魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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30. 賭けは僕の勝ちだったね

 最後まで、なぜ戦うのをやめたのかは分からなかった。

 笑い声を取り戻すことも、もう一度こちらを見ることもなく、ワルプルギスの夜は朝の空へ遠ざかっていく。

 

 倒したわけではない。

 追い払ったのかさえ分からない。

 ただ確かなのは、あの災害が、自分からこの戦いを終わらせたということだけだった。

 

 朝の光が、嵐の名残を薄く照らしている。空にはまだ黒い雲が残っていた。瓦礫は街のあちこちに散り、風はまだ強い。それでも、あの巨大な影は遠ざかっていた。

 

 もう追えない。

 正確には、戦えないわけではなかった。

 

 マミが手を上げれば、黄色いリボンはまだ生まれる。ただ、いつものように思った瞬間に形を取るのではなく、光が一度揺れてから、わずかに遅れて編み上がった。魔力が尽きているのではない。長い戦闘で集中が乱れ、細かな制御に時間がかかっている。

 

 杏子も槍を握っている。さやかも剣を手放していない。ほむらの盾もまだ動く。

 

 四人の胸元では、それぞれのソウルジェムが濁ることなく光っていた。

 ただ、その光は静かではない。

 黄色も、赤も、青も、紫も、激しい戦いの名残を残すように細かく波打ち、息を整えるたびに、心臓の鼓動へ重なるように脈打っている。

 

 魔力は残っている。身体も動く。

 今ここへ普通の魔女が現れたなら、四人ともまだ武器を取れただろう。

 

 だが、相手はワルプルギスの夜だった。

 

 ほむらは遠ざかる巨大な影を見た。

 もう一度あれを振り向かせれば、次も同じように耐えられる保証はない。

 

 今度はマミのリボンが間に合わないかもしれない。杏子の槍が軌道を外せないかもしれない。さやかの踏み込みが半歩遅れるかもしれない。自分の時間制御も、同じ精度では重ねられないかもしれない。

 

「……追わない」

 ほむらが言った。

 

 マミは一度だけ自分の胸元の光を確かめ、それから頷いた。

 杏子も槍を下ろす。さやかは剣を握ったまま、長く息を吐いた。

 

 戦えなくなったからではない。

 ここで戦いを終える方がいいと、四人とも分かったからだった。

 

 四人の魔法少女は、しばらく空を見上げていた。

 誰も勝ったとは言わなかった。

 誰も負けたとも思っていなかった。

 

 まどかは、キュゥべえを抱いたまま、震える息を吐いた。

「……行っちゃった」

「そうだね」

 キュゥべえは、腕の中で答えた。声はいつも通りだった。

 少なくとも、まどかには最初そう聞こえた。

 

「まどか」

「なに?」

「下ろして」

 

 まどかは、少しだけ首を傾げた。

「キュゥべえ?」

「今のうちに、するべきことがある」

 その言葉に、まどかは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 でも、キュゥべえはいつものように見えた。白い身体。赤い目。丸い耳。長い尾。

 まどかは、ゆっくりとキュゥべえを地面に下ろした。

 

 キュゥべえは、瓦礫の少ない場所へ歩いた。

 歩く。その動きが、少しだけおかしかった。

 

 一歩。

 もう一歩。

 

 まどかは、ようやく気づいた。

 キュゥべえの白い身体の横腹に、細い亀裂のようなものが入っていた。毛並みの下で、赤くも黒くもない、見たことのない色の光が漏れている。

「キュゥべえ……?」

 返事はなかった。

 

 キュゥべえの前に、薄い光の板が浮かぶ。

 いつもの報告書。けれど、光が弱い。文字が、何度か乱れた。

 

 四人が戻ってきた。

 さやかは剣を引きずるように持っていた。杏子は槍を肩に担いでいるが、足取りは重い。マミはリボンを戻しながら、まどかの顔を見てすぐに異変に気づいた。ほむらは、誰よりも早くキュゥべえを見た。

 

 「キュゥべえ」

 白い獣は振り返らなかった。

「今回の試験は、本体の審査を通るだけのものになった」

 

 いつもの調子だった。

 それでも、どこかが違った。

 

