誰こいつら(誰こいつら)。

ご無沙汰してます。

大きな大きな人生の分岐点を三つほど越えられたのでまたカキカキを再開します。

特に他作品ですが、待たせてしまって申し訳ない限り。牛歩ですが書いてますので。お披露目出来る日が楽しみです。

仲良しベルレフィーヤ姉弟が見たい! とか言いやがる職場の同期からのリクエストに応えました。現パロ難しいって。

よくわかりませんが、お題箱に入れなくなってしまったので、これからのリクエスト等はそちらではなくコメントなりメッセージにてお願いします。

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いつかいつしか

 いつか。

 星が綺麗に見えた、ある日の夜。

「あ! 流れ星!」

 汚れなど知らない、真っ直ぐに駆け抜けるかのような爽やかさを有する甲高い少女の声に、俯くばかりだった少年は顔を上げた。

「ほらあそこ!」

 少女が少年に肩を寄せ夜空を指差す。しかしそこに流れ星はなく。あるのは綺麗な星空ばかり。

「あ、あれ? もう消えちゃった……そんなあ……」

 どうして落ち込んでいるの?

 肩を寄せたまま俯いてしまった少女に、少年は問い掛けた。

「お父さんとお母さんが言っていたんです。流れ星には、お願いごとを叶えてくれる力があるんだって! 流れ星にお願いごとを三回言うと叶うんだそうです!」

 そうなの? ほんとうに?

「本当かどうか確かめる為に一緒に探しましょう!」

 肩を並べ、一緒に願いを叶えようと、好奇の光を瞳に宿した少女が空を見上げる。

 うんと頷いて、少年は少女を真似た。

「流れ星が見えたら何をお願いしましょうか!?」

 わかんない。

 お外が真っ暗になっても元気いっぱいな少女の声に少年が返せたのは、無味無臭且つ無欲な言葉だけ。

 お願いごととかいきなり言われても、少年には難しい話だった。

「いきなり言われても難しいですよね」

 ああ、本当に難しい。

 でも。

 お願いごとが叶うって言うお話が本当ならば、探さねば。自分の為にではない。

「私にはありますよ! お願いごと!」

 お願いごとがあるんだと笑う少女の為に。

 何も知らない自分はいいけど、なんでも知ってるこの少女の願いが叶わないのは、とっても悲しいことだから。

 流れ星がどんな物であるかを正しく理解しているのかも怪しい少年は、それでも流れ星を求めて空と睨めっこを始めた。

 どんなお願いごとなの?

 広大な世界の天井に広がる光り輝くパズルのピースたちの中でただ一つきりだろう、好き勝手に動き回っているピースを懸命になって探しながら、自分に肩を寄せる少女へ問い掛けた。

「それはですね!」

 聞かれるのを待ってましたと言わんばかり。

 肩口にまでいきなり顔を寄せた少女に驚いた少年が、夜空に似た紺碧色の瞳をきらきら輝かせる少女に向き直る。

「────です!」

 大きく口を開けて、少女が願いを口にした。

 二人が見つめ合っているその瞬間。

 小さな輝きが。綺麗な綺麗な流れ星が。夜空を駆け抜けた。

 え?

 少女のお願いごとの意味があまり分からなくて、少年が小首を傾げる。

「もう一度言いますね! 私は──」

 ちゃんと聞き取れなかったのかな。意味がわからなかったのかなと深読みをした少女が、全く同じ言葉で、お願いごとを口にした。

 ちょうどその時。

 綺麗な光の尾を有した流れ星が、芸術的な一筆を夜空に描き、幼い二人に目配せをするかのようキラリと瞬いて、二人に見つかるより先に飛び去っていった。

「これが、私のお願いごとです!」

 少年は、何も言えなかった。

「叶うといいなあ!」

 無垢なる笑顔の輝きが、少年の隣で花開く。

 何も言えないならこれくらいはしなきゃと、一つ歳上のお姉さんの笑顔に見惚れるのもそこそこに、彼女のお願いごとを叶えてくれる何かを求め、夜空を仰ぐ。

「叶えましょうね! 一緒に!」

 懸命になって空を駆ける星を探す少年の手を。自らの弟も同然の子の小さな手を、少女は握った。

 うん。

 夜空から目を離したら大変だからと頷いたりすることなく。

 少年は、少女の願いを預かった。

 少女のお願いは、少女と少年お揃いのお願いごとへと形を変えた。

 それももう、ずっと昔の話。

 二人がランドセルを背負うよりも前の、静かな夜のこと。

 怖いことがあって眠れないでいた少年から恐怖を切り離し、夜空のカーテンの向こうにはとっておきの秘密があるんだと教えてくれた少女とお揃いの、みんなに内緒の思い出。

 しかし。

 手を繋いでいたこの夜も。

 それから、どんな夜でも。

 少年と少女は、流れ星を見逃し続けている。

 

 * * *

 

「おはようございます!」

 朝のぼんやりとした空気を吹き飛ばすような快活な声が、階下から聞こえる。

「今朝も時間通りだし元気だし……」

 制服に袖を通し、ネクタイを緩めに締めている少年の耳に飛び込んで来た声が、彼の苦笑を引き出す。

「ベルー!」

「今行きまーす!」

 玄関で声を張るのやめて欲しいんだけどなあ。

 誰にも聞こえない呟きを付け加え、スマホ、財布、ワイヤレスヘッドホンのケースをブレザーとスラックスのポケットにそれぞれ突っ込み、次に手に取るのはキーリング。

 我が家の鍵が二本ぶら下がっているオレンジ色のキーリングをスラックスのベルトホールに引っ掛け、スクールバッグを肩に掛けたら準備は完了。

 扉を開けて閉めて。フローリングを軋ませ、階段を丁寧に踏み締めて一つ下の階に降りていく。

「ん……」

 階段を降りて直ぐに見える玄関の光景に目を向けると、少年の目が自然と細まる。

 少年は思う。

 いつものことながら。

 この人がいる朝は、玄関が明るい。

 後ろ且つ高めの位置で一纏めにしていても腰まで届く長さを有する山吹色の髪が、玄関の脇の小窓から差し込む光を浴び、シトリンを想起させるような輝きを放っているからだろう。

「おはようございます! ベル!」

 ベルと呼ばれた少年が通う中学に在籍している女生徒たちより可愛いと好評を集めている制服を揺らす少女は、可憐な笑みで、一つ年下の弟分の少年を出迎えた。

「おはようございます。お……レフィーヤさん」

 同じ中学に通うようになってから卒業したはずの呼び名が不意に飛び出しそうになるもしっかり軌道修正。

 ベルの自宅のお隣に住まっている一つ年上のお姉さん、レフィーヤ・ウィリディスの名を呼ぶと、口の端をきゅっと上げた上品な笑顔が、ベルに向けられた。

「忘れ物はありませんか?」

「大丈夫です」

「ちゃんと歯を磨きましたか?」

「手洗いもうがいもバッチリです」

「体調は大丈夫ですか?」

「こちらもバッチリです」

「自信満々に言う前に、ネクタイくらいしっかり結んでください」

 レフィーヤの手が、襟元へ伸びる。

「しっかりしてきたなあなんて思っていても、こういうところはまだまだですね」

「あ、あはは……」

 苦笑いで誤魔化すベルのネクタイが、微塵の躊躇も羞恥も見せないレフィーヤの手できゅっと結ばれていく。

「はいこれで大丈夫! あ、お弁当は?」

「はい、今もらいました」

「んふふー」

 心配性な母親宛らであるレフィーヤとベルがいつも通りの言葉の交換をする側からにゅっと伸びてくる母の手と笑顔。くすくす笑う母が掴むのは、保冷効果が優秀なランチバック。学食も悪くないけれど、母の手料理に勝る物なし。時々だが味付けがエキセントリックになっていることに目を瞑れば、であるが。

