事件から、数週間が経過した。
東央銀行の営業は、すでに通常の状態へ戻っていた。
事件後しばらく続いていた電力制限もなくなり、窓口業務も通常通り行われている。
空調も戻り、職員たちはようやく普段通りの業務に戻っていた。
一般の客が知っているのは、その程度だった。
事件そのものは公になっていない。
だから、銀行へ来る客たちにとっては、以前しばらく不便だった設備が復旧した。それだけの話だった。
だが、東央銀行の内部では。
事件は、まったく終わっていなかった。
*
「……まだなのか?」
東央銀行の会議室。
支店長が、目の前の報告書を睨んでいた。
「はい」
担当者が答える。
「警察からは、現時点で逮捕に繋がるような報告はありません」
「数週間だぞ」
「承知しています」
「監視カメラは?」
「事件当初から確認しています。現在も必要な映像については再確認しています」
「警備会社は?」
「担当者への事情聴取は終わっています」
「施工業者は?」
「かなりの数を聴取しています」
支店長は眉間を押さえた。
「それで?」
返事がない。
「……決定的なものは?」
「ありません」
支店長は椅子へ深く座った。
盗まれた現金や証券については、銀行として致命的な損害になるわけではない。
当然、盗難に備えた保険もある。
手続きや損失が発生する以上、面倒な問題ではある。
だが。
銀行そのものを揺るがすほどの話ではない。
支店長が恐れているのは、別のものだった。
あの大型金庫に入っていた資料。
議員。
地権者。
土地。
建設計画。
金銭。
そして、それらに関する記録。
銀行にとっての「保険」。
正確には、銀行内部でそういう役割を持たせて保管していた資料だ。
もし外へ流れれば。
支店長一人の問題では済まない。
支店の責任者として首を切られるだけなら、まだいい。
議員との関係。
地権者との取引。
過去の建設計画。
そこに関わった人間が多すぎる。
資料が公になれば、銀行そのものが大きな打撃を受ける。
場合によっては、母体企業の経営陣まで責任を問われる。
「……あれだけは出てこないでくれ」
支店長が小さく呟いた。
「何か?」
「いや」
支店長は顔を上げた。
「警察への協力は続けろ」
「はい」
「それから内部資料については、必要以上に話すな」
「承知しています」
「聞かれたことには答える。だが、自分から余計な情報を出す必要はない」
「はい」
担当者が退室する。
支店長は一人になった。
机の上には、事件関連の報告書。
盗難品の一覧。
警察への提出資料。
そして、失われた資料の一覧。
支店長は最後の紙から目を逸らした。
警察には、強盗事件として捜査してもらうしかない。
だが。
犯人が何を盗んだのか。
それを銀行自身が一番よく知っている。
*
同じ頃。
警察の捜査本部。
こちらも、空気は重かった。
「この施工業者は?」
「事件当日の行動に問題ありません」
「こっちは?」
「アリバイがあります」
「警備会社は?」
「担当者から事情聴取済み。不審な点はありません」
「監視カメラは?」
「再確認しましたが、犯人の特定には至っていません」
捜査員の机には大量の資料が積まれている。
施工業者。
設備業者。
警備会社。
銀行職員。
関係会社。
事件当日に現場へ出入りした人間。
一人ずつ調べている。
しかし、決定的なものが出ない。
「金庫の固定部の切断については?」
「非常に綺麗な切断面です」
「ウォーターカッターの可能性は?」
「あります。ただ、現時点ではそれ以上絞り込めません」
「使用できる業者は?」
「かなりあります」
「……そうか」
捜査員が資料を閉じる。
監視カメラ。
警備会社。
施工関係者。
金庫。
侵入経路。
どこを調べても、犯人へ繋がる一本の線にならない。
「これだけ調べても、まだ何も出ないのか」
若い捜査員が呟いた。
「犯人が準備してたんだろうな」
「でしょうね」
「それでも普通なら、どこかに綻びが出る」
「その綻びが見つからない」
上司が資料をまとめる。
「焦るな」
そう言った本人も、焦っている。
捜査は止まってはいない。
だが、進展しているとも言い難い。
大量の証言。
大量の資料。
大量の候補者。
その中から、一つずつ可能性を潰していく。
