徹大か」
『そう。桐ヶ谷君は今日、本人の講義を聞きに行っている。記憶を読み取るような隠し機能がオーグマーに存在するのではないか、と直接確認したそうだけど、重村教授は否定した』
「本人の否定だけなら判断材料としては弱い。機能が存在しない証明にはならないし、存在すると推定する根拠にもならない」
『君ならそう言うと思ったよ。それで、こっちでも重村教授について調べ直していたんだけど、一つ別の情報が出てきた』
菊岡の声から軽さが少し消えた。
『重村教授には娘がいた。名前は重村悠那。SAO事件で亡くなっている』
零奈は紙の上へ、その名前をゆっくり書いた。
シゲムラユウナ──現在、オーディナル・スケールの各イベントへ現れるARアイドル、《YUNA》。
音だけならほぼ同じだった。
「死亡した層、時期、当時の交友関係は?」
『今洗っているところだ。少なくともSAO内部で死亡したことは確認できている。ここから先は、確定したものが出てから渡すよ』
「それでいい。関連を疑う材料にはなるが、同名に近いというだけで結論を作れば逆に誤る」
零奈は通話を続けながら、これまでの項目の位置を少しずつ動かした。
重村徹大がオーグマー開発に関わっていること、娘がSAOで死亡していること、SAO生還者の記憶へ何らかのアクセスが行われた可能性があること。その三点を並べれば一つの方向は見えるが、その間に何が存在するのかはまだ空白のままだ。
「倉橋医師の所見について確認したい。明日奈の症状は記憶領域の単純な損傷ではなく、情報を外部から読み取った可能性を示すものだった。そちらでも同じ認識でいいな?」
『ああ。その説明は共有されている』
「なら、現時点では記憶喪失そのものを目的と考えない方がいい。単に忘れさせることが目的なら、保存されている内容を詳細に読み取る工程が必須とは限らない。一方、目的が記憶内容の取得であり、読み取りの結果として保持機能に障害が生じているなら、症状は副次的なものになる」
『欲しいのは、消えた結果じゃなくて中身の方かもしれない、と?』
「可能性の一つだ。ただし、取得した情報が何に使われるのかは分からない。そこを先に決めれば、以後の情報をその仮説へ合わせることになる」
菊岡は短く同意し、行政側でも類似症例とオーグマーの挙動をさらに確認すると答えた。
通話を終えた後、零奈は椅子から動かず、新しく書き加えた二つの名前を見ていた。
《エイジ》
《シゲムラユウナ》
どちらも、今朝までは存在しなかった材料だった。
零奈はタブレットを取り、東都工業大学までの経路を一度表示した。今から向かって重村本人へ話を聞くという方法も、物理的には可能だった。しかし桐ヶ谷が既に同じ日に訪問しており、記憶スキャンについて直接否定された直後である。同じ質問を別のSAO生還者が繰り返したところで、重村の返答が変化する可能性は高くない。
それでも、実際に自分の目で見た方が拾える情報があるかもしれないという考えは残った。
そこで昨夜の言葉が浮かんだ。
何も伝えず、私一人で確認へ向かうことはしない──零奈は表示していた地図を閉じ、詩乃と獅織の二人へ同じ文面を送った。
《新しい情報が入った。重村徹大に加えて、エイジというオーディナル・スケールのプレイヤーと、シゲムラユウナという名前が出ている。夕方、二人に共有したい》
獅織からは休み時間だったのか、数分もしないうちに返事が来た。
《分かった!帰ったら聞く》
詩乃から返答が届いたのは、それからしばらく後だった。
《了解。今日は明日奈たちとカラオケだから、終わったら戻る》
零奈は二つの返答を確認し、もう一度だけ閉じた地図のアイコンを見たが、再び開くことはしなかった。
十十十十十十十十十十
2026.04.28
東京都文京区・朝田詩乃の部屋
夕方、カラオケを終えて帰宅した詩乃が自分の部屋へ戻ってから十分もしないうちに、零奈と獅織が隣からやってきた。
学校鞄を置き、制服から部屋着へ着替えたばかりの詩乃は、二人をローテーブルへ座らせると、まず三人分の飲み物を用意した。夕食にはまだ少し早く、話の内容次第では料理を始めてからでは手が止まることも分かっていたため、先に零奈の話を聞くことにしたのだ。
獅織は学校の課題を入れた鞄を自分の部屋へ置いてきたらしく、今日は珍しく何も持たず、テーブルの前へ胡坐をかいていた。
「それで、まずエイジって誰なの?」
詩乃が最初に聞いた。