「よろしい。では行きましょうか」

「はい。いってきます、お母さん」

「いってきます!」

「いってらっしゃい二人ともー」

 甘ったるく間延びするいってらっしゃいを背に家を出たベルとレフィーヤの肌を、妙に生温い風が撫でた。数年前ならばもっと秋を感じられる風、光景が二人を出迎えてくれたであろうに。

「今朝は妙に暑いなあ」

「もう冬が目前なんですけどね」

「ねー」

 二人きりになると途端に言葉が緩くなる二人が、肩を並べて朝の街を進む。

 昨日見たテレビが面白かった。

 薦めてくれた動画でお腹を抱えて笑った。

 ソシャゲのログインガチャで一番レアリティ高いのが出た。

 今日からサブスク解禁される映画がとっても面白そう。

 学校の直ぐ近くにドーナツ屋さんが出来るらしいよ。

 そんな話をしながら五分ほど歩く。大通りに設置されている停留所からバスに乗車。とびきりの渋滞にでもハマらない限り、発車から半刻程度もすれば二人が通う中学校が目と鼻の先であるバス停に到着する。もう少し乗っていれば彼らの街でも大きな国鉄駅にまで行けるもので、少し早く家を出ようとも出勤ラッシュを回避するのはなかなかな高難度。

「今日部活はお休みの日ですよね?」

「うん。そっちは生徒会関連とか?」

「特に予定していませんね」

「そっか」

 バス停から正門を潜るまでの時間の間に、放課後の予定の有無を確かめ合いながら昇降口を目指す。

 二人だけの朝のルーティンだ。

「帰り、連絡しますから」

「うん」

「あ、授業中に」

「居眠りもスマホもダメ」

「それです」

「わかってまーす」

「よろしい」

 うんうんと頷くレフィーヤと昇降口で別れ、レフィーヤが向かった方向とは反対へ足を早める。三年生の彼女と二年生のベルは下駄箱の位置も教室のあるフロアも異なるからだ。

「おはよレフィーヤー!」

「はよーレフィーヤ」

「ウィリディスさんおはー」

「おはようございます!」

 下駄箱の向こうから早速聞こえてくる、男女を問わない歓談。その真ん中に、レフィーヤがいるのだろう。

「流石だなあ」

「本当にな」

「おっと」

 ぐっと、肩に伸し掛かる何か。それが友達の腕であると即座に見抜いたベルは特に驚く素振りも見せず、上履きを取り出した。

「相変わらず大人気だな、お前の姉さんは」

「姉さんじゃないって言ってるのに……おはようヴェルフ」

「おう」

 端正な顔立ちやさっぱりした性格が手伝って、同学年にも先輩後輩にもファンが多いらしい、中学へ進学してから一番最初に仲良くなった友人。

 燃えるような赤い髪を持つ少年、ヴェルフ・クロッゾと、今朝は登校時間がかち合った。

「後輩たちからは女神のような先輩だーってほとんど崇められてるような感じらしいぞ、お前の姉さん」

「女神様、ねぇ……」

 その女神様ですが昨晩ね、クラネル家の面々と興じた落ちものパズルゲームでボコボコにされてずっと唸っていたんですけど。なんなら半ベソだったくらいでしたけども。

 と言いたいのを飲み込んで、彼女の有するステイタスに目を向けてみる。

 文武両道品行方正を地で行きまくる、頭脳労働も肉体労働も優秀極まる成績。

 二年次よりは生徒会の一員として活動。本人が望まなかったもので生徒会長になることはなかったが、生徒会の中核たる副会長として学校生活の端々にまで生真面目に目を向け続ける姿は、教職員や保護者たちからの信頼をこれでもかと獲得する結果に繋がった。

 ただでさえ可憐な容姿を有している上に、人好きのする愛嬌を無自覚に、しかも惜しみなく振り撒く姿に男子生徒の多くが骨抜きにされているとかいないとか。

 何もかも完璧なようでいて、何処か隙があると言うか。時々ど天然宛らなポンコツムーブを披露してしまう姿も彼女の人気を支える一助となっていることだろう。

 自分の優秀さを鼻に掛けることは特にしないが、かと言って過度な謙遜もしない。

 瑞々しい気高さを有し、しかしお高く止まることなどない。昨晩見せたような、人によってはみっともなく見られるだろう姿を誰かに見せることを厭わない。

 人の謝罪を受け入れる度量があり、同時に、人に頭を下げることに躊躇いを抱かない。

 喜怒哀楽に壁も制限もない。

 人を試すような、秤に掛けるような真似も断じてしない。

 慕われて当然だよね。

 生まれたその時からずっと一緒に生きてきたお隣さんという、上向きにも下向きにも機能するだろうフィルターが掛かる立ち位置にいるベルでさえ、素直にそう思う。

「そういや、流石に減ったか? お姉さんガチ勢から間を取り持ってくれって頼まれるの」

「週に一度は誰かしらに頼まれてるね」

「これでも減った方ではあるってのがまた……」

 ベルの心身を慮るヴェルフの溜息は、なかなかに重かった。

 ベル・クラネルとレフィーヤ・ウィリディス。

 二人が幼馴染の間柄であり、家族間で一切壁のない付き合いをしていることは、学内でも極めて有名な話である。

 実際、ベルとレフィーヤは互いの家の鍵を持ち、どちらの家にもただいまーと言って踏み込んでいく。お邪魔しますお邪魔しましたと最後に口にしたのなど、互いがランドセルを背負う以前の話。

 クラネル家とウィリディス家。二つ並びの二階建ての戸建住宅は、たまたま壁が繋がっていないだけの一戸建ても同然なのである。

 故に、ベルに殺到するのである。

 レフィーヤを紹介してくれ。お近付きになりたいから間を取りなしてくれ。

 と言ったお願いが。

 レフィーヤから一年遅れて本校へ入学したベルは、入学早々に広まってしまったレフィーヤの幼馴染という情報に振り回され、包み隠さない言い方が許されるのであれば、酷く不快な思いを強いられ続けている。

 そんなことがあったよ。こんなことで迷惑しているんだ。

 などとレフィーヤに報告することを躊躇ったベルは、一人耐え続ける道を選んだ。

 連日殺到する厄介な事態全てに首を横に振り続けた結果、ベルに対して悪印象を抱いた者だっていたが、それでもベルは誰に対しても対応を変えず、今でも貫き続けている。

 最近になってようやくレフィーヤにアプローチしたいのならばベルを介さずいかなければならないとの認識が広く浸透したらしく、多少は平穏な日々を過ごせるようにはなったが、あくまで多少である。

