白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
伸ばされた手を見て、リヴィアは反射的に一歩下がった。背中が後ろにいた少女へ近づく。
「こちらへ来なさい」
先ほどより声が低く、話をするために呼んでいるようには聞こえなかった。
「どこへ行くのですか?」
「その前に確認することがあると言ったはずだ」
答えになっていないと思いながら背後を振り返ると、少女は片手で服を押さえたまま、青ざめた顔でこちらを見ていた。まず、この人をここから出した方がいい。
そう思った瞬間、腕をつかまれた。
「っ!」
身体を強く引かれて一歩前へ出る。
「離してください!」
腕を引き戻そうとしたが動かない。もう片方の手で外そうとしても、司教の手はリヴィアの腕を簡単に押さえ込んでいた。急に鼓動が速くなり、身体が強張る。
怖い。
前世でも、誰かに力ずくで押さえつけられた経験などない。危険や面倒になりそうなことには、そこまで深く関わる前に距離を置いてきた。
今のように、逃げようと思ってから逃げられない状況になったことはなかった。
「何をするんですか」
「やはりそうか。司教を陥れ、教会の秩序を乱そうとする異端者め」
異端者。
その言葉に背筋が冷えた。教会で育ち、修道女になるための学びを続けてきたのだから、それが軽い言葉ではないことくらい分かる。ただ叱られているのとは違う。まずい。
「違います。私は――」
反射的に否定したものの、司教の顔を見て続きが止まった。説明を聞く顔ではない。ここで強く言い返して落ち着くとも思えず、何を言っても司教に都合のよい意味へ受け取られるかもしれない。
力でも敵わないのなら、今は言い争うより、この状況から離れる方法を考えた方がいい。
「来なさい」
強く腕を引かれ、身体が前へよろめいた。踏ん張っても一瞬止まるだけで、つかまれた腕が痛む。
この身体では無理だ。頭では分かっていても、どうしようもないほど力が違う。
司教がそのまま扉へ向かう。振り返ると少女は動けずにおり、このまま自分が連れていかれれば、また一人で残される。
「逃げて! ここから逃げて、人を呼んでください!」
「黙れ!」
司教はリヴィアの腕をさらに引きながら少女へ振り返った。
「そこから動くな。私が戻るまで、この部屋を出るな。勝手なことをすれば、今後どうなるか分かっているな」
少女の顔がさらに青ざめる。リヴィアは扉のそばへ引きずられながら、もう一度少女を見た。
「神父さまを呼んで――」
そう言いながら廊下へ引き出され、扉の向こうへ少女の姿が遠ざかったところで気づいた。神父さまだけでは誰のことか分からない。
「アドリアン神父を――!」
最後まで届いたかは分からなかった。足がもつれて片足が床を擦る。
「離してください!」
もう一度腕を引き、空いている手で司教の腕を押してみたが外れない。一瞬、殴ればいいのかと考えたものの、まともに喧嘩をした経験もなく、今の自分では殴ったところで止められるとは思えなかった。
それどころか、異端者だと言い始めた相手に手を出せば、その言葉を裏付ける理由として使われるかもしれない。
「誰か! 誰かいませんか!」
返事も足音もない。司教室へ来る時から、この辺りにはほとんど人がいなかった。そのことが今になって急に恐ろしくなる。
「騒ぐな」
「なら離してください」
「黙って来い」
また腕を引かれた。抵抗しても止められず、転ばないよう足を動かすしかない。
自分はこのまま連れていかれるのだと認めるしかなかった。どこへ連れていかれるのかも分からない。
司教は少女のことをアドリアンへ話すと言った直後に、自分を異端者と呼んだ。偶然とは思えない。自分が話すのを止めようとしているのだろう。
そこまでは分かる。では、どうすればいい。
腕は外せず、周囲には人がいない。走って逃げることもできず、大声を出しても誰も来なかった。
リヴィアは呼吸を整えようとした。怖いからといって何も考えなくなればもっとまずい。前世でもこんな状況でどうすればいいのかを知っているわけではないが、考えることまでやめる必要はない。
まず場所を覚える。どちらへ曲がったか、どれくらい歩いたか、人がいた場所までどれくらい戻ればよいか。司教の手が緩んだ時に逃げられるか。
そうして一つずつ確かめていると廊下を曲がったが、まだ同じ管理区画の中らしく、長い距離を移動しているわけではなかった。
