魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
最後まで、なぜ戦うのをやめたのかは分からなかった。
笑い声を取り戻すことも、もう一度こちらを見ることもなく、ワルプルギスの夜は朝の空へ遠ざかっていく。
倒したわけではない。
追い払ったのかさえ分からない。
ただ確かなのは、あの災害が、自分からこの戦いを終わらせたということだけだった。
朝の光が、嵐の名残を薄く照らしている。空にはまだ黒い雲が残っていた。瓦礫は街のあちこちに散り、風はまだ強い。それでも、あの巨大な影は遠ざかっていた。
もう追えない。
正確には、戦えないわけではなかった。
マミが手を上げれば、黄色いリボンはまだ生まれる。ただ、いつものように思った瞬間に形を取るのではなく、光が一度揺れてから、わずかに遅れて編み上がった。魔力が尽きているのではない。長い戦闘で集中が乱れ、細かな制御に時間がかかっている。
杏子も槍を握っている。さやかも剣を手放していない。ほむらの盾もまだ動く。
四人の胸元では、それぞれのソウルジェムが濁ることなく光っていた。
ただ、その光は静かではない。
黄色も、赤も、青も、紫も、激しい戦いの名残を残すように細かく波打ち、息を整えるたびに、心臓の鼓動へ重なるように脈打っている。
魔力は残っている。身体も動く。
今ここへ普通の魔女が現れたなら、四人ともまだ武器を取れただろう。
だが、相手はワルプルギスの夜だった。
ほむらは遠ざかる巨大な影を見た。
もう一度あれを振り向かせれば、次も同じように耐えられる保証はない。
今度はマミのリボンが間に合わないかもしれない。杏子の槍が軌道を外せないかもしれない。さやかの踏み込みが半歩遅れるかもしれない。自分の時間制御も、同じ精度では重ねられないかもしれない。
「……追わない」
ほむらが言った。
マミは一度だけ自分の胸元の光を確かめ、それから頷いた。
杏子も槍を下ろす。さやかは剣を握ったまま、長く息を吐いた。
戦えなくなったからではない。
ここで戦いを終える方がいいと、四人とも分かったからだった。
四人の魔法少女は、しばらく空を見上げていた。
誰も勝ったとは言わなかった。
誰も負けたとも思っていなかった。
まどかは、キュゥべえを抱いたまま、震える息を吐いた。
「……行っちゃった」
「そうだね」
キュゥべえは、腕の中で答えた。声はいつも通りだった。
少なくとも、まどかには最初そう聞こえた。
「まどか」
「なに?」
「下ろして」
まどかは、少しだけ首を傾げた。
「キュゥべえ?」
「今のうちに、するべきことがある」
その言葉に、まどかは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
でも、キュゥべえはいつものように見えた。白い身体。赤い目。丸い耳。長い尾。
まどかは、ゆっくりとキュゥべえを地面に下ろした。
キュゥべえは、瓦礫の少ない場所へ歩いた。
歩く。その動きが、少しだけおかしかった。
一歩。
もう一歩。
まどかは、ようやく気づいた。
キュゥべえの白い身体の横腹に、細い亀裂のようなものが入っていた。毛並みの下で、赤くも黒くもない、見たことのない色の光が漏れている。
「キュゥべえ……?」
返事はなかった。
キュゥべえの前に、薄い光の板が浮かぶ。
いつもの報告書。けれど、光が弱い。文字が、何度か乱れた。
四人が戻ってきた。
さやかは剣を引きずるように持っていた。杏子は槍を肩に担いでいるが、足取りは重い。マミはリボンを戻しながら、まどかの顔を見てすぐに異変に気づいた。ほむらは、誰よりも早くキュゥべえを見た。
「キュゥべえ」
白い獣は振り返らなかった。
「今回の試験は、本体の審査を通るだけのものになった」
いつもの調子だった。
それでも、どこかが違った。
