事件から一年。
東央銀行の強盗事件は、いまだ解決していなかった。
事件直後こそ、警察は周辺一帯を徹底的に調べた。
銀行の周辺道路、隣接する建物、近隣店舗、夜間に人が出入りする場所。防犯カメラの映像を確認し、事件当日に不審な人物を見なかったか、銀行周辺に普段と違う車両がいなかったか、何度も聞き込みを繰り返した。
しかし、一年という時間は長かった。
当時の記憶は薄れ、映像も残っているものには限りがある。
決定的な目撃証言は出ない。
犯人の姿を明確に捉えた映像もない。
現場に残された痕跡からも、犯人を特定するまでには至らなかった。
それでも、事件を担当する刑事たちが完全に捜査を放棄したわけではない。
ただ、事件直後のように一つの手掛かりに何人もの刑事を張り付け、片っ端から調べるような捜査ではなくなっていた。
新しい情報が入れば調べる。
過去の資料を見返して、まだ確認していないところがあれば当たる。
その程度になっていた。
「もう一度、周辺の聞き込みをしてみますか」
刑事の一人が資料を閉じながら言った。
「何か引っ掛かったか?」
「窓枠です」
「窓枠?」
「ええ。あの外し方です」
刑事は机の上に置かれた資料へ目を落とした。
東央銀行の建物に残されていた痕跡。
窓を無理やり破壊したわけではない。
周囲を必要以上に傷つけた形跡もない。
建物の構造をある程度理解している人間なら、あの作業を比較的手際よく進められたのではないか。
捜査の中では、以前からそういう見方が出ていた。
「建築関係者の可能性がある、というやつか」
「はい。ただ、建築関係者だと断定できるものではありません」
「分かってる」
「ですから、今回は建築、土木、設備関係の人間が普段出入りする場所を少し当たってみようかと」
「やってみるか」
「はい」
刑事は立ち上がった
*
最初に向かったのは、繁華街でも一際目立つ店だった。
この街では最高級とされるキャバクラ。
店構えからして金がかかっている。
刑事が店員に警察手帳を見せ、事件について簡単に説明する。
「一年くらい前の事件なんですが、当時から現在まで、工事関係者のお客さんについて何か覚えていることはありませんか」
「工事関係ですか?」
「建築や土木、設備関係です」
「うーん……」
店員は腕を組んだ。
しばらく考えていたが、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「ああ」
「何かありますか?」
「五人組なら、来たことありますよ」
刑事の手が止まった。
「五人?」
「はい。男五人」
「工事関係者ですか?」
「そうだと思います。格好もそうでしたし、話している内容も仕事の話が多かったので」
「いつ頃です?」
「最近です」
刑事は一瞬、資料を見る。
事件は一年近く前。
今聞いているのは、事件直後ではなく最近の来店についてだった。
「最近、五人組の工事関係者が来た」
「ええ」
「それは覚えている?」
「覚えてますよ。かなり目立ちましたから」
「何かあったんですか?」
店員は少し笑った。
「五人で、百二十万円以上使いました」
「……百二十万円?」
「はい」
「一晩で?」
「一晩です」
刑事は数字を書き込んだ。
店員は続けた。
「正直、最初に見たときは驚きましたよ」
「なぜ?」
「格好がね」
「格好?」
「工事帰りみたいな感じだったんです。服も汚れてたし、靴も汚れてる。顔も日に焼けてる」
そこへ女が一人、会話に入ってきた。
「小汚かったよね」
店員が苦笑する。
「おい」
「だってそうじゃん」
女は悪びれない。
「うちの店に来る客には見えなかった」
刑事は黙って聞いていた。
「店の格が落ちるって言ってた子もいたよね」
「まあ……」
店員は濁した。
「私は飲み逃げされたらボコそうかと思った」
別の女が笑いながら言った。
「それは言いすぎ」
「だって五人だよ?」
「警察の前で何言ってんだ」
「冗談だって」
店内には軽い笑いが起こった。
刑事は笑わなかった。
