魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
それは、ワルプルギスの夜ではなかったが、普通の魔女でもなかった。
見滝原の外れ。使われなくなった高架下の一角に、結界は口を開けていた。外から見れば、ただの暗がり。壊れたフェンスと、落書きだらけのコンクリート壁。一歩踏み込めば、景色は別のものへ変わる。
そこは、ねじれた劇場のようだった。
天井から、壊れた時計がいくつも吊られている。針はばらばらの速度で回り、時々逆向きに跳ねた。床は舞台のように黒く、そこに白い線で無数の円が描かれている。客席にあたる場所には、顔のない人形たちが並び、音のない拍手を繰り返していた。
「趣味悪いな」
杏子が槍を肩に担いだまま言った。
「魔女に趣味があるかは分からないけどね」
キュゥべえは、まどかの腕の中で結界の奥を見ている。
「ただ、構造はかなり複雑だ。ワルプルギスの夜ほどではないけれど、通常個体よりは明らかに強い」
「前哨戦ってわけ?」
さやかが剣を握る。
青い光が胸元から全身へ流れていた。光は腕へ、足へ、剣へとつながっている。
「そう分類してもいい」
「じゃあ、ちょうどいいじゃん」
杏子が笑った。
「試運転にはな」
マミは何も言わず、手首のリボンをほどいた。黄色い光がしなやかに広がる。以前より細いリボンは、輪郭の内側に濃い光を湛えていた。
ほむらは一歩後ろにいた。
盾は左腕にある。銃もある。いつもの自分と変わらないはずだった。
実際には、違う。
胸元の紫の光が、身体の内側へ細く伸びている。盾の縁にも、同じ紫が走っていた。自分の身体が、以前より重い。動きにくいという意味ではない。今いる場所に、ちゃんと重さがある。
逃げ道ではなく、足場として。
「来るわ」
マスケット銃が左右に現れる。
マミはそれを見ず、周囲の四人だけを一度確認した。
舞台の奥で、時計が一斉に止まった。
顔のない人形たちが、拍手をやめる。
その中央に、魔女が現れた。人型に近い。だが頭の代わりに、大きな仮面がある。仮面には目が三つ描かれ、どれも違う方向を見ていた。背中からは時計の針のような腕が何本も伸びている。長針、短針、秒針。それらが刃のようにきらめいた。
「速いわよ」
ほむらが言うより早く、魔女が動いた。
針が飛ぶ。
それは一直線ではなかった。空中で折れ、戻り、角度を変えて襲いかかる。
マミのリボンが広がった。
黄色い網が、まどかとキュゥべえの前を覆う。針が突き刺さる。以前なら、そこで裂けていたかもしれない。今のリボンは裂けなかった。柔らかく受け、絡め、軌道を曲げる。
「佐倉さん!」
「分かってる!」
杏子が前に出た。
赤い槍が伸びる。魔女の針腕がそれを弾こうとするが、槍は途中で節に分かれた。一本の軌道ではない。何本もの赤い線になり、針の隙間を縫う。
「おらっ!」
杏子の槍が仮面めがけて走る。
魔女が後ろへ跳ぶ。杏子は追わなかった。
その方向へ逃げることを、最初から分かっていたからだ。
さやかも同じだった。
魔女が着地する先へ一歩早く回り込み、剣を構える。
「逃がさない!」
青い刃が、着地の瞬間を狙って振り下ろされた。
魔女の腕が横から叩きつけられた瞬間、鈍く重い音が響き、さやかの身体が大きく揺れた。
まともに受ければ、そのまま床を転がっていてもおかしくない一撃だった。少なくとも足は浮き、剣を構えた姿勢など保てないはずだったのに、さやかは反射的に腰を落とし、ブーツの底で黒い床を強く踏みしめる。
衝撃が肩から胸へ抜け、遅れて痛みが腕の奥まで走った。
それでも膝は落ちない。
胸元の青い光が鼓動に重なるように強く脈打ち、そのたびに身体の内側へ力が戻ってくる。握った剣も下がらず、痛みで息は乱れているのに、戦うための力だけはほとんど失われていなかった。
「さやかちゃん!」
まどかの声が飛んだ。
さやかは返事をしようとして、そこで自分の身体の異変に気づいた。
痛い。
肩も腕も、さっき受けた衝撃をちゃんと覚えている。
なのに、動く。
剣を握る手に力を込めれば、まだ入る。膝も落ちていない。息は乱れているのに、身体の奥に残っている力は、自分が思っていたよりずっと大きかった。
こんなに動けるとは思っていなかった。
胸元の青い光が、強く脈打つ。
