魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
ワルプルギスの夜は、空の上で、逆さまのまま笑っていた。
嵐の中心に浮かぶ巨大な影は、まるで舞台装置のようだった。歯車が軋み、瓦礫が回り、壊れた建物の破片が風に巻き上げられている。そのすべての中心で、魔女は笑っていた。四人は押されていなかった。
少なくとも、ほむらにはそう見えた。
「佐倉さん、右!」
マミの声が飛ぶ。
「見えてる!」
杏子の槍が伸びる。
赤い光が、空中を走った。槍は途中で節に分かれ、瓦礫の間を縫い、ワルプルギスの夜から落ちてきた巨大な車輪を絡め取る。普通なら押し潰される質量だった。
だが、杏子は受け止めない。軌道をずらす。
「さやか!」
「任せて!」
さやかが叫びながら飛び込む。
青い剣が、逸らされた車輪の端を叩く。斬るというより、弾く。杏子がずらした角度を、さらに変える。
車輪は、四人の頭上をかすめ、市街地とは反対側へ飛んだ。
その先に、マミのリボンが広がる。
黄色い幕が何重にも重なり、衝撃を受け止める。完全には止められない。だが、速度が落ちる。方向が変わる。瓦礫は高台の奥の空き地へ落ち、地面を大きく揺らした。
「上!」
ほむらが言った。
言い終わる前に、もう動いていた。
時間を止める。いや、止めない。
以前なら、そうしていた。
世界を丸ごと止めて、自分だけが動いた。その中で武器を置き、爆薬を並べ、何とかしてこの化け物を削ろうとしていた。
今は違う。
一瞬だけ遅らせる。
半拍だけずらす。
次の位置を見て、そこへ身体を置く。
それだけで足りる。
足りることに、ほむら自身が一番驚いていた。
さやかが動く。杏子が受ける。マミが広げる。まどかが後ろで息を呑む。キュゥべえが黙って見ている。
それらが全部、分かる。
ただ敵を見るのではない。
ただまどかを守るのではない。
誰がどこにいて、何をしようとしていて、何を怖がっていて、それでも前へ出ようとしているのか。
分かる。
分かるだけで、ここまで変わるのか。
ほむらは、落ちてきた鉄骨の軌道へ銃弾を置いた。
弾が鉄骨に当たり、わずかに角度が変わる。
その先へ、杏子の槍が入る。
「よし!」
赤い槍が鉄骨を絡め、振り回すように弾いた。
さやかが、その下を抜ける。
「マミさん!」
「ええ!」
マミのリボンがさやかの足場になる。
青い魔法少女は、黄色いリボンを蹴って空へ上がった。足元でリボンがしなる。さやかの身体は以前より重い。だが、それは鈍さではなかった。踏み込める重さだった。
「届く!」
さやかの剣が、ワルプルギスの夜の外縁を斬った。
青い光が走る。
巨大な魔女は、笑っていた。
ずっと笑っていた。
斬られても、撃たれても、縛られても、槍で軌道を崩されても。
笑っている。
「効いてるの、これ!」
さやかが着地しながら叫んだ。
「効いてる!」
キュゥべえの声が、まどかの腕の中から返ってきた。
白い獣は、珍しく前へ出なかった。
まどかに抱えられたまま、赤い目だけをワルプルギスの夜へ向けている。
「観測できるものが変わっている。魔力構造の外層に揺らぎが出ている」
「ほむら。君が教えてくれた過去の戦闘記録では、ここは反応していなかった」
「ええ」
「今は反応している」
「見た目じゃ分かんねえぞ!」
杏子が怒鳴る。
「見た目には分からない」
「じゃあ不安にさせんな!」
「でも効いている」
キュゥべえは言った。
「それは確実だ」
その声だけは、妙に強かった。
ほむらは空を見た。
ワルプルギスの夜は、まだ笑っている。
何も変わっていないように見える。
だが、ほむらにも分かった。
以前とは違う。
過去の時間軸で、何度もこの魔女に挑んだ。
何度も武器を使った。
何度も爆発させた。
何度も止めようとした。
――そのどれとも違う。
今、ワルプルギスの夜は、ただ通り過ぎているのではない。
こちらに反応している。
「マミ!」
ほむらが叫ぶ。
「拘束、もう一度!」
「分かったわ!」
黄色いリボンが空へ伸びる。
ワルプルギスの夜の巨大な歯車に絡みつく。普通なら、千切れる。だが、今のマミのリボンは千切れなかった。引きずられながらも、ほどけず、粘る。
マミの足元が滑る。
さやかが駆け寄る。
「マミさん!」
「前を見て、美樹さん!」
声に震えはなかった。怖くないわけではない。
だが、恐怖に身体を奪われてはいなかった。
さやかは歯を食いしばり、前へ向き直る。
杏子がマミのリボンに槍を絡めた。
「引くぞ!」
「ええ!」
黄色と赤が重なる。
ワルプルギスの夜の巨体が、ほんのわずかに傾いた。
ほんのわずか。
だが、傾いた。
ほむらは息を呑む。
今まで、これほど明確に動かせたことがあっただろうか。
――いや、ない。
「ほむらちゃん!」
まどかの声。
ほむらは振り返らない。
振り返らなくても分かる。
