親衛令嬢戦記 作:中途半端なミリオタ
第1話:黄金の梟と白銀の兵学皇女
その夜、アイリスディーナ・グレーフィン・フォン・ヴァルトハイムは、社交界というものを改めて非効率だと結論づけていた。
皇宮大広間……天井からは巨大なシャンデリアが幾つも吊るされ、磨き抜かれた床にはその光が幾重にも反射している。
弦楽団が奏でる音楽、色とりどりのドレス、軍服姿の高級将校、勲章を胸に下げた老貴族。
笑い声、囁き声、香水、葡萄酒。
そして、意味があるのかないのか、漠然とした会話。
これだけの人数と時間と金銭を投入して行われるこの行為が、今後ともよろしく……という意思確認なのであれば、他にもっと効率的な方法があるのではないか……と思えてくる。
少なくとも、九歳の少女が考えることではない。
だが……アイリスディーナは、そこら辺の九歳らしい少女ではなかった。
「はぁ……アイリスディーナ」
横から母の声。
「はい」
「笑顔ですよ?」
「笑っています」
「それは違います」
アイリスディーナは自分の表情を確認するため、自らの頬を触る。
確かに口角は上がっている。
「どこに問題が?」
「その質問をするところでしょうね」
「……」
難しい、と思う。
この世界に生まれて九年。
――言語。
――文字。
――歴史。
――地理。
――数学。
――帝国法。
――軍制。
――鉄道。
――工業。
そのどれよりも、社交界で求められる曖昧な感情表現の方が難しいと、アイリスディーナは本気で思っている。
もっとも……最低限の礼儀は身につけていた。
ダンスも踊れるし、挨拶もできる。
貴族令嬢らしい所作も、当然必要だから覚えた。
ただ、当然彼女は好きではなかった。
「ヴァルトハイム伯爵令嬢」
声を掛けられ、そちらを振り向く。
相手は少年だった。
十歳か十一歳で、服装に胸元の家紋、後ろに立つ父親らしき人物。
どちらも初顔だった……はずだ。
侯爵家でしかもかなり上位。
自らの記憶を探った――嫡男だったはずだ、確か……。
「今宵はご機嫌麗しく」
「ご機嫌麗しゅうございます」
完璧、と思った。
どれも教本通り。
少年は少し嬉しそうにする。
「もしよろしければ、次の曲を――」
そこで……アイリスディーナの視線が止まった。
この少年ではない。
勿論、父親でもない。
その向こう、更に後ろ。
壁際の小さな卓。
その上に、一冊の本がった。
黒革に金の文字、そして中央に帝国章。
見覚えがある。
(……嘘でしょう)
帝国陸軍参謀本部刊行の『帝国陸軍秋季大演習詳報』。
市販されておらず、ヴァルトハイム伯爵家にも前年版までしかない。
おそらく軍人が置き忘れたのだろう。
何故こんなところに……と思う前に、身体が先に動いた。
「ヴァルトハイム伯爵令嬢?」
「失礼します」
「え?」
少年の横を通り過ぎる。
「え?」
そのまま……本を手に取る。
「……」
侯爵家嫡男が取り残される。
周囲の令嬢たちが、静かに息を呑む。
普通であればこの侯爵家の嫡男たるこの少年に、声を掛けられるだけでも名誉であり、何より令嬢たちからすれば羨ましいことこの上なかった。
だが、アイリスディーナはこの少年を事実上無視した。
母親は、こめかみに手を当てた。
父は、見なかったことにした。
この出来事が翌日には「侯爵家の嫡男より軍事報告書を選んだ令嬢」として宮廷中に広まることになる。
そして、元々一部で使われていた異名が決定的に定着することとなる。
その異名とは「黄金の梟金」というものだった。
金髪碧眼の美少女が、夜会の隅で……人々が踊る中、一人で本を読む。
しかも、軍事書を。
――賢い。
――美しい。
――しかし、奇妙。
それが、アイリスディーナ・グレーフィン・フォン・ヴァルトハイムに対する、当時の社交界の評価だった。
だが、当の本人は、そんなことなど知ったことではなかった。
舞踏会場の隅の長椅子。
音楽も人声も少しだけ遠い。
ちょうどいい、と思い、アイリスディーナは本を開いた。
――第一章。
動員。
――第二章。
展開。
――第三章。
攻勢。
――第四章。
鉄道輸送。
(あった)
読む速度は、以上に速い。
彼女の目は、文章を追っているというよりは、数字を拾っていた。
――青軍。
――赤軍。
――兵員。
――砲門。
――馬匹。
