第十六話 残された記録
午前二時を過ぎても、五人はまだ資料を読んでいた。
机の上には、大量の書類が広げられている。
土地取得に関する資料。
地権者との交渉記録。
議員との面談記録。
建物の設計資料。
施工記録。
地盤調査。
そして、木村が何度も見返している二種類のボーリング資料。
「……もう紙で読むのは限界だろ」
佐伯が目を擦りながら言った。
「俺もそう思う」
柴崎が欠伸をする。
だが、木村だけはまだ資料から目を離していなかった。
「これだけは、ちゃんと残した方がいい」
「ボーリング資料か?」
水田が尋ねる。
「ああ」
木村は二枚の資料を並べた。
「日付が違う。数値も違う」
「追加調査じゃねぇの?」
「その可能性はある」
木村は頷いた。
「だから今の段階で変だとは言わん。ただ、こっちの数字を設計の前提にしてたなら、話が変わってくる可能性がある」
「基礎の設計条件まで変わる?」
「場合によってはな」
木村は資料を指で叩いた。
「後の資料と照合したい」
「なら全部残すか」
水田が言った。
「紙だけじゃなく、データにもしておこう」
五人は資料を一枚ずつスキャンしていった。
紙を読み込ませ、PDFとして保存する。
土地関係。
建設関係。
地盤関係。
議員とのやり取り。
地権者との交渉記録。
資料の順番もできるだけ崩さない。
やがて、すべての書類が電子データになった。
「ちゃんと開けるか?」
水田が聞く。
「大丈夫」
佐伯が画面を確認する。
「全部読める」
「じゃあ焼くぞ」
保存されたデータをCDへ移す。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
それぞれ内容を確認し、ケースへ収める。
同じデータを保存したCDが五セット。
そして、元になった紙の資料も残っている。
「これでいい」
水田がCDをまとめた。
「紙とデータ、両方残った」
「一人がなくしても他があるわけか」
柴崎が言う。
「まあ、用心に越したことはねぇ」
五人はそれぞれ自分の分を確保した。
誰も、その資料を銀行が何と呼んでいたのかは知らない。
五人にとっては、ただ一番大きな貸金庫に入っていた大量の書類だった。
ただ、その中にあったボーリング資料だけは、木村の頭から離れなかった。
――日付が違う。
――数値も違う。
それが何を意味するのか。
まだ分からない。
その頃。
警察では、事件当日の設備記録が改めて調べられていた。
⸻
「最初から確認します」
捜査員がモニターの前に座った。
「事件直後にも一度、映像は確認しています」
「そうだ」
刑事が答えた。
「その時は犯人の姿を探した」
「はい」
「今回は違う」
刑事が銀行の資料を机に置いた。
「犯人そのものじゃない。犯人が何を知っていたのかを見る」
モニターに銀行周辺の監視カメラ映像が映し出される。
昼間。
銀行員が出入りする。
客が入口を通る。
配達員が荷物を運ぶ。
業者らしき人間が建物へ入っていく。
車が止まり、数分後に出ていく。
事件直後の確認では、こうした映像を片っ端から確認した。
しかし、犯人を特定できるような決定的な映像は見つからなかった。
「ここ」
刑事が映像を止める。
「業者ですね」
「会社名は?」
「確認します」
捜査員が記録を照合する。
「設備関係です」
「こっちは?」
「別の業者です」
「何の仕事?」
「電気関係」
刑事は頷いた。
「記録に残しておけ」
再び映像が動き出す。
別の日。
また別の業者。
さらに別の日。
水道。
ガス。
土木。
建築。
警備。
「……多いな」
「銀行ですからね」
「分かってる」
刑事は苦笑した。
「だから面倒なんだ」
その時、別の捜査員が資料を持ってきた。
「電気設備の記録です」
「ありがとう」
刑事は受け取る。
「これ、事件当日の記録だけじゃないな」
「はい。直近数週間分です」
「見せてくれ」
資料をめくる。
そこで、刑事の手が止まった。
「……これ」
「はい」
「電源が何度か落ちてるな」
「そうです」
銀行の記録には、直近の電源トラブルが複数残っていた。
建物全体の電源が一時的に落ちる。
その後、非常側へ切り替わる。
そして復旧する。
「何度も起きてる?」
「直近では何回か」
「原因は?」
「当時は設備側の不具合として処理されています」
刑事は記録を読む。
確かに、それだけなら珍しい話ではない。
大きな建物には様々な電気設備がある。
故障も起きる。
停電も起きる。
問題は、その後だった。
「非常電源の記録は?」
捜査員が別の資料を出した。
「こちらです」
刑事が確認する。
通常時。
建物全体の電源が落ちる。
コージェネレーションが非常発電として動作する。
そして建物の電力が復旧する。
過去の記録は、ほぼその流れになっている。
「つまり、電源が一度落ちても、最終的には復旧していた」
「はい」
「事件当日は?」
捜査員が一枚の記録を差し出した。
「そこが違います」
刑事が目を通す。
建物全体の電源が落ちている。
しかし。
非常発電の記録がない。
「……立ち上がってない?」
「はい」
刑事が顔を上げた。
「建物全体の電源が落ちた。その後、コージェネレーションの非常発電も動かなかった?」
「記録上はそうなっています」
刑事はしばらく黙った。
「警備システムも?」
「非常側へ切り替わらなかったので、正常状態には戻っていません」
「なるほど」
刑事は資料を机に置いた。
そこで、もう一つの資料に目が止まる。
「……これ、事件前の数日間?」
「はい」