まどかが自分を見ている。
怖がってはいるが、信じてもいる。
それだけで、紫の光が静かに脈打った。
ほむらは盾を構えた。
「合わせるわ」
さやかが剣を構えるのと同時に、杏子が槍を引き、マミのリボンが魔女の身体へ食い込む。
まだ、わずかにずれている。
ほむらは時間を刻んだ。
ほんの一瞬だけ止める。
杏子の槍が張り切る直前で待たせ、その間にマミの拘束がもう半歩だけ深く入る。
流す。
魔女の身体が引かれ、姿勢が崩れる。
そこでまた止める。
今度は、踏み込みかけたさやかの足が床を蹴り切るまでの差を詰める。
再開。
赤い槍が魔女を引き、黄色いリボンが逃げる方向を封じ、その崩れた正面へ青い影が滑り込む。
ほむらの銃口も、同じ瞬間に上がった。
一秒を奪うのではない。
必要なのは、四人の動きの間に残った、ごくわずかなずれだけだった。
誰かが早い。
誰かが半歩遅い。
呼吸が合っていても、武器の重さも、踏み込む速さも違う。その差が、ほんの一瞬だけ攻撃をばらけさせる。
ほむらは、その隙間へ時間停止を差し込んだ。
早すぎる動きを待たせ、遅れた動きが追いつくまで、ほんのわずかだけ世界を刻む。
コンマ一秒にも満たないずれが、一つずつ消えていく。
四人の動きが、同じ一点へ収束する。
「今!」
ほむらの声と同時に、四人が動いた。
マミのリボンが魔女の身体を締め上げるのと同時に、杏子の槍が逆方向へ強く引いた。
その二つの力で姿勢が崩れたところへ、さやかの剣が青い軌跡を引いて走り、ほとんど同じ瞬間、ほむらの銃弾が開いた隙間へ撃ち込まれる。
拘束と牽引で作られた一瞬の崩れへ、斬撃と銃撃が重なった。
ワルプルギスの夜の笑いが、ほんの少しだけ乱れた。
ほんの少し。
けれど、確かに。
まどかはそれを聞いた。
笑い声が、揺れた。
「……今」
まどかが呟く。
「キュゥべえ」
「観測している」
キュゥべえは言った。
「今のは、明確な反応だ」
「効いてる?」
「効いている」
キュゥべえは、まどかの腕の中で大人しくしていた。
前へ出ない。飛び出さない。ただ、見ている。その赤い目は、いつもよりも強く四人を追っていた。
「四人の相互補助は、予測を上回っている。個々の攻撃出力だけではない。互いの位置、意図、恐怖、期待。それらが魔力運用に影響している」
「それって」
まどかは言った。
「みんなが、お互いを分かってるってこと?」
キュゥべえは少しだけ黙った。
「今はその言葉が、概ね正しい」
まどかは、泣きそうになりながら笑った。
「そっか」
戦いは長引いた。
ワルプルギスの夜は、倒れない。
明らかに四人は善戦している。
誰が見ても、以前とは違う。
ほむらが一人で挑んだ時間とは違う。
マミが一人で守ろうとした戦いとも違う。
杏子が生き残るためだけに戦っていた戦いとも違う。
さやかが壊れるまで突き進んでいたはずの戦いとも違う。
だが、ワルプルギスの夜はまだ笑っている。
効いているようにも見える。
効いていない気もする。
どちらにも見える。
その曖昧さが、四人の体力と心を削った。
「このままじゃ、埒が明かないわ」
マミが息を整えながら言った。
「だな」
杏子も槍を構え直す。
「削れてるとしても、こっちの方が先に潰れる」
「でも、効いてるんだよね」
さやかが言う。
「なら、もっと強く叩けばいい」
ほむらは、キュゥべえを見た。
「あなたの望みそうなことね」
「僕の望み?」
「四人の魔法を、一つの処理として接続する。そう言うのでしょう」
キュゥべえは、まどかの腕の中で少しだけ首を傾げた。
「その表現は、かなり正確だ」
「褒めなくていいわ」
「褒めてはいない。評価している」
杏子が笑った。
「じゃあ、やるか。キュゥべえが喜びそうなやつ」
「なんであんたまでそっち側の言い方すんのよ!」
さやかが叫ぶ。
マミは、空を見上げた。
ワルプルギスの夜は笑っている。
笑い続けている。
それでも、その笑いの奥に、ほんのわずかな揺らぎがある。
「やりましょう」
マミが言った。
「これで届かないなら、次を考える。今は届くところまで行くしかないわ」
ほむらは頷いた。
「合わせる」
杏子が槍を握り直す。
「外すなよ、さやか」
「そっちこそ!」
さやかが剣を構える。
まどかは、四人を見ていた。
キュゥべえを抱く腕に、少しだけ力が入る。
「みんな」
声は風に消えそうだったが、四人には届いた。
「がんばって」
その瞬間、四つの光が強くなった。
黄、赤、青、紫。
それぞれ別の色だった光が、魔女を中心に一度だけ重なる。
黄色の縁へ赤が差し込み、その上を青が走り、最後に紫が輪郭を締める。
混ざりきって一色になるのではない。四つの色を残したまま、ひとつの光景として重なっていた。
ワルプルギスの夜の笑いが、また一瞬だけ揺れた。
戦いは、まだ終わらない。
これまでは、四人の攻撃を重ねてきた。
次は、それをひとつにする。