昼に届いた零奈の文面で初めて見たプレイヤーネームだった。獅織も知らないらしく、飲み物へ手を伸ばしながら同じように零奈を見る。
「私も今日、菊岡から初めて聞いた。オーディナル・スケールのランキング二位にいるプレイヤーらしい。キリトが旧SAOのボスイベントについて調べる中で、何か知っている可能性がある人物として追っている。その調査から東都工業大学の重村研究室へ繋がった」
「それで二位って……そいつ本当にただのプレイヤーなのか?」
「ランキングが事件への関与を意味するわけではない。ただ、キリトが調査対象にしている以上、何かしら根拠はあるはずだ。今日、本人から詳細を聞ければ確認する」
零奈はそこで一度話を切り、菊岡から得た情報を順番に説明していった。
東京ドームシティでユイが検出した不審なプログラム。旧SAOボスから特定のプレイヤーが攻撃を受けた時だけ発生する可能性があること。重村徹大が記憶スキャン機能について否定したこと。そして何より、重村にSAOで死亡した娘がいたという事実。
「シゲムラユウナ、か……」
零奈が名前を口にした瞬間、獅織の眉が動いた。
「ユウナ?」
「ああ」
「YUNAと同じ?」
「発音としてはほぼ同じね」
詩乃もそれにはすぐ気付いた。
だが、それだけなら似た名前はいくらでも存在する。偶然ではないと考えたくなる材料ではあるが、今この時点で何かを断定するには薄いことも分かっていた。
零奈も同じだったらしく、そこを強調することなく次へ進む。
「現時点で重要なのは名前の一致だけではない。明日奈とクラインにはSAO内部に関係した選択的な記憶異常が起きている。倉橋医師の検査では、少なくとも明日奈の記憶領域に外部から情報を読み取った可能性を示す痕跡がある。さらに昨日、キリトの側では旧SAOボスからプレイヤーが攻撃を受けた際、通常とは異なる処理がオーグマー内部で動いている可能性を掴んだ。ここまで揃えば、オーディナル・スケールを通じてSAO生還者の記憶へ何らかのアクセスが行われている、と考えること自体は不自然ではない」
詩乃は黙ったまま聞いていた。
零奈の説明が一段落したところで、今度は今日カラオケで見た明日奈のことを思い返す。電話で話した時にも受け答え自体は普通だったが、直接会って数時間一緒に過ごせば、そこだけが抜け落ちている異様さはより明確だった。
「明日奈の方も、昨日と大きく変わってはいなかったわ。普通に話せるし、歌ってたし、学校や家族のことも覚えてる。ALOに入ってからのことも問題ない。でも、SAOの話になると、本当にそこだけ自分の中にないみたいだった」
零奈は詩乃へ向き直った。
「本人はどう言っていた?」
「戻したいって。少なくとも、忘れたままでいいとは思ってない。怖いこともあったけど、それだけじゃないからって」
「そうか」
返答は短かった。
詩乃が今日見てきた明日奈本人の意思は、それだけで一つの情報として紙の上へ置かれた。
獅織はローテーブルに広げられた紙を覗き込みながら、二人の話を聞いていた。さっきまで手にしていたグラスは既に置かれ、今は文字の間を視線だけが行き来している。
零奈が詩乃へ「本人はどう言っていた」と尋ねた時、一度だけ顔を上げたものの、何も言わずまた紙へ戻った。
零奈はそこから、昼に自分が考えた仮説を二人へ伝えた。
「私は、記憶喪失自体が目的ではない可能性を考えている。仮に誰かがSAOの記憶を消したいだけなら、内容そのものを読み取る必要がない。もちろん、技術的に読み取りと消去を完全に分離できない可能性はある。だが逆に、必要なのが記憶内容の方で、その取得過程によって記憶保持に障害が生じているなら、現在の症状は目的ではなく副作用になる」
「じゃあ、何かを探してる?」
詩乃が尋ねる。
「あるいは集めている。重村悠那との関連を考えれば、彼女に関係する何かを必要としている可能性もある。ただ、それならSAOのサーバーに残った記録ではなく、生還者個人の記憶を集める理由が分からない」
「……その娘のこと、集めてるんじゃない?サーバーに残ってる記録じゃなくてさ。みんなが覚えてるユウナって子」
それまで黙っていた獅織が言った。
零奈の説明が途中で止まり、詩乃も獅織の方を見る。
急に二人分の視線が集まったことで、獅織自身も一瞬だけ戸惑ったようだった。しかし、思いつきを口にしただけでは終わらせず、紙の下部に書かれた《シゲムラユウナ》という文字を指で示す。
