白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
# 第28話 伸ばした手
教えられた角を曲がると、廊下の雰囲気が少し変わった。先ほどまでいた場所より人の気配が少なく、壁際にはいくつか扉が並び、その脇に部屋を示す小さな札が掛けられている。
リヴィアは歩く速度を少し落とした。聞いた道順ではこのまま奥へ進めばよく、曲がる場所も合っている。それでも行き交う者がほとんどいないため、一度だけ後ろを振り返った。
誰もいない。
大きな教会なのだから、場所によって人の多さが違うことくらいはあるだろう。礼拝堂の近くや受付には人がいたが、こちらは管理のための部屋が集まっているらしく、用事のない者が歩き回る場所ではないのかもしれない。
そう考えて奥へ進んでいくと、ところどころに淡い光は残っているものの、礼拝堂の近くほど眩しくなく、目を細める必要も少し減っていた。
やがて聞いていた位置に一つの扉が見えた。脇の表示を確かめると、南東地区を担当する司教の部屋で間違いないようだった。
着いた。
リヴィアは扉の前で立ち止まった。受付ではこのまま司教室へ向かうよう言われていたが、周囲には案内してくれる者がいなかった。道順自体は分かっているし、分からなければ人へ尋ねるようにも言われている。
問題はその先だった。
そのまま扉を叩けばいいのだろうか。受付でここへ来るよう言われたのだから到着を知らせればよい気はするが、司教はアドリアンより上の立場の聖職者だったはずだ。勝手に入るのはもちろん駄目だろう。
扉を叩いて返事を待つ。たぶん、それでいい。
そう考えて手を上げかけた時、部屋の中から少女らしい声が聞こえ、リヴィアは手を止めた。扉越しで小さく、何を言っているのかまでは分からない。
先客がいるらしい。それなら終わるまで待った方がよさそうだ。リヴィアは扉から少し離れ、廊下の端に寄った。
受付では面談を受けられると聞いていたが、前の面談が少し長引くことくらいはあるだろう。アドリアンも別の確認を受けているので、急ぐ理由はなかった。
もう一度、室内から先ほどより大きな声がした。
「……やめて……」
リヴィアは扉へ目を向ける。
聞き間違いだろうか。
しばらく待つと、低い声が聞こえた。こちらは言葉まで聞き取れない。続いて、何かを拒むような少女の声がした。
「嫌です」
今度ははっきり聞こえ、リヴィアは眉を寄せた。
何の話をしているのだろう。面談なら意見が合わないこともあるかもしれないし、修道女になるための確認なら難しいことを聞かれる場合もあるのだろう。
それでも。
「帰らせてください」
声が震えていた。
リヴィアは扉へ一歩近づいた。さすがに普通の確認をしている声には聞こえない。誰かを呼んだ方がよいだろうか。
後ろを見ると、やはり廊下には誰もいない。ここへ来る途中ですれ違った者もいなかったが、少し戻れば誰かいるかもしれない。
そう考えた時、室内から短い悲鳴が聞こえた。
「助けて!」
考えるより先に、リヴィアは扉へ手を伸ばした。
「失礼します!」
声をかけながら扉を開けた瞬間、何が起きているのかを完全には理解できなかった。
部屋には二人いた。一人は司教服を着た男。もう一人はリヴィアより少し大きく見える少女で、壁際に立っている。服の肩口がずれ、片手で衣服を押さえたまま、青ざめた顔の目元には涙が浮かんでいた。男は少女と出口の間に立ち、道を塞いでいるように見えた。
リヴィアの足が止まった。少なくとも、普通の面談ではない。
「何をしている!」
男の声が飛んできた。
怒鳴られたことより、その向こうにいる少女の方が気になった。少女はこちらを見て驚いていたが、その表情が一瞬だけ変わった。
「たす……」
声になりきらない。リヴィアはさらに部屋へ踏み込んだ。
「大丈夫ですか?」
返事はなかった。代わりに、少女が壁際から少しだけこちらへ動いた。
「お前は誰だ。なぜここにいる」
リヴィアはようやく男へ視線を向けた。この人物が南東地区司教なのだろう。これから挨拶をするはずだった相手だ。
「リヴィアです。修道女の認定のために来ました。受付で、こちらでご挨拶と確認を受けるよう言われています」
司教はすぐには答えなかった。一度だけ扉へ視線を向けてから、リヴィアを見た。
「今はその時ではない。出ていきなさい」
リヴィアは少女を見た。出ていってよい状況には思えない。
