白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
扉が閉じたあとも、エステル・リュ・アズレインは動けなかった。
司教室にはもう自分しかいない。少し前まで目の前にいた司教も、自分と司教の間へ入ってくれた白い髪の少女もいなくなり、乱れた椅子と床へ落ちた書類だけが残っている。
司教が出ていく前に告げた言葉が、まだ耳に残っていた。
「私が戻るまで、この部屋を出るな。勝手なことをすれば、今後どうなるか分かっているな」
言われなくても分かっている。だからこそ動けなかった。
エステルは震える指先で自分の手を握った。帰らせてほしいと言った。嫌だとも、助けてとも言った。それでも司教は止まらなかった。
あの少女が入ってこなければ、どうなっていたのか。そこから先を考えそうになって目を閉じる。
まず服を整えなければと思い、襟元へ手を伸ばして乱れていた布とずれた袖を戻した。いつもなら何でもないことなのに、指がうまく動かない。
逃げてください。人を呼んでください。
少女はそう言い、司教に腕をつかまれて廊下へ連れ出されながらもエステルの方を見ていた。最後には「アドリアン神父を」と叫んでいた。
その声は聞こえていた。それなのに、自分はまだここにいる。
エステルは扉を見た。立ってあそこまで歩き、取っ手を回して廊下へ出ればいい。それだけなのに足が動かなかった。
司教の言った「今後」が胸の中へ重く残っている。これから修道女になれるかどうか。今いる教会へ戻れるかどうか。これまで学んできたことを続けられるかどうか。それらすべてが、あの一言の向こうにあるように思えた。
その感覚には覚えがあった。昔もそうだった。
幼い頃のエステルは、自分が家族に期待されていることを疑っていなかった。髪の中に一本だけ混じるひどく淡い色。光の当たり方によっては銀にも見えるその一房を、大人たちは何度も確かめた。
「もしかすると」
そんな言葉を聞いたこともあるが、何がそうなのか幼いエステルにはよく分かっていなかった。ただ、自分へ向けられる顔が明るいことが嬉しかった。
文字を覚えれば褒められ、礼儀を覚えれば次のことを教えてもらえた。魔法の練習を始めれば、大人たちが結果を尋ねる。新しく覚えたことを話せば聞いてもらえた。
姉たちと同じように学び、自分にもできることが増えていく。その頃のエステルにとって家は安心できる場所で、自分がそこにいてよいのかなど考えたことすらなかった。
強く握っていた手のひらの痛みに気づき、エステルは我に返った。指先は今も震えている。目の前にあるのは実家の部屋ではなく、南東大教会の司教室だった。
早く人を呼ばなければならない。それでも身体は、司教の命令を覚えている。
勝手なことをすれば、今後どうなるか分かっているな。
「……分かっています」
小さく声が漏れた。分かっているから怖い。
あの頃も、ある日突然すべてが変わったわけではなかった。銀の力はいつまで経っても現れず、水の魔法も家が期待していたほど強くはなかった。
最初のうちは、まだこれからだと言われていた気がする。もう少し大きくなれば。もう少し学べば。もう少し練習すれば。そうしているうちに、その言葉は少しずつ減っていった。
誰かにひどく叱られたわけではない。食事を与えられなくなったわけでも、部屋を取り上げられたわけでもなかった。
ただ、自分へ尋ねられることが減った。今日は何を習ったのか。どれくらい魔法が使えるようになったのか。次は何を学ぶのか。以前なら向けられていた問いがいつの間にか姉たちへ向き、家族の中で交わされる将来の話にも自分の名前が出ることは少なくなった。
子供だったエステルにも、その違いは分かった。
期待されなくなった。
そう理解してから、以前のように何かを話すことが怖くなった。うまくできなかったことを知られれば、もっと失望される気がした。できたことがあっても、それが期待されたものではないなら意味がないように思えた。