「だって、その子はSAOで死んだんだろ。それで今、SAOにいた人たちからSAOの記憶を読んでるんだろ?だったら、みんなが覚えてるユウナって子のことを探してるとかないの?」
零奈は何も言わなかった。
獅織は、自分の考えが伝わっていないと思ったのか、指を紙から離してもう少し続けた。
「一人の人が覚えてることって全部じゃないだろ。誰かは顔を覚えてて、誰かは話したこと覚えてて、別の誰かは一緒にいた場所を覚えてるかもしれない。それをいっぱい集めたら、その子のことがもっと分かるじゃん。それに、ゲームに出てくる歌手までYUNAなんだろ?」
部屋の中で、壁掛け時計の秒針だけが何度か進んだ。
零奈の視線が紙の上を動く。
シゲムラユウナのSAO内部での死亡。
SAO生還者の記憶の読み取り。
旧SAOボスと《YUNA》。
個人の記憶からしか得られない情報というものは存在するだろう。ゲームサーバーに記録されているのは、座標や戦闘データ、システム上の行動履歴までであり、ある人物を他人がどう見ていたか、その声をどう覚えているか、何気ない会話をどう受け取ったかまで完全に保存しているとは限らない。
さらに、特定の時期の記憶へ効率よく接触するために、その時期と強く結び付いた刺激を与えているのだとすれば、旧SAOボスを再現する理由にも一応の筋が通る。
「……姉ちゃん?」
長く黙っていた零奈へ、獅織が少しだけ身を乗り出した。
零奈はそこでようやく顔を上げた。
「あり得る」
獅織の目が僅かに大きくなる。
「本当?」
「ああ。ただし、『シゲムラユウナについての記憶を集めている』と断定するにはまだ不足している。被害者全員が彼女を知っていたのかも分からないし、取得した記憶情報を何に利用するのかも不明だ。それでも、記憶障害そのものではなく、記憶内容の収集を目的と仮定すれば、SAO生還者を対象にする理由、旧SAOの状況を再現する理由、シゲムラユウナとYUNAという名称の一致まで、一つの方向で説明できる項目は増える」
零奈はペンを取り、紙の中央に新しい一行を書き加えた。
《目的:SAO内部に存在した特定人物についての記憶収集?》
最後には疑問符を残した。
獅織はそれを横から見ていたが、やがて少しだけ口元を上げた。
「アタシの考え、使うんだ」
「使えるからな」
「それ、褒めてる?」
「少なくとも、私が一人で考えていた時には出ていなかった仮説だ」
零奈はそこでペンを置き、獅織へ向き直った。
「君がいなければ、今この段階では出なかった可能性が高いな」
獅織はすぐには返事をしなかった。
何か言おうとして口を開き、結局そのまま閉じる。代わりにグラスを持ち上げて一口飲んだが、隠しきれないように口元だけは先ほどより緩んでいた。
「……なら、いいや」
詩乃はその横顔を見てから、紙へ視線を戻した。
その後、零奈は「新しい仮説を菊岡へ共有する」と言い残し、端末を持って部屋を出て戻って行った。
扉が閉じてから数秒後、詩乃は時計を見た。
「……先にご飯作るわ。あの人、戻ってきたらそのまま続きを始めるでしょ」
「手伝う」
「じゃあ食器出して。あと冷蔵庫から野菜取って」
「了解!」
獅織は勢いよく立ち上がり、詩乃の後を追ってキッチンへ入った。
いつもと同じ役割だった。詩乃が包丁を使い、獅織は頼まれたものを冷蔵庫から運び、食器を並べる。以前、一度だけ獅織へ包丁を任せようとして、本人の力加減の問題以前に切り方そのものを知らないことが発覚してから、この分担はほとんど変わっていない。
詩乃が野菜を洗ってまな板へ置いたところで、横から皿を運んでいた獅織の視線に気付いた。
一度目は何も言わなかった。たまたまこちらを見ただけかもしれないと思い、そのまま包丁を動かす。二度目も同じだったが、三度目となればさすがに偶然ではない。
獅織は視線が合いそうになるたびに食器棚や手元へ目を戻しているものの、少し経てばまたこちらを見る。何か言いたいことがあるらしいことだけは分かった。
「何?」
包丁を動かしたまま尋ねると、獅織はほんの少しだけ肩を揺らした。
「何が?」
「さっきからこっち見てるでしょ」
「見てないよ」
「そう」
詩乃はそれ以上追及せず、切った野菜をボウルへ移した。
何かあるのは分かっている。そして、このタイミングで話したがっているということは、恐らく内容は零奈のことなのだろう。ただ、獅織が自分から「見ていない」と答えた以上、それをわざわざ否定してまで聞き出すつもりはなかった。
