第十五話 違う数字
午前二時を少し回った頃。
五人はようやく、いつもの場所に集まっていた。
全員、昼間に警察から事情聴取を受けている。
それぞれ別々の会社に勤め、それぞれ別の仕事をしている以上、警察から聞かれた内容も少しずつ違っていた。
建築。
土木。
ガス。
水道。
電気。
銀行の建物に関わったことがある五人。
それだけで、警察にとっては当然、確認しておきたい相手になる。
だが今のところ、五人に対して決定的なものは出ていない。
事情聴取を終えた五人は、疲れた顔をしながら机を囲んでいた。
「……長かったな」
柴崎が椅子に身体を預けた。
「俺なんか、同じ話を何回聞かれたか分からんぞ」
「俺もだ」
佐伯が苦笑する。
「銀行に入った時期とか、担当した工事とか、誰と一緒だったとか。細かい細かい」
「俺なんか、昔の仕事まで聞かれたぞ」
木村がぼやく。
「土木屋なんだから地盤のこと知ってるだろって」
「そりゃ聞かれるだろ」
水田が言った。
「今回の銀行、建物の周りまで調べられてるんだから」
「分かってるよ」
木村は机に肘をついた。
「ただ、疲れるんだよ」
五人の間に小さな笑いが起こる。
しかし、それも長くは続かなかった。
水田が机の端に置いてあった封筒へ手を伸ばしたからだ。
「……それで」
水田が封筒を机の中央へ置く。
「こっちだ」
四人の視線が集まる。
銀行の一番大きな貸金庫。
そこに入っていた資料。
現金や証券、重要書類などと一緒に持ち出したものの中で、五人が特に気にしていたものだった。
金については、すでに片付いている。
今さらここで袋を開けて確認する必要もない。
それよりも。
この大量の紙の方が問題だった。
「しかしまあ……」
柴崎が封筒を覗き込む。
「よくこんなに入ってたな」
「一番でかい貸金庫だったからな」
佐伯が答える。
「普通の貸金庫とは扱いが違ったんだろ」
「中身を見るまでは、何が入ってるのか分からなかったけどな」
水田が一枚目を取り出す。
土地取得に関する資料だった。
地権者との交渉記録。
地域との協議。
建設計画。
行政とのやり取り。
地元議員との面談記録。
地域イベントへの協賛についての記録まである。
「……なんか、ずいぶん地域と付き合ってたんだな」
男の一人が言った。
「銀行なんだから、そういうもんじゃねぇか?」
「それにしたって細かいぞ」
柴崎が紙を覗く。
「誰がいつ誰と会ったとか、何を要求されたとかまで残ってる」
「正式な議事録じゃないのも混じってるな」
佐伯が言った。
確かにそうだった。
会社の正式な書式に沿ったものだけではない。
手書きのメモ。
個人的な記録。
打ち合わせの覚書。
会議資料のコピー。
それらが一つのファイルにまとめられている。
五人は一枚ずつ読み進めていった。
最初は、ただの銀行の内部資料だと思っていた。
しかし、読み進めるにつれて少しずつ印象が変わっていく。
「この議員、何度も出てくるな」
「地権者も同じだ」
「こっちは別の人間か」
「……でも、後の資料でまた出てくる」
水田がページを戻す。
「名前、覚えておけ」
「何で?」
「まだ何が何だか分からんからだ」
五人はそれ以上言わず、資料を読み続けた。
そして。
ファイルの中ほどまで来たところで、建物そのものに関係する資料が増えてきた。
設計資料。
施工記録。
基礎関係。
地盤調査。
建設時の打ち合わせ記録。
木村が少し姿勢を正した。
「お」
それまで黙っていた木村が、一枚の資料を取る。
「どうした?」
水田が聞く。
「ボーリング資料だ」
「……ああ」
他の四人にとっては、数字と線が並んだ紙にしか見えない。
木村は違った。
土木担当として、こういう資料を見る機会は多い。
土地を掘る。
基礎を作る。
造成する。
地盤を確認する。
その仕事をしていれば、ボーリング柱状図は珍しいものではない。
木村は紙の上を指で追った。
深さ。
地層。