「鹿目まどか、未契約。魔法少女損耗数、ゼロ。魔女化移行数、ゼロ。ソウルジェム破壊、なし。ワルプルギスの夜、撃破には至らず。ただし見滝原中心部への進行を逸脱。都市被害、予測を大きく下回る」
さやかが口を開きかけた。
いつもなら、言っていた。
「どうやって書いてるの」とか。
「今それ言う?」とか。
「報告書は後でいいでしょ」とか。
でも、言えなかった。
キュゥべえの声が、だんだん弱くなっている。
「非破壊型感情変動運用は、単発出力で希望絶望相転移方式に劣る可能性あり。ただし、対象個体群の継続稼働、相互補助、魔女化抑制、周辺個体への安定化効果を含めると、累積収支で上回る可能性が高い」
杏子が歯を食いしばった。
もっと他に言うことがあるだろ。
そう言いたかった。
でも、今はそういう場面ではなかった。
キュゥべえは続けた。
「僕がいなくなっても、君たちにはこれ以上の迷惑は……」
そこで、声が途切れた。
白い身体が、小さく揺れる。
「……かからない」
まどかの喉が詰まった。
「キュゥべえ、何言ってるの」
マミがすぐに動いた。
「見せて」
キュゥべえの横に膝をつく。
「巴マミ。君が手当てをする必要性を感じない」
「黙っていて」
マミはリボンを細くほどくと、傷の位置を一度確認し、裂けた部分を避けて身体へ巻き、必要なところだけを締めて、最後にずれないよう固定した。
キュゥべえは少しだけ首を傾げた。
「もうこの身体は持たない。処置しても効率が悪い」
「聞いていないわ」
マミの声は静かだったが、少し震えていた。
「あなたが必要性を感じなくても、私はするの」
キュゥべえはほんの少しだけ、黙った。
「わけがわからないよ」
その言葉は、いつもの口調だった。
まどかには初めて、本当に分かっていないように聞こえた。
ほむらがゆっくりと近づいた。
「あなた」
声が低い。
「なんで」
キュゥべえは、ほむらの方を見た。ただ、それまでより少し時間がかかった。
赤い目が先に動き、遅れて首がついてくる。身体を起こそうと前脚へ力をかけたが、片方が途中で滑り、そのまま伏せた姿勢へ戻った。
キュゥべえ自身は、そのことを気にした様子もない。
「なんだい」
「自分の身を守れたんじゃないの」
「保護処理はしていた」
返事はいつも通りだった。尻尾を動かそうとしたのか、白い毛先が一度だけ震えて、そのまま止まる。
「していて、それなの?」
「ワルプルギスの夜の反応は、予測を超えていた」
「違う」
ほむらは唇を噛んだ。
キュゥべえはまた顔を上げようとしたが、今度は首を持ち上げきる前に動きを止め、赤い目だけをほむらへ向けた。
「あなた、自分の保護を削ったでしょう」
しばらく返事がなかった。考えているのか、それとも単純に動作が遅れているのか、ほむらには分からない。
やがてキュゥべえは言った。
「正確には、僕自身に割り当てていた予備資源を再配分した」
「どこへ」
「鹿目まどかと、君たち四人の保護外装へ」
あまりにも当然のことを説明するような声だった。
自分の身体が今にも動かなくなりそうなことは、その計算の中では特別な問題ではないらしい。
ほむらの目が細くなる。
「だから、あなただけこんなことになっているの」
「そうだね」
「残機はもう担保に入れていたでしょう。この身体が壊れたら、以前みたいに交換できないことも分かっていた」
「分かっていたよ」
「それでも?」
「鹿目まどかには戦闘用の防御がない。君たち四人の外装も限界に近かった。五人を残すために、僕の保護資源を使う方が損耗期待値は低かった」
「……自分は数に入れなかったの」
「僕の損耗と、君たち五人の損耗を同じ重みで扱う理由はないよ」
マミのリボンが、キュゥべえの身体を包んでいく。それは手当てというより、崩れそうなものを必死に留めようとしているようだった。
キュゥべえは、そのまま光の板へ向き直る。
「報告を続ける」
「キュゥべえ!」
さやかが叫んだ。
「今は、そんなことより――」