 この苦労はレフィーヤが卒業するまで。なんなら卒業した翌年くらいまでは続くのではなかろうかと、ベルは睨んでいる。頭痛のタネが取り払えるのはいつになるやら。

「で、どうなんだ実際」

「何が?」

「何もないのか? お前の姉さんに、浮いた話ってヤツはよ」

「聞かないなあ。誰々に告白されたーなんて噂はよく聞くんだけどね。そもそもあの人、僕にはそういう話したがらないみたい。家でそんな話をしたことないもん」

 学内の誰かと誰かが付き合い始めた。誰が誰々に惚れているらしいなどなど、実に年齢相応な話に花を咲かせるなど日常茶飯事ではあるのだが。

 自分たちを対象にした話など、ただの一度もしたことがなかった。

「どうだろ……好きな人とか、どうなんだろうね。全然わかんないや」

 学友たちと笑い合いながら階段を登っていくレフィーヤの背中を見送りながら、ぽけーっとベルが呟く。

「それって……」

「それって?」

「いやいや言うまい邪推すまい。ま、受験も控えている身だし、そういう方面を意識的に頭から切り離していたりするのかもな」

「んーそれはないと思うなー」

「その心は?」

「あの人は、他の人が出来ないことの大概は出来ちゃう人だから」

 決して完璧超人なんかじゃないけれど、そう在らんと己を高めることをやり続けられる人だから。

 そうも頑なに思考から切り離すなんて、寧ろ無意識の間に足枷になってしまいそうなことをする必要などない。試験勉強に集中したいが為にスマホの電源を切ったりする日がある自分とは大違いだ。

「はあ……」

 彼女が何事に於いても豊か才を有していることなど知っている。

 しかし彼女は、己の才に甘えていない。

 己が秘めているものを最大限に発現出来るよう、懸命に努力し続けることが出来るひとなのだ。

 だから、彼女に対して嫉妬を抱くなんてことはあり得ない。

 その努力を間近で見続けてきて、どうして嫉妬の海に沈むことなど出来るだろうか。

 でも。けれど。

「敵わないなあ……」

 生まれた時より共に育った一つ年上の姉と自分とを無意識のうちに対抗心を。

 劣等感を。

 年下なりの、小さなプライドを。

 擽られているのはまあ、否定出来ない。

「お前……」

「行こ、ヴェルフ」

「お、おう……」

 長く足を止めてしまっていたと気付き、ヴェルフの前を行き始めるベル。

「まあ」

「ん?」

「僕の方が足速いけどねっ!」

「い、いきなりデカい声出すなよっ」

 自分とあの人とを比較して陰鬱な気持ちになるのも飽きたベルなりの、自分の励まし方を実践。

「ベル……?」

 昇降口で炸裂した誰かさんの大きな声に気が付いたレフィーヤが階段の途中で歩みを止め、小首を傾げながら振り返る。

「何もかも劣っているわけじゃないもんね……!」

 ポカンと口を開ける姉同然の先輩の姿に、少しだけ気分を良くしたりなんかした、そんな朝。

 

 * * *

 

「ほんと可愛いよねー。レフィーヤの弟くん」

「変な目であの子のことを見ないでください、エルフィ」

「何処が変な目だって言うのさー」

「可愛いかどうかは主観として、声を掛ける度に気持ちの良い挨拶で返してくれるあの姿勢は好ましいわね」

「アリサー?」

「心配しなくて大丈夫よレフィーヤ。私はレオン先生一筋だから!」

「それはそれでどうなんでしょう……」

 三人の女子たちの手で、男子立入禁止の雰囲気が熟成されゆく室内。

 一つの机に椅子を集めて向かい合う見目麗しの少女たちは、少女たちなりの過ごし方で、放課後のひとときを謳歌していた。

「あの子が昔はレフィーヤのことをお姉ちゃんお姉ちゃん呼んでたんだなーって思うと万倍くらい可愛く思えちゃうなー!」

「お姉ちゃん呼びしてるの見たことないけど、もう全然呼んでくれない感じ?」

「全然ですね。この学校に入学した頃から意識的に切り替えたみたいです」

 一年からレフィーヤのクラスメイトであるエルフィとアリサの目がレフィーヤに集中するも、レフィーヤの反応は涼やかなもの。

「弟くんなりにお姉ちゃん離れしなきゃなーとか考えたのかな」

「何それちょっと可愛い」

「アリサまで何言ってるんですか……」

 お姉ちゃん。

 鮮明に記憶しているなんて流石にないけれど、レフィーヤとベルが出会ったのは、ベルが産まれて間もなくのことだったらしい。

 物心が付く以前より一緒な二人。ベルが血を分けた父母をお父さんお母さんと当たり前に呼び始めたように。

「おねーた」

 レフィーヤを姉と呼ぶのは、幼き日のベルにとっては当たり前のことだった。

「か、かわいいっ!」

 舌足らずのベルにおねーたと呼ばれた当時のレフィーヤは、飛び跳ねて喜んでみせ、ベルの小さな身体を抱き締めたとか。

 お姉ちゃん。ベル。

 互いをそう呼び合うようになって、もう十年近くになる。

 しかし先に述べたように、ベルが中学に上がるとほぼ同時に、お姉ちゃんと呼ばれることはなくなってしまった。

 その事実に内心で落ち込みまくっていたレフィーヤであるが、まあ確かに、学内であんまりベタベタしていてもどうかと思いますしと、レフィーヤも受け入れた。

 心優しく気配りが出来るあの子のことだから、生徒会の一員であるレフィーヤの学内での評判にまで意識を這わせてくれたのだろう。きっとそうだ。

 一度でもそう思ってしまったら、余計に真意を問えなくなってしまった。

 いやでもね? それはそれとしてね? せめてね?

 二人きりの時くらいは、昔みたいに呼んでくれてもいいのに!

 二人きりになると言葉に遠慮がなくなるのはとっても嬉しい! でもでも! 今までずっとお姉ちゃん呼びだったのに! 今ではシーンを問わずにレフィーヤさん呼び!

 なんか違くないですか!? そうじゃなくないですか!? もっとこう! ほら! なんかあるじゃないですか!?

 などなど勝手を願うお姉ちゃん心、弟知らず。

「でもレフィーヤだって、弟くんのこと可愛いって思ってるんでしょ?」

「もちろんです」

「おお、めちゃ素直」

「というか……もう、何? もはや好きでしょ。あの子のこと」

「もちろんですっ!」

「急に声デカ」

「勢い強っ」

「最近は少し生意気になりましたけど……昨日も私のことを一家総出でボコボコにしてくれましたけど……! こほん。愛嬌もあるし、誰にでも分け隔てなく接することの出来る軸と優しさも持っています。困っている人を放っておかない面もあの子の素敵なところです! 本当に真面目ないい子に育ってくれました。昔はサボり気味でしたけれど最近は勉学にも一生懸命ですしそれに」

