魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
まどかの部屋の窓の外で、風が鳴っていた。
まだ雨は降っていないが、空は妙に重かった。雲が低く、街全体が何かの下敷きになっているように見える。天気予報では、数日後に大型の低気圧が来ると言っていた。
まどかはもう知っている。
それは、ただの嵐ではない。
ワルプルギスの夜。
何度もほむらを打ちのめし、まどかを契約へ追い込み、世界を巻き戻させてきたもの。
机の上では、キュゥべえが光の板を出していた。
そこには、また文字と図形が並んでいる。まどかには半分も分からない。最近は少しだけ分かるようになったこともある。
赤い線は杏子ちゃん。
黄色い線はマミさん。
青い線はさやかちゃん。
紫はほむらちゃん。
そして、薄い桃色の線が、時々それらの間に伸びる。
自分だ。
まどかは、それを見るたびに少しだけ困った気持ちになる。
「キュゥべえ」
「なんだい、まどか」
キュゥべえは振り返らなかった。
「ワルプルギスの夜って、どんな願いをしたの?」
そこで、白い獣の動きが止まった。
まどかはベッドの端に座ったまま、キュゥべえを見ていた。
「魔女になる前は、魔法少女だったんだよね」
「一般的には、そうだよ」
「じゃあ、あの魔女にも願いがあったんだよね」
キュゥべえは、少しだけ黙った。
「分からない」
まどかは瞬きした。
「キュゥべえにも分からないの?」
「分からないことはある」
「そっか」
「ワルプルギスの夜は、通常の魔女とは違う。単一の魔法少女が魔女化した結果として説明するには、構造が複雑すぎる。核になる願いは存在したかもしれない。けれど、今の形ではほとんど残っていない可能性が高い」
まどかは首を傾げた。
「残っていない?」
「願いは、魔法少女の自己認識に強く結びついている。けれどワルプルギスの夜は、複数の絶望、複数の魔女的構造、複数の因果が積み重なった災害に近い。元の願いがあったとしても、それはもう中心ではないかもしれない」
まどかは、少しだけ窓の外を見た。
「じゃあ、かわいそうだね」
キュゥべえは、今度こそ振り返った。
「かわいそう?」
「だって、願いも分からなくなってるんでしょ。何をしたかったのかも、何を守りたかったのかも、分からなくなってるなら」
「魔女に、その認識が残っているとは限らない」
「うん」
まどかは頷いた。
「でも、残ってないなら、それもかわいそうだよ」
キュゥべえはしばらく黙った。
まどかは、最近その沈黙の違いが少しだけ分かるようになってきた気がする。
計算している沈黙。
言葉を探している沈黙。
言わない方がいいと判断している沈黙。
今の沈黙がどれなのかは、まだ分からなかった。
「まどか」
「なに?」
「君は、ワルプルギスの夜にも同情するのかい」
「同情っていうか……」
まどかは膝の上で手を重ねた。
「怖いよ。すごく怖い。みんなを傷つけるなら、止めなきゃいけないと思う。でも、元は誰かの願いだったのかもしれないって思うと、何も感じないのは無理だよ」
「そうか」
「キュゥべえは、感じない?」
「僕には、君たちのような感情はない」
「うん」
「ただ」
キュゥべえは、光の板へ目を戻した。
「今の君の反応は、記録する価値がある」
まどかは苦笑した。
「またそれ?」
「でも、今は口に出すべきではなかったかもしれない」
「もう出しちゃったよ」
「そうだね」
まどかは少しだけ笑った。
窓の外へ目を向けたところで、さっきの話が頭の中でもう一度つながった。
ワルプルギスの夜は、普通の魔女とは違う。
一人の魔法少女が絶望して、そのまま魔女になったものでは説明しきれない。いくつもの魔女的な構造や因果が重なっているのかもしれないと、キュゥべえは言った。
なら。
「ねえ、キュゥべえ」
「なんだい」
「この前、言ってたよね」
キュゥべえがまどかを見る。
「魔法少女を魔女にしなくても、その方が長い目で見れば得になるかもしれないって」
「言ったね」
「それがうまくいったら、新しく魔女になる子は減るんだよね」
「従来方式を完全に置き換えられれば、そうなる」
まどかは頷いた。
そこまでは分かっている。
「でも、ワルプルギスの夜が、一人の魔法少女が魔女になっただけのものじゃないなら」
窓の外では、低い雲が街を覆っている。
「魔法少女が魔女にならなくなっても、ああいうものは生まれるの?」
キュゥべえは、すぐに否定しなかった。
「その可能性は高い」
まどかの背中が少し冷たくなった。
「どういうこと?」
「人間は魔法少女でなくても絶望する。怒る。妬む。憎む。諦める。失う。そうした負の感情は、通常は魔女化ほど高密度にはまとまらない。けれど、条件が重なれば、集合して魔女に近い構造を作る可能性がある」
「人の気持ちだけで?」
「それだけではないよ」
キュゥべえは淡々と続ける。
「使い魔の成長、魔女の残滓、結界の断片、都市規模の不安、災害の予感、集団的な恐怖。そうしたものが同じ場所に重なれば、魔法少女の魔女化を経なくても、魔女に近い存在が発生する条件は成立する」