それでも犯人の姿は見えない。
*
そして。
同じ夜。
主人公たちの事務所。
こちらには、警察とは違う種類の静けさがあった。
机の上には、五枚のCD。
その横には原本。
だが、誰も資料を読んではいない。
もう読み終わっている。
何度も照合した。
日付を確認した。
数字を突き合わせた。
関係者の名前を繋いだ。
その結果だけを、今夜は整理していた。
田村が口を開く。
「まず、銀行の建設計画」
木村が答える。
「具体的に動き始めたのは、完成の約七年前」
「それ以前の資料は?」
「今回持ち出した資料には、建設計画に直接繋がるものはほとんどない」
「つまり」
佐伯が続けた。
「銀行がここへ建てると決めたところから、今回の資料が始まってる」
用地候補。
工事費の概算。
社内承認。
行政への建設計画。
そして、その後。
「議員が出てくる」
柴崎が言った。
「行政に建設計画を出した時期と重なる」
「そこから地権者との話も変わってくる」
水田が言う。
「土地の条件が途中で変わってる」
「理由は?」
「表向きの説明はある。ただ、資料を突き合わせると、それだけじゃ説明がつかない」
木村が頷いた。
「それと金の流れ」
田村が見る。
「議員側と銀行側の間で、表には出せない金が動いている」
「議事録もある」
「正式な議事録だけじゃない」
佐伯が言う。
「表向きの議事録と、実際に話された内容を記録したものがある」
田村が短く息を吐いた。
「……銀行、随分と用心深いな」
「相手を信用してなかったんだろ」
柴崎が答える。
「だから、何かあった時のために残してた」
それが、五人の呼ぶ「保険」だった。
資料そのものに保険と書いてあるわけではない。
だが、その役割は明確だった。
議員や地権者が銀行を裏切った時。
銀行側も相手に対抗できる。
そのための証拠を残していた。
「で、それだけじゃない」
木村が言う。
「地盤資料」
全員が木村を見る。
「古いボーリングデータと、設計に使われたデータで前提が違う」
「だから設計が変わる」
「基礎の深さも工法も変わる」
木村は淡々と続ける。
「古いデータが正しいなら、今の建物は重量だけで沈下してもおかしくない」
「その沈下で配管にも無理が掛かる」
水田が続ける。
「給水管が破裂するのも不思議じゃない」
「なのに施工業者が瑕疵で訴えられてる」
「元々あった瑕疵の問題に、今回の給水管破裂による緊急修理まで追加された」
田村が頷く。
「全部、建物を建てた後の問題に見える」
「でも、その原因が建設計画の段階まで遡る可能性がある」
木村が言った。
誰も返事をしなかった。
田村が資料を一枚だけ見る。
そこにあるのは、建設計画が始まった頃の記録。
まだ銀行の建物すら存在しなかった時期。
その後に現れる議員。
変わる土地の条件。
違う地盤資料。
そして現在の瑕疵問題。
一本の線になりつつある。
「……これが、あの金庫に入ってた」
柴崎が呟いた。
「そう」
佐伯が答える。
「だから銀行は焦ってる」
「盗まれた金じゃなくて?」
「金も困るだろうけど、あっちは保険がある」
田村が言った。
「こっちは違う」
五人の間に沈黙が落ちる。
警察は強盗犯を追っている。
銀行は失われた資料を恐れている。
そして五人は。
その資料が何を意味するのかを、すでに理解してしまっていた。
田村が五枚のCDを見る。
「原本は俺が持つ」
「CDは?」
「それぞれ持っとけ」
木村が頷いた。
もう誰も、これをただの盗品とは思っていなかった。
金なら使い道を考えればいい。
だが、この資料は違う。
誰かに渡せば、何が起こるか分からない。
銀行へ返しても、警察へ持ち込んでも、同じだ。
何より。
これを手に入れたこと自体が、五人を事件の中心へ引き寄せている。
田村は資料を閉じた。
「明日からは、銀行を調べるんじゃない」
「じゃあ何を?」
柴崎が聞く。
「この土地が、銀行になるまでの七年間だ」
田村は立ち上がった。
「そこに何があったのかを見る」
警察が追っているのは、数週間前に起きた強盗事件。
銀行が恐れているのは、失われた資料。
そして五人が見始めたのは。
そのさらに前。
東央銀行という建物が、まだ存在すらしていなかった頃の話だった。