あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
その代わり文字数が多くなりました。
海賊がミュレアを襲ってから、数日が過ぎた。浜に残された死体はすでに片づけられ、血の跡も波と雨に洗われてほとんど残っていない。壊れた武器は使える部分だけ取り外され、村の男たちは暇を見つけては坂道の脇に石を積むようになった。あの戦いで投石が思いのほか役に立ったことを、誰も忘れていなかった。
海賊が残していったものは、それだけではない。剣、槍、盾、兜、革の防具、弓、矢筒。逃げる際に捨てていった袋からは貨幣や小物も見つかった。村で使えそうな槍や盾は残したものの、すべてを抱えておく必要はない。そこで余った戦利品を魚や干物と一緒にアテライへ持っていき、売ることになった。
真継も同行することになった。荷運びと護衛のためである。
「お前がいれば、また海賊が出ても何とかなるだろう」
村長はそう言った。
「また俺に戦わせるつもりか?」
「一人で浜まで降りていった奴が何を言っている」
「確かに」
反論できなかった。
アテライへ向かうのは真継を含めて五人だった。テロンのほか、魚の売買に慣れた村人が三人同行し、荷車には朝に水揚げされた魚や干物、それに海賊から奪った品々が積まれた。
真継にとって、アテライへ行くこと自体に異論はなかった。この世界へ落ちてから、都市をまともに見て回ったことはまだない。スキリアの騎馬民に捕まり、そのまま奴隷としてラケオンへ連れていかれたときには町を見る余裕などなかったし、ラケオンで過ごした場所も奴隷を収容する区画と港がほとんどだった。この世界の人間がどのような場所で暮らしているのか、一度くらい見ておきたかった。
♢
アテライの姿が見えたのは、昼を少し過ぎたころだった。最初に見えたのは城壁だった。丘陵の向こうに、石を積み上げた長い壁が横たわっている。そのさらに奥には家々の屋根が幾重にも重なり、その中から神殿らしい白い建物や柱が突き出していた。
街道を進むにつれて人の数も増えていった。荷車を引く農民、壺を積んだ商人、羊を連れた男、槍を持った兵士。港の方角へ向かう者もいれば、逆に都市から出てくる者もいる。ミュレアでは一日かけても見ないほどの人数と、門へ着くまでのわずかな間にすれ違った。
「どうだアテライは」
テロンがどこか自慢げに尋ねた。
「大きいな」
「それだけか?」
「何と言えばいい」
「もう少し驚くと思っていた」
「昔はもっと大きな町を知っていたからな」
テロンが真継を見る。
「ヒノモトか?」
「いや。日の本が日本になってからだ」
「また訳の分からないことを言ってるな」
「本当なんだが」
「はいはい」
まったく信じていない。真継はそれ以上説明しなかった。かつて地上を覆っていた巨大都市の話をしたところで、どう説明すればよいのか自分でも分からない。天を突くほど高い建物が並び、夜になっても昼のように明るく、鉄の箱が人を乗せて道を走っていたなどと言えば、今以上に変人扱いされるだけだろう。
それでも、アテライには昔の都市とは違う活気があった。門の周辺だけでも、聞こえてくる言葉は同じなのに、服装も肌や髪の色も様々だった。ゆったりした布をまとった男の隣を毛皮姿の商人が歩き、頭を布で覆った女が果物を入れた籠を抱えている。
そして、人間だけではなかった。
真継は門へ向かう列の中に、頭一つ分、背の高い男を見つけた。最初は大柄な人間だと思ったが、頭部から獣のような耳が生えている。腕にも薄く毛が生え、腰の後ろには太い尾が揺れていた。その男は荷物を背負い、隣を歩く人間の商人と普通に話している。さらに前には、猫に似た耳と細い尾を持つ女がいて、人間の女二人と談笑しながら、門を通る順番を待っていた。
