一億七千万円の強盗   作:山門門山

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第十四話 もう一つの保険

第十四話 もう一つの保険

 

 朝。

 

 東央銀行旗艦店の一角にある会議室には、開店前だというのに人が集まっていた。

 

 支店長、副支店長、総務責任者、警備責任者。

 

 そして、本店から急遽呼び寄せられた二人の幹部。

 

 窓の外では、いつもと変わらない街が動き始めている。

 

 通勤する人間。

 

 開店準備をする店舗。

 

 道路を走る車。

 

 その日常とは対照的に、会議室の中だけは異様な緊張に包まれていた。

 

 机の上には、警察から伝えられた現時点での被害状況が並んでいる。

 

 金庫室。

 

 現金。

 

 貸金庫。

 

 警備設備。

 

 建物の破損。

 

 そして、まだ確認作業の終わっていない項目。

 

 支店長は資料を一通り眺めると、静かに口を開いた。

 

「……まず、現金の被害額から確認しましょう」

 

 総務責任者が資料を開く。

 

「現在も最終確認中ですが、かなりの額になることは間違いありません」

 

「盗難保険の範囲は?」

 

「大部分が対象になる見込みです」

 

「なら、そこは後でいい」

 

 支店長は即答した。

 

 副支店長が顔を上げる。

 

「後で、ですか?」

 

「ああ」

 

 支店長は資料を閉じた。

 

「もちろん金額は大きい。だが、盗難保険に入っている以上、銀行としての金銭的な損失については一定の処理ができる」

 

 誰も異論を挟まなかった。

 

「保険会社との交渉は必要になるでしょう。警察の捜査もあります。顧客への説明も必要です」

 

「はい」

 

「しかし、それで銀行そのものが終わるわけじゃない」

 

 支店長はそう言って、椅子に深く腰掛けた。

 

 その顔には疲労が滲んでいる。

 

 当然だった。

 

 自分が責任者を務める店舗で、これだけの強盗事件が起きたのだ。

 

 警備システムは突破され、金庫室に侵入された。

 

 現金を奪われ、貸金庫まで荒らされた。

 

 支店長として無傷で済むとは思っていない。

 

「私自身については、覚悟しています」

 

 支店長が言った。

 

「旗艦店を預かっている以上、今回の件で責任を取らされるのは当然です」

 

 本店幹部の一人が頷く。

 

「そうでしょうね」

 

「異動か、降格か。それとも……」

 

 支店長は苦笑した。

 

「まあ、私のキャリアは終わるでしょう」

 

 その言葉に悲壮感はあった。

 

 だが、取り乱してはいない。

 

 支店長自身、それくらいは最初から分かっていた。

 

 そして――。

 

 彼が本当に恐れているものは、そこではなかった。

 

「……ただ」

 

 支店長の視線が、机の上の別の資料へ移る。

 

「それだけなら、まだいい」

 

 本店幹部が支店長を見る。

 

「例の件ですね」

 

「ええ」

 

 支店長は頷いた。

 

 副支店長も表情を硬くした。

 

 総務責任者だけが、わずかに視線を落とす。

 

 誰も「例の件」が何なのか説明しない。

 

 この部屋にいる人間は、全員知っているからだ。

 

 この銀行は、地域との関係を非常に重視している。

 

 この店舗を建設した土地についても、取得までに様々な交渉があった。

 

 地権者。

 

 地元議員。

 

 行政関係者。

 

 地域の有力者。

 

 銀行はそうした人間たちとの関係を維持するため、長年にわたって様々な付き合いを続けてきた。

 

 表向きは、地域貢献。

 

 企業との交流。

 

 イベントへの協賛。

 

 土地取得に関する交渉。

 

 どれも、それだけなら何も珍しくない。

 

 だが。

 

 その裏側には、通常の社内資料には残さない情報も存在していた。

 

 銀行が土地を取得するまでに、誰と何を話したのか。

 

 どのような要求があったのか。

 

 誰がどの案件に関わったのか。

 

 何か問題が起きた場合、銀行側が自分たちを守るために使える記録。

 

 それらをまとめて保管していた。

 

 正式名称など存在しない。

 

 だが、関係者の間では冗談交じりに、

 

 ――保険。

 

 そう呼ばれていた。

 

 議員や地権者が将来、銀行に対して突然態度を変えた時。

 

 これまでの約束を反故にした時。

 

 あるいは、銀行側に責任を押し付けようとした時。

 

 その時に、

 

 「こちらにも記録がありますよ」

 

 と示すための最後の切り札。

 

 銀行にとっては、盗難保険とはまったく違う意味での保険だった。

 

「一般の貸金庫については?」

 

 本店幹部が尋ねる。

 

 警備責任者が資料を見る。

 

「現金、証券、重要書類、それから顧客が保管していた貴重品などが被害を受けています」

 

「全て確認できていますか?」

 

「まだです。ただ、警察と協力して順次確認しています」

 

