白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
案内された部屋は、以前に事情を聞かれた部屋より小さかった。長机も何人もの聖職者が並ぶ席もなく、窓際に置かれた机の向こうに水の大司教が座っている。
向かいの椅子へ腰を下ろしたエステルは、膝の上で重ねた手へ視線を落とした。呼ばれた理由は来る前に聞いている。南東地区司教の件について改めて本人へ説明するためで、何かを問いただす場ではないとも言われていた。
それでも教会本部へ来ると身体は勝手に強張った。司教室で帰らせてほしいと頼み、嫌だと拒み、最後に助けを求めた時のことと、その後自分の前へ立った白い髪の少女の姿が蘇る。
「エステル・リュ・アズレイン」
「はい」
「最初にあなた自身のことからお伝えします。今回、南東地区司教の求めを拒んだこと。帰る意思を示したこと。助けを求めたこと。そして、その後に確認された事実を証言したこと。それらを理由としてあなたが教会内で不利益を受けることはありません」
エステルはすぐには返事ができなかった。言葉の意味は分かる。けれど、胸の中へ落ちてくるまで少し時間がかかった。
「修道女を目指していることについても同じです。今回の件を理由に評価を下げたり、進路を閉ざしたりすることはありません」
「……本当、ですか」
「ええ。ただし将来の認定そのものを今ここで保証するという意味ではありません」
エステルはわずかに息を止めたが、水の大司教は続けた。
「今後もあなた自身の意思と適性、必要な学習や通常の手続に従って進むことになります。今回の事件でそれまで積み重ねてきたものを失わせないということです」
事件があったから特別に認められるわけではない。ただ、拒んだことや助けを求めたことを理由に、それまで積み重ねてきたものを取り上げられない。それだけで胸の奥に固まっていたものが少し緩んだ。
「……ありがとうございます」
エステルは頭を下げた。
「もう一つ。事件の内容とあなたが証言した内容については処理に必要な者以外へ不用意に広げません」
エステルは顔を上げた。
「私が誰にも言わないようにということでしょうか」
「違います。あなたの沈黙と引き換えに、何かを保証する話ではありません。被害を受けた者の事情と秘匿性の高い情報を必要以上に広げないための扱いです」
黙っていれば修道女にしてもらえる、そういう話ではない。そのことが分かると、エステルはかえって安心した。
「必要であれば、しばらく別の教会で過ごすこともできます。南東大教会での個別面談を避けることもできますし、今後についての希望があれば聞きます」
そこまで言われ、エステルは少し迷った。事件が起きる前なら、修道女として認められるために不利にならないことを一番に考えていたかもしれない。けれど今はそれだけではなかった。
「……一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
エステルは膝の上の手を少し強く握った。
「家には……」
実家のアズレイン家。自分を教会へ送り出した場所のことを思うと、そこで一度言葉が止まった。今回のことを知れば何を言われるだろう。心配されるのか、面倒事を起こしたと思われるのか、教会に残ることをやめるよう言われるのか。どれも分からない。ただ一つだけはっきりしていた。
「……知らせないで、いただけますか」
「……今回の事件についてご家族へということですか」
「はい」
「理由を聞いても?」
「……今は、知られたくありません」
それ以上うまく説明できなかった。家族を嫌っているわけではない。ただ、教会へ来てから積み重ねてきたものを事件とは別のところから動かされたくなかった。
「分かりました。少なくとも教会側からこの件についてあなたのご家族へ知らせることはしません」
「……ありがとうございます」
「ほかには?」
問われ、エステルはしばらく黙った。別の教会へ移ること、今後の面談、修道女としての進路。考えるべきことはいくつもあるはずだったが、頭に浮かんだのは別のことだった。
「……あの子は」
水の大司教の視線がわずかに変わった。
「リヴィア、ですか」
「はい」
名前を聞いた途端、司教室で自分と司教の間へ立ち、帰るよう言われても動かず、その後腕をつかまれて連れていかれた姿と、後から見た光が蘇った。
「あの子に何があったんですか」
「どこまで知っていますか」
「アドリアン神父が、最初の発動があったのかとリヴィアさんに聞いていました」
あの時、リヴィアは最初の光が来たと答えていた。だから何かが一度起きていたことは知っている。けれど、それが何だったのかまでは知らない。
「司教室にいた時、低い音が聞こえました。少し、床か壁が震えたような……」
「それが一回目の天罰です」
「……天罰」
「ええ。天罰は、重大な罪人や異端者と判断された者を裁くために使われる、秘匿性の高い術式です。教会では人が積み重ねた罪に応じて作用するものと解釈されており、結果によっては命に関わります」
「命に……」
エステルの声が掠れた。司教室を出た後、廊下を走ってアドリアンを見つけ、戻った時にはリヴィアが十字架へ固定されていた。そして、目を開けていられないほどの光が走った。
「では私が見たのは……」
「二回目です」
エステルは言葉を失った。
一回目。
司教室で聞いた低い音と振動。
二回目。
自分が直接見た、目を開けていられないほどの光。
「二回目の方が強かったんですか」
「一回目より強い条件で起動されています」
エステルの指先が冷たくなった。あの光の中にリヴィアはいた。十字架へ固定され、逃げることもできないまま。
「それなのに……あの時、リヴィアさんは歩いていました」
「はい。固定具による痛みなどはありましたが、天罰そのものによる明確な外傷は確認されていません」
「どうして、ですか」
「分かっていません。一回目も二回目も、何が理由だったのかは断定できません。女神の加護だった、本人に特別な力があった、そうしたことを教会が確認したわけでもありません」
