一億七千万円の強盗   作:山門門山

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第五話1年間

第五話 ――一年間

 

 午前零時を少し回った頃。

 

 佐伯の会社の倉庫には、まだ明かりがついていた。

 

 昼間なら資材や工具が所狭しと並び、トラックの出入りする場所だ。

 

 しかし今夜だけは違う。

 

 中央に置かれた大きな作業台。

 

 その上には東央銀行の図面一式が広げられ、その周囲を五人の男が取り囲んでいた。

 

 佐伯。

 

 建築担当。

 

 木村。

 

 土木担当。

 

 田村。

 

 電気担当。

 

 柴崎。

 

 ガス担当。

 

 そして水田。

 

 給排水設備担当。

 

 それぞれが何年も現場で飯を食ってきた。

 

 普段なら、この五人が一つの机を囲むのは工事の打ち合わせをするときだけだ。

 

 工程。

 

 予算。

 

 材料。

 

 施工方法。

 

 そんな話をする。

 

 だが、今夜机の上にあるのは、それらとはまったく違うものだった。

 

 東央銀行から持ち出した金をどうするか。

 

 そして、自分たちを事件と結びつける可能性のあるものをどうするか。

 

 その話だった。

 

「……で」

 

 田村が煙草を灰皿に押しつける。

 

「本当に一年待つのか?」

 

 佐伯は答えなかった。

 

 代わりに、机の上に置かれた紙を見つめていた。

 

 そこには一言だけ書かれている。

 

 一年。

 

 田村がもう一度聞いた。

 

「聞いてるのか、佐伯」

 

「ああ」

 

「だったら答えろ」

 

「一年だ」

 

 佐伯はようやく顔を上げた。

 

「一年間、普通に仕事する」

 

「……それで?」

 

「それだけだ」

 

 田村は呆れたように笑った。

 

「それだけって、お前な」

 

「それが一番難しいんだよ」

 

 佐伯は椅子の背もたれに体を預けた。

 

「事件が起きた直後に、急に生活を変えたら怪しまれる」

 

「だから今まで通り?」

 

「ああ」

 

「現場に出る」

 

「出る」

 

「会社にも行く」

 

「行く」

 

「給料も受け取る」

 

「もちろんだ」

 

 水田が腕を組んだ。

 

「じゃあ、金は?」

 

 その言葉で、部屋の空気が少し重くなった。

 

 誰も金額を口にしなかった。

 

 五人にとって、それは人生を一変させるほどの金だった。

 

 これまで何十年も働いて、それでも手が届かなかった金額。

 

 借金。

 

 失った給料。

 

 会社の経営。

 

 家族。

 

 これから先の人生。

 

 全部をひっくり返してしまえる金。

 

 だが、手に入れた瞬間に使えば、それだけで疑われる。

 

 だからこそ。

 

「触らない」

 

 佐伯が言った。

 

「一年間?」

 

「一年間」

 

「一円も?」

 

「一円もだ」

 

 柴崎が小さく息を吐いた。

 

「……それが一番きついな」

 

「我慢しろ」

 

 佐伯が言う。

 

「俺たちは金が欲しくてやるんだ。金を手に入れた直後に馬鹿なことをするな」

 

 木村が苦笑した。

 

「珍しく正論だな」

 

「俺はいつだって正論だ」

 

「それはない」

 

「うるせえ」

 

 五人の間に、ほんの少しだけ笑いが戻った。

 

 だが、すぐに消えた。

 

 田村が机の上の図面を指で叩く。

 

「じゃあ、問題はもう一つだ」

 

「何だ?」

 

「俺たち自身だ」

 

 佐伯が見る。

 

「事件に使ったもの」

 

 田村は続けた。

 

「仕事で使ってる物と同じ物を使えば、普段から持ってる物だから怪しまれないって考え方もできる」

 

「でも事件に使った物を、そのまま持ってるのは危ない」

 

 柴崎が言った。

 

「分かってる」

 

 田村が答える。

 

「だから処分する」

 

 水田が黙り込んだ。

 

「……全部?」

 

「ああ」

 

「工具も?」

 

「必要なものだけ残す」

 

「作業着は?」

 

「それもだ」

 

 佐伯が答えた。

 

「事件と結びつく可能性のあるものは、全部まとめる」

 

 五人は黙った。

 

 普段なら、自分たちが使う道具を処分するなんて考えもしない。

 

 工具は仕事道具だ。

 

 手入れをして長く使う。

 

 傷が増えれば、それだけ自分の仕事の歴史になる。

 

 佐伯の工具箱にも、木村の道具袋にも、田村の電気工具にも、柴崎のガス工具にも、水田の配管工具にも、それぞれ何年分もの記憶が詰まっている。

 

 だからこそ。

 

