第一話 俺たちが建てた銀行
その銀行は、街のどこからでも見えた。
駅前の再開発地区。その中心に建てられた、十二階建ての巨大な建物。
黒い石材とガラスで覆われた外壁は、地方都市には少々立派すぎるほどだった。
昼間は青空を映し、夜になると内部の照明が街を照らす。
東央銀行、新本店兼旗艦店。
総工費、およそ二十五億円。
その建築、設備、土木工事に関わった会社だけでも十数億円規模の仕事だった。
そして、その建物を実際に手で作った人間の中に、五人の男がいた。
建築。
電気。
給排水。
ガス。
土木。
五人とも東央銀行の社員ではない。
大手ゼネコンの社員でもない。
それぞれ別々の小さな会社に雇われた、現場の職人だった。
ただ、自分たちの仕事についてだけは、誰にも負けないという自負があった。
だから完成した日のことは、今でも覚えている。
*
「……でけえな」
建物を見上げながら、佐伯建が呟いた。
四十代前半。
建築工事を担当し、五人の中では最年長だった。
「お前、半年も毎日見てただろ」
笑ったのは電気工事担当の田村電司。
三十代後半。
「毎日見てても、完成すると違うんだよ」
「まあ、それは分かる」
給排水工事担当の水田浩が煙草を咥えた。
「俺らが作ったんだもんな」
「俺ら“も”だ」
ガス工事担当の柴崎が訂正する。
三十代後半。
「俺らだけで作ったみたいに言うな」
「細けえなあ」
土木と重機を担当した木村土志が笑った。
四十代前半。
五人は缶コーヒーを片手に、完成した建物を眺めていた。
誰かに表彰されたわけじゃない。
銀行の役員から感謝されたわけでもない。
ただ、
自分たちが作った。
その実感だけがあった。
職人にとっては、それで十分だった。
*
始まりがおかしかったことに気付いたのは、ずっと後だった。
本来、東央銀行が建設を予定していた土地は、駅の反対側だった。
交通の便がよく、再開発にも適した土地。
何より地盤に大きな問題がなかった。
ところが、計画は突然変更された。
理由は、
「地域再開発計画との調整」
それだけだった。
新しい土地を銀行に紹介したのは、地元選出の議員。
土地を所有していたのは、その議員と昔から付き合いのある地元の有力者だった。
新しい土地は駅から近く、立地だけなら申し分ない。
ただし、一つ問題があった。
地盤だった。
そこは昔から地盤の弱さを指摘されていた土地だった。
しかし、銀行側に提出された地盤調査資料には、深刻な問題を示す記録はなかった。
設計事務所はその資料を前提として設計した。
そして入札が行われた。
五人の所属する会社も参加した。
大手。
地場の有力業者。
中堅業者。
いくつもの会社が参加する中で、五人の会社が落札した。
彼らは知らなかった。
他社がなぜ、妙に高い金額を提示したのか。
なぜ、自分たちの会社に大型案件が転がり込んできたのか。
知る必要もなかった。
提示された設計図を見て、積算する。
必要な材料を発注する。
職人を集める。
図面通りに施工する。
それが彼らの仕事だった。
*
「この建物、よくこの工期で終わったよな」
完成後、田村が言った。
「お前んとこが遅れたら終わってたけどな」
「そっちの配管が先に入らねえからだろ」
「はいはい」
水田が二人を止めた。
「完成した日に喧嘩すんなよ」
笑い声が起きた。
何も疑わなかった。
疑う理由がなかった。
五人は図面通りに仕事をした。
検査も受けた。
必要な記録も残した。
そして建物は完成した。
これで仕事は終わった。
少なくとも、五人はそう思っていた。
*
最初に銀行から文句が来たのは、完成から数か月後だった。
施工会社に一通の通知が届いた。
そこには、
「建物に重大な瑕疵が確認された」
と書かれていた。
佐伯の会社の社長は、最初は笑っていた。