「そうですか」

 

 支店長は頷いた。

 

「そこも問題になるでしょうね」

 

「かなりの数の顧客が影響を受ける可能性があります」

 

 副支店長が言った。

 

「苦情も相当来るでしょう」

 

「当然です」

 

 支店長は答えた。

 

「銀行として最大限対応するしかない」

 

 そこで一度、会話が途切れる。

 

 そして。

 

 本店幹部が、別の資料を一枚取り出した。

 

「……もう一つ確認があります」

 

 支店長は顔を上げた。

 

「一番大きな貸金庫です」

 

 その瞬間。

 

 支店長の表情が変わった。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 だが、部屋にいる全員が気付いた。

 

「……開けられたんですか?」

 

「はい」

 

 警備責任者が答える。

 

「確認できた範囲では、そこも被害を受けています」

 

「中身は?」

 

「ありません」

 

 支店長は黙った。

 

「……全部?」

 

「はい」

 

 数秒。

 

 誰も言葉を発しなかった。

 

 支店長がゆっくりと息を吐く。

 

「例の資料も?」

 

「確認しました」

 

 本店幹部が答えた。

 

「保管していたものは、見当たりません」

 

 支店長は目を閉じた。

 

 そして、低い声で呟いた。

 

「……最悪だ」

 

 副支店長が顔を伏せる。

 

 総務責任者は何も言わない。

 

 警備責任者だけが、事の重大さを完全には理解できず、二人の顔を見比べていた。

 

「支店長」

 

「何です?」

 

「その資料というのは……」

 

 支店長は少しだけ迷った。

 

 だが、警備責任者が知る必要のある範囲もある。

 

「銀行が地域との関係を維持するために保管していた資料です」

 

「……それだけですか?」

 

「それ以上は今はいい」

 

 支店長は短く答えた。

 

 警備責任者はそれ以上聞かなかった。

 

 本店幹部が続ける。

 

「問題は、犯人がその資料を狙ったのかどうかです」

 

「分かりません」

 

 支店長は即答した。

 

「ただ、犯人が中身を理解していたかどうかも分からない」

 

「そうですね」

 

「一般の貸金庫に入っていた現金や証券、重要書類と一緒に、あの資料まで持っていっただけなのかもしれない」

 

「逆も考える必要があります」

 

 本店幹部が言う。

 

「犯人が資料の存在を知っていた可能性です」

 

 支店長は黙った。

 

 その可能性は考えていた。

 

 考えたくなかっただけだ。

 

 もし犯人が偶然持っていったのなら、まだいい。

 

 資料の価値を知らないなら、犯人にとっては単なる大量の書類に過ぎない。

 

 だが。

 

 もし最初から価値を理解していたとしたら。

 

 この事件は、銀行強盗ではなくなる。

 

「……あの資料が表に出たら」

 

 支店長が呟く。

 

「はい」

 

 本店幹部が答える。

 

「どうなるかは、私も分かっています」

 

 支店長は顔を上げた。

 

「いや」

 

 幹部が首を振る。

 

「支店長は分かっているでしょう」

 

「ええ」

 

「我々も分かっています」

 

「なら、話は早い」

 

 支店長は資料を指で叩いた。

 

「私の首が飛ぶ」

 

「でしょうね」

 

「支店長としては当然です」

 

「はい」

 

「だが、それだけじゃ済まない」

 

 支店長の声が低くなる。

 

「本店の役員も責任を問われる」

 

「その通りです」

 

「母体の金融グループも説明を求められる」

 

「はい」

 

「場合によっては、銀行そのものの経営問題になる」

 

 本店幹部は静かに頷いた。

 

「その認識で間違いありません」

 

 支店長は椅子に座り直した。

 

「だから、俺は自分のキャリアだけを心配しているわけじゃない」

 

 その言葉には、先ほどまでの疲労とは違う重みがあった。

 

「強盗事件が公になれば、私は責任を取るでしょう」

 

「ええ」

 

「それは仕方がない」

 

 支店長は自分の立場を理解している。

 

 この店舗の最高責任者なのだ。

 

 警備体制に問題があれば責任を問われる。

 

 強盗を許した責任も問われる。

 

 それは当然だった。

 

「ですが」

 

 支店長は一番大きな貸金庫の被害について書かれた資料を見る。

 

「こっちは、そんな話じゃない」

 

 誰も口を挟まない。

 

「金なら盗難保険がある」

 

 支店長が言う。

 

「顧客の現金や証券、重要書類についても、銀行として対応する」

 

 それぞれ大変な問題だ。

 

 だが、解決する方法はある。

 

「私の人事だってそうだ」

 

 支店長は苦笑した。

 

「俺一人が責任を取って終わるなら、それで済む」

 

 そして。

 

 机の上に置かれた一枚の紙を見た。

 

「でも、あれには保険会社がない」

 

 誰も笑わなかった。

 