五人の使った金額だけを見れば、店にとってはかなりの客だったのだろう。
しかし、その口から出てくる言葉は、金を使う前の五人を随分と低く見ている。
小汚い。
店の格が落ちる。
飲み逃げされたらボコそうと思った。
刑事は妙に腹が立った。
自分だって仕事をすれば汗をかく。
夏の現場なら制服の中まで汗で濡れる。
外で働いている人間なら、泥も油も埃も付く。
それを汚いと言うのは勝手だ。
だが、その汚れがその人間の仕事そのものだということくらい、分かってもいい。
「その五人について、ほかに何か覚えていませんか」
「何かって?」
「名前、会社、普段の行動、話していた内容など」
「いやあ」
店員は首を横に振った。
「そこまでは」
「工事関係者だということ以外は?」
「特に」
「事件について何か話していませんでしたか」
「事件?」
「東央銀行の強盗です」
「ああ……」
店員は考えた。
「覚えてないですね」
「銀行について話していたとか」
「それもないです」
「五人のうち誰か一人だけ、妙に挙動がおかしかったとか」
「ないですね」
刑事は手帳を閉じた。
得られたのは、五人組の客が最近来店したこと。
工事関係らしいこと。
そして、一晩で百二十万円以上を使ったこと。
それだけだった。
「ありがとうございました」
「いえ」
刑事たちは店を出た。
*
扉を閉めた途端、後輩の刑事が小さく息を吐いた。
「……なんか、感じ悪かったですね」
「そうだな」
「同じ働く人間に対して、あの言い方はないでしょう」
刑事は答えなかった。
まだ腹の底に嫌なものが残っている。
店員たちは、五人を金額で見ていた。
百二十万円使う客だから歓迎する。
しかし、最初に見たときは「小汚い」と笑う。
仕事をして汚れている人間を、自分たちより下に見る。
「行くぞ」
「はい」
二人はそのまま繁華街を歩いた。
まだ聞いていない店がある。
五人組の客が来たという情報が本当に事件と関係するのか。
それを確認するためではない。
少なくとも、今のところ事件との繋がりは何もない。
ただ、捜査の一環として周辺を確認しているだけだ。
しばらく歩いたところで、後輩が言った。
「この近くに、工事関係の客が多い店があります」
「キャバクラか?」
「はい」
「行くか」
「はい」
二人はその店へ向かった。
*
店に入る。
先ほどの高級店とは、空気がまるで違った。
内装はもっと気楽で、客と店員の距離も近い。
刑事が警察手帳を見せると、店員は少し驚きながらもすぐに対応した。
「警察です。少し聞き込みをしたいんですが」
「はい、どうぞ」
「工事関係のお客さんについてです」
「工事関係ですか?」
「男性五人くらいのグループなんですが」
「ああ」
店員がすぐに笑った。
「あの人たちでしょ」
「知っていますか?」
「知ってますよ」
「よく来ます?」
「よく来てくれます」
その返事は明るかった。
先ほどの店とは、まるで違う。
「最近も来ましたか?」
「ええ」
女が横から口を挟む。
「よく来てくれるよね」
「そうそう」
「じゃあ、五人とも工事関係者で間違いない?」
「そう聞いてます」
「名前は?」
刑事が尋ねた。
「名前までは……」
「会社は?」
「知らないですね」
「どこに住んでいるとかは?」
「そこまでは聞かないですよ」
刑事は頷いた。
「東央銀行の事件について、何か話していたことは?」
「うーん……」
店員は考える。
「特にないですね」
「銀行の話をしたことは?」
「覚えてないです」
「事件の日の前後に、何か変わった様子はありませんでしたか」
「うちは分からないですね」
「そうですか」
刑事はそこで話を終えようとした。
すると女が笑いながら言った。
「刑事さん、あの人たち捕まえるんですか?」
「何かしたんですか?」
「いやいや」
「じゃあ何で?」
「よくふともも触るから」
「おい」
店員が笑う。
「セクハラで逮捕してー」
「そんなことで逮捕できるか」
「じゃあ厳重注意して」
「本人に言ってください」
「嫌だよ」
「なんで?」
