第十話 消えた痕跡
銀行を出た水田は、車に乗り込むとすぐにエンジンをかけた。
しかし、すぐには発進しなかった。
ハンドルに両手を置いたまま、深く息を吐く。
「……まずいな」
さっきまでとは空気が違う。
銀行の中で感じた警察の視線。
金庫室の異様な状態。
そして、自分たちが昨夜そこにいたという事実。
水田は頭を振った。
「考えるな」
今は仕事だ。
自分は水道業者。
銀行から呼ばれて、施工写真と修理部材を取りに戻った。
それだけ。
水田は車を発進させた。
⸻
会社へ戻る途中、水田は携帯電話を取り出した。
運転中に直接電話するわけにはいかない。
信号で車を止めたところで、まず佐伯へ短い連絡を入れる。
呼び出し音が数回鳴った。
「俺だ」
『どうした?』
佐伯の声は落ち着いていた。
「銀行、警察が入ってる」
『……やっぱりか』
「金庫の中身がなくなってるのが分かったらしい」
電話の向こうが一瞬静かになる。
『それで?』
「まだ俺が犯人だとは思われてない」
『そうか』
「ただ……」
水田は言葉を選んだ。
「窓のところを警察が調べてる」
『……』
「それと、施工について聞かれた」
『お前は?』
「普通に答えた。水道の竣工図しか持ってないって話して、工事写真も持ってくるって言った」
『それでいい』
「修理の部材も必要だから、一回会社に戻ってる」
『分かった。ほかの連中にも伝える』
「頼む」
電話を切る。
水田はバックミラーを見る。
誰かが追ってくるわけでもない。
ただ、妙に落ち着かない。
自分の車。
自分の会社。
いつもの道路。
何も変わっていない。
なのに、世界そのものが別物になったような気がした。
⸻
その頃、銀行では警察による現場確認が続いていた。
「こっちです」
警察官が窓の前に立つ。
そこには、外から侵入した形跡が残っていた。
「窓枠自体は大きく破壊されていない」
「ええ」
「それなのに侵入できている」
別の警察官が周囲を確認する。
そして視線が、窓枠の縁に止まった。
「……これ、変じゃないですか?」
「何が?」
「コーキングです」
警察官が近づく。
「他の窓と比べてみてください」
周囲の窓を見る。
確かに、同じ建物なのに状態が違う。
古い窓ではコーキングに汚れが入り、ところどころ変色している。
ところが、その窓だけは妙に綺麗だった。
「後からやり直してる?」
「その可能性があります」
「つまり、窓を一度外した可能性がある」
「でしょうね」
警察官が腕を組む。
「しかも、雑に戻したわけじゃない」
「ええ」
「建物を傷つけずに復旧できる程度の知識がある」
別の警察官が呟いた。
「建築関係者か……」
「少なくとも、建物の構造をまったく知らない素人とは考えにくいですね」
窓。
金庫室。
設備。
建物内部の状況。
それらを順番に見ていく。
「侵入した連中、かなり建物に詳しいんじゃないか?」
「その可能性は高い」
警察官は窓から金庫室へ視線を移した。
「問題は、どうやって金庫まで辿り着いたかだ」
⸻
その頃、水田は会社に到着していた。
「お疲れさん」
事務所にいた社員が声を掛ける。
「ああ」
水田は短く返す。
「急ぎの修理だ」
「銀行の?」
「そう」
「朝から大変だな」
水田は苦笑した。
「まったくだ」
棚から施工写真のファイルを取り出す。
水道工事の記録。
配管の施工状況。
検査の記録。
必要な資料を確認する。
続いて修理に必要な部材を揃える。
「これと……これもいるな」
水田は一つずつ確認していく。
普段なら何でもない作業だった。
しかし今日は、一つ一つの動作が妙に重い。
ファイルを抱え、部材を車へ積み込む。
そこで携帯電話が鳴った。
「……佐伯か」
『今、全員に話した』
「何て?」
『警察が侵入経路を調べてる』
「そうか」
『窓から入ったってところまでは、ほぼ掴まれてる』
水田は黙る。
『ただ、俺たちだとは分かってない』
「……分かった」
『戻るんだろ?』
「ああ。銀行から頼まれてる」
『じゃあ余計なことはするな』
「分かってる」
電話を切った。
水田は車に乗り込む。
「……余計なことはしない」
自分に言い聞かせるように呟いた。
⸻
再び銀行へ戻る。
さっきと同じ建物。
しかし、雰囲気は明らかに変わっていた。
入口に立っている警察官の数が増えている。
銀行員たちも不安そうな顔をしている。
「水田さん!」
先ほどの銀行員が駆け寄ってきた。
「施工写真、持ってきました」
「ありがとうございます!」
「それと修理に必要な部材も」
「助かります」
水田は荷物を下ろす。
そのとき、奥から怒鳴り声が聞こえた。
「だから、ここまで水が回ってるんですよ!」
「落ち着いてください!」
「落ち着いていられるか!」
水田が振り返る。
金庫室の方だった。
警察官が何人も集まっている。
「何かあったんですか?」
水田が聞く。
銀行員が顔をしかめる。
「金庫室の調査が難航してるみたいで……」
水田は黙って奥を見る。
そして、聞こえてきた言葉に背筋が冷えた。
「指紋も何も残ってないじゃないか!」
警察官が怒鳴っている。
「水で全部流された可能性があるんですよ!」
別の警察官が答える。
「床も金庫周辺も水浸しだったんです。採取できるものがかなり限られます」
「くそっ……!」
警察官が苛立たしげに壁を叩く。
「せっかく侵入経路が分かってきたのに、金庫室の方がこれじゃ――」
水田は思わず視線を落とした。
胸の奥がざわつく。
昨夜、自分たちがいた場所。
今、その場所では警察が証拠を探している。
そして大量の水が、その現場を覆っている。
「水田さん?」
「……はい?」
銀行員に声を掛けられ、水田は顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……ちょっと緊張してるだけです」
水田は笑った。
「警察の方があれだけいると、こっちまで緊張しますね」
「そうですよね……」
銀行員も苦笑する。
水田は施工写真のファイルを抱え直した。
「じゃあ、配管を確認しましょう」
「お願いします」
二人が歩き出す。
水田は一度だけ、金庫室の方を見た。
そこではまだ警察官たちが怒鳴り合っている。
そして窓の外では、別の警察官が侵入経路を調べていた。
――建築に詳しい人間。
――窓を綺麗に戻せる人間。
――建物の内部構造を把握していた人間。
警察は少しずつ、犯人像を絞り始めていた。
だが。
その捜査線上に、水田たちの名前はまだなかった。
水田は施工業者として、何食わぬ顔で工具を取り出した。
「さて……原因を見ましょうか」
その声だけは、いつもの現場と何も変わらなかった。