「あーはいそういう好きですよねー」

「ですよねー」

 ガトリングが如く延々と射出される弟自慢にエルフィもアリサも半眼になるが、弾切れもオーバービートも心配御無用らしく、まだまだレフィーヤは止まってくれそうにない。

「向こうも大概だってのはわかってるけど、こっちはそれ以上に大概も大概も過ぎてなあ」

「どうしてこうも難儀な二人になってしまったのか」

「こんだけ可愛い可愛い連呼してるし、弟くんのカッコいいところのぜーんぶが可愛いに脳内変換されてるんだろうなあ」

「ここ一年で身長も伸びた感じあるし、元から整った顔立ちの童顔だし、いいバランスのカッコよさ持ってるよね」

「その辺りをこっちが意識すればあっという間、って感じもしない?」

「そうマンガ的に行くわけ……結構ありそうな感じあるわね……」

「どっちが先に意識するかなー」

「弟くんに一票。エルフィもでしょ?」

「うん。てかなんなら弟くんはもう意識しているまでありそうよね」

「ね。まあ、前に決めた通り、二人のこれからに関して過度な介入はしない。忘れてないよね?」

「もち!」

「どうですすごいでしょう! うちのベルは!」

「あーうんすごい。ほんとにすごい。なんかもう、いろんな意味で」

「そうでしょう!」

 ほとんどスルーされていたことなど知らないレフィーヤが満足気に鼻を鳴らす。その素直過ぎる様子に、一年の頃からの友人二人の苦笑も柔らかいものになっていく。

「なんでもいいけどさ、その好きはあの子に伝えない方がいいタイプの好きだなあ」

「どういう意味です?」

「あの子にその気があろうとなかろうと、年下には年下なりの矜持があるんだから」

「繊細で唐突で、成長と変化の激しいお年頃なのよ。レフィーヤが思っている以上に」

「それはどういう」

「とにかくっ。いつまでも世話の掛かる弟でいてくれる! なんて思わない方がいいよ?」

「そーそー」

「二人の言いたいことがよくわかりません……」

「それはそれとして。弟くんに伝えてあるの? これからのこと」

「……まだです……」

「しっかりしなよレフィーヤおねーちゃーん」

「時間ないよ。結構ない。しっかりない。後回しにすればするだけ言い出せなくなるよ?」

「わ、わかってますけど……」

「怖い?」

「怖くは…………いえ。怖いのかもしれません」

「マジ?」

「はい」

「その心は?」

「初めてなんです。あの子と離れ離れになるの」

 力のない言葉と力のない微笑みが、多くの部活動が産み出す放課後の喧騒の片隅に、転がり落ちた。

「ずっと一緒にいられるだなんて盲目的なことを考えていたわけではないんです。ただ、それでも……」

 迎えに行くよと連絡をくれた誰かさんとのトーク画面のまま固まっているスマホの画面を数回、綺麗に手入れされている右手の人差し指で叩く。

 たった今送信されたばかりのスタンプの隣に瞬く間に表示される既読の文字。

「こんな日が来るだなんて、考えたこともなかったなあ」

 レフィーヤが送信したスタンプの下に、親指をグッと立てているアイコンが表示される。

「私がいなくなったらあの子はどうなるんでしょう。あの子がいなくなったら私はどうなっちゃうのでしょう」

 そのアイコンを指先でなぞりながら、左手で頬杖を付くレフィーヤ。

「そんなことを本当に考えなくてはならない日が来るだなんて……自分で選んだ道なのに……」

「レフィーヤ……」

「なんちゃって!」

「は?」

「へ?」

 ほとんど脊髄反射だろうアリサとエルフィの力の抜けた声が、愉快そうに目を細めているレフィーヤの耳を揺らした。

「歳を重ねるとはそういうものだと理解してるつもりですし、声を聞きたいならばスマホ一つあればいいんです。寂しがる必要なんてありません」

「お、おう……」

「だ、だよね……そうだよね! いきなり何言ってんだこいつ流石に重てえ私の親友マジやべぇってなっちゃったもん!」

「重たくありません。普通です」

「ふ、ふつーぅ?」

「普通の基準が普通じゃないわ……」

「二人が気に掛けてくれていることならば、明日の夜伝えます。色々ありまして、私の両親が明朝より遠出をすることになりまして、ベルたちと夕食をいただくことになっているのでその席で。はい、この話はおしまいです!」

「明日ね。聞いたからね?」

「ちゃんとするんだよ?」

「わかってます。あ」

 廊下から、足音が聞こえた。その音はどんどん大きくなり、ついには三人娘が駄弁っている一室の扉が三度ノックされた。

「どうぞー」

「失礼します」

 どうぞの声をしっかり確認してから扉を開けたのは、三人娘の話の真ん中を陣取り続けていた、白髪の後輩の姿だった。

「こんにちは、弟くん」

「やーやー弟くん!」

「生徒会長! エルフィ先輩も! こんにちは!」

 生徒会長を務めるアリサにも、生徒会の一員でもないのに当たり前みたいに生徒会室でのんびりしているエルフィにも、弟くんと呼ばれても嫌な顔一つ見せないベルが、ぺこりと頭を下げた。思春期の若者にしてはしっかりとしたお辞儀である。

「元、生徒会長ね。任期も引き継ぎも終えたんだから」

「私らに頭なんて下げなくていいんだよー。相変わらず真面目というかお硬いよね、弟くんは! どっかの頭でっかちとそっくり!」

「どうしてエルフィは私を見ているんです?」

「その頭でっかちさんと何か大切な話をしていたんじゃないんです?」

「ベルまで!?」

「ううん全然。これからの生徒会はどうなるかなーって緩めに駄弁ってただけだから。生徒会に在籍したことないのに当たり前みたいにこっち側目線でいるエルフィも混ぜてね」

「どやっ!」

「あ、相変わらずですね……はは……」

「行きなよレフィーヤ。戸締りはこっちでやっておくから」

「おくから!」

「では遠慮なく……お先に失礼します。また明日」

「お疲れ様でした! 失礼します!」

「また明日ね」

「ばいばーい!」

 ビシッと頭を下げたベルが退出し、小さく手を振りながらレフィーヤが続く。しっかりと扉を閉めるのを忘れないレフィーヤとベルの上履きが廊下を蹴る音が遠退いていく。

「……よし、ごー」

「ごーごー!」

 もう大丈夫な距離っぽいと判断したアリサとエルフィの動きは迅速。しゅたたっとレフィーヤが閉めたばかりの扉に張り付き、ほんの少し隙間を開け、二人揃って耳を澄ませる。

「そういえば、帰りに歯磨き粉買って来てってお母さんからライン来てた」

「じゃあ買い物して帰りましょう。いい機会ですし、ベルの歯磨きも買い替えたらどうです? 結構痛んできたでしょう」

「そうしようかな。昨日誰かさんがやけ食いしちゃったポテチも補充しとかないと」

「や、やけ食いなんてしてません!」

「そうだ。シャーペンの芯ってたくさんある? あったら分けて欲しいんだけど」

「知りません! 自分で買いなさい!」

「ケチだなあ……あ、ポイントカード。お母さんが持ってるや……そっちはある?」

「もちろんです! 会計5%オフのクーポンも持ってます!」

「おお、流石は買い物番長」

 実に家庭的な話をしている二人の背中が、階段に消えて行く。

「もうさあ……」

「ほんとさあ……」

「カップルか!」

「寧ろ夫婦かっ!」

 二人が離れたことを確認したアリサとエルフィが心底羨ましそうに叫ぶも。

「な、なんだか変な雄叫びが聞こえませんでした? 今のはなんでしょう……?」

「さ、さあ……」

 何処かから聞こえた爆音に仲良く首を傾げる二人には、なんのこっちゃなお話であった。

 

 * * *

 

「うわあ……」

「凄いことになっていますね……」

 ネガティブな溜息を吐き出すベルとレフィーヤの視線の先には、見ているだけで気が滅入ってしまうような数の人がずらーっと列を成していた。

「なんでこんなことに……あ、これだ」

「なんです?」

「人身事故。電車が止まっちゃったんだって」

「他の交通機関が混雑するのはあるあるですね……」

 自分より頭の位置が低いレフィーヤにも見えるようスマホを低くするベル。更新されて間もないニュースを見るに、しばらくは何処もかしこもこんな具合なのだろう。

「こういうこともあります。ゆっくり帰りましょう」

「だね」

 ゆっくりじっくり進んで行く人の列の最後尾に位置する二人が無事に乗車出来たのは、それから約四十分。二人の住まうエリアは昼夜を問わずにそれなりの本数のバスが運行しているもので、これだけの時間を待たされることなどとんと経験がなかった。

