魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
四人は、止まった。
瓦礫の上に、ばらばらに投げ出されていた。
マミのリボンが、最後の最後まで四人を包んでいた。黄色い布のような光は、衝撃を受け止めきれずに何層も裂けている。それでも、完全には千切れていなかった。
杏子の槍は、地面に深く突き立っていた。赤い節が何本も伸び、さやかの身体と、マミの足元と、ほむらの盾の縁を辛うじて引っかけている。もしそれがなければ、もっと遠くまで吹き飛ばされていたかもしれない。
さやかは、瓦礫の上に片膝をついていた。剣は手から離れていない。
ほむらは盾を構えたまま、地面に片手をついている。胸の奥が軋む。今の一撃は、時間を遅らせても重かった。遅らせたからこそ、どれだけ重いか分かった。
しばらく、誰も動かなかった。
まどかの声だけが聞こえた。
「みんな……!」
返事をしたのは、さやかだった。
「……痛ったぁ」
その声が、あまりにも普通だった。普通に痛がっていた。
命が消えかけた声ではなかった。
さやかは剣を杖のようにして、ゆっくり立ち上がる。
「今のは、痛かったなあ」
杏子が、瓦礫の向こうで小さく笑った。
「軽いな、お前」
「いや、痛いもんは痛いでしょ」
「そりゃそうだ」
杏子も立ち上がった。槍を引き抜く。地面に深く刺さった穂先が、嫌な音を立てて抜けた。杏子は肩を回し、顔をしかめる。
「……くそ。腕持ってかれるかと思った」
「佐倉さん、大丈夫?」
マミが聞く。
マミも立っていた。
リボンは何本も裂けていたが、彼女自身は倒れていなかった。帽子が少し歪み、髪が乱れている。
それでも、立っている。
「大丈夫だよ。マミの方こそ」
「ええ」
マミは胸元に手を当てた。
「痛いけれど、動けるわ」
ほむらも、ゆっくり立ち上がった。
盾を下ろす。左腕が痺れている。指先が冷たい。胸元のソウルジェムは、少し強く脈打っていた。だが、濁ってはいない。
――今のを、四人で受けた。
防いだわけではない。完全に止めたわけでもない。
吹き飛ばされたし、痛かった。
傷もある。けれど、生きている。
誰も砕けていない。
誰も消えていない。
今までなら。
ほむらは、息を吐いた。
今までなら、これで終わっていた。
マミのソウルジェムが砕けていたかもしれない。
杏子の身体が千切れていたかもしれない。
さやかが動かなくなっていたかもしれない。
自分は時間を戻すしかなかったかもしれない。
まどかは、契約していたかもしれない。
でも、そうはならなかった。
「……今のを防げただけでも」
ほむらは、空を見上げた。
「今までとは違う」
ワルプルギスの夜は、そこにいた。
笑っていなかった。
巨大な魔女は、起き上がったような姿勢のまま、空に浮かんでいる。歯車も、瓦礫も、舞台装置も、回ってはいる。あの耳障りな笑い声は消えていた。
ただ、見ている。見ているように見える。
ほむらは、思わず魔女を睨みつけた。
こんなワルプルギスの夜は、見たことがなかった。
何度も見た。
何度も挑んだ。
何度も敗れた。
笑いながら街を壊し、笑いながら魔法少女を叩き潰し、笑いながら嵐のように過ぎていく災害。
それが、今は笑っていない。
「……何で」
さやかが剣を構え直した。
「何もしてこないの」
杏子も槍を構える。
「罠か?」
マミのリボンが、静かに広がった。
「分からないわ。でも、気を抜かないで」
ほむらは、ワルプルギスの夜から目を離さなかった。
次が来る。ほむらは、そう思っていた。
瓦礫かもしれない。風かもしれない。巨大な歯車を落としてくるかもしれないし、さっきのように時間と空間の境目そのものを曖昧にして、一度では受けきれない攻撃を重ねてくるかもしれない。
どれが来ても対応できるよう、盾にはもう手をかけている。
視界の端では、マミもリボンを広げたまま動いていない。杏子の槍も下がらず、さやかも剣を構え直している。誰も終わったとは思っていなかった。
なのに、来ない。
ワルプルギスの夜は、空に浮かんだままだった。
歯車は回っている。周囲の瓦礫もまだ魔力の流れに巻かれ、ゆっくりと空を巡っている。魔力反応そのものが弱くなった様子もないし、先ほどの一撃で動けなくなったとも思えない。
それでも、こちらへの攻撃だけが途絶えていた。
ほむらは眉を寄せた。
一秒が過ぎる。
さらに一秒。
戦いの最中なら、それだけでも長すぎる。
これほど立て直す時間を与えられたことが、今までにあっただろうか。
ワルプルギスの夜は、いつも止まらなかった。笑いながら瓦礫を降らせ、街ごと風に巻き込み、こちらが次の手を考えるより先にまた攻撃を重ねてくる。
何度も見た。
何度も、その速さに追いつけずに負けた。
だからこそ、ほむらには分かった。
これは休んでいるのではない。
弱っているのでもない。
何かが違う。
今のワルプルギスの夜は、おかしい。
「……何をしているの」
ほむら自身、誰に問いかけたのか分からなかった。返事などあるはずもない。
ワルプルギスの夜は、ただこちらを向いたまま空に浮かんでいる。
笑わない。襲ってこない。進みもしない。
それが、ほむらには攻撃されるより気味が悪かった。