――車両。
――鉄道輸送量。
――補給量。
――砲弾消費。
――前進速度。
だが、彼女は読み進めているうちに、少しずつ違和感を覚え始めていた。
――五日目。
青軍の大規模攻勢。
――六日目。
突破。
――七日目。
追撃。
――八日目。
青軍勝利で演習終了。
アイリスディーナの眉が、僅かに動いた。
「……おかしい」
もう一度、数字を見る。
――砲弾。
――燃料。
――馬車。
――補給距離。
――鉄道終点。
――青軍の前進。
――赤軍の後退。
そして……終了日。
「これ」
小さく呟く。
「青軍」
一拍。
「勝ってないでしょう……」
「どうして?」
知らない声だった。
アイリスディーナは顔を上げた。
少女がいた。
――銀。
最初に目に入ったのは、髪だった。
月光を糸にしたような淡い銀色。
長く整えられ、皇族らしい高級な髪飾りが添えられている。
瞳は蒼。
冷たいというよりは、澄んでいる。
――年齢。
自分と同じくらい。
――服。
皇族章。
――そして、顔。
流石に知っている。
この国に生まれしものの大半は……特に貴族は。
(第三皇女……)
ヴィルヘルミナ。
帝国第三皇女……そして帝国貴族の間では、もう一つの異名があった。
――白銀の兵学皇女。
幼い頃から、絵本より戦史。
人形より兵隊模型。
花園より演習場。
宴席では高級将校を捕まえ。
「砲兵予備は何個中隊必要なの?」
と質問する。
将軍たちからすれば、可愛らしいと同時に、少し怖かった。
そのため、誰からともなくそう呼ばれ始めた。
白銀の髪を持つ、兵学狂いの皇女。
白銀の兵学皇女。
(……なるほど)
アイリスディーナは思う。
(本当に軍事書を読みに来るのね)
だが、相手は皇族。
最低限の礼をしなければならない。
本を閉じて立とうとする、が――。
「いい」
ヴィルヘルミナが手で止めた。
「そのままで」
「ですが、殿下」
「今はいい」
皇女の視線は、アイリスディーナではなく本。
「それより」
指差す。
「どうして青軍が勝ってないの?」
「……」
「私は青軍の勝利だと習った」
アイリスディーナは皇女を見る。
九歳の皇女にわざわざ本気の軍事議論などしない。
普通なら「難しいお話です」とか、「大人になれば分かります」などと誤魔化す。
だが、この目は――本当に答えを求めている。
アイリスディーナは再び座った。
「殿下のお言葉を正すところが言わせて頂くと、正確には……」
本を開く。
「演習上は青軍の勝利です」
「知ってる」
「ですが」
ページを開く。
「演習が八日目で終了しています」
「それが?」
「青軍の補給状態をご覧ください」
ヴィルヘルミナが隣へ座る。
距離が近いが、アイリスディーナは気にしない。
「第五日から砲弾消費が急増しています」
「突破戦だからでしょう?」
「はい」
「それで突破した」
「しました」
「なら成功では?」
「突破した後」
アイリスディーナが皇女を見る。
「どうします?」
「追撃する」
即答。
「当然ですね」
「でしょう?」
「では」
地図を指す。
「ここをご覧ください」
「鉄道ね」
「青軍の軍用鉄道です」
「うん」
「突破時点で」
指を徐々に前へ。
「ここまで来ています」
「……遠いわね」
「はい」
「でも……」
ヴィルヘルミナは考える。
「馬車で運ぶ」
「可能です」
「なら」
「ただし」
アイリスディーナは、即座に遮り、別の数字を示す。
「一日当たりの輸送量をご覧下さい」
ヴィルヘルミナは覗き込んで考える。
「足りない?」
「前進するほど」
「輸送距離が延びる」
「はい」
「馬も疲れる」
「はい」
「道路も」
「混雑します」
ヴィルヘルミナの表情が、徐々に変わっていく。
「待ちなさい。赤軍は?」
「逆です」
地図を見せて指す。
赤軍は後退し、自国領へ。
「自国鉄道へ近づく」
「……」
「青軍は勝ちながら」
指を進める。
「補給線を伸ばす」
「赤軍は負けながら……」
「補給線を縮めます」
数秒の沈黙。
音楽だけが遠くから聞こえる。
「……九日目」
ヴィルヘルミナが言った。
「青軍の攻勢速度が落ちる?」
「可能性が高いです」
「十日目は……」
「砲弾不足」
「十一日は?」
「車両故障も増える」
「十二日」
「赤軍に予備があれば……」
二人の指が、同じ場所を指した。