 それを手放すことには、妙な寂しさがあった。

 

「……勿体ねえな」

 

 水田が呟いた。

 

「何が?」

 

「工具」

 

 水田は苦笑する。

 

「まだ使えるのにな」

 

「新しいの買えばいい」

 

 佐伯が言った。

 

「金ならある」

 

 その言葉に、全員が一瞬黙った。

 

 まだ使っていない。

 

 まだ自分たちのものになった実感もない。

 

 それなのに、佐伯はもう「金ならある」と言った。

 

 田村が小さく笑う。

 

「もう気分は金持ちかよ」

 

「違う」

 

「じゃあ何だ?」

 

「ただの事実だ」

 

 佐伯はそう答えた。

 

「だからこそ、忘れるな」

 

 五人を見る。

 

「一年間は、その金が存在しないと思え」

 

 

 しばらくして。

 

 水田が古い地図を広げた。

 

「金の話なら、一つある」

 

 佐伯が顔を上げる。

 

「何だ?」

 

「隠す場所」

 

 田村が眉をひそめた。

 

「もう決めてあるのか?」

 

「いや」

 

 水田は首を振った。

 

「今思い出した」

 

 地図上の一点を指す。

 

「ここだ」

 

 そこに記されているのは、近隣の学校だった。

 

「学校?」

 

 木村が身を乗り出す。

 

「俺が昔、設備工事に入った」

 

 水田は言った。

 

「建て替え前の校舎だ」

 

「浄化槽か?」

 

「そう」

 

 水田は頷く。

 

「今はもう使ってない」

 

「埋め殺し?」

 

「そうだ」

 

 佐伯が地図を見る。

 

「残ってるのか?」

 

「俺が最後に見たときは残ってた」

 

「今は?」

 

「知らん」

 

 水田は正直に答えた。

 

「何年も前の話だからな」

 

 木村が地図を覗き込む。

 

「学校なら土地そのものは簡単には変わらないか」

 

「そう思う」

 

「思う、か」

 

 水田は苦笑した。

 

「土木屋に言わせれば、土地なんていつでも変わる」

 

 木村が頷く。

 

「その通りだ」

 

「でも、俺が施工した場所だ」

 

 水田は地図を指で押さえた。

 

「少なくとも、どこに何があったかは普通の人間より分かる」

 

 佐伯はしばらく黙っていた。

 

 そして言った。

 

「そこにしよう」

 

 田村が顔を上げる。

 

「本気か?」

 

「ああ」

 

「学校だぞ」

 

「今は使われてない設備なんだろ?」

 

「浄化槽はな」

 

「ならいい」

 

 佐伯は地図を見つめた。

 

「俺たちは一年間、普通に暮らす」

 

「その間、触らない」

 

「そう」

 

「一年後に?」

 

「その時に考える」

 

 田村は腕を組んだ。

 

「随分と先の話だな」

 

「だからいいんだ」

 

 佐伯が言った。

 

「一年あれば、人間の記憶は薄れる」

 

 誰も反論しなかった。

 

 

 翌日の夕方。

 

 水田は一人で、昔の工事資料を探していた。

 

 会社の倉庫の奥。

 

 古いファイルが並んでいる。

 

 表紙には年度と工事名が書かれている。

 

 水田は埃を払いながら、一冊を引き抜いた。

 

「……あった」

 

 昔の学校の設備工事。

 

 給排水。

 

 衛生設備。

 

 浄化槽。

 

 施工図。

 

 懐かしい文字が並んでいる。

 

 まだ若かった頃の自分が書いた字。

 

 現場で何度も修正した跡。

 

 赤ペン。

 

 黒ペン。

 

 施工確認の印。

 

 水田はしばらくそれを眺めていた。

 

「俺も年取ったな……」

 

 思わず笑う。

 

 あの頃は、まさかこんな理由で昔の工事を思い出すとは思わなかった。

 

 水田はファイルを閉じた。

 

 そのときだった。

 

「水田さん?」

 

 背後から声がした。

 

 振り返る。

 

 同じ会社の若い社員だった。

 

「何してるんですか?」

 

「昔の現場資料探してんだ」

 

「何の?」

 

「学校」

 

「へえ」

 

 若い社員はファイルを見る。

 

「随分古いですね」

 

「昔の仕事だからな」

 

「懐かしいですか?」

 

「まあな」

 

 水田は笑った。

 

「俺がまだ若かった頃だ」

 

 社員は特に気にする様子もなく、別の資料を探し始めた。

 

 水田は何も言わなかった。

 

 ただ、胸の奥に小さな違和感が残った。

 

 自分が思っているほど、過去の仕事は自分だけのものではない。

 

 現場には他の職人もいた。

 

 会社にも記録が残る。

 

 施主にも記録が残る。

 