そして十歳になる頃、「銀を思わせる髪を持つ娘なのだから、女神へ仕える道がふさわしい」と言われ、教会へ預けられることになった。
その言葉自体はきれいだった。家から教会へは寄進もあり、誰もエステルが邪魔だから出ていけとは言わなかった。それでも、以前と同じ場所にはいられなくなった。
エステルはもう一度、自分の手を見た。
教会へ来たばかりの頃は家に決められた道だったが、今は違う。教会で文字を教える人も、病人の世話をする人も見た。食事を作り、物を整え、子供の話を聞き、困っている人のために動く修道女たちも見てきた。
自分もそうなりたいと思った。
十二、十三歳頃に将来を尋ねられた時、修道女を目指したいと答えたのは自分だった。十四歳頃からは学ぶことが増え、見学をしたり簡単な仕事を任せてもらったりした。うまくできなかったこともあったが、そのたびに教えてもらい、やり直してきた。
そうしてようやく今日、司教の評価を受け、自分で選んだ道を進むために南東大教会まで来た。だからこそ、それを失うのが怖かった。
エステルは唇を噛んだ。ここを出れば司教へ逆らったことになる。評価を下げられるかもしれない。修道女にふさわしくないと言われるかもしれない。今の教会へまで何か言われ、また期待に応えられなかった時のように居場所が変わるかもしれない。
その時、足元にごくわずかな揺れを感じた。
「……?」
顔を上げると、少し遅れて壁の向こうから低い音が届いた。大きくはなく、厚い壁をいくつも挟んだ向こうで重い何かが起きたようなくぐもった音で、すぐに静かになった。
何の音なのかは分からない。この大教会には知らない施設も多く、何かの作業かもしれないし、物が倒れただけかもしれない。
けれど、司教は白い髪の少女をその方角へ連れていった。異端者だと言って腕をつかみ、嫌がる少女を無理に連れていった。
そして少女は、自分へ逃げろと言った。
「……リヴィアさん」
確か、そう名乗っていた。
これから挨拶をするはずだった相手。何も知らない自分のために司教との間へ入り、一緒に部屋を出ようとしてくれた人。その人が今、自分を助けたせいで何かされているのかもしれない。
エステルは立ち上がった。膝は震えたままだった。
司教に逆らうのは今でも怖い。これからどうなるのかも分からない。それでも、このままここにいてリヴィアに何かあったら、自分はきっと、司教の言うことを聞いたから仕方がなかったとは思えない。
あの少女は自分のことなど知らなかった。アズレイン家の娘だから助けたのではない。修道女になれるかもしれないからでも、自分に何かを期待していたからでもない。
助けを求めた声を聞いた。
ただ、それだけで部屋へ入ってきた。
エステルは扉を見た。
「……ごめんなさい」
司教へ言ったのか、教会の人たちへ言ったのか、自分でも分からなかった。
それでも扉へ向かって一歩進み、さらにもう一歩進んだ。まだ震えている指で取っ手を回して扉を開く。
廊下には誰もいなかった。
エステルは部屋の外へ出て、そのまま歩き始めた。背後で扉が静かに閉じたが、振り返らない。
怖さがなくなったわけではない。これからどうなるのかも分からない。それでも、司教に言われた通り部屋の中で待つことはもうできなかった。
「アドリアン神父……」
名前を口にしながら廊下を進む。どこにいるのかも、顔も知らない。リヴィアが最後に呼んだ相手だということしか分からなかった。
まず人のいる場所まで行き、誰かを見つけて尋ねる。そう考えて急いだものの、足がうまく動かず、走ろうとしても身体はまだ強張っていた。
いくつか角を曲がったところで、向こうから一人の司祭が速い足取りで来るのが見えた。この人を逃せば次に誰と会えるか分からない。
「あの……!」
呼びかけると、司祭が足を止めた。
「どうしました」
エステルを見た瞬間、その表情が引き締まった。服は整えたつもりだったが、顔色までは隠せていないのだろう。