「反撃」
同時だった――。
二人して顔を上げる。
アイリスディーナとヴィルヘルミナ。
互いを見る。
ほんの一秒。
「……」
「……」
先に笑ったのは……ヴィルヘルミナだった――。
「やっぱり!」
「……?」
「やっぱりおかしかった!」
声が大きい。
周囲が見る。
だが、白銀の兵学皇女は気にしない。
「私も思ったの!」
「何をです?」
「この演習!」
皇女は、本を半ば奪うようにして覗き込む。
「八日目で終わってるでしょう?」
「はい」
「赤軍の第三十二師団が残ってる」
アイリスディーナの目が僅かに見開かれる。
「ご存じだったのですか」
「昨日、全部読んだ」
「全部」
「三回」
「……」
――三回。
――九歳。
アイリスディーナは初めて、目の前の皇女に、本気で興味を持った。
実に不敬な話である。
「父上に聞いたの」
ヴィルヘルミナ。
「『青軍の勝利が明白だから終わった』って」
「明白ではありません」
「そうでしょう!」
「はい」
「参謀本部の参謀にも聞いたの」
「何と」
「赤軍には反撃能力がないって」
「あります」
「やっぱり!」
ばん、と本叩く。
「ここよね?」
第三十二師団。
「はい」
「騎兵師団も」
「使えます」
「でも騎兵でしょう?」
「だからです」
「機動予備ね?」
「はい」
ヴィルヘルミナが心底嬉しそうに笑う。
「面白い」
「何がです?」
「あなた」
「私?」
「噂と違う」
「どのような噂でしょう」
「黄金の梟」
アイリスディーナの眉が、僅かに動いた。
「……その呼び名は」
「嫌い?」
「好んではいません」
「私は好き」
「なぜです」
「格好いいから」
あまりにも子供らしい理由だった。
「金髪でしょう?」
「はい」
「夜会で一人だけ隅にいて」
「別に夜行性ではありません」
「本を読んでる」
「偶然です」
「人をじっと見る」
「観察です」
「梟じゃない」
「……」
反論しづらかった。
普段であればアイリスディーナは遠慮をしない。
だが、相手が皇女だからこそ……いや、始めて同世代で興味を持った相手だからこそ……彼女は遠慮をした。
ヴィルヘルミナは、面白そうにアイリスディーナを見る。
「でも」
「はい?」
「今日で分かった」
「何をです?」
「梟って」
皇女は少し笑う。
「見るだけじゃないのね」
アイリスディーナが目を細める。
「どういう意味です」
「みんなが勝ったって言ってる軍を見て」
本に指を当てる。
「負けるって分かる」
「別に数字を見れば……」
「みんなも同じ数字を見てる」
「……」
「でも気付いてない」
その言葉に、アイリスディーナは少しだけ黙った。
ヴィルヘルミナが続ける。
「だから黄金の梟」
「随分都合よく解釈しますね」
「じゃあ」
皇女がいたずらっぽく言った。
「私の名前は知ってる?」
「もちろん」
「違う」
「?」
「もう一つ」
すぐに分かった。
「……白銀の兵学皇女」
「知ってた」
「有名ですので」
「好き?」
今度はアイリスディーナが問われる。
「どうでしょう」
「何それ」
「正確ではありません」
「……?」
「兵学皇女」
アイリスディーナは、皇女の手元の本を見る。
「だけではないでしょう?」
ヴィルヘルミナの表情が、僅かに変わった。
「先ほどから」
アイリスディーナ。
「補給」
「……」
「鉄道」
「……」
「予備兵力」
「……」
「戦術だけでなく」
青い瞳が、銀髪の少女を見る。
「軍そのものがお好きなのでは?」
ヴィルヘルミナが、数秒黙る。
やがて――。
「……うん」
小さい、しかし……確かな答え。
「兵器だけじゃない」
「はい」
「戦い方も」
「はい」
「軍隊がどう動くかも」
「はい」
「どうやって人を集めて」
「はい」
「どうやって食べさせて」
「はい」
「どうやって運ぶかも」
「……」
「全部」
ヴィルヘルミナは嬉しそうに……しかしどこか恥ずかしそうに笑った。
「全部好き」
アイリスディーナはその瞬間――初めて目の前の少女を「皇女」としでではなく、一人の人間として見た。
(なるほど)
理解する。
(私と同じだ)
いや、同じではない。
自分には前世があるし知識がある。
数十年先の未来を、断片的に知っている。
だが、ヴィルヘルミナにはそれがない。
何もないのに、ここまで辿り着いている。