「バッグ」

「ありがとう」

 当たり前にレフィーヤのスクールバッグを預かるベルを先頭に、いざ進軍。

「ん」

 置いていかれないようにと、ベルのブレザーを指で摘むレフィーヤ。躊躇など微塵もない。

「うん」

 わかっている。気にしないでと頷いて、レフィーヤを置いていかないよう慎重に歩みを進めるベル。奥へ進め進めと背後から掛けられる圧から逃げるよう、人でパンパンになっている車内の奥へと可能な限り進んで行く。

「こっちで買い物しないでよかったですね」

「だね」

 ぎゅうぎゅうの車内でもまあそれなりか、くらいのポジションを見つけた二人が、ボリュームを抑えた苦笑を交換し合う。ここから三十分以上は我慢の時間だ。

 乗車人数の限界値をギリギリでオーバーしていない、のかなあ? くらいパンパンに人を詰めたバスは程なく発車。中が大混雑でもなんのその。ダイヤ通りとは行かずとも、それでも充分過ぎるパワフルな走りを披露。アクシデントの中に於いては順調な帰途であると言えるだろう。

「わわ……!」

「っと」

 次の駅に停車。降車する人数より乗車する人数が多く、結局は鮨詰めのまま。

「あ」

「平気」

「……ありがとう」

 ベルの足を踏んでしまったことに気付いたレフィーヤ。謝罪を口にするより先に飛んできた言葉に感謝で返すも、こんなのあるあるでしょうと言わんばかりのベルは、レフィーヤに視線を寄越しもしない。

「あ……」

 そこでレフィーヤ、気付く。

 ベルと、ほとんど密着してしまっているような状態であることに。

 離れるまいとブレザーを掴んでいたのだ、当然である。

「…………」

 自らの腕を微かに押し返してくるベルの二の腕は過度に隆々としているわけではないが、それでも充分に逞しく、その感触に驚かされる。

 去年のことだったか。

 レフィーヤさんより身長が高くなったよとベルの口から聞かされた時はとても悔しくて、とてもとてもとってもとっても、嬉しかった。

 今は違う。

 ひたすらに驚くばかりだ。

 いつの間にこの子は、こんなにも逞しくなったのだろう。

 そもそも、乗車の時点でおかしかった。

 しれっと。しかしつつがなく進行していたが。

 少し前までならば、自分がベルの手を引いていた場面だろう。

 今もしているようにベルのシャツを掴み、ベルに先を歩かせるだなんてありえないもありえない。

 危ないですから手を離しちゃダメですよ? なんてお姉さんぶるに決まっているのだ、レフィーヤ・ウィリディスという娘は。

 だと言うのに。ただただ自然に、立ち位置が入れ替わっていた。

 二人の間で何か決め事を作ったわけでもない。混雑時はベルにバッグを持ってもらうことがルーティン化した覚えもない。

 ただ、変わったのだ。

 レフィーヤがではない。

 身体が大きくなろうと。声変わりを終えようと。いつまでも変わらないでいてくれる、可愛い可愛い弟だと思っていた少年が。

 少年ではない何かに、変わりつつあるのだ。

 こんな時に思い出してしまうのは、数十分前に聞いたばかりの、親友たちの言葉。

 繊細で唐突で、成長と変化の激しいお年頃なのよ。レフィーヤが思っている以上に。

 いつまでも世話の掛かる弟でいてくれる! なんて思わない方がいいよ?

 繊細。唐突。

 成長。変化。それと。

「世話の掛かる弟……」

 不思議だ。

 目の前のベルにも聞こえないだろう弱々しく、しかしこの口にとてもよく馴染んだ、心が安らぐ独り言。

 しかしどうしたことだろう。

 何処か空虚に。

 ただの記号のように聞こえてしまうのは。

 一体どうしてなのだろうか。

「ぁ」

 ベルとの会話もそこそこに自らの内へ内へと意識を沿わせている最中。

 決して無視出来ない異変を察知した。

「ゃ……!」

 触られている。

 スカート越しに、臀部を撫でられている。

 当然ベルにではない。

「く……ぅ……」

 ゆっくりじっくりと、舐め回すかのような手指の動きがレフィーヤの輪郭を汚す。急速に湧き上がる気持ち悪さを懸命に無視しながら、自らの背後に立つ人物の姿を横目で確かめる。

 スーツ姿のサラリーマン。四十から五十代の男性。レフィーヤが目線を送るなりそっぽを向いてしまったが、レフィーヤに纏わり付く不快な感覚は消えてくれない。左手にはビジネスバッグ。右手はよく見えないが……つまりそういうことだろう。

 間違いなく確信犯だろうが、今ここで叫んでもシラを切られてしまう可能性だって高い。確たる証拠が得られるのがベストなのだろうが、これはどうするのが正解なのかしら? 手を掴んで痴漢でーすと叫べばそれで全部解決出来るのでしょうか?

 痴漢被害に遭うのなど初めてのことながら、妙に冷静でいる自分に違和感を覚える。ああどうしようこうしようと考えている間にもバスは進んで行く。もちろんレフィーヤの臀部は好き放題されっぱなし。

 自宅の最寄りまでまだ距離はあるが、このまま我慢をし続けてしまうのも選択肢の一つ?

 なんて、本当によくない考えが、レフィーヤの頭を過ぎってしまった。

「ぅ……」

 レフィーヤの懊悩など知るわけもない無粋な手が、調子に乗り始めた。

 上から下へとレフィーヤの臀部をゆっくりと撫で上げ、遂にはスカートの裾を捲ったのだ。

「っ……!」

 どうしていいかわからないレフィーヤに出来たことなど、全身に力を込め、堪えることだけ。

「どうし……ちょっと」

 しかしそれが、正解の一つだった。

「え、っ……!?」

 狭い空間であることなど意に介していない強引さで、レフィーヤの腕が引っ張られた。

 呆気に取られている間にレフィーヤの身体が辿り着いたのは、華奢に見えるのに実際はしっかりと逞しいベルの両腕と、胸の中。

「べ、ベ……ル……?」

 掠れていく語尾。微かに震える声を取り繕うことも出来ないまま、弟の顔を見上げる。

「何してるんですか、貴方」

 産まれたその日からずっと一緒だった弟が、知らない顔をしている。

 この子のこんなに怖い顔、見たことがない。

「何してるんですかって聞いてるんです」

 こんなに怒るこの子を知らない。

 ベルのことなら誰よりも知っているレフィーヤも知らない姿のベルが、レフィーヤを傷付けた中年男性を、真っ直ぐに睨み付けていた。

 ベルに怒りを向けられている男は、その言葉にも眼差しにも無視を決め込んだ。実に軽薄にして大いに不遜。ベルの怒りが何倍にも膨れてしまう振る舞いだが、まさか犯行現場を目撃されているとは思わなかったのか、ベルとレフィーヤを映そうとしない眼球は忙しなく揺れまくっている。