昨夜、零奈から獅織の過去について「本人が君に話すなら止めないが、私から説明するつもりはない」と聞いたことも頭の隅に残っている。知らない事情があることと、それを知る権利が自分にあることは別だった。
詩乃は次の材料を冷蔵庫から取り出し、再びまな板へ向かった。
すると、横から小さく息を吐く音がした。
「……やっぱ、そういうとこずるい」
今度こそ詩乃は包丁を止めた。
「何がよ」
「気付いてるくせに、アタシが違うって言ったら本当にそれ以上聞かないとこ」
「嫌なら聞かない方がいいでしょ」
「そうなんだけどさ……」
獅織はすぐには続けなかった。食器棚から出した皿を食卓へ置き、もう十分揃っている位置をわざわざ指先で直している。
詩乃はその背中を見ながら待った。
「聞かれたら、それはそれで何て言えばいいか分かんないんだよ。でも、何も聞かれなくなると……それもなんか違うっていうか」
獅織は自分でも面倒なことを言っていると分かっているらしく、最後の方は声が少し小さくなった。
「詩乃はたぶん、アタシが何か言いたいの分かってるだろ。でも無理に聞かない。そうすると、結局アタシが自分から言わなきゃいけなくなるから、それがずるい」
「それ、私がずるいんじゃなくて、獅織が自分から言うの嫌なだけじゃない?」
「分かってるよ」
返事だけは早かった。
「分かってるから嫌なんだって」
詩乃は少し考えた。
獅織にしてみれば、こちらから踏み込まれるのも嫌で、完全に放っておかれるのも嫌なのだろう。答えを引き出してほしいわけではない。ただ、自分でも扱いかねているものがあることくらいは気付いていてほしい。
随分と勝手な要求にも思えたが、数ヶ月前に十四歳になった少女が自分で整理できない感情を抱えているのなら、それくらいの矛盾はあっても不思議ではなかった。
詩乃は再び包丁を持った。
「じゃあ、一回だけ聞く」
「……何を?」
「何か私に言いたいことある?」
今度は獅織も「ない」とは言わなかった。
その代わり、食卓へ置こうとしていた箸を手にしたまま黙り込み、何度か指先で束を揃えながら話し出した。
「……さっきさ」
「うん」
「姉ちゃんが詩乃に、明日奈のことどう思ったって聞いただろ」
「聞いてたわね」
「あれ、ちょっと嫌だった」
詩乃は包丁を止めなかった。
ただ、獅織の言葉を聞き逃さないように手元へ向けていた意識を少しだけ横へ移す。
「私に聞いたことが?」
「うん……いや、聞くのは分かるんだよ。今日、明日奈に直接会ってたのは詩乃だし。それなら詩乃に聞くのが一番早いってのも分かる」
「じゃあ何が嫌だったの?」
「そこが自分でもよく分かんないから困ってるんだって」
獅織はむっとしたように言ったが、その矛先は詩乃へ向いているというより、自分で答えられないことそのものへ向いているようだった。
それでも、今度は話をやめなかった。
「姉ちゃん、昨日は詩乃に『止めてくれ』って頼んでたんだよな?別にアタシを除け者にしたわけじゃないって後で分かったし、姉ちゃんもそう言ってたから、それはもういいんだけどさ」
獅織はそこで一度言葉を切り、手にしていた箸をようやく食卓へ置いた。
「最近、姉ちゃんがアタシの知らないことを詩乃には話してたり、何か考える時に詩乃へ先に聞いたりすること増えただろ。そういうの見ると、なんか面白くない」
そこまで言われれば、詩乃にもようやく引っ掛かっているものが見えてきた。
自分が零奈へ近付いたことで、少し嫉妬されているのだろうか。二人が恐らく普通の姉妹ではないことは昨日知ったばかりだが、それでも互いを姉妹として扱っている。零奈が別の誰かを頼ることが増えれば、面白くないと思うこともあるのかもしれない。
「……私に妬いてるの?」
少し迷ってから尋ねると、獅織はすぐには答えなかった。
食卓へ置いた箸の位置を指で直し、考え込むように眉を寄せる。
「たぶん。ちょっとだけ」
「本当にちょっとだけ?」
「たぶんって言ってるだろ」
獅織は不満そうに返したが、否定はしなかった。
詩乃はもう一度野菜へ包丁を入れる。
「姉妹って、そういうものなの?」
「知らないよ」
「知らないの?」
「アタシだって姉ちゃん他にいないし」
「私だって姉妹はいないから分からないわよ」
「じゃあどっちも分かんないじゃん」
「分かんないわね」
二人とも、少しだけ黙った。