「この方も面談ですか?」
「お前には関係ない」
「そうですか」
確かに、自分とは何の関係もない人だった。名前も、どこの教会から来たのかも知らない。
けれど、助けてと聞こえた。
「では、この方も一緒に部屋を出てもいいですか?」
「何を言っている」
司教の声がさらに低くなった。
「この者の面談はまだ終わっていない」
少女の肩が震えた。それだけで十分だった。リヴィアは少女へ近づいた。
「こちらへ来られますか?」
少女はさらにリヴィアの方へ動いた。
「勝手なことをするな!」
司教が一歩踏み出すと、リヴィアもすぐに動いて少女と司教の間へ入った。背後で少女が息を呑む気配がした。
司教は足を止めた。
「そこを退きなさい」
「嫌がっています」
「お前に何が分かる」
確かに、何が起きていたのか全部を見たわけではない。扉の外にいたのだから、入る前のことは知らない。
それでも、分かることはある。
「助けてと聞こえました」
司教の表情が固まった。
「聞き間違いだ」
背後で少女がわずかに動いた。リヴィアが少し振り返ると、少女はこちらを見て小さく頷いた。助けを求めたのは自分だと、それだけで伝わった。
けれど、その目にはまだ不安が残っている。目の前に立つ自分の方が小さいからだろうか。
リヴィアは大丈夫だと伝えるつもりで小さく笑い、司教へ向き直ると、少女をその視線から隠すように半歩だけ位置を変えた。
自分の身体では、少女を完全に隠すことはできない。それでも、間に立つことはできた。
「とにかく出ていきなさい」
司教は今度はリヴィアだけを見た。
「お前は何も見ていない。面談については改めて連絡させる。今日はもう帰れ」
帰る。
修道女の確認が今日できなくても、それ自体は構わない。言われたとおりに部屋を出れば、自分まで面倒なことに巻き込まれずに済むかもしれない。
少女の名前さえ知らず、部屋へ入る前に何が起きていたのかもすべてを見たわけではない。司教は明らかに怒っており、ここで逆らえば自分まで危険になる可能性もある。
前世の自分なら、そこで引いていたかもしれない。
それでも、助けてという声は聞いた。背後にはまだ不安そうな少女がいる。
ここで一人だけ帰るのは、今世で選んできた生き方とは違う気がした。
リヴィアは背後へ手を伸ばした。
少し間を置いて、少女の指がその手に触れた。リヴィアは小さく握り返してから司教を見た。
「分かりました」
その返事に司教の顔が少し緩んだ。
「この方と一緒に部屋を出て、神父さまに話してから帰ります」
その緩みが消えた。
「……何?」
「アドリアン神父さまも、この大教会に来ています」
受付で別れたばかりだ。どの部屋にいるかは分からないが、受付へ戻れば探してもらえるだろう。
「この方が助けを求めていたことと、私が部屋へ入った時に見たことを神父さまに話します」
自分には何が起きていたのか判断できない部分もある。なら、分かる人へ相談すればいい。先ほどアドリアンに言われたこととも少し似ていた。
「必要なら、受付の方にも――」
「待て」
司教の声が変わり、リヴィアは口を閉じた。怒っているようにも見えるが、それだけではない。司教はリヴィアを見たまま、しばらく黙っていた。
「アドリアン司祭が来ているのか」
「はい」
「お前の推薦者として?」
「そうです」
司教の口元がわずかに動いた。何かを考えているらしいが、リヴィアにはその意味が分からない。
「神父さまの確認が終われば、受付の近くで合流することになっています」
司教は答えなかった。リヴィアは少女の手を握ったまま、扉へ目を向けた。
「では、行きましょう」
「その必要はない」
リヴィアは足を止めた。
「でも、この方も一緒に――」
「ないと言っている」
司教の声からそれまでの苛立ちが消え、代わりに何かを決めたような硬さが混じった。自分はただアドリアンへ話すと言っただけなのに、なぜそこまで変わったのかリヴィアには分からない。
司教は一度扉へ目をやり、リヴィアの背後にいる少女へ視線を移した。
「その娘から離れなさい」
「え?」
「話を聞く場所を変える」
リヴィアは首を傾げた。
「神父さまのところへ行くのではないんですか?」
「その前に確認することがある」
司教が一歩近づいてきた。もう、ただ部屋から追い返そうとしているだけではなく、今度はリヴィアだけをこの場から別の場所へ連れていこうとしているようだった。
「こちらへ来なさい」
司教が手を伸ばした。