命に関わる裁きを二度受け、二回目は一回目より強かった。それでも事件直後に見たリヴィアは自分の足で歩いていた。その理由を教会も断定できていない。
しかも、リヴィアがあの場所へ連れていかれたのは、自分を助けるために司教へ逆らったからだった。自分の代わりに受けたと言うのは違う。それでも、そう思わずにはいられなかった。
「……会えますか」
「リヴィアに?」
「はい」
水の大司教は少し考えた。
「本人の状態と都合を確認したうえでなら問題ありません」
「お願いします」
エステルは頭を下げた。自分への支援についてはまだ何も決められなかった。それでも今一番知りたかったことは聞けた。
今度は、きちんとリヴィアと話したかった。
*
マルタのいる地域教会へ戻った時、エステルは入口の前で少しだけ足を止めた。
ここへ来たのは事件直後以来だった。あの日もリヴィアと一緒にここへ連れてこられ、生きている姿を確かに見ている。だが何が起きたのか整理できず、まともに言葉を交わした記憶はほとんどない。命に関わる天罰を二度受けたと知った今では、あの時目の前にいた少女と聞かされた事実がうまく結びつかなかった。
今知ったことを抱えたまま、改めて顔を合わせるのは少し怖かった。
中へ入るとマルタがこちらへ気づいた。
「エステルさん」
「こんにちは」
「話は聞いています。こちらへ」
奥へ案内され、小さな部屋の前でマルタが声をかけると、中から「はい」と返事があった。その声だけでエステルの足が一瞬止まった。
扉が開き、白い髪と小さな身体が見えた瞬間、胸が詰まった。
「エステルさん」
「もう大丈夫ですか?」
先に自分のことを聞かれ、エステルは返事が遅れた。天罰の意味を知ったばかりの自分を前にしても、リヴィアは自分の方を心配している。
「……はい」
それでも、ずっと引っかかっていたことがあった。
「……私、あの時すぐに人を呼びに行けませんでした」
司教に部屋から出るなと言われた。怖かった。修道女になれなくなると思った。教会に居場所がなくなるかもしれないと思った。だからすぐには動けなかった。
「リヴィアさんが連れていかれたのに、私は……」
「でも、私もエステルさんに人を呼んでほしいって頼みました。怖かったのに、危ないことをお願いしてしまって、ごめんなさい」
「そんな……」
「それでも来てくれましたよね。アドリアン神父を連れて」
エステルは顔を上げた。
「それは……」
「それに、私があの部屋へ入ったのは自分で決めたことです」
「でも私が助けを求めたから」
「はい。聞こえたので入りました。でも入ったのは私です。エステルさんのせいではありません」
自分が同じ立場で、助けた相手のために連れていかれ、あんな目に遭ったら、こんなふうに話せるだろうか。エステルには分からなかった。
白い髪と白に近い瞳、小さな身体に、あの日強い光の中心にいた姿が重なる。
「……怖くなかったんですか」
「怖かったですよ。何をされるのか分からなかったですし、音も光もすごかったので」
「それでも……」
エステルはそこで言葉を止めた。水の大司教から聞いたことを、どこまで本人へ話してよいのか分からない。
黙り込んだエステルを、リヴィアが少し困ったように見た。その直後、口元がほんの少し緩んだ。心配しなくてよいと、エステルを安心させようとするような柔らかな笑みだった。
その笑顔を見た瞬間、先ほど聞いた話が胸の奥で別の形につながった。
女神の前で罪を裁くものを、この少女は二度受け、それでも生きている。理由は水の大司教にも断定できない。
それだけなら、理由の分からない出来事だったのかもしれない。
けれど、自分が助けを求めた時に現れたのもリヴィアだった。見ず知らずの自分のために司教へ逆らい、帰るよう言われても残ってくれた。そして今も、自分の方を心配して笑っている。
それらをすべて別々の出来事として考えることが、エステルにはできなかった。
考えすぎだと分かっていた。教会もそんな判断はしておらず、水の大司教も理由は不明だと言った。
それでも、エステルの中では一度浮かんだ考えが消えなかった。
女神に遣わされた、人を救うための誰か。
そんな言葉が頭の奥に残った。
「エステルさん?」
呼ばれ、我に返る。
「はい」
「本当に大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
今度は少しだけ自然に答えられた。
エステルは何か言おうとして、やめた。
女神があなたを助けたのですか。
あなたは女神に遣わされた方なのですか。
そんなことを本人へ尋ねる気にはなれない。水の大司教にも分からず、リヴィア自身が知っているとも思えなかった。
「どうしました?」
「……いいえ」
「本当に、ありがとうございました」
その言葉に、リヴィアは一度瞬いた。それから、何かに気づいたように小さく「あ」と声を漏らした。
「私、さっき謝った時、お礼を言っていませんでした」
「え?」
「あの時、アドリアン神父を見つけて戻ってきてくれて、ありがとうございました。一人だと思っていたので、来てくれて安心したんです」
今度こそエステルは何も言えなかった。自分は怖くて、すぐには動けなかった。司教の命令へ逆らえば全部を失うと思っていた。それでも最後には扉を開けた。その行動を、目の前の少女は自分を助けたこととして覚えていた。
「……私でも役に立てたんですね」
「はい」
リヴィアは迷わず答えた。その返事を聞いて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
あの日、助けを求めた自分の前へ立ち、命に関わる裁きを二度受け、それでも戻ってきた少女が、今は自分のしたことを役に立ったと言ってくれる。
女神が遣わした救いというものが本当にあるのなら、それはもっと眩しく、もっと遠いものだと思っていた。
けれど。
目の前にいる白い髪の少女を見ていると、それは誰かの助けを求める声を聞いて歩いてくる、小さな人の姿をしていることもあるのかもしれないと思った。
まだそうだと信じ切ったわけではない。
ただ、あの日自分を助けてくれた少女を、今はもうそれだけの人として見ることができない。それだけは分かった。