白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
音が消えたのかどうかさえ、リヴィアには分からなかった。耳の奥には高い音だけが残り、周囲で何かが聞こえている気はするのに、それが声なのか物音なのかも判別できない。
目を閉じていても明るかった。先ほどよりさらに強かった光が、瞼の向こうまで白く染めている。
どれくらいそうしていたのか分からない。リヴィアは恐る恐る目を開け、何度か瞬きをした。視界はまだ白く霞んでいる。
段になった席や遠くの壁、ホールのあちこちを漂う魔力の光が少しずつ見えてきた。最初の光のあとより漂っている光は多く見えたが、先ほどまで頭上へ集まっていた強い光は薄れ始めている。
リヴィアは目を細め、それから自分の身体へ意識を向けた。手を動かそうとしても固定具に止められ、ほとんど動かない。何度も外そうと引いたせいか手首は痛み、足にも同じような痛みが残っていた。
けれど、それ以外は。
「……?」
痛くない。
一度目の後と同じだった。身体のどこかが焼けているわけでも、強く打たれたような痛みがあるわけでもなく、服にも目につく変化はない。息もでき、指先にも感覚がある。
何が起きたのだろう。
司教はこれを、人が犯してきた罪を女神の前で裁くものだと説明していた。その後で一度目の光が来て、今度は先ほどよりさらに強い光を受けた。
音も光も今まで経験したことがないほど大きく、怖かった。それなのに、終わってみれば身体はほとんど変わっていない。
裁きというものはこういうものなのだろうか。それとも何か、自分には分からないところで結果が出ているのか。
考えても分からず、耳もまだよく聞こえない。
リヴィアが霞んだ視界でもう一度周囲を見ると、段状の席の側で人影が動き、こちらへ近づいていた。一瞬身体が強張ったが、司教ではない。服の形と歩き方には見覚えがあった。
「……神父さま」
声に出したはずなのに、自分でもほとんど聞こえない。近づいてきたのはアドリアンだった。
どうしてここにいるのか。そんな疑問より先に、身体から力が抜けた。
来てくれた。
司教に腕をつかまれてから、ずっと一人でどうにかしなければならないと思っていた。声を出しても誰も来ず、力ではかなわず、知らない場所へ連れてこられて動けなくされ、何をされるのかも分からなかった。
それでも、戻らなければアドリアンが探してくれるかもしれないとは思っていた。本当に来てくれたのだと分かった途端、胸の奥に張りつめていたものがほどけ、気づけば口元もわずかに緩んでいた。
何かを伝えようとしたわけではない。ただ、見慣れた顔を見つけて安心した。それだけだった。
アドリアンが十字架の前まで来て、何かを言う。
「――ヴィア。聞こえますか」
ところどころ欠けていたが、自分の名前と最後の言葉は分かった。
「少し……聞こえにくいです」
答えている間にも、アドリアンは右手首の固定具を確かめて外し始めた。右腕が自由になったものの、長く同じ位置へ留められていたせいか、すぐにはうまく力が入らない。
「痛むところは?」
そう尋ねながら、もう左手首の固定具へ手を移している。
「手首は少し。でも、それ以外は……大丈夫だと思います」
アドリアンは短く頷き、手を止めることなく左手の固定も外した。
その瞬間、上半身が前へ崩れた。反射的に力を入れようとしても足はまだ十字架へ固定され、小柄な身体は足裏が床へ届かない高さに留められている。
落ちると思うより早くアドリアンの腕が身体を受け止めた。
「神父さま」
アドリアンはリヴィアを抱えるように支え直し、そのまま片腕で身体を支えながら足元の固定具へ手を伸ばした。
「……ありえない」
遠くから声が届いた。耳が少しずつ戻ってきたらしく、視界を覆っていた白さも先ほどより薄れている。
顔を上げてアドリアンの肩越しに見ると、さらに向こうの高い位置に司教が立っていた。先ほどまでと同じ場所だったが、様子が違う。動かずにこちらを見ており、正確には目の前にいるアドリアンではなく、その向こうにいるリヴィアを見ていた。
「……?」
リヴィアが少し首を傾けると、その動きを見た司教が一歩下がった。顔色が悪く、一度目の後にもひどく動揺していたが、今はそれ以上に見える。
「なぜだ……」
何のことなのか、リヴィアには分からない。
「司教」
アドリアンが呼び、その間にも片方の足を留めていた固定具を外していく。