 設計事務所にもある。

 

 そして学校にもある。

 

 そんな当たり前のことを、水田は今になって妙に意識した。

 

 

 その夜。

 

 五人が再び集まった。

 

「浄化槽の話は?」

 

 佐伯が聞く。

 

「場所は間違いない」

 

 水田が答えた。

 

「ただし、古い」

 

「どれくらい?」

 

「十年以上」

 

「なら大丈夫だろ」

 

 佐伯は言った。

 

 木村がすぐに口を挟む。

 

「そう簡単に考えるな」

 

「何だよ」

 

「俺たちが知らない間に改修されてる可能性はある」

 

「水田は施工した本人だぞ」

 

「本人だからって、十年後の土地まで分かるわけじゃない」

 

 水田も頷いた。

 

「木村の言う通りだ」

 

 佐伯が黙る。

 

「ただ」

 

 水田が続ける。

 

「今のところ、俺が知ってる限りでは使われてない」

 

「それならいい」

 

「そう簡単に決めるなよ」

 

 木村が言った。

 

「俺は土木屋だ。地面の下ってのは、見えないから怖いんだ」

 

 佐伯が笑う。

 

「お前がそれ言うと説得力あるな」

 

「地面の下ほど嘘つかないんだよ」

 

「どういう意味だ?」

 

「掘れば分かる」

 

 木村はそう言って笑った。

 

 

 そして、数日後。

 

 五人はそれぞれの仕事へ戻った。

 

 佐伯は現場へ。

 

 木村も別の造成現場へ。

 

 田村は電気工事。

 

 柴崎はガス設備。

 

 水田は給排水。

 

 誰もが普段通りに働いた。

 

「お疲れさん」

 

「お疲れ様です」

 

「明日、朝早いぞ」

 

「分かってます」

 

 仕事をする。

 

 昼飯を食う。

 

 帰宅する。

 

 風呂に入る。

 

 テレビを見る。

 

 酒を飲む。

 

 眠る。

 

 それまでと何も変わらない。

 

 五人は、それが計画の一部だと思っていた。

 

 むしろ、何も変えないことこそが重要なのだと。

 

 

 花火大会まで、あと二週間。

 

 銀行では準備が進んでいた。

 

 地域への協賛。

 

 イベントスタッフの手配。

 

 地元企業への挨拶。

 

 自治体との打ち合わせ。

 

 銀行員たちは忙しそうに動いていた。

 

 支店長も何度も外へ出る。

 

 若手職員も準備に駆り出される。

 

 本部から来る人間もいる。

 

 銀行がこの地域で生きていくためのイベント。

 

 そのために、人が動いている。

 

 佐伯はそれを遠くから見ていた。

 

 銀行の建物。

 

 自分たちが建てた建物。

 

 その中で、人々がいつも通り仕事をしている。

 

 誰も知らない。

 

 この建物を建てた五人が、その建物を奪う計画を立てていることを。

 

 佐伯は煙草を咥えた。

 

 火をつける。

 

 煙を吐く。

 

「……あと二週間か」

 

 

 その夜。

 

 五人が再び倉庫に集まった。

 

 机の上には、銀行の図面。

 

 そしてもう一枚。

 

 学校の古い設備図だった。

 

 水田がそれを眺めている。

 

「懐かしいな」

 

「そんなに?」

 

 田村が聞いた。

 

「ああ」

 

 水田は笑う。

 

「この現場、えらく揉めたんだよ」

 

「何で?」

 

「浄化槽の位置」

 

 水田が指を動かす。

 

「最初の計画と、実際の施工条件が合わなかった」

 

 木村が覗き込む。

 

「地盤?」

 

「それもある」

 

 水田は図面をめくった。

 

「結局、現場で調整した」

 

「それなら図面と違うんじゃないか?」

 

 佐伯が聞く。

 

「施工図は修正した」

 

「なるほど」

 

 水田は苦笑した。

 

「だから、この図面を見れば当時の状況は分かる」

 

 田村が言う。

 

「お前、本当に現場のこと覚えてるな」

 

「何年もやってりゃ覚えるさ」

 

 水田は図面を閉じた。

 

 だが、その顔から笑みが消えた。

 

「ただな」

 

「何だ?」

 

「昔の現場を思い出してると、妙な感じがする」

 

「何が?」

 

「俺たち、普通に仕事してたんだよな」

 

 誰も答えない。

 

「朝から現場行って」

 

 水田が続ける。

 

「材料が足りないって怒って」

 

「職人同士で揉めて」

 

「施主に怒られて」

 

「工期に追われて」

 

「それでも、最後には建物ができる」

 

 水田は少し笑った。

 

「それが仕事だった」

 

 佐伯は何も言わなかった。

 

 五人とも同じだった。

 