先ほどより少しだけ息が整ったところで、リヴィアは司教を見上げた。
「私はアドリアン神父と一緒にここへ来ています」
なるべく普通の声で言う。先ほどアドリアンの名前に反応したばかりなので、脅すような言い方をして下手に刺激したくはない。
「面談が終わったら戻ることになっています。戻らなければ、探しに来ると思います」
司教の歩みが一瞬止まりかけ、すぐにまた腕を引かれた。
やはりアドリアンを気にしている。それ以上は言わない方がよさそうだった。
少なくとも、自分が一人でここへ来たわけではないことは伝えた。アドリアンもリヴィアが司教室へ向かったことを知っているのだから、いつまでも戻らなければおかしいと思うはずだ。
それまで何とか時間を稼げないだろうかと考えているうちに、司教が一つの扉の前で足を止めた。
「入れ」
扉の向こうを見て、リヴィアも足を止めた。
部屋というより広いホールだった。入口から正面へ向かって空間が開け、左右から奥にかけて入口側だけを空けるように席が並んでいる。席は一段ずつ高くなり、奥へ行くほど中央を見下ろせる造りになっていた。
何かを大勢で見るための場所なのだろうか。だが今は誰も座っていない。
段状の席に囲まれた中央には、白い石で作られた大きな十字架が立っていた。表面には暗い色の金具が取り付けられ、左右へ伸びた部分に二つ、その下の縦に伸びた部分にもいくつかある。
金具の周囲だけは、長く何かが触れてきたように白い石の表面がわずかに擦れていた。離れた場所からでは、何のためのものなのかまでは分からない。
さらに十字架の奥、中央を正面から見下ろせる高い位置には、演説台のようなものが設けられている。礼拝に使う場所なのだろうかと考えかけたところで、上から強い光を感じて目を細めた。
魔力の光だった。
見上げると、壁面やホールの上部から天井へ向かって、いくつもの光が昇っている。教会の中で魔力を見ること自体は珍しくない。礼拝の後にも残っているし、治癒器を使った時にも見た。
だが、ここにある光は多すぎる。ホールそのものに魔力が集められているように見え、その目的も分からないまま胸の奥が冷たくなった。
「入れ」
「ここは何ですか?」
「入りなさい」
「何をする場所ですか」
「入れ!」
腕を強く引かれ、リヴィアは足を踏ん張った。
「待ってください」
今度ははっきり抵抗する。何をする場所か分からないのに、中央には白い石の十字架があり、用途の分からない金具まで取り付けられている。
嫌な感じしかしない。
「私は逃げません。話ならここで――」
司教がさらに力を込め、腕に痛みが走った。両足で踏ん張っても身体は前へ引かれ、中央へ近づくにつれて十字架に付いた金具の形が見えてくる。
左右にあるものは人の手首を留めるのにちょうどよい位置にあり、その下にも足を押さえるためらしい器具があった。
これは、人をここへ固定するためのものだ。
「嫌です。これは何ですか」
「動くな」
「何をするのか説明してください」
答えの代わりに腕を十字架へ押しつけられた。
「やめてください!」
身体を捻り、空いている手で押し返しながら足を引いた。それでも片腕を押さえられただけで身体の向きを変えることさえ難しく、手首に器具がかかる。
「待って!」
反対の腕を引いたが、今度はそちらをつかまれ、抵抗している間にもう片方の手首まで固定された。怖い。本当に逃げられないという実感が急に強くなる。
「離してください!」
足を動かしても今度はそこを押さえられ、蹴ろうとしてもまともな形にならない。やがて両足まで固定され、腕を引いても身体を捻っても石の十字架からほとんど離れられなくなった。
完全に動けない。
呼吸が浅くなるのを感じながら、リヴィアは司教を見た。
「何をするんですか」
司教は固定を確かめて一歩離れた。
「ここで裁きを受けてもらう」
「裁き?」
「人が生きる中で犯してきた罪を、女神の御前で裁く」
意味を理解するまで少し時間がかかった。
罪。自分が。
リヴィアは前世と今世の記憶を探った。
人に迷惑をかけたことが一度もないなどとは言えない。知らないうちに誰かを困らせたこともあるだろう。前世では面倒事から距離を置いたこともあるし、もっと助けられたのに手を出さなかったことも、おそらくある。