(……面白い)
アイリスディーナ自身が珍しく、そう思った。
「では……」
ヴィルヘルミナが身を乗り出す。
「あなたならどうする?」
「青軍を、ですか?」
「そう」
「司令官として?」
「うん」
また珍しい質問だった。
社交界では誰からも、そんなことを聞かれたことがない。
――好きな花。
――好きな音楽。
――好きな宝石。
将来……どんな殿方と結婚したいとかそういう話ばかり。
だが、あなたならこの軍をどう動かす?……と問われた。
それは全く違う。
アイリスディーナは本を見る。
「まず」
答える。
「追撃を止めます」
「ええ?」
ヴィルヘルミナで本気で嫌そうな顔をした。
「せっかく突破したのに」
「だからです」
「どういう意味?」
「勝った直後だから」
アイリスディーナ。
「止まります」
「敵に逃げられる」
「逃がします」
「どうして!」
「補給を追いつかせます――貸して下さい」
地図を開き、青軍を指す。
「ここ」
「支線ね」
「はい」
「でも」
ヴィルヘルミナはすぐに。
「軌間が違う」
アイリスディーナの指が止まる。
「……殿下」
「何?」
「軌間まで確認を?」
「当然でしょう?」
当然ではない。
九歳の皇女は普通、鉄道軌間など確認しない。
「なら」
アイリスディーナは、この世界に来てから初めて、心の底から小さく笑った。
「それを」
ヴィルヘルミナもつられて少し笑う。
「うん」
「統一するところから」
――沈黙。
ヴィルヘルミナは数秒してから言った。
「……それ」
「はい」
「ものすごく大変じゃない?」
「大変です」
「お金も」
「かかります」
「時間も」
「かかります」
「軍だけじゃ決められない」
「そうですね」
「工場も」
「はい」
「鉄道会社も」
「はい」
「政府も」
「はい」
ヴィルヘルミナの目が輝く。
「じゃあ」
一拍。
「帝国全部を変えないと駄目?」
アイリスディーナはその問いに、一瞬だけ黙った。
そして、優しく笑う。
母親に指摘された作り物の笑いとは違う。
「少なくとも」
本を閉じる。
「軍隊だけ変えても」
皇女を見る。
「強い帝国にはなりません」
ヴィルヘルミナ。
「……」
一拍。
それからの満面の笑み。
「好き」
「はい?」
「その考え方」
立つ。
「ちょっと待ってて」
「どちらへ?」
「地図を取ってくる」
「地図?」
「帝国全図」
「殿下」
「あと鉄道網」
「殿下」
「陸軍配置図も」
「……」
「工業地帯の資料もあったはず」
「殿下」
「何?」
「今ですか」
「今」
「舞踏会の最中ですが」
「だから?」
「……」
アイリスディーナは周囲を見る。
踊る人々に音楽、社交。
侯爵令息は、遠くから少し恨めしそうにこちらを見ていた。
再びヴィルヘルミナを見る。
銀髪蒼眼が満面の笑みを浮かべている。
白銀の兵学皇女。
アイリスディーナは小さく息を吐いた。
「分かりました」
「本当?」
「はい」
「行きましょう」
「どこへ」
「私の学習室」
「今から?」
「今から」
やれやれ、と思いながらアイリスディーナは席を立った。
そして――。
二人は舞踏会から堂々といなくなった。
後世において、帝国史を扱う書物ではこの夜を、しばしば大袈裟に記述する。
――帝国の運命が変わった夜。
――新時代の始まり。
――第四軍誕生の遠因。
後の皇帝と、その最大の参謀が初めて出会った夜と書かれている。
しかし、実際にはそんな劇的なものではなかった。
一人は社交界に馴染めず、舞踏会の隅で軍事書を読んでいただけ。
――黄金の梟。
一人は軍事というものが好きで好きで仕方がなかっただけ。
――白銀の兵学皇女。
その二人が……一冊の演習報告書を同時に覗き込み「この演習、おかしくない?」と、意気投合した。
ただ、それだけだった。
その時、一体誰が想像しただろうか。
黄金の梟が……帝国の工場を、鉄道を、軍隊を作り変え。
白銀の兵学皇女が……やがて自らの軍を率ち、皇位を巡る争いを制し、全権をその手へ収めることを。
そして。
かつて愛らしささえ残る名で、白銀の兵学皇女と呼ばれた少女が、数年後……味方からも、敵からも、まるで……一つの災厄を呼ぶかのように、別の名で呼ばれることを。
――帝冠の龍。
だがそれは、まだ遥か先の話である――。