調査位置。
日付。
そして、いくつかの数値。
「……ん?」
木村の手が止まる。
「どうした?」
柴崎が聞く。
「ちょっと待て」
木村はファイルの別のページをめくった。
さらにもう一枚。
そして、もう一枚。
「これ……」
木村が呟いた。
「何かあった?」
水田が身を乗り出す。
「いや」
木村は一枚の資料を抜き出した。
「これ、俺が前に見た資料と違う」
「何が?」
「日付」
木村は紙の端を指差す。
「こっちは俺たちが以前見せてもらった資料だと、調査日が違う」
「別の日に調査したんじゃないのか?」
佐伯が言った。
「最初は俺もそう思った」
木村は頷く。
「追加調査って可能性もある。だから日付が違うだけなら、別に珍しくない」
木村は二枚の資料を並べた。
「でも、こっちも見てみろ」
数字を指差す。
「数値が違う」
「……同じ場所だろ?」
「そう」
「なのに?」
「ああ」
木村は二枚をじっと見比べた。
「調査地点も近い。土地も同じ。なのに記録されてる数値が違う」
「測った時期が違えば変わることもあるんじゃねぇの?」
柴崎が言う。
「ある」
木村は即答した。
「だから、これだけで何かおかしいとは言えない」
その答えに、四人が少し肩を落とす。
「なんだよ」
「いや、でもな」
木村は資料を並べ直した。
「俺が気になってるのは、数字そのものだけじゃねぇ」
全員が木村を見る。
「これを設計の前提にしたなら、話が変わってくるんじゃないか?」
「設計?」
水田が聞き返す。
「ああ」
木村は柱状図を指で叩いた。
「建物を建てる時って、当然だけど地盤の状態を前提にするだろ」
「そりゃそうだ」
「だったら、地盤資料の数字が違えば、基礎の設計条件も変わってくる可能性がある」
佐伯が眉を寄せた。
「つまり?」
「このデータを前提にするのか、それとも別のデータを前提にするのかで、設計側の判断が変わるかもしれないってことだ」
「……なるほど」
水田が資料を見る。
木村はさらに続けた。
「もちろん、俺はこの建物の設計担当じゃない。だから、この二枚だけ見て『設計がおかしい』なんてことは言えない」
そこは念を押した。
「でも、同じ土地について違う地盤データがあるなら、設計者がどっちを前提にしたのかは確認したくなる」
「それは確かに気になるな」
佐伯が頷いた。
木村は一枚目の資料を見る。
「こっちは俺たちが以前見たもの」
次にもう一枚。
「こっちは今出てきたもの」
「どっちが本物なんだ?」
柴崎が聞いた。
「知らん」
木村は即答した。
「どっちも本物かもしれん」
「両方?」
「追加調査ならな」
「じゃあ何が問題なんだ?」
「だから、順番だよ」
木村は資料を指差す。
「いつ調査して、その結果を誰が使って、どの設計資料に反映したのか。それを追わないと分からん」
水田が腕を組む。
「なるほどな」
「俺が気になるのはそこ」
木村はボーリング資料を机に置いた。
「数字が違う。それ自体はあり得る。でも、もし片方の数字を前提にして設計して、別の数字を使った資料が後から出てきてるなら……」
そこで木村は言葉を切った。
「……設計の前提そのものが変わってくる可能性がある」
部屋が静かになった。
さっきまでただの紙切れだった資料が、急に違う意味を持ち始める。
「それ、建物の沈下にも関係する?」
水田が聞いた。
「可能性はある」
木村は慎重に答えた。
「でも、そこはまだ分からん。地盤だけで決まる話じゃない」
「だよな」
「基礎の形式もある。施工状態もある。地下水もある。周辺条件もある」
木村は資料を指で追った。
「だから、他の資料も見たい」
「他って?」
「基礎設計」
木村はファイルをめくる。
「施工記録」
さらにめくる。
「地盤改良があったなら、その記録」
まためくる。
「それから、建物完成後の点検資料」
「結構あるな」
「銀行がここまでまとめて持ってるなら、たぶん出てくる」