「非常発電設備の調子が悪いという記録がある」
「そうです」
捜査員が頷く。
「起動確認時の状態が安定しない、という報告です」
「設備の点検は?」
「行われています」
「試運転?」
「はい。ただ、非常用設備ですから、普段から頻繁に動かすものではありません」
「そりゃそうだな」
刑事が苦笑する。
「緊急時に動いてくれればいい設備だ。実際の停電が起きなければ、本番環境で確認する機会なんてほとんどない」
「なので、数日間だけ調子が悪いというのも、当時は設備の問題として処理されています」
「そして事件当日」
「建物全体の電源が落ちた」
「非常発電が動かなかった」
「はい」
刑事は椅子に深く座った。
「……偶然か?」
「まだ分かりません」
「そうだな」
設備の老朽化。
偶発的な故障。
複数の不具合。
可能性はいくらでもある。
しかし。
事件直前の数日間だけ、普段ほとんど動かない非常発電設備に不調が出ていた。
そして事件当日。
建物全体の電源が落ちた時、いつもなら動くはずの非常発電が動かなかった。
「警備会社を呼んでくれ」
「もう来ています」
「通して」
⸻
しばらくして、警備会社の担当者が取調室へ入ってきた。
「事件当日の警備システムについて確認したい」
「はい」
担当者が資料を広げる。
「まず、過去の停電時はどうなっていました?」
「建物全体の電源が一度落ちます。その後、コージェネレーションが非常発電として動き、電源が復旧します」
「警備システムも?」
「はい。切り替えの瞬間に一時的な異常記録は残りますが、非常電源が立ち上がれば通常状態に戻ります」
「事件当日は?」
担当者の表情が硬くなる。
「非常発電が立ち上がっていません」
「つまり、建物全体が停電したままになった」
「そうです」
「警備システムは?」
「正常な状態へ戻っていません」
刑事はメモを取る。
「事件直前の数日間にも、非常発電設備に異常があった?」
「はい」
「どの程度?」
「起動確認時の状態が安定しないという報告がありました」
「それを設備側へ伝えた?」
「はい」
「原因は?」
「当時は特定されていません」
刑事は顔を上げた。
「事件後に改めて見ると、どう思います?」
警備会社の担当者は慎重に答えた。
「事件後だから、という前提ですが……気にはなります」
「どこが?」
「普段は問題なく非常電源へ切り替わっていた建物で、事件前の数日間だけ設備の状態が安定せず、そのまま事件当日に非常発電が立ち上がらなかった」
「故障の可能性は?」
「当然あります」
「意図的なものの可能性は?」
「こちらでは判断できません」
「分かりました」
刑事は頷いた。
「警備会社として、過去の設備異常に関する記録を全部ください」
「承知しました」
「それと、当日の警備担当者にも話を聞きたい」
「手配します」
担当者が退室する。
刑事は椅子に座ったまま、電源の記録を見つめていた。
「最初は単なる故障だった」
捜査員が言う。
「ああ」
「でも事件後に見ると……」
「意味が変わって見える」
刑事が答えた。
「事件当日にだけ非常発電が動かなかった」
「はい」
「しかも、その前から調子が悪かった」
「偶然でしょうか」
「それをこれから調べる」
刑事は立ち上がった。
「監視カメラと照合する」
「直近数日ですか?」
「数日だけじゃない」
刑事は言った。
「もっと前まで遡る」
⸻
監視カメラの映像が再び流れ始めた。
事件直前。
その数日前。
さらにその前。
電気設備に異常が記録された時間と、人間の出入りを照合する。
「ここ」
刑事が映像を止める。
「設備業者です」
「会社は?」
「確認します」
「この日は?」
「別の業者です」
「こっちは?」
「ガス関係」
「こっちは水道」
一覧がどんどん埋まっていく。
銀行という大きな建物だけに、関係する会社は多い。
建築。
電気。
ガス。
水道。
土木。
警備。
修繕。
保守。
それぞれ別の会社が関わっている。
「全部洗い出す」
刑事が言った。
「過去に銀行へ出入りした業者」
「はい」
「事件直前に入った業者」
「はい」
「設備異常が発生した時期に入った業者」
「分かりました」
刑事は銀行の資料をめくる。
その中には、建物の建築当初から現在までの施工記録もあった。
「それから、建築関係者も忘れるな」
「建築ですか?」
「今回の侵入経路を見る限り、犯人は建物について何らかの知識を持っていた可能性がある」
窓枠。
金庫室。
設備。
電源。
非常発電。
それぞれが別々の問題に見える。
だが、もし一つの集団がそれらを事前に把握していたとすれば。
事件は、単なる突発的な強盗ではなくなる。
「監視カメラの映像と、過去の工事記録を照合しろ」
「はい」
「それから警備会社だけじゃない。電気、ガス、水道、建築、土木。全部だ」
捜査員が資料を抱えて部屋を出ていく。
刑事は最後に、事件当日の電源記録をもう一度見た。
建物全体の電源が落ちる。
いつもなら、コージェネレーションが非常発電を開始する。
だが。
この日だけは動かなかった。
それが故障だったのか。
それとも、誰かがそうなることを知っていたのか。
まだ答えは出ていない。
ただ一つだけ確かなことがある。
事件直前の「設備不良」という記録は、もう単なる設備トラブルとして片付けることができなくなっていた。
そして警察が業者一覧を確認していく中。
そこには、水田、木村、柴崎、佐伯、そしてもう一人。
五人がそれぞれ別々の会社の人間として記載されていた。
この時点では、まだ誰もその五つの名前を繋げてはいなかった。