随分と身も蓋もない結論だったが、詩乃は二人が姉妹になった経緯を知らないし、獅織自身も今までその感情をわざわざ分解して考えたことはなかったのだろう。
「でもさ」
少し間を置いて、獅織が続けた。
「詩乃に離れてほしいわけじゃないんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。むしろ、いてくれた方がいい。姉ちゃん、詩乃が言うなら飯食う時あるし、ちゃんと寝るし。アタシが何回言っても聞かなかったこと、一回で聞く時あるのはちょっと腹立つけど……助かってるのも本当だし」
「そこは私に怒られても困るんだけど」
「分かってるって」
獅織はすぐに返した。
「何かあった時も、詩乃なら姉ちゃんの近くにいてくれていいって思ってる。姉ちゃんが一人でどっか行くくらいなら、詩乃が一緒にいてくれた方が全然いい。でも、姉ちゃんが詩乃ばっか頼ってると、それはそれでちょっと面白くない」
詩乃は獅織を横目で見た。
「なんか面倒ね」
「だから困ってるんだって」
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
「それも分かんない」
獅織は頬を膨らませたものの、先ほどまでよりは少しだけ表情が緩んでいた。
詩乃は切り終えた野菜を包丁の腹で集め、まな板の端からボウルへ移した。軽い音を立てて落ちた野菜の上へ最後の一片を指先で押し込み、それから空いたまな板を一度水で流す。
「まあ、話したくなったら聞くわよ」
獅織からすぐに返事はなかった。
少しして、食器の触れ合う音がした。
「……そういうとこは、嫌いじゃない」
詩乃は水を止め、濡れた手を軽く振った。
「どうも」
それ以上は聞かなかった。
獅織も今度は「ずるい」とは言わず、二枚の皿を抱えて食卓へ向かう。けれど、数歩進んだところで足が遅くなった。
「……でもさ」
「何?」
獅織は振り返らなかった。
抱えていた皿を少し持ち直してから、先ほどまでよりも低い声で続ける。
「姉ちゃんのこと、全部詩乃に任せちゃうみたいになるのは……やっぱり、ちょっと嫌かも」
包丁を取ろうとしていた詩乃の指が、その柄の手前で止まった。
獅織はそのまま食卓の方を向いている。詩乃は手を戻し、キッチン台へ軽く指先を置いた。
「……別に、全部面倒を見るつもりはないわよ」
獅織の肩が僅かに下がった。
「うん。分かってる」
今度の返事は小さかった。
獅織はようやく残りの数歩を進み、食卓へ皿を置いた。一枚目を零奈の席へ、もう一枚を詩乃の席へ置き、自分の分を取りに戻ろうとして、一度だけ詩乃の方を見る。
視線が合うと、すぐに食器棚へ向き直った。
詩乃も何も言わず、包丁を手に取った。
刃がまな板へ触れる規則的な音と、背後で獅織が食器を取り出す音がしばらく重なった。
詩乃が切った材料を鍋へ移すと、熱した底へ水分が触れて小さく音を立てた。詩乃は火加減を少し落とし、蓋を取る。
その時、玄関扉が開く音がした。
続いて、靴を脱ぐ気配がする。
菊岡との通話を終えた零奈が戻ってきた。
キッチンから詩乃が、食卓から獅織が、ほとんど同時に玄関の方を見る。
零奈は部屋へ入るなり二人の視線を受け、そこで一度足を止めた。
「……何だ。何かあったか?」
「別に」
「なんでもない」
二人の声がほとんど同時に重なった。
零奈の目が詩乃から獅織へ移り、また詩乃へ戻る。数秒ほどそのまま見られたせいで、獅織は意味もなく零奈の席に置いた皿を数センチ右へ動かした。
「……そうか」
零奈はそれ以上尋ねなかった。
いつもの場所へ端末を置き、先ほどまで使っていた資料をローテーブルへ戻す。その間に詩乃は鍋の蓋を閉じ、獅織は残っていた箸と小鉢を運び始めた。
誰も先ほどの話へ戻らなかった。
詩乃が料理を仕上げている間、獅織は何度かキッチンと食卓を往復した。途中で零奈が立ち上がって手伝おうとすると、獅織が食器を抱えたまま進路を塞ぎ、押し戻した。
「姉ちゃんは座ってて」
「運ぶくらいならできる」
「今アタシがやってるからいいの」
零奈は素直に座り直した。その様子を鍋越しに見ていた詩乃は、口元を僅かに緩めたものの、何も言わず味を確認する。
しばらくして火を止めると、獅織がすぐに空いた手を差し出した。
「それ運ぶ?」
「熱いからこっちは私が持つ。獅織はそっちお願い」
「了解」
最後の料理が食卓へ運ばれる。
零奈の前には零奈の分、獅織の前には明らかに量の違う獅織の分、そして詩乃の前にも自分の皿が置かれた。