「何だ?」
テロンが尋ねる。
「あれは?」
「どれだ」
「耳が頭の上についている」
「ああ。獣人が珍しいのか?」
「初めて見た」
「ミュレアにはいないからな。アテライなら珍しくもないぞ。港へ行けばもっといる」
「そうなのか」
真継はもう一度、獣人の男を見た。男と目が合った。
「何だよ」
「いや。耳が珍しくてな」
「見るな」
「すまん」
真継は素直に前を向いた。
「マツグ」
テロンが笑いを堪えている。
「何だ」
「田舎者みたいだぞ」
「知らないものを知らないと言って何が悪い」
「お前、ミュレアへ来たときも大概だったけどな」
「腰布一枚だったからな」
「自覚はあったのか」
列が進み、やがて真継たちの番になった。門には数人の兵士がおり、入ってくる荷車を確認している。戦時中だからか、槍を持った兵士の数も多い。
一人が荷車を覗き込んだ。
「ミュレアからか」
「そうです」
村人の一人が答えた。
「荷は?」
「魚と干物です。それから少し売りたいものが」
「見せろ」
布をめくる。魚、干物、その横には剣、槍、兜、盾が並んでいる。
門番の動きが止まった。
「これは何だ」
「魚だ」
真継が答えた。
門番が顔を上げる。
「そっちじゃない」
「剣だ」
「見れば分かる」
「ならなぜ聞いた」
テロンが真継の肩を掴んだ。
「マツグ、少し黙ってろ」
「分かった」
門番は怪訝な顔で荷車を調べた。
「なぜ漁村の者がこれだけ武器を持っている」
「海賊が置いていった」
真継が答えた。
「黙ってろと言っただろう!」
「質問されたから答えた」
門番はますます疑わしそうな顔になった。
「海賊が武器を置いていった?」
「逃げるときに捨てていった」
「……最初から説明してくれ」
結局、テロンたちが数日前の襲撃について一から説明することになった。
「つまり、海賊がミュレアを襲った」
「はい」
「村で撃退した」
「はい」
「これはその戦利品」
「そうです」
門番が真継を見る。
「お前も漁師か?」
「今はな」
「今は?」
「昔は兵だった」
「どこの?」
「日の本だ」
「知らんな」
「もうないからな」
門番はしばらく真継を見てから、テロンへ視線を戻した。
「こいつ、本当に大丈夫か?」
「たぶん」
「たぶんとは何だ。失礼だな」
「俺も全部は知りません」
真継は少し不満だったが、それでも武器が戦利品であることは認められ、簡単な確認と必要な支払いを済ませると、ようやく門を通ることができた。
♢
城壁の内側は、真継が想像していた以上に騒がしかった。石造りや日干し煉瓦の家々が狭い道の両側に並び、その間を人と荷車と家畜が行き交っている。大通りへ出ると一気に道幅が広がり、露店や店先には果物、野菜、布、陶器、酒、油、香辛料、金属製品まで、ミュレアでは見かけない品が所狭しと並んでいた。
様々な人種や種族が入り混じっていた。褐色の肌をした商人が北方風の服を着た男と酒壺の値段を交渉し、その横では犬に似た顔立ちの獣人が人間の職人と荷物を運んでいる。角のようなものを頭に持つ者までいたが、真継にはそれが種族の特徴なのか飾りなのか分からなかった。
人間の主人の後ろを歩く獣人の奴隷もいれば、人間の使用人に荷物を持たせて歩く獣人もいる。種族によって身分が決まっているわけではないらしい。
「随分いろいろいるな」
「アテライだからな」
テロンは当然のように答えた。
「港にはもっと遠くから来た連中もいる。船が来れば人も物も集まるんだ」
「神々が言葉を通じるようにした理由も分かる気がするな」
「昔は違ったらしいぞ」
「知っている」
「何で知ってるんだ?」
「長く生きているからな」
「また始まった」
真継は黙った。
