第六話 花火の夜
午後八時四十分。
花火大会の会場から少し離れた路地に、一台の古いワゴン車が停まっていた。
車内には五人の男がいる。
佐伯。
木村。
田村。
柴崎。
水田。
誰も喋らない。
窓は少しだけ開けてある。
外から祭りの音が流れ込んでくる。
子供の笑い声。
屋台の呼び込み。
遠くを走る車。
そして――
ドンッ。
花火が夜空に開いた。
数秒遅れて、街の向こうから歓声が上がる。
佐伯が腕時計を見た。
「……そろそろだな」
後部座席の柴崎が、足元に置いていた紙袋を持ち上げる。
「その前に」
田村が振り返る。
「何だ?」
「景気づけ」
紙袋から出てきたのは、五本のワンカップ酒だった。
木村が呆れた顔をする。
「お前、本当に買ってきたのかよ」
「買ってきた」
「今から何するか分かってる?」
「分かってるから飲むんだよ」
「意味が分からん」
柴崎は笑いながら一本ずつ配った。
佐伯も受け取る。
「まあいいだろ」
蓋を開ける。
五人が酒を持った。
佐伯が少し考える。
「……乾杯」
「何に?」
水田が聞く。
「成功」
「縁起でもねえ」
木村が笑った。
「じゃあ何ならいいんだよ」
「知らん」
五人が笑った。
ほんの一瞬だけだった。
酒を一口飲む。
安い酒だった。
だが、その夜だけは妙にうまかった。
水田が窓の外を見る。
「……本当にやるんだな」
佐伯は答えなかった。
代わりにワンカップを置いた。
「行くぞ」
五人の顔から笑いが消えた。
⸻
午後八時五十分。
東央銀行。
花火大会の影響で、周辺は普段とはまるで違う雰囲気になっていた。
屋台。
交通整理。
地域の役員。
銀行関係者。
この土地に支店を構えてから、銀行は地域との関係を非常に重視していた。
今日も支店長や幹部だけでなく、若手職員まで地域イベントに駆り出されている。
銀行にとっては重要な一日。
五人にとっては、もっと重要な一日だった。
佐伯が銀行を見上げる。
「……ここか」
木村が隣に立つ。
「ああ」
「俺たちが作ったんだよな」
「そうだ」
佐伯はしばらく黙っていた。
「だったら、最後くらい自分たちで始末するか」
木村は何も答えなかった。
⸻
五人が動いた。
田村が電気側を担当する。
柴崎は建物に設置されたバルク貯槽の方へ向かった。
しばらくして――
銀行の明かりが消えた。
柴崎が戻ってくる。
「ガス、止めた」
田村が頷く。
「こっちも落ちた」
建物が暗闇に包まれる。
その直後。
銀行内部から低い機械音が聞こえ始めた。
コージェネレーションシステム。
電気が失われたときに備えた非常用設備。
ガスによって発電する、銀行の最後の頼みの綱だった。
しかし――
そのガスも、今は供給されていない。
五人はしばらく待った。
やがて機械音が弱くなる。
そして消えた。
柴崎が耳を澄ます。
「……止まった」
田村が時計を見る。
「よし」
佐伯が頷く。
「行くぞ」
⸻
銀行の側面。
佐伯と木村が窓の前にしゃがんだ。
木村が小声で言う。
「壊すなよ」
「誰に言ってる」
「建築屋だからって調子に乗るな」
「俺は自分の仕事を信用してるんだよ」
佐伯は窓を見る。
自分たちが施工した建物。
何度も図面を見て、何度も現場を歩いた。
完成したときには、誇らしかった。
今は違う。
それでも、仕事だけは丁寧だった。
しばらくして窓が開く。
「よし」
佐伯が中へ入った。
木村。
田村。
柴崎。
そして水田。
五人全員が銀行内部へ入った。
⸻
水田は、そこで足を止めた。
「……」
天井を見上げる。
佐伯が振り返る。
「どうした?」
「いや」
水田は小さく笑った。
「ちょっと思い出した」
「何を?」
「この前の修理」
その言葉に、四人も顔を見合わせた。
⸻
数週間前
電話が鳴った。
「水田さん、東央銀行から緊急修理です」
「銀行?」
「はい。地盤沈下の影響で給水管が折れたらしくて」
水田は黙った。
ほんの数日前。
五人はこの銀行について最後の計画を立てていた。
そして、銀行内部へ入る機会がないことが問題になっていた。
そんな矢先だった。
緊急修理。
しかも、水田の専門である給水設備。
「……俺が行く」
「いいんですか?」
「ああ」
水田は工具を準備した。
もちろん表向きは普通の修理作業だった。
地盤沈下。
破損した給水管。
緊急対応。
設備業者が銀行へ入る理由として、何の不自然さもない。
水田は現場へ入った。
外部の修理を行い、その後、内部の確認にも入る。
天井裏。
配管。