「鹿目まどか、未契約。魔法少女損耗数、ゼロ。魔女化移行数、ゼロ。ソウルジェム破壊、なし。ワルプルギスの夜、撃破には至らず。ただし見滝原中心部への進行を逸脱。都市被害、予測を大きく下回る」

 

 さやかが口を開きかけた。

 いつもなら、言っていた。

「どうやって書いてるの」とか。

「今それ言う?」とか。

「報告書は後でいいでしょ」とか。

 でも、言えなかった。

 

 キュゥべえの声が、だんだん弱くなっている。

「非破壊型感情変動運用は、単発出力で希望絶望相転移方式に劣る可能性あり。ただし、対象個体群の継続稼働、相互補助、魔女化抑制、周辺個体への安定化効果を含めると、累積収支で上回る可能性が高い」

 

 杏子が歯を食いしばった。

 もっと他に言うことがあるだろ。

 そう言いたかった。

 でも、今はそういう場面ではなかった。

 

 キュゥべえは続けた。

「僕がいなくなっても、君たちにはこれ以上の迷惑は……」

 そこで、声が途切れた。

 

 白い身体が、小さく揺れる。

「……かからない」

 まどかの喉が詰まった。

「キュゥべえ、何言ってるの」

 

 マミがすぐに動いた。

「見せて」

 

 キュゥべえの横に膝をつく。

「巴マミ。君が手当てをする必要性を感じない」

「黙っていて」

 マミはリボンを細くほどくと、傷の位置を一度確認し、裂けた部分を避けて身体へ巻き、必要なところだけを締めて、最後にずれないよう固定した。

 

 キュゥべえは少しだけ首を傾げた。

「もうこの身体は持たない。処置しても効率が悪い」

「聞いていないわ」

 マミの声は静かだったが、少し震えていた。

「あなたが必要性を感じなくても、私はするの」

 

 キュゥべえはほんの少しだけ、黙った。 

「わけがわからないよ」

 その言葉は、いつもの口調だった。

 

 まどかには初めて、本当に分かっていないように聞こえた。

 

 ほむらがゆっくりと近づいた。

「あなた」

 声が低い。

「なんで」

 

 キュゥべえは、ほむらの方を見た。ただ、それまでより少し時間がかかった。

 赤い目が先に動き、遅れて首がついてくる。身体を起こそうと前脚へ力をかけたが、片方が途中で滑り、そのまま伏せた姿勢へ戻った。

 キュゥべえ自身は、そのことを気にした様子もない。

 

「なんだい」

「自分の身を守れたんじゃないの」

「保護処理はしていた」

 返事はいつも通りだった。尻尾を動かそうとしたのか、白い毛先が一度だけ震えて、そのまま止まる。

 

「していて、それなの?」

「ワルプルギスの夜の反応は、予測を超えていた」

「違う」

 

 ほむらは唇を噛んだ。

 キュゥべえはまた顔を上げようとしたが、今度は首を持ち上げきる前に動きを止め、赤い目だけをほむらへ向けた。

 

「あなた、自分の保護を削ったでしょう」

 しばらく返事がなかった。考えているのか、それとも単純に動作が遅れているのか、ほむらには分からない。

 

 やがてキュゥべえは言った。

「正確には、僕自身に割り当てていた予備資源を再配分した」

「どこへ」

「鹿目まどかと、君たち四人の保護外装へ」

 

 あまりにも当然のことを説明するような声だった。

 自分の身体が今にも動かなくなりそうなことは、その計算の中では特別な問題ではないらしい。

 

 ほむらの目が細くなる。

「だから、あなただけこんなことになっているの」

「そうだね」

「残機はもう担保に入れていたでしょう。この身体が壊れたら、以前みたいに交換できないことも分かっていた」

「分かっていたよ」

「それでも?」

「鹿目まどかには戦闘用の防御がない。君たち四人の外装も限界に近かった。五人を残すために、僕の保護資源を使う方が損耗期待値は低かった」

「……自分は数に入れなかったの」

「僕の損耗と、君たち五人の損耗を同じ重みで扱う理由はないよ」

 

 マミのリボンが、キュゥべえの身体を包んでいく。それは手当てというより、崩れそうなものを必死に留めようとしているようだった。

 