市場へ着くと、まず魚を売ることになった。
♢
「これでどうだ」
魚商人が貨幣を並べた。真継はそれを見たが、まったく分からなかった。
「高いのか?」
隣の村人へ尋ねる。
「マツグ」
「何だ」
「本人の前で聞くな」
「なぜだ」
「相場を知らないって教えてどうする!」
「知らないものは知らない」
「それを隠せと言ってるんだ!」
魚商人が笑っていた。結局、魚については村人たちに任せることにした。彼らは何度もアテライへ来ているため、真継よりはるかに頼りになる。
真継は荷物を運んだ。こちらは役に立った。大きな籠を二つまとめて持ち上げたところ、店の男から妙な目で見られたが、重いとは感じなかった。
魚と干物がある程度売れたところで、今度は海賊から奪った装備を扱う商人を探した。剣や槍、兜を並べると、商人は一つずつ状態を確かめていく。
「随分使い込まれていますね」
「海賊のものだからな」
「こいつは刃が欠けています。こっちは柄を替えないと使えません。まとめてこれくらいですね」
貨幣が示された。真継にはやはり分からない。
「高いのか?」
「だから本人の前で聞くな!」
今度はテロンが怒った。
「さっきも言われたな」
「覚えてたなら聞くな!」
商人は笑顔だった。それが気になった。テロンが貨幣を見ると眉をひそめ、真継の腕を引いて少し離れたところで声を潜める。
「マツグ」
「何だ」
「半分くらいだ」
「何がだ」
「あいつが出した値段だ。安すぎる」
「そうなのか」
真継は商人のところへ戻った。
「半分らしいな」
商人の笑顔がわずかに引きつった。
「いやいや旦那。こういう中古の武器はですね、売れるまで時間もかかりますし、修理にも金が――」
「そうか」
「ええ。ですから、この値段でもかなり――」
「次に俺を騙したら腕を落とすぞ」
商人が黙った。テロンも黙った。周囲にいた客まで黙った。
「それで、本当はいくらだ」
「マツグ!」
テロンが真継を引っ張る。
「何だ」
「市場で商人を脅すな!」
「まだ何もしていない」
「腕を落とすって言っただろう!」
「落としてはいない」
「そういう問題じゃない!」
商人を見ると、先ほどまでの笑顔が消えていた。
「……このくらいでどうでしょう」
最初よりかなり増えた。テロンが確認した。
「まあ……それなら」
「決まりだな」
真継は頷いた。
「交渉とは簡単だな」
「お前は二度と交渉するな」
「なぜだ」
「いつか捕まるからだ」
真継には納得できなかった。
♢
戦利品を売った店には、当然ながら武器も並んでいた。真継は一本の曲刀を手に取った。今使っているものと似ているが、こちらのほうが作りはいい。片刃で、先端へ近づくにつれて刀身が幅広くなっている。
振ってみる。
「店の中で振らないでください」
「すまん」
商人に怒られた。
真継は柄を見る。
「やはり短いな」
「何がです?」
「柄だ」
「普通ですよ」
「両手で持てない」
商人が真継を見る。
「なぜ剣を両手で持つんです?」
「そのほうが斬りやすい」
「盾は?」
「いらん」
「死にますよ」
「大丈夫だ」
「何が大丈夫なんですか」
このやり取りには覚えがあった。真継は曲刀を元の場所へ戻した。
「もっと長いものはないのか。刃も、柄も」
「そんなものは置いていません」
「作れるか?」
商人が少し考える。
「鍛冶屋へ行ってください。金を出せば作る人はいます」
「そうする」
場所を教えてもらい、真継は市場の一角にある鍛冶場を訪ねた。そこでも同じ説明を繰り返すことになった。
「つまり、この曲刀を長くするのか」
「そうだ」
「どのくらいだ」
真継は身振りで示した。
「これくらい」
「長いな」
「柄はこれくらい欲しい」
「両手で握るためか」
「ああ」