けれど、ここへ縛りつけられて裁かれなければならないようなことには心当たりがない。誰かを故意に傷つけたこと、人の物を奪ったこと、人を騙して害を与えたこと、まして人の命を奪ったこともない。
「……私には、人に迷惑をかけたことまで何もないとは言えません」
司教の眉が動いた。
「でも、こうして裁かれなければならないようなことをした覚えはありません」
「異端者が自らの罪を認めると思うか」
「私は異端者ではありません。今日も、修道女として認めていただくために来ただけです」
「黙れ」
司教は十字架から離れ、奥の高い位置にある台へ向かった。リヴィアには何かを話すための演説台にしか見えず、そこで何をしているのかも分からない。
ただ、壁面やホールの上部から天井へ昇っていた魔力の光が先ほどより強くなっていた。
「司教さま、待ってください」
固定具を引いてみるが外れない。
「これは何をするものなんですか」
「裁きを受ければ分かる」
司教が台の向こうで何かをした直後、頭上の光が急激に強くなった。
今まで見たどの魔法よりも強い。壁面やホールの上部から昇っていた光が天井へ集まっていくように見える。
逃げたい。
身体がそう訴えているのに手も足も動かず、十字架に固定されたままでは身を縮めることさえできない。
「待って――」
言い終わる前に、上からさらに強い光を感じた。反射的に目を閉じる。
次の瞬間、激しい音とともに空気そのものが震えたような衝撃が身体を打った。目を閉じているのに白さが視界を埋め、耳の奥が痛む。
何も考えられない。ただ、怖い。
どれほど続いたのか分からない。やがて瞼の向こうの明るさが弱くなり、リヴィアは恐る恐る目を開けた。
視界は白く霞み、ホールの形がすぐには戻ってこない。耳には高い音だけが残っているような感覚があり、周囲の音もひどく遠く感じられた。
それでも、先ほどの光のあとに新しく痛むところはない。腕も足も固定されたままで、服にも変化はなかった。身体のどこにも、あれほどの光に見合う異常がない。
何だったのだろうと思いながら何度か瞬きをしても、周囲にはまだ強い魔力の光が漂っている。天井へ集まっていた時よりホール全体へ散らばり、頭上にも残っていて、どこを見ても眩しかった。
その光の向こうでは、正面の高い台にいる司教が動かずにこちらを見ていた。やがて大きく口を動かしたが、声らしい音がかすかに届くだけで言葉としては聞き取れない。
「……?」
リヴィアが眉を寄せると、司教は台から身を乗り出し、また何かを叫んだようだった。片手をリヴィアへ向け、次に自分の周囲を指しながら激しく問いかけるような仕草をしている。
怒りだけではない。ひどく驚き、動揺しているように見えた。
答えようにも何を言われているのか分からず、こちらが話しても自分自身の声すらよく聞こえない。固定されているため近づくこともできなかった。
先ほどの光が何だったのかも、なぜ司教がこれほど取り乱しているのかも分からない。それでも、このままではまずい。少しは落ち着いてもらえないだろうか。
手も身体も固定され、言葉も通じない。リヴィアは司教の目を見て、小さく笑った。
アドリアンが自分を心配している時、安心してもらうつもりで笑うことがある。今もそれと同じように反射的に浮かべた笑みだった。
ところが司教の顔は固まり、先ほどまでより顔色が悪くなったように見えた。そのまま一歩後ろへ下がる。
落ち着いてもらうつもりだったのに、動揺はさらに強くなっている。笑うのをやめた方がいいのか、それとも別のことをした方がいいのか。
何を言っているのかは聞こえず、手も足も動かせない。次にどうすればよいのか分からないまま、リヴィアは笑みを浮かべて固まった。
司教は何かを叫びながらこちらを指し、また台の周囲へ目を向けている。落ち着くどころかますます取り乱し、何かを恐れているようにさえ見えた。
なぜなのか分からないまま見ていると、やがて司教は台へ向き直り、先ほどと同じ場所へ手を伸ばした。
また何かするつもりだ。
壁面やホールの上部から天井へ向かう光が再び動き、今度は残っていた光まで吸い上げるように集まり始める。
先ほどより強い。
リヴィアは固定具を強く引いたが外れず、もう一度引いても手首が痛むだけだった。司教はこちらを振り返らない。
何をしようとしているのかは分からない。それでも、先ほどより危険なことをしようとしている。
それだけは、はっきり分かった。