「そこから動かないでください」
低い声に司教の目が一瞬だけアドリアンへ向いたものの、すぐにリヴィアへ戻った。
「お前は……」
上がった指がリヴィアへ向けられる。
「はい?」
思わず返事をすると、司教の肩が大きく揺れた。
「なぜ……」
また一歩下がる。アドリアンは司教へ近づかず、リヴィアを支えたまま最後に残った固定具へ手をかけていた。
「司教。聞こえていますか」
「お前は……知って……」
司教はアドリアンへ答えず、リヴィアだけを見ている。
「何をですか?」
聞き返すと、司教の言葉が止まった。
本当に分からなかった。裁きのことだろうか。それとも、何か自分だけが知っていることがあると思われているのだろうか。
最後の固定具が外れ、アドリアンがリヴィアを抱き留めたままゆっくり身体を下ろす。ようやく足裏が床へ触れたものの、最初はうまく力が入らなかった。
「立てますか?」
「はい。少し……」
支えられたままもう一度両足へ力を入れると、今度は立てた。足首には固定されていたところの痛みが残っているが、歩けないほどではなさそうだった。
十字架から離れられた。
そう実感した途端、少しだけ呼吸が楽になった。
「見るな」
司教の声にリヴィアは顔を上げた。
「……はい?」
「私を見るな」
自分からこちらを見続けているのに、そう言われた。見ない方がよいということなのだろうか。
何をすればよいのか分からずアドリアンへ視線を戻すと、司教が声を上げた。
「違う!」
驚いてまた見てしまう。何が違ったのだろう。
「司教!」
今度はアドリアンの声も強くなったが、それでも司教はほとんどアドリアンを見なかった。
「笑うな」
リヴィアは止まった。言われて初めて、自分の口元がまだ少し緩んでいたことに気づく。アドリアンを見つけた時の安堵が残っていたらしい。
「あ……すみません」
口元を引き締めたものの、なぜ謝っているのか自分でもよく分からない。
司教は答えず、さらに一歩下がった。足元が乱れ、背後の台へ片手をついてどうにか身体を支えている。顔色も悪く、先ほどまで怒鳴っていた時とは明らかに様子が違った。
自分をここへ連れてきて異端者だと言い、十字架へ固定したのも司教である。今は自分の方がアドリアンに助けてもらったばかりで、司教のことを気にしている場合ではない。
それでも、今にもその場へ崩れそうな姿を見ると、考えるより先に声が出た。
「司教さま……大丈夫ですか?」
半歩だけそちらへ踏み出す。
「来るな」
鋭い声に足が止まった。
「え?」
「来るな……見るな」
助けに行こうとしたわけではなく、ただ倒れそうに見えたから身体が動いただけだった。
「行くつもりは……」
「黙れ!」
声を重ねられ、リヴィアは口を閉じた。
どうやら何をしても司教には悪い意味に受け取られてしまうらしい。一度目の光のあとも、取り乱す司教を少しでも落ち着かせようと普段アドリアンを安心させる時と同じように笑ったところ、かえって動揺を強めてしまった。今も倒れそうに見えたから声をかけただけなのに、さらに怯えさせている。
理由が分からない。
「リヴィア」
アドリアンに呼ばれた。
「はい」
支えていた手に促されるまま一歩戻ると、アドリアンは位置を変え、リヴィアを自分の後ろ側へ置いた。
「ここにいてください」
「はい」
言われた通りその場に立ったところで、少し離れた段状席側の通路に司教室にいた少女の姿が見えた。
どうしてここにいるのだろう。逃げて人を呼んでほしいとは言ったが、ここまで戻ってきてほしいとは言っていない。
目の前のアドリアンを見て、もしかするとあの少女が神父さまを呼んでくれたのだろうかと思う。それだけでなく、自分もここまで来たらしい。
司教室に残されたままではなかったことに、少しほっとした。
少女はこちらを見たまま動いていない。
リヴィアの前にはアドリアンの背中があり、その向こうに司教がいる。先ほどまで自分があの少女と司教の間へ立っていたのとは逆に、今はアドリアンが自分と司教の間に立っていた。
その背中を見ていると、ようやく本当に助かったのだという実感が少しずつ湧いてくる。
アドリアンはリヴィアを背後へ置いたまま、正面から司教へ向き直った。司教はそれでもアドリアンではなく、その向こうにいるリヴィアを見ようとしている。
どうしてあの人は、あれほど自分を怖がっているのだろう。
リヴィアには、やはり分からなかった。