獅織は椅子を引いて座る前に、一度だけ三つの席を見た。何かを確かめるほど長い時間ではなかった。すぐにいつもの位置へ腰を下ろし、箸を手に取る。
詩乃も向かいへ座った。
「いただきます」
その声に獅織が続き、少し遅れて零奈も箸を取った。
三人分の食器が触れ合う音が、食卓の上へ戻ってきた。
十十十十十十十十十十
夕食を終えた後も、三人は詩乃の部屋に残っていた。
零奈は菊岡へ送った追加情報と今日得た材料を紙へまとめ直し、詩乃は食器を片付けた後、ソファに座ってカラオケで撮った写真を整理している。獅織は学校の課題を持ってきてローテーブルの反対側へ広げていたが、数学の問題を数問解いたあたりで集中が途切れたらしく、オーグマーを触り始めていた。
そのまま十分ほど経った頃だった。
獅織が視界に呼び出していた表示を見たまま、シャープペンシルを止める。
「……あれ?」
零奈は紙から顔を上げた。
「どうした?」
「キリトの順位、こんな高かったっけ?」
獅織がオーグマーのランキング表示を共有すると、詩乃もソファから身体を起こした。
そこにはKiritoのプレイヤーネームが表示されていた。
数日前までなら特別目を引く順位ではなかったはずだが、今は明らかに上位へ食い込んでいる。獅織が更新を掛け、少し時間を置いてもう一度確認すると、さらに数字が動いた。
「また上がった」
「今日だけで?」
「たぶん。昼にちょっと見た時、こんなとこいなかったはずだけど」
獅織は集中した顔で履歴を追い始めた。
「これ、ずっとボス回ってるんじゃないか?」
詩乃が眉を寄せる。
「カラオケでも、キリトがまだボス戦に出てるって話はしてたけど……人には危ないから旧SAOのボスと戦うなって警告しておいて、自分は何やってるのよ」
零奈は端末を取った。
「本人に聞く」
通話は数回の呼び出しで繋がった。
『零奈?』
聞こえてきたキリトの声には、普段より僅かに呼吸の乱れが残っていた。
「今、戦闘中か?」
『いや……終わったところだ』
「今日、連続してOSのボス戦へ参加しているな。獅織がランキングの変化に気付いた。理由を聞きたい」
向こうが数秒黙った。
零奈は返事を急かさず待った。
『……ユナに言われたんだ』
「YUNA?」
『……いや、いつものアイドルの方とは違う。白い服の女の子だ。昨日も見た。今日また会って……アスナの記憶を取り戻したいなら、今のランキングじゃ足りないって言われた』
詩乃と獅織も通話を聞いている。
零奈は昼に書いた《シゲムラユウナ》という名前へ目を落とした。
「その人物は、自分がシゲムラユウナだと名乗ったのか?」
『いや。俺が聞いても答えなかった。ただ、重村教授のことは知ってるみたいだった』
「ランキングを上げれば何が起きるのか、具体的な説明は?」
『ない。でも、アスナの記憶を戻せる可能性があるなら確かめたい』
キリトの返答に迷いはなかった。
零奈はすぐに賛成も反対もせず、今分かっている危険を頭の中で並べ直した。
旧SAOボスとの戦闘と記憶異常の関連が疑われている以上、SAO生還者であるキリトが同じイベントを繰り返すことには明確な危険がある。一方で本人はその可能性を知っており、それでも明日奈の記憶へ繋がる手掛かりを追うことを選んでいる。
「なら、少なくとも条件を追加してくれ。各戦闘の前後でユイにも君の状態を確認させる。直前の出来事を思い出せない、同じ質問を繰り返す、頭痛や意識の途切れが生じるなど、認知や記憶の異常を疑う変化が一つでも出た場合はそこで中止しろ。記憶異常である以上、本人の自覚だけを基準にするのは危険だ」
『……分かった』
「白いユナについても、何か新しいことが分かったら共有してくれ。それと、君が今追っているエイジについては菊岡から聞いた」
『菊岡さんから?』
「ああ。ランキング二位のプレイヤーで、重村研究室との関連を調べていることまでだ。それ以上は知らない」
『分かった。こっちでも何か掴んだら連絡する』
そこで詩乃が手を出した。
零奈は何も聞かず、端末を渡す。
「キリト」
『シノン?』
「理由があるのは分かってるし、今すぐ全部やめろとも言わない。でも、自分だけは大丈夫って考えないでよ。今回、記憶がおかしくなった人たちだって、自分からそうなるつもりで参加したわけじゃないんだから」
詩乃は一度言葉を切った。
電話の向こうから返事はない。