「……降りよう」

「え?」

「すいません、降ります」

「ちょ、ちょっと……!」

 レフィーヤの意見に耳を傾けもしないベルに肩を抱かれ、ちょうど停車したバスから飛び出す。当然、二人の家の最寄駅ではない。

「あ、写真……あーもう! 間に合わなかったっ……!」

 片手に二つのバッグ、もう片手でレフィーヤの肩を抱いたまま、ブレザーからスマホを器用に取り出すも、何やらベルは不機嫌な模様。不埒な真似をした男の写真を撮ろうとしたのだが間に合わなかったらしい。

「とりあえず車両番号と何時初の何処行きかとかを抑えてバス会社に報告かな。それとあのおじさんの特徴か。あ、今日の日付も必要か。危ない危ない。こんなの初めてでどうするのが正解なのかよくわかんないや」

「あ、あの、ベル……」

「ん? ああ、ごめんごめん」

 レフィーヤを抱き寄せたままであったことにようやく気付いたのか、そそくさとレフィーヤの身体を解放したベルはもう、レフィーヤが知らない顔をしていなかった。

「え、っと…………その……あ」

「大きな声、出せなかった?」

「え?」

「気付いたら直ぐに大きな声出すか、せめて僕に耳打ちしてくれたらよかったのに」

「……だって……」

「だって?」

「ただでさえ混雑していて……遅延もしているのに……これ以上トラブルが発生したら……他の乗客のみなさんが……その……」

「ぶぶー」

「へ、にゃ!?」

 レフィーヤ、猫化。ではなくて。

「レフィーヤさんらしいけど、ダメです。それはとってもダメです」

 スマホをポケットに突っ込んだ右手が、痛くない程度の力でレフィーヤの頬を摘んだ影響である。

「レフィーヤさんが辛い思いをして、我慢をしちゃうなんておかしいし、そんなの……僕は嫌だよ」

 自分に触れた指から力が抜けていくのが伝わってくる。

 その指の持ち主はどうしてか、今にも涙を落としてしまいそうな、とても辛そうな表情で、レフィーヤを見つめていた。

「ごめんね」

「へ?」

「怖かったよね。直ぐに助けてあげられなくて、ごめん」

「ぇる……」

 なんと言葉を返していいかわからないレフィーヤに出来たのは、ベルの名を口にすることだけだった。

「……とにかく!」

「ひゃ!」

「次の機会なんてないに限るけど、もしもまた危ないこと、怖いことがあったら、その時は大きな声で助けを求めること」

「しょ、しょれは」

「いい? 約束出来る?」

「…………ひゃい」

「よろしいっ」

 レフィーヤの頬から指を引いたベルは、もう陰鬱な表情をしていなかった。

「さて、偶には歩いて帰ろっか。買い物もしなきゃだし」

「……そうですね」

「行こ」

「わ……!」

 さっきまでレフィーヤの頬を摘んでいたベルの手指が、レフィーヤの手を掴んだ。

「……一人で歩けます」

「僕がそう言っても、危ないからダメですっていつもいつも無理矢理に僕の手を引っ張っていたのは何処のどなたでしょう?」

「……生意気」

「痛ぁ!?」

 やられっぱなしでなるものかと、レフィーヤの手を掴んで離さない手の肉をぎゅっと抓ってやった。効果覿面である。

「はあ……」

 なんなんだろう、今日は。というか、この一時間くらいか。

 未知の体験だらけだった。

 知らない人にああいうことをされるということが、どれだけ不快なものであるかも知れた。

 というか。

 ベルは少しだけ、勘違いをしている。

 怖くはなかった。

 強いて言うならば、誰かさんが本気で怒った顔が、少し怖く感じたくらいなもので。

 今は感覚が麻痺しているだけで、もしかしたら今日のことを思い返して恐怖に震える時が来てしまうのかもしれないけれど、さっきのことは怖くなかったのだ。嘘でも強がりでもない。不快だったし、叫びたくてたまらなかったけれど、本当に恐怖は感じなかったのだ。

 きっと、自分一人だけだったら全然違ったのだろう。

 今、恐怖に呑まれずにいられるのは。

 あんな出来事があったばかりなのに、不思議なくらいに胸が高鳴ってしまっているのは。

「ここから歩いたら家まで一時間くらいかな。いい運動になるね」

 いつの間にかとっても逞しくなっていたらしいこの子が、瞳の中にいてくれるから。

「……ベル」

「うん?」

「ありがとう」

「どういたしまして!」

 溌剌とした返事と笑顔で返してくれた弟の手は、最後に繋ぎあった日よりもずっとずっと大きくて。

「う……くぅ……!」

 少しだけ、ドキドキしてしまった。

 

 * * *

 

「もしかして……もしかしたらなんですけど」

「うん」

「うんうん」

「ベルって…………カッコいいのかなって」

「「何があった!?」」

 右に左にあっちにこっちにと視線の定まらないレフィーヤから飛び出した文言に、彼女の両隣を固めるエルフィとアリサが目玉をひん剥かんばかりに吠え、放課後の校舎を揺らした。

「わ、わかってはいるんです……幼い頃の面影を強く残しながら……とっても精悍な顔立ちになりました……背の順に並ぶと最前列が指定席くらいの子だったのに、今では世代平均より少し上くらいには背も伸びました……部活動の成果なのか、とてもいいスタイルをしていると思います……」

「全肯定ボットめいてる……」

「そ、それで?」

「その辺り諸々わかっていて尚、可愛い以外の目であの子を見れたことがなくて……だって言うのに……私の中で……可愛いよりカッコいいが……先に来た……みたいな……ことが……」

「マジで何があった!?」

「っていうか……レフィーヤ?」

「は、はい……」

「顔赤っっっっっか!」

「あうぅ……」

 真っ赤になっているらしい顔を両手で隠して俯くレフィーヤの姿に戦慄を隠さないエルフィとアリサ。エルフィに至っては顎が外れてしまったのかなくらいの口あんぐりである。

「昨日、なんかあった?」

「……はい……」

「無理強いはしない。でも、話せるなら話して欲しい」

「ん! ん!」

 俯く親友の肩に触れながら微笑むアリサと、口あんぐりのままこくこく頷くエルフィ。

「……あまり気分の良くない話も混ざりますけど……」

 自分を弄りにくる二人から揶揄うような気配を感じなかったレフィーヤは、真っ赤に染まった頬を隠したまま、昨日の出来事を二人に打ち明けてしまうことにした。

「レフィーヤの尻を撫でたおじさんはウザ過ぎて滅! するのは確定として」

「お父さんのラインみたいな流行の差し込み方やめない?」

「しかも少し古いですし」

「私の中じゃまだまだアチーんじゃ! うちのおとーさん踊れるし!」

「すげーなエルフィパパ!」

「とにかくっ! よーするにレフィーヤは、変質者さんから守ってくれた弟くんにキュンキュンしちゃったと」

「エルフィの言うきゅんきゅんがなんだかわかりませんけど……驚いたと言うか……その……本気で怒った顔が……」

「カッコよかった?」

「こんな怖い顔もするんだって思いながら……カッコいい……かも……なんて……」

「お、おぉう……」

「それに……私のことを抱き寄せたベルの腕や胸板が……想像よりずっとゴツゴツしていて……」

「キュン、じゃんそれは!」

「キュン、だねそれは」

「実に女の子らしいキュンしちゃってんじゃんマジかよ我が校の女神様ぁ!」

「しかも弟くんにとは……いやあるなら弟くんしかないよねとは思ってたけど、こんなにしっかりキュンしてキュンすると思わないじゃん」

「だからそのきゅんとかきゅんきゅんって一体なんなんですか!?」

「ん? ねえちょっと待って? 弟くん、今日部活じゃん?」

「ええ。今も校庭にいますね」

 窓際の席に座っていた三人娘が横並びで、眼下の光景に目を向ける。

 校庭に散らばる多くの部員の中でも一際目立つ白髪は直ぐに見つかった。練習の終わりが近いらしく、部員たちと談笑しながらクールダウンに励んでいる様子。遠目に見てもわかる程度に汗に塗れた横顔が、この数時間がとても有意義なものであったとレフィーヤたちに伝えてくれる。