設備スペース。
作業員として見てもらえる場所。
その途中で、水田は計画を思い出した。
――今しかない。
この機会を逃せば、もう一度銀行内部へ自由に入れる保証はない。
水田は持ち込んでいた工具の一部を、計画のために残した。
意図的だった。
忘れたわけではない。
置いてきたのだ。
そして何事もなかったように修理を終えた。
銀行の職員に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ助かりました」
水田はいつもの設備屋の顔で笑った。
そして銀行を出た。
誰にも怪しまれなかった。
⸻
「……あれが千載一遇だった」
水田が言った。
木村が笑う。
「本当にギリギリだったな」
「ああ」
「まさか計画立てた直後に給水管が折れるとはな」
「偶然って怖いよな」
田村が言った。
水田は天井を見る。
「でも、あのときの俺は知ってた」
「何を?」
「これが最後のチャンスかもしれないって」
佐伯が水田の肩を叩いた。
「よくやった」
「……ああ」
水田は小さく頷いた。
⸻
五人は奥へ進んだ。
花火が上がる。
ドンッ。
窓の外が一瞬だけ明るくなる。
銀行内部は暗い。
聞こえるのは、自分たちの足音だけ。
やがて金庫区画へ到着した。
佐伯が立ち止まる。
「ここだ」
五人が金庫を見る。
図面で何度も確認した場所。
建築。
電気。
ガス。
給排水。
土木。
五人が作ってきた建物の中で、ここだけは彼らの仕事ではない。
田村が周囲を見る。
「……静かだな」
「当たり前だ」
木村が答える。
「電気もガスも止めたんだから」
柴崎が笑った。
「正確には、銀行側のガス発電も止まってる」
「ああ」
田村が言った。
「だから今、この建物の中で動いてる電気は俺たちのものだけだ」
その言葉を聞いた佐伯が頷いた。
「始めるぞ」
⸻
五人は持ち込んだ可搬式のガス発電機を動かした。
ブルルルル……。
低いエンジン音が暗い銀行内に響く。
木村が顔をしかめる。
「……結構うるさいな」
「仕方ない」
田村が答える。
「こいつがなきゃ何も動かせない」
水田は用意していたウォーターカッターを見る。
普段の現場で使う機械。
今日だけは、その用途が違う。
「水は?」
水田が聞く。
「使える」
田村が答えた。
「ならいい」
水田が機械を構えた。
佐伯が一歩下がる。
「始めろ」
水田が作業を開始する。
次の瞬間。
銀行内部に鋭い音が響いた。
――シュゥゥゥゥゥッ。
高圧の水が金属へ当たる音。
その音に、発電機の低い唸りが重なる。
ブルルルル……。
シュゥゥゥゥ――。
それだけだった。
銀行内部には、五人の男と二つの機械音。
外では花火。
人々の歓声。
祭りの音。
しかし、この建物の中だけは別世界だった。
木村が耳を塞ぐ。
「うるせえな……」
「我慢しろ」
水田が言う。
「こっちはもっと嫌だ」
水田自身も顔をしかめていた。
金属を削る水の音は、耳に残る。
佐伯は黙って金庫を見つめていた。
長かった。
本当に長かった。
会社を失った。
仕事を失った。
給料を失った。
それでも、相手は何もなかったような顔をしていた。
今、その相手の象徴とも言える金庫が目の前にある。
佐伯は拳を握った。
「……あと少しだ」
水田は答えなかった。
ただ作業を続けた。
⸻
ドンッ。
外で花火が爆発した。
銀行内部が一瞬だけ明るくなる。
五人の顔が照らされた。
佐伯。
木村。
田村。
柴崎。
水田。
全員、汗だくだった。
だが誰も笑っていない。
水田は機械の音を聞きながら思った。
自分たちは、何をしているのだろう。
建物を作るために覚えた技術。
人を助けるために身につけた仕事。
それを今、自分たち自身のために使っている。
皮肉だった。
佐伯が言った。
「水田」
「何だ?」
「怖いか?」
水田は少し考えた。
「……怖い」
意外な答えだった。
佐伯が笑う。
「俺もだ」
田村が言う。
「俺も」
柴崎も続く。
「そりゃ怖いだろ」
木村が最後に言った。
「馬鹿じゃねえんだから」
五人は一瞬だけ顔を見合わせた。
そして笑った。
ほんの少しだけ。
昔、現場で休憩していたときと同じ笑いだった。
しかし、その笑いはすぐに消えた。
目の前には金庫がある。
もう後戻りはできない。
発電機が唸る。
水が噴き出す。
外では花火が上がる。
その夜、街の誰も知らなかった。
自分たちが暮らす町の片隅で、
五人の職人が、自分たちの人生を賭けた最後の仕事に取りかかっていたことを。