水田が別のファイルを取った。
「これか?」
「見せろ」
木村が受け取る。
表紙には建物の基礎に関する資料が記されている。
「……あるじゃねぇか」
「何が?」
「基礎の資料」
木村がページを開く。
五人が再び机の周りに集まる。
しばらく読み進める。
「この時点では、こっちの資料を使ってるみたいだな」
木村が言う。
「どっち?」
「さっきの二枚のうち、こっち」
木村が一枚を示した。
「じゃあ、もう片方は?」
「まだ分からん」
「後から取ったのか?」
「可能性はある」
木村は考え込む。
「でも、後からなら何のために取った?」
「地盤沈下とか?」
「それなら時期を確認しないと」
水田が資料をめくる。
すると、数年後の資料が出てきた。
「これじゃねぇか?」
「……待て」
木村が資料を取る。
そこには、建物周辺の状況についての記録があった。
ただし、詳細な技術資料ではない。
あくまで建物の維持管理に関するもの。
木村はそれを読み、先ほどのボーリング資料へ目を戻した。
「……時系列としては繋がるな」
「何が?」
「いや」
木村は首を振った。
「まだ分からん」
そう言いながらも、明らかに興味を持っている。
水田が苦笑する。
「お前、完全に仕事モード入ってるぞ」
「仕方ねぇだろ」
木村は資料から顔を上げない。
「こういうの気になるんだよ」
「土木屋ってのは大変だな」
「うるせぇ」
柴崎が笑う。
「でも、これだけで銀行の秘密が分かるわけじゃないだろ」
「当たり前だ」
木村は答える。
「俺が気になってるのは建物の方だけだ」
「建物?」
「そう」
木村は二枚のボーリング資料をもう一度並べた。
「銀行が何を隠してたのかなんて、俺には分からん」
日付の違う二枚の資料。
そこに並ぶ、わずかに異なる数値。
木村はその二枚をじっと見つめる。
「でも、これが本当に同じ場所の資料なら、ちゃんと理由があるはずだ」
「調べられるか?」
「今すぐには無理だ」
木村は首を振った。
「資料だけじゃ足りない」
「じゃあ?」
「他の資料を見る」
水田が笑う。
「結局それか」
「結局それだ」
木村は次のファイルを開いた。
五人は再び資料の山に目を落とす。
誰もまだ、この書類の束をどう扱うべきなのか分かっていない。
銀行がなぜ、これほど大量の資料を一番大きな貸金庫に保管していたのか。
なぜ、土地取得に関する資料と建設資料が一緒になっているのか。
そして。
なぜ同じ土地について、日付も数字も違うボーリング資料が存在するのか。
五人にはまだ答えがない。
ただ一つ。
木村だけは、その違和感を見過ごせなかった。
「……なあ」
しばらくして木村が言った。
「この建物、建てた時の設計資料も全部あるんだよな?」
「たぶんな」
「なら、もう少し見よう」
「まだやるのかよ」
「朝まで時間あるだろ」
柴崎が時計を見る。
「あと数時間しかねぇよ」
「数時間もある」
「お前なぁ……」
呆れた声が上がる。
だが、結局誰も席を立たなかった。
木村が資料を開く。
水田が隣から覗き込む。
佐伯と柴崎も別のファイルを手に取る。
残る二人も、それぞれ資料を分けて読む。
金の話は、いつの間にか完全に消えていた。
今、五人の興味を引いているのは、目の前にある紙の山だった。
そしてその中心には、二枚のボーリング柱状図。
日付が違う。
数字が違う。
それだけなら、まだ説明はつく。
だが。
もし、その違いが建物の設計条件にまで関係しているのだとしたら。
この資料の束は、単なる銀行の内部資料ではない。
そんな予感だけが、五人の間に静かに残っていた。
木村はもう一度、二枚の資料を並べる。
「……ちゃんと追ってみるか」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
その小さな違和感が、やがて五人を資料のさらに奥へ引き込んでいくことになるとは――。
この時の五人は、まだ知らなかった。