「それがどうかしました?」

「弟くんが部活ある時のレフィーヤってさ、弟くんを待たずに下校するじゃん? 練習終わりまで待ったりとかしないじゃん?」

「言われてみれば。じゃあレフィーヤが今日お残りしてるのはなにゆえ?」

「……今日は一緒に帰ろう……僕が迎えに来るまで校内で待っててって……ベルが……」

「「はーん!?」」

「アフターケアもしっかりしてるー!?」

「や、やるじゃないか弟くーんっ!」

「二人とも声が大きいですっ!」

 開いた窓の向こうにダダ漏れになること恐れたレフィーヤさん、決意の窓ピシャリ。その勢いに巻かれたカーテンが派手に踊る。

「優しいー!」

「っていうかジェントルーっ!」

「や、優しい……ジェントル……?」

「レフィーヤ昨日のことを思い出して嫌な思いをしたり、万が一の確率で昨日のおじさんと遭遇した時の為に一緒に帰ろうって言ってくれているんでしょ、弟くんは」

「そう……ですよね……やっぱりそうなんですよね……あの子らしい……ふふ……」

「ふふ。じゃねーわ!」

「お姉ちゃん嬉しいっ。みたいなにへら笑いやめなさい。そんな顔で弟くんの前に現れたら引かれるわよ」

「そ、そんな変な顔してません! 多分! そ、それよりも! 二人の意見が聞きたいです!」

「私たちの?」

「意見?」

「そうです!」

 頬だけでは足らないのか、首筋や耳まで真っ赤に染めたキュンキュンしちゃってる系女子が、無理矢理に話の流れを変えにかかる。

「ふ、二人の目から見てあの子はどうですか? その……カッコいい……でしょうか……?」

「カッコいいでしょ」

「可愛いに寄ってるけど充分カッコいいと思う」

「イケメンって言葉で表すタイプじゃない系のカッコよさだよね」

「わかるー」

「今のエピソードもそうだけど、内面はしっかりイケメンよなあ」

「お人好し過ぎてちょっと危なっかしいかなって思う時もあるけど、そういうところも含めてカッコいいと思うな」

「…………」

「そんな、聞きたくなかったー! みたいな顔されても」

「凄い顔になってるわよレフィーヤ」

「そ、そうなんだ……あの子って……カッコいいんだ……」

「実際人気あるよね、弟くん」

「ねー」

「に、人気があると言うのはつまり」

「モテる!」

「ってことね」

「モっ!?」

「そんな驚くことなの……?」

 苦笑いのアリサの前で、今度は私がと言わんばかりに口あんぐりのレフィーヤ。惑えるキュンキュン系お姉ちゃんの心中が落ち抜くのを待たず、エルフィが口火を切る。

「私ら三年生組には可愛い可愛い言われまくってるよね弟くん。こんな機会だから言っちゃうけど、レフィーヤがいるから手が出せないーって言ってる子、何人か知ってるよ」

「一年女子たちからはカッコ可愛いって言われてるみたいよ。人当たりもいいし面倒見もいいし優しいし。男女問わず後輩には好かれるでしょうね」

「二年の中でも人気ある方じゃない? 弟くんのクラスメイトだと、一見するとめちゃロリ系なんだけど実はトランジスタグラマーななんかリスっぽい子とか、金髪グラマラスで儚げな雰囲気放ってるなんか狐っぽい系女子とかからガチガチもガチに迫られてるはず。他にも何人か弟くんガチ勢知ってるよ」

「ね、OGにも弟くんガチ勢いるなんて話、聞いたことない?」

「あるある! 去年卒業した部活の先輩にえらく気に入られてるってヤツでしょ!? その先輩に、私の手を握れた異性は貴方が初めてだ。とかなんとか面と向かって言われて弟くんがテンパリまくってたーなんてことがあったらしいよー。その先輩、今でも結構な頻度で練習に顔出して弟くんに絡んでるみたい。名前忘れちゃったなあ……一体何リオン先輩だったっけ……」

「手を握れた云々はイミフだけど、もうそれ絶対弟くんを…………レフィーヤ?」

「し、知らない……全部全部知らない話でした……!」

「ま、そんなんもんじゃない?」

「レフィーヤだって告白された云々とか弟くんに伝えていないんでしょ?」

「それは……はい……」

「レフィーヤちゃんってば、我が校屈指のモテ女のクセに誰にも靡かないんだもんなー! その分私に来てくれたらいいのになーっ!」

「とか言いながらレフィーヤから宗旨変えされたらそれはそれで嫌な顔しちゃうのがエルフィよね。それで一人蹴ったの知ってるんだから」

「あれは別! ウィリディスさんと仲良かったよね? とか二人で下校してる最中に聞かれるんだもん! 魂胆見えてるってのふざけんな私はド直球ド真ん中でモテたいんだぞそうだろなあおい!?」

「急にうるさ……ねえレフィーヤ。レフィーヤはどうして彼氏作らないの?」

「へ?」

「好きな人がいるから全部断ってる、とかじゃなくて?」

「いないですけど……」

「だったらどうして?」

「それは……その…………」

「わからない、って顔だ」

「成績維持の為にキャッキャウフフにかまけていられないーなんて言うのかと思った」

「遊ぶことと勉強することは両立出来ますし、両立させてこその学生生活だと思うので、そういう考えはありません」

「急に真面目か!」

「それ、弟くんにも言えるよね」

「え?」

「ああいう子だから自覚的になりきれない部分はあるかもだけど、弟くんだって少しくらいは気付いているでしょ。自分のことを特別に思ってくれている人がいることに」

「それは…………あるかもしれません……」

「だったらどうして彼女作らないんだと思う?」

「…………好きな人が……いる……?」

「あるかもね」

 真っ赤なままの顔を隠すのをやめたレフィーヤが、ぼんやりと窓の向こうの景色を仰ぐ。

「……あの子に……好きな人……」

 呆けた眼差しに呆けた言葉がアリサとエルフィの間をふわふわ漂う。

「ベルには……いるのでしょうか……」

 頬杖を付いて窓の向こうの景色に目をやるレフィーヤの視界の片隅に、部の女子マネージャーととても楽しそうに語らいながら校庭を離れていくベルの背中が見えた。

「……アリサ殿」

「皆まで言うなエルフィ殿。わかっていたことでありましょう。矯正も強制もしないと以前に決意したでありましょう」

「でござりますですでありんしたね」

「なんですその喋り方……最近流行っているんですか?」

「お気になさらずなのであります」

「あります!」

「気になり過ぎる……」

「あ! そーだレフィーヤ! ちょっと想像してみてよ!」

「想像?」

「そうだなあ……レフィーヤが弟くんと離れて暮らすようになりました」

「なんですそれ?」

「例えばの話だって! いいから聞く!」

「はい……」

「久し振りに地元に帰って来たレフィーヤは、数年振りに弟くんに会いに行きました」

「ふむふむ」

「そうしたら、弟くんの隣にレフィーヤの知らない女の子がいました」

「はあ……」

「実はその子は弟くんの恋人で、もう直ぐ結婚するんです!」

「…………」

「しかもしかも、子供も間もなくでなんて話をされたらってちょちょちょちょちょちょ!?」

「れ、レフィーヤぁ!?」

「うぅ……ぐすっ……ぅ……!」

「「何故泣く!?」」

 レフィーヤお姉ちゃん、泣く。

「うぇぇえぇ……!」

 ガチ泣きである。

「いやいやわからんわからん!」

「一体どうしちゃったの!?」

「ち、小さい頃……あんなに人見知りをしていて……お友達を作るのが得意じゃなくて……いつだって私の背中に隠れているような引っ込み思案な子だったあの子が……結婚して子供が出来たって……想像でもう、嬉しくてえぇぇ……!」