「今だから必要だ」
白い獣の声は弱い。それでも、言葉だけは止まらなかった。
「この身体が動くうちに、送信しなければならない。君たちが成したことの大きさを、本体に報告しなければならない。僕の観測結果が途切れる前に」
光の板に文字が走る。まどかには、その全部が読めたわけではなかった。でも、最後の方の文字だけは見えた。
対象個体群は、従来方式における損耗予測を大幅に下回った。
鹿目まどかへの高因果単独依存を回避。
暁美ほむらの再遡行、未発生。
巴マミ、佐倉杏子、美樹さやか、暁美ほむら、全員生存。
尊厳概念、ローカル運用上の有効変数として再評価を申請。
対象個体群は、壊れない方がよい。
まどかの目に涙が浮かんだ。
「キュゥべえ……」
キュゥべえの耳の輪が、かすかに光った。
光の板が一度大きく揺れ、それから、細い線になって空へ伸びる。
送信された。
少なくとも、五人全員にはそう見えた。
キュゥべえは、小さく息を吐いたように見えた。本当に息をしたのかどうかは分からない。
でも、そう見えた。
「賭けは」
キュゥべえが言った。
「僕の勝ちだったね」
マミが顔を上げる。
「あなた、誰かと賭けをしていたの?」
「本体は、これが失敗する可能性を高く見積もっていた」
キュゥべえは、赤い目を少しだけ細めたように見えた。
「僕の方が正しかったわけだ」
杏子が、ひどく苦い顔をした。
「そんなこと言ってる場合かよ」
「言っておく必要がある」
「何でだよ」
「僕の方が正しかったからだよ」
さやかは、泣きそうな顔で怒った。
「子どもか!」
「僕は子どもではない」
「そういう意味じゃない!」
まどかは膝をついた。
キュゥべえのそばに、そっと手を置く。
触れるのが怖かった。白い身体は、さっきより小さく見えた。
マミのリボンが巻かれている。それでも、崩れていくものを止められていない。
「キュゥべえ」
「なんだい、まどか」
「痛い?」
「痛覚の定義による」
「そういうの、いいから」
キュゥべえは少し黙った。
「分からない」
「分からないの?」
「ただ、機能が低下している。視覚情報も少し乱れている。音声出力も不安定だ。これが君たちの言う痛みに近いのかもしれない」
まどかは、もう泣いていた。
「そんなの、痛いんだよ」
「そうなのかい」
「そうだよ」
キュゥべえは、まどかを見た。
「まどか」
「なに?」
「君は、友達の心配をしていればいいと言った」
「うん」
「だから、今は四人の心配をするべきだ」
まどかは首を横に振った。
「キュゥべえの心配もするって言ったよ」
「そうだったね」
キュゥべえは、少しだけ黙った。
「君は、約束をよく覚えている」
「覚えてるよ」
ほむらは、まどかの横に立っていた。
何も言えなかった。
キュゥべえが弱っている。
死にかけている。
その事実が、現実として目の前にある。
今まで、何度撃っても戻ってきた白い獣が――今度は、戻ってこないかもしれない。
マミがリボンをさらに強く巻いた。
「まだ、諦めないで」
「巴マミ」
「黙って」
「君は、僕に対して黙ってという頻度が高い」
「今は増やしているの」
「そうかい」
杏子が、そっと視線を逸らした。
さやかは剣を握ったまま、何もできずに立っていた。
朝日が、少しずつ瓦礫の街を照らし始める。
ワルプルギスの夜は去った。
誰も失わなかったはずだった。
そのはずだったのに。
白い獣だけが、朝の光の中で、ぼろぼろになっていた。
キュゥべえは、それでも報告書の最後を見ていた。
送信済み。その文字だけが、薄く残っていた。
「よかった」
キュゥべえが言った。
「これで、少なくとも試験は続く」
「キュゥべえ」
まどかの声が震える。
「あなたは?」
キュゥべえは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
それでも、赤い目だけは、まどかを見ていた。