 ただ働いていただけだった。

 

 それなのに今は、銀行強盗を計画している。

 

 

「一年」

 

 佐伯が言った。

 

「一年後には、全部終わってる」

 

 田村が見る。

 

「何が?」

 

「この騒ぎだ」

 

「事件?」

 

「ああ」

 

 佐伯は頷く。

 

「一年も経てば、ニュースだって別の事件で埋まる」

 

 木村が言う。

 

「それでも捜査は続くかもしれない」

 

「分かってる」

 

「なら――」

 

「だから一年だ」

 

 佐伯は全員を見る。

 

「一年間、普通に生きる」

 

 それだけだった。

 

 派手な生活をしない。

 

 突然仕事を辞めない。

 

 急に金を使わない。

 

 誰にも話さない。

 

 そして、何事もなかったように現場へ行く。

 

 それが五人の決めたルールだった。

 

 

 花火大会前日。

 

 銀行の周囲は、いつもより人が多かった。

 

 イベントの準備が進んでいる。

 

 地域の商店。

 

 自治体。

 

 スポンサー企業。

 

 そして東央銀行。

 

 銀行の名前があちこちに出ている。

 

 支店長が地元の議員と話している。

 

 地権者も来ている。

 

 銀行の幹部も顔を出している。

 

 若い職員が忙しそうに走り回っている。

 

 佐伯はその光景を少し離れたところから見ていた。

 

「……随分と熱心だな」

 

 木村が隣に立つ。

 

「土地の件があるからな」

 

「そうだな」

 

「ここで商売する以上、地元と揉めたくない」

 

「そのために、こんな土地まで選んだ」

 

 佐伯は銀行を見る。

 

「皮肉だな」

 

「何が?」

 

「俺たちが銀行を建てた理由も」

 

「……」

 

「銀行がここに来た理由も」

 

 佐伯は笑った。

 

「全部、金なんだよ」

 

 木村は答えなかった。

 

 

 そして、花火大会当日。

 

 夕方。

 

 街には人が溢れていた。

 

 屋台。

 

 浴衣。

 

 子供たち。

 

 家族連れ。

 

 遠くから聞こえる祭囃子。

 

 銀行の職員たちもイベントに参加している。

 

 支店長は地元の関係者と挨拶を交わし、若手職員は運営を手伝っている。

 

 その様子を、五人は別々の場所から見ていた。

 

 誰も一緒にはいない。

 

 誰も余計なことを話さない。

 

 そして夜。

 

 空に最初の花火が上がった。

 

 ドン――。

 

 腹に響く音。

 

 街の人々が一斉に空を見上げる。

 

 五人も、それぞれの場所から空を見た。

 

 佐伯は腕時計を見る。

 

 そして、小さく呟いた。

 

「……始まったな」

 

 

 その後のことを、五人は事前に何度も話し合っていた。

 

 しかし現実は、計画書に書いた通りには進まない。

 

 建物は図面通りでも、人間は図面通りには動かない。

 

 予定していた人間が予定通りに動くとは限らない。

 

 設備が想定通りに反応するとも限らない。

 

 そして何より――

 

 五人は、これまでずっと「建物」のことを考えていた。

 

 柱。

 

 壁。

 

 配管。

 

 配線。

 

 ガス。

 

 設備。

 

 土。

 

 だが、この夜に相手をするのは建物ではない。

 

 人間だった。

 

 それが五人にとって、最大の誤算になる。

 

 

 夜が深くなる。

 

 花火はまだ続いている。

 

 街中に爆音が響く。

 

 銀行の周囲にも、いつもとは違う夜が広がっている。

 

 そして五人は、それぞれの場所で決められた時間を待っていた。

 

 佐伯は最後にもう一度だけ、銀行の建物を見た。

 

 自分が建てた。

 

 木村が地面を作った。

 

 田村が電気を通した。

 

 柴崎がガスを通した。

 

 水田が水を通した。

 

 五人の仕事が積み重なってできた建物。

 

 それが今夜、彼らの人生を変える場所になる。

 

 佐伯は目を細めた。

 

「一年だ」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

「一年だけ、普通に生きる」

 

 その言葉を最後に、佐伯は歩き出した。

 

 空では、最後の大きな花火が開いた。

 

 夜空いっぱいに光が広がる。

 

 街の人々から歓声が上がる。

 

 誰も知らない。

 

 その歓声の陰で、五人の人生がもう二度と元には戻らない一歩を踏み出したことを。

 

 そして一年後。

 

 彼らが再び水田の記憶にある、あの古い浄化槽の存在を思い出すことになる。

 

 そのとき五人は初めて知ることになる。

 

 「誰にも知られていない場所」と「誰にも調べられない場所」は、同じではない。

 

 だが、それはまだ先の話だった。

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