「あの、アドリアン神父さまを、探していて……」
「私です」
「え……」
「アドリアンです」
探していた相手だった。安心した途端、それまで頭の中で考えていた言葉がばらばらになる。
「白い髪の……リヴィアさん、と。そう名乗っていた方が……」
「リヴィアが?」
アドリアンの声が変わった。
「私を、助けてくださって……司教さまが、私に……」
その先がうまく言えず、一度息を吸う。
「司教さまの部屋で、帰らせていただけなくて……リヴィアさんが入ってきてくださったんです。一緒に部屋を出ようとしてくれました。でも司教さまがリヴィアさんを異端者だと言って、連れていって……」
アドリアンは口を挟まずに聞いていた。
「どちらへ?」
エステルは来た方角を指した。
「あちらです。それから……」
「それから?」
「少し、床が揺れました。向こうから低い音がして……大きな音ではなかったんです。でも、何かあったような音で……リヴィアさんが連れていかれた方から……」
伝えるべきことなのか自分でも分からなかったが、アドリアンの表情が変わった。
「行きます」
それだけ言ってすぐに歩き出し、数歩でほとんど走るような速さになる。エステルもあとを追った。
アドリアンは迷わず廊下を曲がり、さらに管理区画の奥へ進んでいく。エステルにはどこへ向かっているのか分からないが、先ほど感じた音の方向へ近づいている気がした。
やがて一つの扉へたどり着き、アドリアンが開いた。
その向こうには広い空間があった。左右から奥へ向かって段になった席が中央を囲み、正面では床からせり上がった石の隔壁が通路を塞いでいる。その向こうには白い石で作られた大きな十字架の上部だけが見えた。
何かがその十字架の前にあるようだったが、入口からでは隔壁と十字架の背面が重なってよく見えない。さらに奥の高い場所に立っているのは司教だった。
「司教!」
アドリアンの声に司教がこちらを向く。
アドリアンは中央へ向かわず、足も止めないまますぐ横へ折れ、段状の席に沿って奥へ続く通路へ入った。エステルも急いであとを追う。
「待ってください……!」
息が苦しくなっても止まりたくなかった。
「やめなさい!」
前を行くアドリアンが司教へ叫んだが、返事は聞こえない。
エステルは通路を進みながら中央を見た。横へ回り込むにつれて、正面からは石の隔壁と十字架の背面に隠れていたものが少しずつ見えてくる。
最初に白い髪が見えた。足が止まりかけたが、もう少し進むと横顔まで見える。
リヴィアだった。
その両腕は左右へ伸ばされ、手首の位置には暗い色の金具があった。足も同じように留められ、十字架へ固定されている。
「リヴィアさん!」
叫んでも反応がない。
「リヴィアさん!」
顔は上がっており、意識を失っているようには見えない。それでもこちらを見ない。聞こえていないのだろうか。
さらに進もうとした時、ホールの明るさが変わった。中央の上方で、白に近い青白い光が急激に強まる。
「……え」
何が起きるのか分からなかったが、危険なものだということだけは感じた。
アドリアンが何かを叫ぶ。その言葉を聞き取るより先に、白銀にも見える眩い光が上方から走り、雷のような幾筋もの青白い光が十字架へ落ちた。
エステルは反射的に目を閉じた。
次の瞬間、激しい音が空間全体を揺らし、身体が縮こまる。耳の奥が痛み、目を閉じているのに白い。何も見えず、何も考えられなかった。
ただ、その直前に見た光景だけが頭から離れない。
リヴィアの姿と、その周囲へ広がった白銀にも見える青白い雷光。
「……リヴィア、さん……」
自分の声さえ聞こえなかった。
あの人は自分を助けただけだった。自分のために司教へ逆らい、それで連れていかれた。
それなのに、もし今ので。
エステルは震える手を胸元へ寄せた。自分を助けたせいで、リヴィアを死なせてしまったのではないか。
そう考えた途端、目を開けることができなくなった。
もし、光が消えたあとに。
あの白い髪の少女が、もう――