「何かの間違いだろ」
だが、笑っていられたのは最初だけだった。
銀行側の主張は明確だった。
施工会社が必要な施工を行わなかった。
工事費を削減するため、必要な措置を勝手に省略した。
その結果、建物に問題が生じた。
したがって、
残っている工事代金は支払わない。
さらに、
損害賠償を請求する。
「馬鹿言ってんじゃねえ!」
社長は電話口で怒鳴った。
「うちは図面通りやってる! 検査も通ってるだろうが!」
しかし銀行側は引かなかった。
専門家による調査報告書まで用意していた。
施工会社は弁護士を雇った。
そして戦った。
だが相手は巨大銀行だった。
一か月。
三か月。
半年。
一年。
裁判は終わらない。
銀行からの支払いも止まったままだった。
会社はすぐに倒産したわけではない。
だが、確実に弱っていった。
賞与がなくなった。
残業代の支払いが遅れた。
手当が削られた。
給料の支給日がずれた。
社長は何度も頭を下げた。
「すまん。銀行との話が片付けば、全部払う」
誰も社長を責められなかった。
社長もまた、銀行に潰されかけている一人だったからだ。
*
「今月も遅れるってよ」
駅前の小さな居酒屋。
五人はいつもの席に座っていた。
田村がビールを飲みながら言った。
「何が?」
「給料」
「またかよ」
木村が顔をしかめる。
「二週間」
「二週間ならまだいい」
柴崎が言った。
「俺んとこ、先月一か月遅れたぞ」
「笑えねえよ」
「笑ってねえ」
柴崎の顔に笑みはなかった。
水田が黙って焼酎を飲んでいる。
「お前んとこは?」
田村が聞いた。
「……今月は出た」
「よかったじゃん」
「手取りが八割だった」
「……」
誰も何も言わなかった。
佐伯がメニューを閉じた。
「銀行、いくら払ってねえんだっけ」
「会社に?」
「ああ」
「俺が聞いた限りじゃ、未払いだけで一億二千万くらいだ」
水田が答えた。
「一億二千万……」
「それ払えば終わるのか?」
「分からん」
水田が首を振る。
「銀行は損害賠償まで言ってるからな」
テレビでは野球中継が流れていた。
客が笑っている。
店員が皿を運んでいる。
いつもと変わらない夜。
なのに五人の中だけ、何かが終わりかけていた。
「……俺、車売った」
木村が突然言った。
「は?」
「ローン払えなくなった」
「お前、あの車気に入ってたじゃん」
「気に入ってたよ」
木村はビールを飲んだ。
「だから売った」
誰も笑わなかった。
*
最初に「強盗」という言葉を口にしたのは、誰だったのか。
五人とも、後になって思い出せなかった。
おそらく酒が回った頃だった。
「なあ」
柴崎が言った。
「銀行から金取ってこようぜ」
「……は?」
「東央銀行」
「何言ってんだ、お前」
「だからよ」
柴崎は笑っていた。
「俺らが建てたんだろ?」
佐伯が眉をひそめる。
「建てたけど」
「だったら中も分かるだろ」
「分かるのは建物だ」
田村が言った。
「銀行のことは知らねえよ」
「金庫とか?」
「知らん」
「警備は?」
「知らん」
「じゃあ何が分かるんだよ」
「電気」
「俺は配管」
「俺は建築」
「俺はガス」
「俺は土木」
木村が指を折っていく。
「……強盗に向いてねえな、俺ら」
五人とも笑った。
その夜は、それで終わった。
ただの冗談だった。
そのはずだった。
*
数日後。
田村が会社の倉庫で古い資料を整理していた。
銀行の施工図だった。
もう使わない資料だ。
捨てる前に確認していた。
田村は一枚の図面を手に取った。
電気設備。
自分が担当した範囲。
何年経っても、職人は自分の仕事を忘れない。
田村は図面を閉じた。
そしてまた開いた。
「……あの銀行」
その日の夜。
田村は五人を呼び出した。
*
「警備のことじゃない」
田村は言った。
