第九話 朝の電話
翌朝。
まだ街が完全に目を覚ます前だった。
水田は、自宅の布団の中で眠っていた。
昨夜はほとんど眠れていない。
酒を飲んで気を紛らわせたつもりだったが、目を閉じると何度も昨夜の光景が蘇った。
暗い銀行。
割れたものは最小限に抑えたつもりだった。
金庫室。
そして最後に、自分が確認した給水管。
その光景が、頭から離れなかった。
――ブブブブ……。
枕元に置いていた携帯電話が震える。
「……ん?」
水田は目を開けた。
時計を見る。
朝の六時過ぎ。
「誰だよ……」
寝ぼけたまま携帯電話を手に取る。
画面を見た瞬間、眠気が吹き飛んだ。
銀行だった。
「……」
一瞬、電話を取るのを躊躇する。
だが、ここで出ない方が不自然だ。
「……はい、水田です」
『水田さん! 朝早くにすみません!』
電話の向こうから、銀行員の慌てた声が聞こえてきた。
「どうしました?」
『実は……建物の中で大規模な水漏れがありまして』
「水漏れ?」
『はい。それがかなり酷くて……天井も一部落ちてしまっているんです』
水田は目を閉じた。
予想していた。
だが、実際に聞くと胃の辺りが重くなる。
「どの辺りです?」
『金庫室の近くです』
「……」
『給水管の接合部から漏れているようなんですが、以前そちらで施工された部分だったと思いまして』
「そうですか」
『原因について、何か心当たりはありませんか?』
水田は一度だけ深呼吸した。
「現物を見ないと何とも言えませんね」
『やはり、そうですよね』
「今から伺いましょうか?」
『本当ですか? 助かります!』
「施工したところなら、こちらでも確認した方がいいでしょう」
『お願いします』
電話が切れる。
水田はしばらく天井を見つめた。
「……来たか」
銀行はまだ、何も知らない。
少なくとも電話の様子ではそうだった。
銀行員が問題にしているのは、水漏れ。
それだけだ。
しかし、昨夜のことを知っている水田には分かっている。
あの金庫室で起きていることは、ただの設備事故ではない。
「落ち着け」
自分に言い聞かせる。
「俺は施工業者だ」
それだけだ。
水田は布団から起き上がった。
顔を洗い、髭を整え、作業着に着替える。
いつもの仕事と変わらない。
少なくとも、外から見れば。
⸻
銀行へ向かう車の中。
水田は信号待ちのたびに時計を確認していた。
昨夜、自分たちがあの場所を出た時間。
その後に銀行員が異常に気づいた時間。
警察が呼ばれた時間。
そんなことばかりが頭に浮かぶ。
「……考えるな」
水田は独り言を呟いた。
今まで何度も現場に入ってきた。
工事の失敗も見た。
漏水事故も経験した。
天井を落としたことだってある。
だから、施工業者として振る舞えばいい。
そう考えればいい。
やがて銀行の建物が見えてきた。
しかし。
「……」
水田は思わずアクセルを緩めた。
銀行の前に、警察車両が停まっている。
一台ではない。
さらに入口付近には人が集まっている。
「……警察か」
心臓が跳ねた。
だが、顔には出さない。
車を停め、水田は深く息を吐いた。
「仕事だ」
そう呟いてから車を降りた。
⸻
「水田さん!」
入口にいた銀行員が駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
「朝早くから本当にすみません」
「いえ」
「昨日の夜から水が漏れていたらしくて……今朝、出勤してきたらこの状態で」
「そんなに酷いんですか?」
「はい」
銀行員は疲れたように頭を抱えた。
「それだけじゃなくて……」
「?」
「金庫室の方でも問題が起きてまして」
水田の足が一瞬止まった。
「金庫室で?」
「ええ」
「何があったんです?」
「まだ警察の方が調べているところです」
水田は頷いた。
「分かりました」
銀行員に案内され、建物の中へ入る。
その瞬間、水田は昨夜と同じ場所に立った。
だが、景色はまるで違う。
警察官。
鑑識。
銀行員。
慌ただしく動き回る人間。
床に残った大量の水。
そして崩れた天井。
「……酷いですね」
水田は施工業者らしい声を出した。
「でしょう?」
銀行員が困り果てた顔をする。
「昨日までは何ともなかったんですよ」
「それは怖いですね」
水田は配管を見る。
心臓が早くなる。
そこは昨夜、自分が触れた場所だった。
しかし、顔には出さない。
しゃがみ込み、配管を確認する。
「……接合部ですね」
「分かりますか?」
「このタイプなら、接合部の状態を見ればある程度は」
水田は慎重に答える。
「接着部分が剥がれているように見えます」
「つまり……」