「ユイが止めたら止まりなさい。それでも何か確認したいなら、またその時考えればいいでしょ。全部一晩で終わらせなくても、明日奈の記憶が今夜だけで消えるわけじゃないんだから」
『……分かった。気を付ける』
「ならいい」
詩乃は端末を零奈へ返した。
通話が終わると、獅織はもう一度ランキングを更新した。数字はしばらく動かなかったが、画面を閉じる気にはならないらしく、そのまま視界の端へ小さく残していた。
「止めなくてよかったの?」
獅織が零奈へ尋ねた。
「何をだ?」
「キリト。姉ちゃん、危ないって分かってるんだろ?」
「危険はある。ただ、本人もそれを理解している。私は選択に必要な情報と、中止すべき条件を伝えた。現在の材料だけで、私が本人の意思を無視して強制的に止める理由はない。ましてや命令する権利もない」
夜が進むにつれて、キリトのランキングはまた動き始めた。
獅織が最初に気付いた時よりも更新の間隔は長くなっていたが、それでも一つ、また一つと順位を上げていく。
そのたびに獅織は表示を確認し、詩乃も時々順位を聞く。零奈だけは紙に戻っていたものの、数字が変われば獅織が何も言わなくても視線を上げるようになっていた。
やがて、表示された数字が一桁になる。
第九位。
「……九位」
獅織が小さく読み上げた。
「今日だけでここまで来たの?」
詩乃もさすがに呆れが混じった声を出した。
その直後、零奈の端末が震える。表示された名前はキリトだった。
零奈が通話を取る。
「九重だ」
『メッセージが来た』
キリトの声は先ほどより随分低かった。
「誰からだ?」
『送信者は《E》になってるけど、エイジからだ』
昼に初めて聞いた名前が、今度は事件の側から直接現れた。
零奈は端末を持ち直した。
「内容は?」
『明日のYUNAのライブに来い。それと──
キリトが一瞬言葉を止めた。
『そこで《閃光》の記憶を返してやる』
詩乃の表情が変わった。
獅織も課題の手を完全に止める。零奈はすぐには返事をしなかった。
「……返す、か」
『ああ』
「文面をこちらへ送ってくれ。画像でも構わない」
『分かった』
数秒後、零奈の端末へメッセージの写しが届いた。
そこには確かに、明日のYUNAライブへ来るよう記されている。そして《閃光》の記憶を返す、という一文。零奈はその部分を拡大した。
「今まで分かっていたのは、明日奈から記憶が失われたという結果だけだ。もし送信者が単に治療手段を知っているだけなら、『治せる』『戻せる』という表現でも成立する。だが『返す』と言った。少なくともこのメッセージを書いた人物は、記憶が失われた経緯か、その行き先について知識を持っている可能性が高い」
『ああ、俺もそう思う』
「場所がYUNAのライブであることも無視できない。こちらでは今日、重村教授の娘である重村悠那がSAO事件で死亡していることが分かった。それから、記憶喪失自体ではなく記憶内容の収集が目的ではないかという仮説も出ている」
『記憶を……集めてる?』
「獅織が気付いた。詳細は後で共有する。ただ、まだ仮説だ」
零奈はそこまで伝えてから、キリトへ今夜これ以上単独で何かを追わないよう言い、通話を終えた。
端末を置いた後も、三人の視線はローテーブル上の同じ文章へ向いていた。
詩乃が先に口を開く。
「ライブ、明日よね」
「ああ。新国立競技場だ」
「人、かなり来るんじゃない?」
「数万規模の会場だ。それだけなら通常のライブでも同じだが、問題は客層にある」
零奈は昼から使い続けていた紙を引き寄せ、空いている部分へ新しい条件を書いた。
「YUNAのライブにはSAO帰還者学校の生徒も参加する。仮に今回の記憶読み取りがSAO生還者を対象にしているなら、明日はその条件を満たす人間が同じ場所に大量に集まることになる。そしてエイジと思われる人物は、わざわざその場所で明日奈の記憶を『返す』と指定した」
「……何もない方がおかしく見えてきたな」
獅織が画面を見ながら言った。
「何も起きない可能性は残っている。ただ、安全を前提に行動はできないな」
零奈は端末を取り、菊岡へ先ほどのメッセージを転送した。
送信を終えると、今度は二人を見る。
「私は明日、現地へ行く必要があると考えている」
詩乃はすぐに返事をしなかった。
昨日までなら、その言葉の後に「ただし君は」と続いたかもしれない。
零奈自身も、詩乃がSAO生還者ではないこと、獅織がまだ十四歳であること、自分一人で行く場合と三人で行く場合の危険性を既に頭の中で比較し始めているのだろう。