 キュゥべえは、そのまま光の板へ向き直る。

「報告を続ける」

「キュゥべえ!」

 さやかが叫んだ。

「今は、そんなことより――」

「今だから必要だ」

 白い獣の声は弱い。それでも、言葉だけは止まらなかった。

 

「この身体が動くうちに、送信しなければならない。君たちが成したことの大きさを、本体に報告しなければならない。僕の観測結果が途切れる前に」

 光の板に文字が走る。まどかには、その全部が読めたわけではなかった。でも、最後の方の文字だけは見えた。

 

 対象個体群は、従来方式における損耗予測を大幅に下回った。

 鹿目まどかへの高因果単独依存を回避。

 暁美ほむらの再遡行、未発生。

 巴マミ、佐倉杏子、美樹さやか、暁美ほむら、全員生存。

 尊厳概念、ローカル運用上の有効変数として再評価を申請。

 対象個体群は、壊れない方がよい。

 

 まどかの目に涙が浮かんだ。

「キュゥべえ……」

 キュゥべえの耳の輪が、かすかに光った。

 光の板が一度大きく揺れ、それから、細い線になって空へ伸びる。

 

 送信された。

 少なくとも、五人全員にはそう見えた。

 

 キュゥべえは、小さく息を吐いたように見えた。本当に息をしたのかどうかは分からない。

 でも、そう見えた。

「賭けは」

 キュゥべえが言った。

「僕の勝ちだったね」

 

 マミが顔を上げる。

「あなた、誰かと賭けをしていたの?」

「本体は、これが失敗する可能性を高く見積もっていた」

 キュゥべえは、赤い目を少しだけ細めたように見えた。

「僕の方が正しかったわけだ」

 

 杏子が、ひどく苦い顔をした。

「そんなこと言ってる場合かよ」

「言っておく必要がある」

「何でだよ」

「僕の方が正しかったからだよ」

 

 さやかは、泣きそうな顔で怒った。

「子どもか!」

「僕は子どもではない」

「そういう意味じゃない!」

 

 まどかは膝をついた。

 キュゥべえのそばに、そっと手を置く。

 触れるのが怖かった。白い身体は、さっきより小さく見えた。

 

 マミのリボンが巻かれている。それでも、崩れていくものを止められていない。

「キュゥべえ」

「なんだい、まどか」

「痛い?」

「痛覚の定義による」

「そういうの、いいから」

 

 キュゥべえは少し黙った。

「分からない」

「分からないの?」

「ただ、機能が低下している。視覚情報も少し乱れている。音声出力も不安定だ。これが君たちの言う痛みに近いのかもしれない」

 

 まどかは、もう泣いていた。

「そんなの、痛いんだよ」

「そうなのかい」

「そうだよ」

 

 キュゥべえは、まどかを見た。

「まどか」

「なに?」

「君は、友達の心配をしていればいいと言った」

「うん」

「だから、今は四人の心配をするべきだ」

 

 まどかは首を横に振った。

「キュゥべえの心配もするって言ったよ」

「そうだったね」

 キュゥべえは、少しだけ黙った。

「君は、約束をよく覚えている」

「覚えてるよ」

 

 ほむらは、まどかの横に立っていた。

 何も言えなかった。

 

 キュゥべえが弱っている。

 死にかけている。

 その事実が、現実として目の前にある。

 

 今まで、何度撃っても戻ってきた白い獣が――今度は、戻ってこないかもしれない。

 

 マミがリボンをさらに強く巻いた。

「まだ、諦めないで」

「巴マミ」

「黙って」

「君は、僕に対して黙ってという頻度が高い」

「今は増やしているの」

「そうかい」

 

 杏子が、そっと視線を逸らした。

 さやかは剣を握ったまま、何もできずに立っていた。

 

 朝日が、少しずつ瓦礫の街を照らし始める。

 ワルプルギスの夜は去った。

 誰も失わなかったはずだった。

 そのはずだったのに。

 

 白い獣だけが、朝の光の中で、ぼろぼろになっていた。

 

 キュゥべえは、それでも報告書の最後を見ていた。

 送信済み。その文字だけが、薄く残っていた。

 

「よかった」

 キュゥべえが言った。

「これで、少なくとも試験は続く」

「キュゥべえ」

 

 まどかの声が震える。

「あなたは?」

 キュゥべえは答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 それでも、赤い目だけは、まどかを見ていた。

 

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