東央銀行の事件から、しばらくが経った。
警察の捜査は、地道な作業を続けていた。
派手な進展はない。
むしろ、捜査資料だけが日を追うごとに増えていた。
事件当日の銀行周辺。
出入りした業者。
過去の工事記録。
建物の設計資料。
設備点検の記録。
警備会社の記録。
監視カメラ。
そして、建物の建築に関わった業者と、その下請け。
警察は片っ端から関係者を呼び出していた。
「この工事には、どこの会社が入っていましたか?」
「こちらの工程では?」
「この図面について知っていますか?」
「施工時の担当者は?」
「当時の資料は残っていますか?」
建築会社。
設備会社。
電気工事会社。
水道工事会社。
ガス設備会社。
内装業者。
警備設備の施工会社。
さらに、その下請け。
そして応援として現場に入った職人。
数え始めればきりがない。
一つの建物を建てるのに、どれだけ多くの人間が関わっていたのか。
捜査員たちは改めて思い知らされていた。
「この人数、全員調べるんですか?」
若い刑事が分厚い名簿を見ながら呟いた。
「調べる」
上司は即答した。
「金庫室へ侵入するには、建物の構造を知っている必要がある可能性が高い。だったら、建築に関わった人間を外す理由がない」
「でも、これだけいると……」
「だから一人ずつ潰すんだ」
刑事はため息をついた。
「はい……」
そして、その作業が始まった。
*
最初に疑われたのは、当然ながら建築工事に深く関わった人間だった。
図面を持っている。
建物の構造を知っている。
施工時に東央銀行へ出入りしている。
条件だけなら、いくらでも怪しく見える。
だが、事情聴取をしてみると、そう簡単にはいかなかった。
「この図面について説明してください」
「これは基本設計です」
「金庫室の位置は?」
「ここですね」
「では、侵入経路は?」
「いや、そこまでは分かりません」
「なぜ?」
「俺は建築全体の担当であって、金庫設備の施工担当じゃありませんから」
別の業者に聞けば、別の答えが返ってくる。
「この壁を施工したのは?」
「うちです」
「中の構造は?」
「壁については分かりますけど、金庫室の内部までは知りません」
さらに別の業者。
「ここに配管を通したのは?」
「うちです」
「施工当時、この場所には何がありました?」
「配管を通しただけなので、細かいことは覚えてません」
また別の業者。
「この設備は?」
「うちの担当です」
「事件当日に銀行へ入っていませんか?」
「入ってません」
「施工当時の資料は?」
「会社に残ってます」
捜査員は、その資料を取り寄せる。
確認する。
そしてまた別の業者へ向かう。
その繰り返しだった。
膨大な人数を調べている。
だが、決定的なものが出ない。
*
そして、捜査員が特に気にしていたのが、窓だった。
金庫室付近の窓。
そこには、他の窓とは明らかに違う点があった。
コーキングの状態。
周囲の窓では経年劣化が進んでいる。
しかし、その窓だけは妙に新しい。
「施工したのは、どちらですか?」
捜査員が資料を見せる。
呼ばれた業者は、写真と図面を確認した。
「うちの範囲ですね」
「この窓、他と比べてコーキングの状態が違います」
「そうでしょうね」
「なぜです?」
業者は少し考えてから答えた。
「単純に、後から施工されたんじゃないですか?」
「後から?」
「改修か、補修か。そこは記録を見ないと何とも言えませんけど」
捜査員は別の写真を出した。
「この施工、特殊なものではありませんか?」
「いや」
業者は首を振った。
「丁寧な仕事ではありますけど、技術的に特殊というほどではないですね」
「誰でもできますか?」
「誰でも、って言い方をすると語弊がありますけど……」
業者は苦笑した。
「建築関係の職人なら、普通にできる作業ですよ」
「専門的な知識が必要?」
「コーキングの施工自体なら、特別な技術じゃないです」
「つまり?」
「きれいに仕上げようと思えば、丁寧にやればいいだけです」
捜査員は写真を見つめた。
「この状態から、施工した人間を特定することは?」
「無理でしょうね」
「なぜ?」
「同じ材料を使って、同じように施工したら似たような仕上がりになりますから」
捜査員は黙った。
「ただ」
業者が付け加えた。
「この窓だけコーキングが新しいなら、確かに後から何かしたんでしょうね」
「そこは重要です」
「でも、それだけじゃ誰がやったかまでは分からないですよ」
「……なるほど」
捜査員はメモを取った。
その結果は、捜査本部に戻ってからも同じだった。
「特殊な施工ではない?」
「はい」
「技術的には普通?」
「そうです」
「建築関係なら可能?」
「可能というより、普通の施工技術の範囲だそうです」
捜査員は腕を組んだ。
「じゃあ、侵入経路としてはかなり有力だけど、犯人を絞る材料にはならないってことか」
「そうなります」
「指紋も?」
「ありません」
「DNA関係は?」
「決定的なものは出ていません」
別の捜査員が資料をめくる。
「金庫室周辺の証拠も、例の漏水でかなり流されてます」
「……厄介だな」
室内に沈黙が落ちた。
*
それでも捜査は続く。
建築業者から元請。
元請から下請。
下請からさらに応援で入った職人。
関係者を一人ずつ辿っていく。
その中には、事件当日の行動を細かく説明する者もいた。
「その日は現場にいました」
「何時まで?」
「夕方です」
「その後は?」
「家に帰ってます」
「証明できますか?」
「家族がいます」
また別の人間。
「その日は会社で仕事してました」
「工程表は?」
「あります」
さらに別の人間。
「納期が厳しくてね。とても銀行なんかに行ってる暇ありませんでしたよ」
怒ったように工程表を机へ叩きつける者もいた。
捜査員は一つずつ確認する。
会社の記録。
作業員の証言。
電話記録。
移動経路。
それぞれの事情を積み重ねる。
すると、疑いの濃さが少しずつ変わっていく。
最初は怪しく見えた人物が、調べれば調べるほど犯行とは結びつかなくなる。
そして、また別の人物へ移る。
捜査員の一人が資料を閉じた。
「建物について詳しい人間が犯人なのは間違いないんでしょうか?」
上司は答えなかった。
「……まだ分からん」
「窓から入るなら、少なくともあの窓の位置を知っていたんじゃ?」
「そうだろうな」
「なら施工業者が一番怪しいんじゃないですか?」
「怪しいだけなら、何十人もいる」
上司は資料を指で叩いた。
「建物の構造を知っている」
「はい」
「施工経験がある」
「はい」
「事件当日に動ける」
「はい」
「その全部が揃わないと意味がない」
「……なるほど」
「だから、今はまだ何も絞れていない」
捜査員は黙った。
確かにそうだった。
窓のコーキング。
建物の構造。
施工業者。
金庫室。
停電。
警備システム。
どれも単体なら意味がありそうに見える。
しかし、全部を一人の人間に結びつけようとすると、途端に証拠が足りなくなる。
そして何より。
金庫室の証拠は、漏水によって大きく失われていた。
指紋。
汗。
体毛。
その他の痕跡。
本来なら残っていたかもしれないものが、流れてしまっている。
「犯人は……」
若い刑事が呟く。
「相当運がいいですね」
「違う」
上司が答えた。
「運がいいんじゃない」
資料を閉じる。
「まだ、俺たちが見つけられていないだけだ」
捜査室に、紙をめくる音だけが響いた。
膨大な数の施工業者。
無数の証言。
大量の図面。
そして、ほとんど進展のない捜査。
東央銀行強盗事件は、静かに時間だけを消費しながら、次の段階へ進もうとしていた。