「盾は?」
「その話はもうした」
「俺は聞いてない」
「いらない」
鍛冶屋は露骨に嫌そうな顔をした。
「変な剣だな。儀礼用か?」
「実戦用だ。両手を使ったほうが力が出るだろ」
「それはそうだが……」
細かな寸法について相談し、値段だけはテロンに確認してもらった。先ほどの件があるので、真継にも異論はなかった。前金を払い、完成したものは次にアテライへ来たとき受け取ることになった。
これで用事はほとんど終わった。村で頼まれた品を買い、荷車へ積み込めば帰れる。そのはずだった。
♢
奴隷市場の近くを通ったとき、真継は自然と足を止めた。
人が売られている。それ自体は珍しい光景ではなかった。真継が生まれた時代にも人の売買はあったし、この世界へ来てからは自分自身が売られる側になった。だからこそ、以前とは見え方が違った。
男も女もいる。若者もいる。人間だけではなく、獣人の姿もあった。首輪をつけられている者もいれば、縄で繋がれている者もいる。
その中で、一人だけ明らかに扱いの違う女がいた。鎖で柱に繋がれているわけではない。粗末ではあるものの清潔な服を着せられ、座るための椅子まで与えられている。水差しも置かれていた。
年若い女に見えるが、人間とは少し違った。淡い青を帯びた長い髪が背中へ流れ、肌は陽光の下でも不思議なほど白い。耳や顔立ちは人間とほとんど変わらないが、真継には何となく違和感があった。周囲の喧騒から、そこだけ切り離されているように見える。
女がこちらを見た。目が合う。
「何ですか」
先に女が言った。
「いや」
「先ほどから見ていますよね」
「珍しくてな」
「何がです?」
「言葉にできない」
「失礼な人ですね」
そこで奴隷商がやってきた。
「旦那、興味がおありで?」
「何にだ」
「この娘ですよ」
奴隷商が女を示した。
「海のニンフです。こんなところで売りに出ることなんて、滅多にありませんよ」
「ニンフ?」
真継は女を見た。その言葉には覚えがあった。遥か昔、地球にまだ人間がいたころに読んだ書物の記憶を探る。泉や森、海などに宿る女の姿をした存在。神と人の間に近いものとして語られることもあった。
「……あのニンフか」
女が眉を寄せる。
「どのニンフですか」
「昔、書物で読んだ」
「私のことを?」
「いや。ニンフについてだ」
「そうですか」
真継は奴隷商を見る。
「なぜこんな扱いなんだ」
「こんな扱いとは?」
「ほかの奴隷より随分いい扱いだ」
奴隷商は周囲を確認してから、声を少し落とした。
「旦那。ニンフですよ」
「そうだな」
「神々の血筋に連なる者です。粗末に扱って、あとからどなたかの怒りを買ったらどうするんです」
「誰の娘なんだ」
「そこがよく分からないんですよ」
「本人に聞けばいいだろう」
女が答えた。
「母は海のニンフです」
「父親は?」
「人です」
「なら神の娘ではないな」
奴隷商が首を振る。
「そう簡単な話じゃないんですよ。母方を辿ればどこへ繋がるか分からない。本人の一族には海神に仕える方もいるそうです」
「そうなのか?」
真継が尋ねる。
「いますね」
女は平然と答えた。
奴隷商が頭を抱えた。
「だから売れないんです!」
「なぜだ」
「怖いからですよ!」
農園で働かせるなら普通の奴隷のほうが安い。家事をさせるにしても同じ。美しいからと妾にしようにも、ニンフをそのように扱ったことで神々の怒りを買う可能性を考えれば、裕福な者ほど手を出さないらしい。
「神殿は引き取らないのか」
「面倒事はいらないそうです」
「家へ帰せばいい」
「帰る場所がないそうで」
真継は女を見る。
「そうなのか」
「ええ」
「名前は?」
「ガレネです」
「俺は真継だ」
「マツグ?」
「ああ」