「あれは銀行自身が握っていた保険だ」

 

 支店長は静かに続けた。

 

「議員や地権者がこちらを裏切った時に備えて、銀行が持っていたものだ」

 

「ええ」

 

「だから、銀行から外へ出してはいけなかった」

 

「その通りです」

 

「なのに、今は犯人の手元にある」

 

 そこまで言うと、支店長は深く息を吐いた。

 

「……厄介なことになった」

 

 副支店長が恐る恐る口を開く。

 

「警察には、どこまで説明しますか?」

 

「必要なことは説明する」

 

 本店幹部が答える。

 

「ただし、資料の内容については慎重に扱う必要があります」

 

「隠し通せますか?」

 

「分かりません」

 

 幹部は正直だった。

 

「ですが、こちらから余計な情報を広げる必要はない」

 

 支店長は頷いた。

 

「まずは、何がなくなったのかを正確に洗い出す」

 

「はい」

 

「そして、犯人がどこまで資料を持っていったのか確認する」

 

「その後は?」

 

 支店長は少し考えた。

 

「取り戻す」

 

 短い答えだった。

 

「何としても」

 

 副支店長が黙って頷く。

 

 本店幹部も表情を変えなかった。

 

「警察の捜査とは別に?」

 

「当然です」

 

 支店長は即答した。

 

「警察には犯人を捕まえてもらう」

 

 そして資料を見る。

 

「我々は、あれを取り戻す」

 

 それだけだった。

 

 会議室の外では、職員たちが慌ただしく開店準備を始めていた。

 

 電話が鳴る。

 

 誰かが廊下を走る。

 

 警察関係者が出入りする。

 

 いつもの銀行とは、明らかに違う。

 

 それでも街は何も知らない。

 

 まだ、事件の全容は公になっていない。

 

 銀行が失ったものは大きい。

 

 現金。

 

 証券。

 

 顧客の重要書類。

 

 そして、様々な貸金庫の中にあった品々。

 

 それらについては、これから一つずつ対応しなければならない。

 

 だが。

 

 支店長の頭から離れないものは、それらとは別だった。

 

 一番大きな貸金庫。

 

 そこに保管されていた、銀行自身の「保険」。

 

 金銭的な損失なら、保険会社に頼ることができる。

 

 顧客への補償も、時間はかかっても手続きを進められる。

 

 支店長自身の処分も受け入れればいい。

 

 だが。

 

 あの資料だけは違う。

 

 それが世間に出た時。

 

 誰かが銀行に代わって責任を取ってくれるわけではない。

 

 むしろ、銀行そのものが説明する側に回る。

 

 支店長は窓の外を見た。

 

「……犯人が、ただの金目当てならいいんですがね」

 

 ぽつりと漏らす。

 

 本店幹部が答えた。

 

「そう願うしかありません」

 

「いや」

 

 支店長は首を振った。

 

「願うだけじゃ駄目だ」

 

 その目から迷いが消える。

 

「最悪の可能性を前提に動きましょう」

 

 会議室にいた全員が頷いた。

 

「犯人があの資料の価値を知っている可能性も考える」

 

「はい」

 

「そして、もし知っていた場合に備える」

 

「分かりました」

 

 支店長は席を立った。

 

「この事件で私の首が飛ぶのは、もう覚悟しています」

 

 誰も口を挟まない。

 

「でも、銀行まで道連れにするつもりはありません」

 

 それが支店長としての最後の意地だった。

 

 自分の立場が危ういことは分かっている。

 

 それでも、自分が預かっている店舗と、その背後にある銀行そのものまで失わせるつもりはない。

 

 机の上には、事件の被害資料が残されている。

 

 現金被害。

 

 貸金庫被害。

 

 建物被害。

 

 そして、最後に記された一行。

 

 ――大型貸金庫、収納物紛失。

 

 その中身についてだけは、具体的な金額が書かれていなかった。

 

 金額で表せるものではないからだ。

 

 支店長はその一行をしばらく見つめていた。

 

 やがて資料を閉じる。

 

「会議はここまでです」

 

 全員が立ち上がる。

 

 しかし、本店幹部だけは席を立たなかった。

 

「支店長」

 

「何です?」

 

「一つだけ」

 

 幹部は低い声で言った。

 

「もし犯人が、あの資料を読んでいたら」

 

 支店長は黙って聞いている。

 

「その時は、強盗事件として処理するだけでは済まなくなります」

 

「分かっています」

 

 支店長は即答した。

 

「だからこそ――」

 

 そこで一度言葉を切る。

 

「絶対に見つける」

 

 それ以上、誰も何も言わなかった。

 

 銀行にとって、現金は損失だった。

 

 顧客の貸金庫にあった品々は、大きな問題だった。

 

 だが、一番大きな貸金庫から消えたものだけは違った。

 

 それは銀行が長年、自分たちを守るために握っていたもの。

 

 もう一つの保険だった。

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