「建物のことだ」
「何だよ」
「俺たち、あの銀行の竣工図は持ってる」
佐伯が顔を上げる。
「全部?」
「俺たちが施工した範囲ならな」
「だから?」
「別に警備を破るとか、そういう話じゃねえ」
田村は言った。
「ただ……あの建物を作った人間じゃなきゃ分からないことはある」
佐伯が黙った。
水田も黙った。
柴崎が煙草に火をつける。
木村だけが笑った。
「おいおい」
笑いながら言う。
「本気でやるのか?」
誰も答えなかった。
木村の笑顔が消えた。
「……冗談だろ?」
「俺は冗談じゃない」
佐伯が言った。
「俺は、もう二年待ってる」
「……」
「銀行から金を取る」
佐伯はテーブルの上に紙を置いた。
そこには数字が並んでいた。
一人ずつが失った金。
遅れた給料。
消えた手当。
払えなかったもの。
増えた借金。
家族に迷惑をかけた金。
仕事を失うかもしれない不安。
この先何年も働かなければならない年齢。
それらを全部、五人で計算した。
そして最後に、
大きく数字を書いた。
170,000,000円
「一億七千万」
水田が呟いた。
「……馬鹿だろ」
「そうだな」
佐伯が答えた。
「でも、これが俺たち一人分だ」
「一億二千万じゃなかったのか?」
柴崎が聞いた。
「一億二千万は、会社が本来受け取るはずだった金だ」
佐伯は紙を指で叩いた。
「俺たち個人の金じゃねえ」
誰も口を挟まない。
「俺たちが失った給料、賞与、手当。これから仕事を失うリスク。家族に負担させた金。借金。これから先の生活」
佐伯は五人を見回した。
「全部合わせたら、俺はこれくらい必要だと思ってる」
「一億七千万……」
木村が呟く。
「五人なら?」
田村が計算する。
「八億五千万」
沈黙。
八億五千万円。
五人が人生を立て直すために必要だと、自分たちで決めた金額。
銀行が払わなかった一億二千万円とは別のもの。
会社の損失とも違う。
これは、
五人が自分たちの人生につけた値段だった。
「……八億五千万も、本当に必要か?」
水田が聞いた。
佐伯は少しだけ考えた。
「必要かどうかじゃねえ」
そして銀行の名前が書かれた紙を見る。
「俺たちは、それだけのものを失ったんだ」
木村が紙から目を離す。
「銀行から取ったら、俺らも犯罪者だぞ」
「もう銀行は俺らを悪者にしてる」
田村が言った。
「だったら、せめて自分たちで決めようぜ」
「何を?」
「俺たちが何者なのか」
誰も答えなかった。
やがて佐伯が立ち上がる。
「明日、最後に決めよう」
「何を?」
「やるか、やらないか」
「もう決めたんじゃねえのか?」
「最後に一回だけ確認する」
佐伯は五人を見回した。
「ここから先は、戻れない」
誰も笑わなかった。
誰も冗談を言わなかった。
やがて田村が立ち上がった。
「……やる」
水田。
「やる」
柴崎。
「やる」
木村はしばらく黙っていた。
そして、
「……畜生」
椅子から立ち上がった。
「やるよ」
最後に佐伯が頷いた。
「じゃあ――」
佐伯は紙を折り畳んだ。
「八億五千万だ」
*
五人は店を出た。
夜の街の向こうに、東央銀行の旗艦店が見える。
巨大なガラス張りの建物。
五人が自分たちの手で建てた建物。
そして今度は、
そこから金を奪うために戻る。
誰も知らない。
彼らをここまで追い込んだ「瑕疵」が、最初から仕組まれていたことを。
誰も知らない。
あの建物の土地が、別の人間の利益のために選ばれたことを。
誰も知らない。
五人が落札できた入札そのものが、最初から仕組まれていたことを。
そして誰も知らない。
この強盗が始まった瞬間から――
五人だけではなく、銀行、議員、地権者、設計事務所、そしてこの街そのものが巻き込まれていくことを。
その夜。
五人は初めて、自分たちを「強盗」と呼んだ。