その上から、まどかの声に応えるように薄い青の膜が全身へ広がった。
さやかは一度、自分の手を見る。
それから魔女を見た。
「……まだいける」
今度は、確かめるように言った。
剣を構え直す。
「これ、まだ全然いける!」
踏み込んだ。さっきまでよりさらに速い。
剣が下から跳ね上がり、魔女の針腕を一本、根元から斬り飛ばした。
キュゥべえは何も言わなかった。
ただ、赤い目でさやかを見ていた。
魔女が、初めて動きを止めた。
感情など、あるはずがない。
魔女は人間ではない。魔法少女のなれの果てだとしても、そこに普通の意味での恐怖が残っているとは限らない。
それでも。
まどかには、魔女が一瞬、怯えたように見えた。
――こんなはずではない。
そんな声にならない声が、結界の奥で揺れた気がした。
「興味深い」
キュゥべえが言った。
「魔女に感情が残っているとは限らない。ただ、あの反応が恐怖に類似した揺らぎなら、あれからもアンチエントロピー性を回収できそうだ」
「今それ言う!?」
さやかが叫ぶ。
その瞬間、キュゥべえがまどかの腕の中から飛び出した。
「キュゥべえ!」
まどかが叫ぶ。
白い身体が、舞台の前方へ着地する。
「観測位置を近づける必要がある」
「馬鹿!」
杏子の怒鳴り声が響いた。
魔女の三つの目が、キュゥべえを見た。
針腕が一本、異常な速度で伸びる。
まどかの息が止まった。
キュゥべえは動かなかった。いや、動こうとしていなかった。
自分が攻撃を受ければ死ぬかもしれない。その可能性を、理解していないようにすら見えた。
「危ない!」
ほむらの身体が、考えるより先に動いていた。
ほむらは、そのとき五人の中でキュゥべえから一番離れた位置にいた。
魔女を挟んで、ほとんど戦場の反対側。
キュゥべえまでは二十メートル以上ある。その間には崩れた足場と、伸びた針腕、それに魔女自身の巨体まで挟まっていた。
以前の自分なら、盾を回す前に一瞬ためらった距離だった。
時間を止めれば間に合わないわけではない。
けれど、止まった時間の中で動けるのは自分だけだ。そこまで走り、回り込み、キュゥべえの前へ身体を入れるには、自分の脚で戦場を端から端まで横切らなければならない。
だから以前なら、まず銃を使った。
あるいは爆薬で軌道を逸らす方法を考えた。
自分自身が走って割り込むという選択は、最後まで残らなかったはずだ。
そのキュゥべえへ、魔女の針腕が振り抜かれる。
ほむらの左腕で盾が回り、世界から音が消えた。
針の先端が空中で止まる。
舞い上がった破片も、杏子の髪も、さやかの振りかけた剣も、その瞬間の形を保ったまま動かない。
ほむらだけが動く。
キュゥべえは遠い。
そう認識したまま、ほむらは床を蹴った。
そして、一歩目で違和感を覚えた。
身体が、思っていたより前へ出る。
二歩目で確信した。
速い。
自分が知っている自分の身体より、明らかに。
足が床を蹴るたび、景色が後ろへ流れていく。止まっているはずの魔女の巨体が横を過ぎ、さっきまで遠かったキュゥべえが、数歩ごとに急速に近づいてくる。
以前なら十数歩は必要だった距離を、ほむらは半分ほどで詰めていた。
息も乱れないし、脚も重くならない。
止まった世界の中を走っているのに、身体の方が先に次の一歩を要求してくる。
ほむらは驚きを処理しきれないまま、キュゥべえの手前で足を止めた。
そこで初めて時間を戻す。
ほんの一瞬だけ。
世界が息を吹き返し、針腕がわずかに前へ進む。
軌道を確認し、再び停止させる。
半歩だけ左へ寄り、盾を上げる。
再開。
針が進む。
停止。
角度を変える。
再開。
コンマ一秒にも満たない時間を細かく刻むたび、魔女の攻撃が少しずつ読み解けていく。
今までのほむらは、時間を止めたら、その間に必要なことを全部済ませていた。
武器を置き、爆薬を仕掛け、位置を変える。
今は、止めて、見る。少しだけ流して、また止める。
それができる。
身体が、その細かな切り替えについてくる。
次に時間が動いたとき、ほむらは完全にキュゥべえの前へ入っていた。
針腕が盾へ激突する。
金属が裂けるような音が響いた。
衝撃は重い。
それでも、ほむらの膝は落ちなかった。
足が床を滑りながらも踏みとどまり、盾も下がらないことにも驚いていた。