しかし今回は、そこで結論を作らなかった。
「二人はどうする?」
詩乃はその問いを聞いてから、僅かに息を吐いた。
「行く」
答えそのものは迷わなかったが、詩乃はそこで話を終わらせず、ローテーブルへ置かれたオーグマーを指先で軽く押した。
「明日奈のことでもあるし、ここまで知っておいて関係ないって外れる気もない。それに、昨日言ったことは今も同じ。もしSAO生還者だけが狙われてるなら、私は零奈と条件が違う。零奈に記憶の異常が起きた時、自分で気付けるとは限らないでしょ」
「君がSAO生還者ではないことは、危険がないということを意味するわけではない」
「知ってる。だから、危険があるって聞いた上で行くって言ってるの」
詩乃の返事を聞き終え、零奈は一度だけ小さく頷いた。次に零奈が獅織を見ると、獅織は待っていたように身体を起こした。
「アタシも行く」
零奈はすぐに反対しなかった。
その代わり、少し考えてから問いを返す。
「理由を聞こう」
獅織はその言葉に一瞬だけ目を丸くした。
おそらく「危険だから残れ」という言葉が先に来ると思っていたのだろう。それでもすぐに表情を戻し、自分が先ほどから考えていたらしいことを順番に口にした。
「まず姉ちゃんが行くから。姉ちゃんに何かあった時、アタシがいた方が動ける。詩乃と同じでアタシもSAOにはいなかったし、もし誰か倒れたら運ぶのもアタシが一番向いてる。あと──」
そこで獅織は、朝のやり取りを思い出したように零奈を見る。
「姉ちゃん、今朝アタシにもちゃんと話すって言っただろ。危ないってことも今聞いた。その上で行きたいって言ってる。だから、アタシの分まで先に決めないで」
「……分かった」
零奈は少し思案した後で静かに答えた。
「三人で行こう。ただし、現地で事前に想定していない危険が確認された場合は、その時点で行動を再検討する。私に記憶や認知の異常が疑われた場合、その後の判断を私一人には任せない。逆に詩乃か獅織のどちらかに異常が出た場合も同じだ。誰か一人が正常だと自称したことを根拠に行動を続けない」
「うん。それならいい」
獅織が頷いた。
詩乃はその隣で、しばらく零奈を見ていた。先ほどまでなら、危険性や年齢を理由に誰を残すべきかまで自分の中で決めてから話し始めても不思議ではなかった。
それが今回は、危険について説明したうえで、最後の選択をこちらへ返してきた。
「何だ?」
「別に。昨日より話が早くなったなと思っただけ」
「昨日、君は言っただろう。危険だからという理由で、君がどうするかまで私一人で決めるな、と。今はその条件に当てはまる」
「……理由を聞いたんじゃないわよ」
詩乃は小さく息を吐き、零奈は僅かに首を傾げた。
「では、何だ?」
「ちゃんと覚えてたのねって話」
「昨日のことだ。忘れてはいない」
やはり少し違う。けれど、わざわざ説明し直すほどのことでもなかった。詩乃はそれ以上続けず、手元の端末を開いた。
「チケットなら何とかなると思う。私、登録キャンペーンで二枚取ってるし、本当はリーファに一枚渡す予定だったけど、あの子は剣道の合宿で行けない。エギルの方にも余りがあるはず。クラインは今あの状態だし、確認してみる」
「頼む」
零奈がそう返すと、詩乃はすぐに連絡を送り始めた。
しばらくして端末に返事が届き、入場分を確保できる見込みが立つ。細かな集合時刻や経路については明日の状況を見て決めることにし、今夜のところはそれ以上の予定を詰めなかった。
獅織は途中になっていた課題を片付けるため、再びノートを開いた。零奈も紙へ戻り、詩乃は三人の端末へライブ情報を転送すると、ソファの背へ身体を預けた。
やがて3人のオーグマーの視界に、同じ案内が三つ表示される。
《YUNA FIRST LIVE》
《2026.04.29》
《NEW NATIONAL STADIUM》
零奈は紙の一番下へ、翌日の日付を書き加えた。
四月二十九日。
その文字の下へ一本だけ線を引き、ペンを置く。
夜が深くなってから、三台のオーグマーは充電のため同じ場所へ並べられた。暗くなった室内で、白いインジケーターだけが、僅かにずれた間隔で明滅を繰り返していた。
目を合わせても分からない考え
話してみなければ伝わらない感覚
すれ違いも思い違いも存在する
心の裏まで見通せる者なんていない
だから答えはみんなで持ち寄ろう