「来なくなったら困るもん」
店員も笑っている。
刑事は呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。
「仲がいいんですね」
「まあ、常連ですから」
「そうですか」
それ以上は、誰も何も言わなかった。
刑事が質問しても、店員は知らないことを知らないと言う。
女たちも、余計なことを話さない。
五人の仕事について詳しく説明することもない。
金の話もしない。
車の話もしない。
最近何を買ったかなんて話も出ない。
事件と結び付くようなことを、一つも口にしなかった。
刑事には、それが妙に印象に残った。
別に不自然な沈黙ではない。
客の仕事や私生活を、店員が細かく把握しているわけではない。
ただの常連客なのだから、それで当然だった。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
「何か思い出したことがあれば、こちらに連絡してください」
「分かりました」
「ご苦労様です」
二人は店を出た。
*
「どうでした?」
外で後輩が聞く。
「どうもこうもない」
刑事は肩をすくめた。
「常連だってことしか分からん」
「ですよね」
「名前も会社も分からない」
「はい」
「事件との関係もなし」
「はい」
「高級店の五人組と同じかどうかも、確定はできん」
「でも、たぶん同じですよね」
「そうかもしれん」
「人数も五人。工事関係」
「それだけだ」
刑事は念を押すように言った。
「それ以上はない」
「はい」
次に向かったスナックでも、結果は同じだった。
「ああ、あの五人なら知ってるよ」
「よく来る客だね」
「工事関係だと思う」
それだけ。
刑事が聞いても、それ以上の情報は出なかった。
五人が何をしているのか。
どこで働いているのか。
最近何を買ったのか。
金をどうしているのか。
そうしたことは、店側には分からない。
そして、店側も余計なことを言おうとはしなかった。
刑事たちは礼を言って店を出た。
「終わりですね」
「ああ」
「結局、五人組について分かったのは?」
「この辺りの店に来る工事関係者らしい、ってだけだ」
「事件とは?」
「何もない」
「捜査資料には?」
「一応、聞き込み結果として残しておく」
「はい」
刑事は手帳を閉じた。
今回の聞き込みで、事件を大きく動かすような情報は得られなかった。
五人組。
工事関係者。
最近、高級店に来ていた。
その店では百二十万円以上を使った。
そして、別の店では昔からの常連として知られていた。
それだけだ。
東央銀行事件の犯人が誰なのか。
その五人が犯人なのか。
そもそも犯人が本当に建築関係者なのか。
何一つ確定していない。
刑事は駅へ向かいながら、今日聞いた話を頭の中で整理した。
高級店の人間が五人をどう見ていたか。
馴染みの店の人間が五人をどう見ていたか。
その違いだけが妙に印象に残っていた。
「しかし、最初の店は本当に嫌な感じでしたね」
後輩がまた言った。
「まだ言ってるのか」
「だって……」
「まあ、分からんでもない」
刑事は苦笑した。
「仕事して汗かいて、服を汚して、それで酒を飲みに来ただけだろ」
「ですよね」
「客なんだから、せめて普通に接すりゃいい」
「でも百二十万円使ったら急に客として認める」
「金を使う人間だけが客ってことだろ」
「嫌ですね」
「俺も嫌いだ」
二人は歩き続けた。
夜の街はまだ明るい。
店の中では、五人の男たちが常連として笑いながら酒を飲んでいた。
刑事たちが探しているものとは、何の関係もないように。
そして刑事たちは、その五人が何者なのかを知らない。
知っているのは、建築関係者かもしれないという、あまりにも曖昧な犯人像だけ。
今回の聞き込みも、結局そこから先へ進むことはなかった。
捜査記録に残るのは、ほんの数行。
――工事関係と思われる男性五名の来店情報あり。
――複数店舗において以前から常連として認識されている。
――東央銀行事件との関連を示す情報なし。
それだけだった。