だが、それ以上に、戦場の反対側から、本当にここまで走ってこられたことの方が、ほむらには信じがたかった。
「暁美ほむら」
キュゥべえが、ほむらの後ろから言った。
「今のは、時間遡行を極小単位で制御した結果だね。完全な巻き戻しではなく、瞬間的な未来位置補正に近い。以前よりも丁寧に使えている。時間停止と再配置の中間のような――」
「……あなた」
ほむらは盾を構えたまま言った。
「今、解説している場合なの?」
「重要な観測結果だ」
「あなたが死にかけたのよ」
「その可能性はあった」
「可能性ではなく、現実になりかけたの」
「でも、君が防いだ」
ほむらは一瞬だけ黙った。
本当に、どこまで行っても、こいつはキュゥべえなのだ。
それがおかしくて、腹立たしくて、少しだけ救いでもあった。
ほむらは小さく苦笑した。
「下がっていなさい、マスコット」
「僕は戦闘用ではないからね」
「分かっているなら最初から下がりなさい」
「了解した」
キュゥべえは、ようやく後ろへ下がった。
ほむらは前を向く。
魔女は、動きを変えていた。
針腕を広げ、距離を取ろうとしている。
さっきまで、こちらを狩る側だった魔女が。
今は、逃げ道を探しているように見えた。
「マミさん!」
さやかが叫ぶ。
「ええ!」
マミのリボンが四方へ走った。
ただ拘束するだけではない。床の円に沿い、舞台の上に防衛線を描く。魔女の針腕が触れた瞬間、黄色い光が絡みつき、動きを鈍らせる。
「杏子!」
「任せろ!」
杏子の槍が途中で三つに分かれた。
最初に動いたのは、正面の一本だった。
赤い穂先が仮面めがけて一直線に伸び、魔女が反応した。上体を逸らし、背中から伸びた腕が正面の槍を払おうと動く。
杏子は、それを見ていた。
わずかに遅れて、二本目が床すれすれを走る。
槍の節が舞台を這い、魔女の足元へ回り込んだ。正面を避けようと重心をずらした、その先へ絡みつくように伸びる。
魔女が足を引く。
そこで三本目が動いた。
杏子の手元から大きく弧を描き、魔女の視界の外を通って背後へ回り込む。
正面の槍を払う腕と足元を避けるために崩れた姿勢。
その両方を見てから、最後の一本が仮面の裏へ食い込む角度を取った。
「そっちだ」
杏子が槍を引き、三方向から伸びていた赤い軌道が、一斉に締まった。
三方向から締められた魔女が、唯一空いている方角へ身体をひねった。
そこだけは、杏子の槍が届いていない。
逃げ道に見えたが、杏子は追わなかった。
最初から、そこだけを空けていたからだ。
魔女が跳ぶ。
その先に、ほむらがいた。
銃口はすでに上がっている。
以前なら、時間を止めて武器を並べ、爆薬ごと押し潰していた。
今は違う。
必要なのは一発だけだった。
魔女の針腕が動き始める。
ほむらは、その先端ではなく、振り抜かれたあとに通る場所へ銃口を向けた。
引き金を引き、弾丸が銃口を離れた、その直後。
銃声が戦場へ広がりきるより先に、ほむらは時間を止めた。
世界が静止する。
弾丸は空中に留まり、その少し先では、針腕が振り抜かれる途中の姿勢で止まっていた。
ほむらは二つを見比べる。
このまま時間を戻せば、針腕はさらに前へ出る。
その軌道、いずれ交差する位置に、弾丸がいる。
ほんのわずかだけ時間を流す。
そこでもう一度、止める必要はなかった。
ほむらは時間を完全に戻した。
遅れて銃声が響く。
次の瞬間、振り抜かれた針腕が弾道へ自ら飛び込み、根元近くで砕け散った。
杏子はそれを見て、口の端を上げた。
逃がしたのではない。
ほむらの射線へ、追い込んだのだ。
「魔力量消費は想定より少ない」
後ろでキュゥべえが言う。
「細分化した時間操作は、全体停止より効率が良い可能性がある。暁美ほむら、君の現在の運用は――」
「あとで聞くわ」
ほむらは撃つ。
一発、二発、三発と重ねていき、魔女の逃げ道を削る。
その直後にさやかが正面から踏み込む。
「これで!」
青い剣が魔女の仮面を叩き割った。
だが、まだ終わらない。
仮面の奥から、もう一つ小さな仮面が現れる。針が一斉にさやかへ向く。
「甘い!」
杏子の槍が横から入る。
針腕をまとめて絡め取り、床へ叩きつける。
マミのリボンがそこへ重なる。
黄色と赤が、魔女の身体を縛る。
「美樹さん!」
「はい!」
さやかが剣を両手で握る。
「さやかちゃん!」