ガレネは何度か口の中で名前を繰り返した。
「変わった名前ですね」
「よく言われる」
真継は奴隷商へ向き直る。
「いくらだ」
奴隷商の目が輝いた。
「お買いになりますか?」
「値段を聞いただけだ」
提示された額を聞く。真継には分からなかった。少し離れたところにいたテロンを呼ぶ。
「高いのか?」
「俺に聞くな」
「なぜだ」
「ニンフなんか買ったことないぞ」
ガレネが二人を見る。
「本人の前で私の値段について相談しないでもらえます?」
「すまん」
真継は謝った。ガレネが少し驚いた顔をした。
「そこは素直なんですね」
「悪いことをしたら謝るだろう」
「その割には、先ほど市場で商人の腕を落とすと言っていたそうですが」
真継はテロンを見る。
「もう伝わっているのか」
「お前、声がでかかったからな」
これは困った。
真継はもう一度ガレネを見る。
「ここから出たいのか」
突然尋ねられ、ガレネは少し考えた。
「出られるのであれば」
「誰かに買われたいのか」
「好きで奴隷になっているわけではありませんから。ただ、ここにいる限りは、誰かに買い取ってもらわなければどうにもなりません」
「そうか」
真継は奴隷商を見る。
「買う」
「マツグ?」
テロンが声を上げた。
「何だ」
「お前、何してるんだ」
「買った」
「本当に何してんだ!?」
真継は、海賊の戦利品を売って得た金から分けられた自分の取り分で代金を払った。かなりの額が一度に消えたらしいが、本人にはよく分からない。
奴隷商は信じられないほど機嫌がよくなった。必要な手続きを済ませると、ガレネの身分を示すものが真継へ渡される。
「それでは旦那、この娘はあなたのものです」
「そうか」
真継はガレネを見た。ガレネもこちらを見返している。
「では、自由にするにはどうすればいい」
奴隷商が瞬きをした。
「……何をです?」
「この女をだ」
「今、買ったばかりですよね?」
「ああ」
「でしたら、もう旦那の奴隷ですが」
「だから自由にする」
奴隷商はしばらく黙った。
「……何のために買ったんです?」
「ここから出たいと言っていたからな」
「それなら普通は、買ったあと働かせるんですよ」
「俺は働かせるために買ったわけじゃない」
「では何のために金を払ったんです?」
「自由にするためだ」
奴隷商は理解できないものを見るような顔をした。
「旦那。もしかして、金が余ってます?」
「いや。むしろさっきかなり使ったらしい」
横にいたテロンが顔を覆った。
「そこを他人事みたいに言うな」
ガレネは黙ったまま真継を見ていた。
「それで、できるのか?」
「できますけど……」
奴隷商はまだ納得できない様子だったが、商売そのものは終わっている。渋々と別の板札と証文を取り出した。
「所有者である旦那が解放を認めれば、この娘は自由身分になります。ただし記録はこちらにも残します。あとで『逃げた奴隷だ』なんて揉めても困りますからね」
「それでいい」
「本当に?」
「ああ」
奴隷商は真継を見て、それからガレネを見る。
「……では、ガレネ。今日よりあなたは奴隷ではありません」
ガレネの表情がわずかに動いた。
奴隷商は解放を示す証文を真継へ差し出したが、真継は受け取らずガレネを指した。
「本人に渡せ」
「旦那が持っていたほうが――」
「俺のものではないだろう」
奴隷商は口を閉じた。
やがて証文がガレネへ渡される。
ガレネはそれを両手で受け取った。しばらく文字を見つめ、それから真継を見上げる。
「……本当に、いいんですか?」
「何がだ」
「私を自由にしてしまって」
「もうしたんだろう?」
「そうですが……」
「なら終わりだ」
真継はそう言って立ち去ろうとした。
「待ってください!」
「何だ」