「接着不良の可能性があります」
銀行員が顔をしかめる。
「施工不良ですか?」
「可能性はあります」
水田はすぐに断定しなかった。
「ただ、施工時の問題なのか、時間が経ってから何か起きたのかは、これだけじゃ判断できません」
そこへ警察官が近づいてきた。
「水田さんですか?」
「はい」
「この設備を施工した方?」
「私の担当した工事です」
「少しお話を伺っても?」
「もちろんです」
水田は即答した。
警察官が少し意外そうな顔をする。
「ありがとうございます」
「こちらも原因を確認したいので」
水田は自然に答えた。
協力的に。
むしろ、積極的なくらいに。
それが一番自然だった。
「工事はいつ頃でしたか?」
「数年前です」
「施工時の資料はありますか?」
「あります」
「竣工図なども?」
「水道関係ならあります」
水田は答える。
「ただ、建物全体の竣工図は私のところにはありません。私は水道工事担当なので、水道設備の竣工図しか持っていません」
「なるほど」
「必要なら会社に戻って工事写真も持ってきますよ」
警察官が顔を上げる。
「工事写真も?」
「ええ」
水田は頷く。
「配管の施工状況とか、接合部の写真が残っているはずです。原因を確認するなら、その方が分かりやすいでしょう」
「助かります」
「必要ならすぐ持ってきます」
警察官はメモを取った。
「ありがとうございます」
水田は内心で息を吐いた。
――これでいい。
疑われないためには、隠れるより出ていく方がいい。
自分から資料を出す。
質問にも答える。
施工業者として当然の態度を取る。
それだけだ。
しかし、そのとき。
「水田さん」
「はい?」
「この金庫室については、何か知っていますか?」
心臓が止まりそうになった。
「……金庫室?」
「ええ。昨日から何か異常があったとか」
「いえ」
水田は首を振る。
「私は水道工事の人間ですから、金庫設備については分かりません」
「そうですか」
「配管についてなら分かりますが、金庫や警備設備は別の業者です」
「なるほど」
警察官はそれ以上聞かなかった。
水田は配管へ視線を戻した。
「それより、この漏水の方が問題ですね」
「そうですね」
「天井まで落ちてますから、かなりの量が漏れたと思います」
「ええ」
銀行員がため息をつく。
「昨日の夜から朝まで、ずっとだったんでしょうか……」
水田は黙った。
「そうかもしれませんね」
それ以上は言わない。
⸻
しばらくして、水田は一度会社へ戻ることになった。
「工事写真、本当に持ってきてもらえますか?」
「もちろんです」
「助かります」
「原因が分かれば、こちらも修理の手配ができますから」
水田はそう言って頭を下げた。
銀行を出る。
扉が閉まった。
水田は歩きながら、ようやく小さく息を吐いた。
「……怖かった」
誰にも聞こえない声だった。
だが、まだ終わっていない。
銀行の中では警察が調査している。
金庫室には、自分たちが残した痕跡がある。
それでも今のところ、警察は水田を犯人として見ていない。
ただの施工業者。
漏水事故の原因を確認するために呼ばれた人間。
それだけだった。
水田は車に乗り込む。
エンジンをかける。
そしてバックミラーを見る。
銀行の建物が遠ざかっていく。
「……工事写真か」
水田は呟いた。
自分から持ってくると言った。
だから持っていく。
何もおかしくない。
むしろ持っていかなければ、その方が怪しい。
水田はアクセルを踏んだ。
だが、銀行ではその直後。
「……すみません!」
一人の銀行員が金庫室へ駆け込んできた。
「どうした?」
警察官が振り返る。
銀行員は青ざめていた。
「金庫の中を確認したんですが……」
「はい」
「……現金がありません」
その一言で、部屋の空気が変わった。
警察官が立ち上がる。
「もう一度確認してください」
「しました」
銀行員の声が震える。
「何度確認しても……ありません」
警察官は金庫を見る。
水浸しになった床。
崩れた天井。
そして、空になった金庫。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて警察官が低い声で言った。
「……これは設備事故じゃない」
その瞬間。
銀行で起きた出来事の意味が、初めて変わった。
ただの漏水事故ではない。
ただの建物の破損でもない。
誰かが、この銀行に侵入した。
そして――
金を持ち去った。
一方その頃。
水田は何も知らずに会社へ向かっていた。
これから工事写真を持って、もう一度あの銀行へ戻るために。
その胸の奥で、嫌な予感だけが膨らんでいた。