まどかの声が届いた。
胸元の青い光が、今度は強くなるのではなく、すっと形を整えた。
呼吸の乱れに合わせて揺れていた光が落ち着き、身体を包んでいた薄い膜が輪郭へ沿うように引き締まる。その光は腕を伝い、最後には握った剣まで一本につながった。
さやかは短く息を吐く。
力が増えたというより、今ある力を全部使える。
そんな感覚だった。
ほむらは、その間に最後の逃げ道を撃ち抜いた。
それでも、三つの目だけがぎょろぎょろと動く。
まるで、理解できないものを見ているように。
こんなはずではない。
これは、獲物ではない。
これは、魔法少女ではない。
そんな断末魔が、声にならないまま結界を震わせた。
「終わり!」
さやかの剣が振り下ろされ、仮面が砕けた。
時計が一斉に逆回転する。
人形たちが音のない拍手を再開し、すぐに崩れて紙片になる。床の円が割れ、舞台が沈む。
結界がほどけていく。
最後に、グリーフシードが落ちた。
杏子がそれを拾い、軽く投げて受け止める。
「前哨戦にしちゃ、なかなかだったな」
「なかなか、じゃないでしょ」
さやかが息を弾ませながら言う。
「けっこうやばかったよ」
「でも勝った」
マミが静かに言った。
「誰も、大きな怪我をしていないわ」
ほむらは盾を下ろした。
胸元の紫の光は静かだった。
濁っていない。
それどころか、前よりも少し、落ち着いている気がした。
キュゥべえが、まどかの腕の中へ戻ってきた。
まどかは反射的に少し強く抱きしめた。
「キュゥべえ、勝手に飛び出しちゃだめ」
「観測位置の変更は必要だった」
「だめ」
「……分かった」
キュゥべえは、まどかの腕の中から四人を見た。
「僕が思った通りだった」
まどかは、まだ少し怒った顔で聞く。
「本当に?」
キュゥべえは、少しだけ黙った。
「いや――」
珍しく、言い直した。
「思っていた以上だった」
四人が振り返る。
キュゥべえは続けた。
「四人の新方式は、単独強化ではなく、相互補助として機能している。魔女の反応も、従来の魔法少女に対するものとは違った。恐怖に類似する揺らぎがあるなら、非破壊型感情変動運用だけでなく、魔女側からも新しい観測値が取れる可能性がある」
「またそういう話」
さやかが呆れる。
キュゥべえは気にせず続ける。
「これなら、僕がいなくても実験が続けられる可能性があると思う」
まどかの腕が止まった。
「キュゥべえ」
「なにかな、まどか」
まどかは、白い獣を抱えたまま見下ろした。
「そういうこと言わないで」
キュゥべえは黙った。
今度は、すぐに返事をしなかった。
論理的には反論できたはずだった。
実験継続性の評価は必要だ。
自分の個体喪失時の代替可能性を考えるのは合理的だ。
自分が死んでも続く設計にしておくことは、長期収支に有利だ。
たぶん、いくらでも言えた。
でも、言わなかった。
まどかは、キュゥべえを抱え直した。
「いなくてもいい、じゃないよ」
キュゥべえは、まだ黙っている。
ほむらが、少し離れたところでそれを見ていた。
そして、低く言った。
「そうね」
全員がほむらを見る。
ほむらはキュゥべえを見ていた。
「あなたがいなくても続けられるかもしれない。でも、あなたがいない方がいいとは誰も言っていない」
キュゥべえは、赤い目でほむらを見る。
「それは、非合理ではないのかい」
「非合理でもいいわ」
ほむらは小さく息を吐く。
「あなたがいないと、困る」
キュゥべえは、また黙った。
杏子が肩をすくめる。
「だから言ったろ。残機ねえなら、後ろ下がってろって」
さやかも頷く。
「マスコットは守られる側」
マミが微笑む。
「保護対象が勝手に前へ出ると、困るわ」
キュゥべえは、まどかの腕の中でじっとしていた。
「この扱いは、やはり想定していなかった」
「慣れて」
まどかが言った。
キュゥべえは少しだけ考えた。
「努力する」
それだけ言って、白い獣はもう一度、ほどけていく結界の跡を見た。
四人の魔法少女は想定以上に強かった。
魔女が怯えたように見えるほどに。
だが、キュゥべえが最後まで見ていたのは、それだけではなかった。
勝った後、誰も一人になっていなかった。
それが、この実験の一番大きな値なのかもしれない。
キュゥべえは、それを報告書にどう書くべきか、まだ分からなかった。