「私は、これからどうすればいいのでしょう」
「別に何もしなくていい」
「……はい?」
「行きたいところがあるなら行けばいい」
ガレネは何度か瞬きをした。
「あなた、かなりのお金を払いましたよね?」
「そうらしいな」
「それで私を買って、すぐ自由にしたんですか?」
「ああ」
「では、なぜ私を買ったんです?」
「俺も少し前まで奴隷だったからな」
ガレネの表情が変わった。
「あなたが?」
「ああ。騎馬の連中に捕まって、そのあと別の連中に奪われて売られた。船を漕がされた」
「……よく逃げられましたね」
「船が沈んだからな」
「それは逃げたと言うのでしょうか」
「最後には逃げた」
細かく説明すると長くなるので、真継はそこでやめた。
「だからまあ、気まぐれというやつだ。行きたいなら行け」
ガレネは黙り、やがて市場の向こうへ目を向けた。人々が歩いている。商人が叫び、荷車が通り、獣人の子供が母親らしい女の手を引いている。誰もガレネを見ていない。
「……困りました」
「何がだ」
「行くところがありません」
「そうだったな」
「自分で聞いたでしょう」
「忘れていた」
ガレネがため息をついた。
「マツグはどちらへ?」
「ミュレアという漁村だ」
「海辺ですか?」
「ああ」
そこでガレネの顔がわずかに明るくなった。
「海は好きです」
「海のニンフだからか」
「それもあります」
「なら来るか」
「いいのですか?」
「人が一人増えるくらいなら大丈夫だろう」
テロンが横から口を挟んだ。
「勝手に決めるな」
「駄目なのか」
「駄目とは言ってない。村長に聞けと言ってるんだ」
「帰ってから聞く」
「順番が逆だ!」
ガレネが小さく笑った。
「では、しばらくご一緒します」
「好きにしろ」
「その言い方だと、あなたが私を買った意味が本当にありませんね」
「自由ならそれでいいだろう」
「変わった人ですね」
「それもよく言われる」
♢
日が傾き始める前に、一行はアテライを出た。来たときより荷車は軽くなっている。魚と干物の大半は売れ、海賊の装備も必要なものを除いて金に換えた。その代わり、村から頼まれていた塩や道具、布などが積まれている。
そして、人が一人増えていた。
ガレネは荷車の横を歩いている。アテライを出る前に、真継はガレネの新しい衣服も買った。奴隷だったときの服をそのまま着続けさせる必要もないと思ったからだ。代金を払おうとしたところで、また値段が分からずテロンに止められ、今度は最初から交渉を任せた。
少しは学習したのである。
「マツグ」
テロンが歩きながら呼んだ。
「何だ」
「村長に何て説明するんだ」
「何を」
テロンがガレネを見る。
「彼女だよ」
「ガレネだ」
「名前を聞いてるんじゃない。どうしてアテライへ魚を売りに行ったお前が、帰りにニンフを連れてるのかって話だ」
真継は考えた。難しいことではない。
「買ったと言えばいいだろう」
「それはやめてください」
すぐ横からガレネの声がした。真継は彼女を見る。
「事実だぞ」
「事実でも言い方というものがあります」
「では、何と言えばいい」
「少なくとも『買った』以外でお願いします」
「難しいな」
「何が難しいんですか」
テロンが笑った。
真継は少し考えたが、結局いい言葉を思いつかなかった。
アテライの城壁は、振り返るたびに小さくなっていく。前にはミュレアへ続く道が伸びていた。
真継はその道を歩きながら、隣にいる海のニンフをちらりと見た。この世界へ来てから、奴隷になり、船を漕ぎ、海へ沈み、漁村へ流れ着いた。そして今日は、魚を売りに町へ行っただけだった。
それなのに帰りには、一人増えている。
真継はしばらく考えた。
「やはり、買ったでいいんじゃないか」
「駄目です」
ガレネは即答した。