まどかは少し考えた。
「でも、それはまだ仮説なんだよね?」
「そうだよ」
「なのに、ずいぶん自信ありそうに言うんだね」
「仮説であることと、確度が高いことは矛盾しないよ」
「そういうものなの?」
「少なくとも、僕はそう判断している。既知の使い魔の成長過程、魔女消滅後の残留魔力、結界の形成条件、そして人間の感情変動を合わせれば、発生しないと考える方が不自然だ」
「でも、まだちゃんと見たことはないんだよね?」
「この条件が揃ったものを、通常の魔女化と切り分けて観測した例はない」
「じゃあ、分からないところもある」
「あるよ」
キュゥべえはまどかを見る。
「だから確かめるんだ」
まどかは、窓の外を見た。
重い雲、風に揺れる電線、どこか不安そうな街。
「ワルプルギスの夜も、そうなの?」
「可能性はある」
キュゥべえは言った。
「ワルプルギスの夜は、単一の魔女として説明しきれない。魔法少女由来の核を持ちながら、人間社会の負の感情、災害への恐怖、過去に発生した魔女構造を巻き込み、肥大化したものかもしれない」
まどかは少し考えた。
「それって、ほむらちゃんが何度戦っても止められなかったことと、関係あるの?」
「そう考えると、いくつかの観測結果と一致する」
「……倒せるの?」
キュゥべえは即答しなかった。
まどかは、その沈黙が少し怖かった。
「倒せる保証はない」
「うん」
「今回の目的は撃破ではない」
「夜を越えること」
「そうだよ」
キュゥべえは頷いた。
「鹿目まどかを契約させない。魔法少女を魔女化させない。誰も失わずに夜を越える。被害を抑える。ワルプルギスの夜を逸らす、通過させる、あるいは封じ込める。撃破は最優先条件ではない」
「でも、魔女がこれからも生まれるなら」
まどかは小さく言った。
「みんなは、ずっと戦わなきゃいけないの?」
「すぐには終わらない」
「そっか」
「ただし、新方式が安定すれば、魔法少女の損耗率は下がる。魔女化による連鎖的被害も抑えられる。感情変動は非破壊型でも回収できる。魔女に相当する構造が自然発生するなら、それへの対応も継続的な観測対象になる」
「そういう言い方」
「でも、つまり」
キュゥべえは、まどかを見た。
「魔法少女が魔女にならなければ宇宙がすぐ困る、というほど単純ではない」
まどかは少しだけ息を吐いた。
「よかった」
「よかった?」
「だって、みんなが魔女にならなくてもいいなら、よかった」
「それは、君が心配するべきことではない」
「え?」
キュゥべえは机の上から、まどかを見上げた。
「魔法少女システムの収支、宇宙の熱的死、魔女生成の代替経路、非破壊型感情変動運用。これらは僕が本体へ報告し、試験継続の根拠を示すべき問題だ」
「でも」
「まどか」
キュゥべえの声は、いつも通りだった。
まどかには少しだけ違って聞こえた。
「君は友達の心配をしていればいい」
まどかは目を丸くした。
「……キュゥべえ」
「なんだい」
「今の、ちょっと優しい」
「そうなのかい?」
「うん」
キュゥべえは少し考えるように黙った。
「僕は優しくなったわけではない」
「知ってる」
「君が宇宙規模の問題を背負おうとすると、鹿目まどかの契約リスクが上がる。だから、君の注意を友人の安全へ戻すことは合理的だ」
「台無しだよ」
まどかは笑った。
でも、少しだけ泣きそうだった。
キュゥべえは本当に分かっているのか分からない。
それでも、今の言葉は確かにまどかの胸の中を軽くした。
宇宙の熱的死。
魔女。
ワルプルギスの夜。
人の負の感情。
全部、怖い。
でも、今まどかが一番心配したいのは、そこではなかった。
さやかちゃんが無茶をしないか。
マミさんが怖さに押し潰されないか。
杏子ちゃんが一人で抱え込まないか。
ほむらちゃんがまた一人で戻ろうとしないか。
キュゥべえが勝手に飛び出して死なないか。
それでいいのだと、キュゥべえが言った。
「ねえ、キュゥべえ」
「なんだい」
「キュゥべえの心配もしていい?」
キュゥべえは黙った。
まどかは、少しだけ笑う。
「だめ?」
「だめではない」
「じゃあ、するね」
「僕は友達に含まれるのかい?」
まどかは少し考えた。
「うーん」
「迷うんだね」
「だって、キュゥべえはキュゥべえだから」
「説明になっていない」
「でも、心配はするよ」
キュゥべえは、また黙った。
今度の沈黙は、どれなのか分からなかった。
計算しているのか。
言葉を探しているのか。
言わない方がいいと思っているのか。
それとも、何か別のものなのか。
やがて、キュゥべえは言った。
「それは、ローカル改善試験の安定に寄与するかもしれない」
「うん」
まどかは笑った。
「そういうことにしておくね」
窓の外で、風がまた強くなった。
ワルプルギスの夜は近づいている。
それでも、まどかはベッドの上で膝を抱えながら、少しだけ息を整えることができた。
宇宙の心配は、今はキュゥべえに任せる。
自分は、友達の心配をする。
それが、今のまどかにできる一番大事なことなのだと、少しだけ思えた。