攻撃なら、まだ分かる。避けるか、止めるか、逸らすか。どうしても間に合わなければ、時間を戻す。
何度もそうしてきた。
けれど、何もしないワルプルギスの夜を、ほむらは知らない。
「……何待ってんだ、こいつ」
杏子の声がした。
ほむらは答えられなかった。
待っているとしても、何を待っているのか。
こちらが動くことか。魔力を使い切ることか。それとも、さっき四人で放った一撃が、ワルプルギスの夜の中で何かを変えたのか。
どれも確かめようがない。
分からないということ自体が、ひどく不快だった。
ワルプルギスの夜は、ほむらにとってずっと災害だった。
意図を読む必要などなかった。笑いながら現れ、街を壊し、魔法少女を押し潰し、そのまま通り過ぎていく。
何度敗れても、その在り方だけは変わらなかった。
だから、倒せなかったとしても、何をしてくるのかは知っていた。
今は違う。
こちらを見た。
明確に狙って攻撃した。
そして、そのあとで止まった。
ほむらは、空に浮かぶ巨大な影を見つめる。
まるで――こちらを見たうえで、次にどうするかを考えているように。
ほむらは、その考えが浮かんだ瞬間、自分で否定したくなった。
ワルプルギスの夜が、こちらを見て、何かを判断している。
そんなものを、自分は一度も見たことがない。
魔女が何もしてこない。そんなことがあったか。
少なくとも、自分の知る時間にはなかった。
ワルプルギスの夜は災害だった。
止まらず、考えず、待たない。
ただ、笑って壊す。
それが今、止まっている。
四人は、誰からともなく動いた。
さやかが半歩下がり、杏子の槍の届く範囲へ入る。杏子はその動きを見ずに、自然と斜め前へ出た。さやかの前に立つのではなく、さやかが踏み込める横を空ける位置。
マミは後方へ下がる。逃げるためではない。四人全員をリボンで包める距離を取るためだった。
ほむらは、その三人の位置を見て、自然と中心線から少し外れた場所へ移動した。
時間を合わせる位置。
四人は、命令されずに連携できる距離へ寄っていた。
ワルプルギスの夜が、それを見たのか。あるいは、見てすらいなかったのか。
分からない。
巨大な魔女は、しばらくそのままだった。
本当に、何もしなかった。
笑わない。
攻撃しない。
瓦礫を落とさない。
風を強めない。
ただ、四人を見下ろすように浮かんでいる。
まどかは、キュゥべえを抱いたまま、その光景を見ていた。腕の中のキュゥべえは、いつもなら何か言ったはずだった。
観測不能。
反応が変わった。
魔力構造がどうとか。
感情に類似する揺らぎがどうとか。
でも、何も言わなかった。
まどかは少しだけ腕に力を込める。
「キュゥべえ?」
白い獣は、答えた。
「見ている」
それだけだった。
ワルプルギスの夜が、ゆっくり動いた。
四人が同時に身構える。
だが、攻撃ではなかった。
巨大な身体が、再び傾く。
起き上がっていたように見えた姿が、また裏返っていく。まるで、興味を失った子どもが、手に取った玩具を床へ置くように。
笑い声は戻らない。
ただ、風が変わった。
魔女の周囲を回っていた瓦礫が、少しずつ遠ざかっていく。歯車が軋み、舞台装置のような影が空の奥へ流れていく。
「……去るの?」
マミが呟いた。
「追うか?」
杏子が聞く。
ほむらは答えられなかった。
追えるのか。
追うべきなのか。
追ったところで、倒せるのか。
さやかが剣を握りしめる。
「今なら、もう一回――」
「待って」
ほむらが言った。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「今の私たちは、生き残った。もう一度踏み込めば、今度こそ崩れるかもしれない」
さやかは唇を噛んだが、反論はしなかった。
杏子も、槍を下ろさないまま黙る。
マミは、静かに頷いた。
「勝利条件は、撃破ではない」
キュゥべえの声だった。
まどかの腕の中から、白い獣が言う。
「鹿目まどかは未契約。魔法少女損耗数ゼロ。魔女化移行数ゼロ。ソウルジェム破壊なし。ワルプルギスの夜は、見滝原中心部への進行を停止し、逸脱しつつある」
さやかが、少しだけ笑った。
「つまり?」
キュゥべえは答えた。
「勝ったとは言えない」
杏子が鼻を鳴らす。
「そこから言うなよ」
「でも、負けていない」
四人は、空を見上げた。
ワルプルギスの夜は遠ざかっていく。笑わないまま。
朝の光が、少しずつ空の端に広がっていた。
ほむらは、盾を下ろした。
まだ終わっていないのかもしれない。
また来るのかもしれない。
何かを残していくのかもしれない。
それでも。
今、時間は戻っていない。
まどかは契約していない。
四人は立っている。
ワルプルギスの夜は、去っていく。
ほむらは、息を吸った。胸が痛い。腕も痛い。身体中が軋んでいる。その痛みすら、今は確かだった。今が、続いている。
「……終わったの?」
まどかの声がした。
ほむらは振り返らなかった。
空を見たまま答えた。
「分からないわ」
少しだけ間を置く。
そして言った。
「でも、今は続いている」
風が吹いた。それはもうワルプルギスの夜の風ではない。
髪や衣装を乱暴に叩くのではなく、高台を静かに抜けていく、ただの夜風だった。
雲の向こうが少しずつ白み、夜が薄れていく。
四人は、まだ並んで立っていた。