「「そっちかいっ!」」

 ビシッッッ! って効果音が聞こえてきそうな綺麗なツッコミのダブルパンチを向けられたレフィーヤは、ハンカチで懸命に目元を拭っている真っ最中。

「弟くんが取られちゃったー! とかじゃないんかい!」

「お姉ちゃんの情緒がお母さん過ぎる……!」

 見ている方が心配になるような泣きっぷりのレフィーヤ。目元を拭いまくったハンカチもぐっしょりである。

「い、今のは例え話としても、本当になり得ることだよ? なんなら可能性高いと思う」

「弟くんが生涯独身なんて想像出来ないもんなー。っていうか幸せになってほしい!」

「ぐすっ……ど、どうしてですか、エルフィ?」

「めっちゃいい子じゃん! 弟くん!」

「まあ、いい子とかさ、努力をしている子が報われて欲しいのはそうね。わかるわ」

「あの子の……幸せ……」

「……同じだったらいいと思うな、私は」

「何がですか?」

「弟くんの幸せと、レフィーヤの幸せ」

「え?」

「おいおいアリサさーん?」

「大丈夫よエルフィ。ほら」

「あーうん……みたいだね……」

「?」

 真っ赤に充血した目を丸くし、きょとんと小首を傾げるレフィーヤの姿に、いやいや踏み込み過ぎだろと慌てたエルフィも苦笑い。

「これ以上突っ込んだこと言うのは流石に憚られるから控えるけどさ。本当に今のままでいいのかどうか、自分に聞いてみるくらいはしておいた方がいいよ」

「だね」

 眼鏡の向こうの瞳を細めてアリサが。人懐っこさ全開の愛らしさでエルフィが。鈍感と言うべきか、ある意味で意識が低過ぎると言うべきか判断に困る親友を真ん中に、いい笑顔を咲かせる。

「今の……まま……」

「深く考えなくて……や。深く考えてみてもいいのかもね。今くらいはさ」

「だね……それより今夜よ、今夜! ちゃんと伝えるんでしょ?」

「は、はい……」

「ちゃんと話せるといいね、いろんなこと」

「そういう話をするにはいい夜でしょうし」

「そうなの、アリサ?」

「今夜、流星群が見られるらしいわよ」

「へー! 全然知らなかったー! 何時何分何十秒に見れるんですかアリサ先生ぇー!」

「インターネット先生に聞きなさい」

「はーい!」

 やいのやいのとスマホに殺到する二人を他所に、薄暗い空を見上げるレフィーヤ。

「流れ星……」

 アリサの言葉が、レフィーヤの中にある古い記憶を刺激した。

 もうずっと前の記憶。

 ベルと二人で、流れ星を見た。

 言っても、流れ星を見られたのは確か、自分だけだったはず。

 あの時自分は、流れ星に願いを載せようとして失敗した。三回言わなくちゃいけなかったのに、流れ星を発見出来た感動が大き過ぎて願いを口にすら出来なかったから。

「あの時は……」

 何を願おうとしていたっけ? 確か自分は、きょとんとしているベルに、流れ星が通ったらこんなことをお願いするんだと叫んでいたような覚えがある。あれは確か……。

「あ」

「来たね」

「どうぞー」

「失礼します」

 間が良いのか悪いのか、丁寧な三回ノックを経て、さっきまで校庭で部活動に励んでいたベルが顔を見せた。

「やーやー弟くん! 陸上部の練習お疲れ様!」

「ここから見てたよ。ほんっとに足速いよね。すごいや」

「あ、あーいや……それなりに……」

「もっと自信持ちなよー」

 今代の陸上部短距離部門のエース候補であるベルを交えてカラカラと笑うアリサもエルフィも、気付いていた。

 談笑に混ざろうとしないレフィーヤが、何かを言いたそうに、ベルの横顔を見つめていることに。

「あーっと……そうだ! 昨日のこと、レフィーヤから聞かせてもらったよ。大変だったね。でも弟くんがいてくれてよかったよ!」

「いえ……僕は何も……」

「何も出来てないなんてことはないんだよ? だからって私らが言うことじゃないかもだけど、おとう…………ごめんちょっと待って」

「は、はい?」

 生真面目な呟き。目を丸くして小首を傾げる。些細な仕草までレフィーヤとそっくりのベルを置き去りで、アリサはエルフィの肩に手を添えた。

「ねえエルフィ。私、薄々感じてたの」

「はいほい?」

「これ、私らにも問題あるなって」

「……なるほど?」

「呼び方」

「なるほど!」

「……というわけで」

「というわけで!」

「というわけで……?」

「弟くん改め、ベルくん!」

「ベル・クラネルくん!」

「え!? あ、はい!?」

「「うちのレフィーヤをよろしくお願いします!」」

「は、はい! ん? よろしく……お願いします……?」

 勢い良く頭を下げる先輩二人より頭を高くしていられるわけがない生真面目な後輩ががばっと頭を下げる。心臓より低い位置になった頭に血が上り、同時に多くの謎が脳を目掛けてどどどーっと殺到する。

「あの……先輩方? 今のは」

「いいからほら! 帰った帰った!」

「レフィーヤもボーッとしてない!」

「ちょ、ちょっとアリサ……!」

「ちゃんとレフィーヤのおヒップを守ってやるのだぜ! レフィーヤのナイトくん!」

「お、おヒ!? わ、わわわ……!」

「じゃーまた明日ね!」

「気を付けて帰りなさい、よっ!」

「どわぁ!?」

「きゃっ!」

 荷物ごと纏めてベルとレフィーヤの身体を室外に放り出し、満点のドヤ顔をキメるはエルフィアリサコンビ。

「……また明日……」

「お、お疲れ様でした……」

「「うむ!」」

 キャラの安定しない二人に見送られ、二人の足跡を廊下に貼り付けて行く。

「先輩たち、何が言いたかったのかな……やけにテンション高かったし……」

 しっかと腕を組み謎の強キャラ感を放っている二人の姿が見えなくなった階段の途中。流石に完全スルーはちょっとと、ベルの方から先輩たちの奇行に触れてみた。

「ね、レフィーヤさんはわか……どうかした?」

 うんうん唸りながら階段を下っていたベルの気付きは実に緩慢。

 隣同士を歩いていたはずなのに、いつの間にかそうじゃなくなっていた。

「…………」

 レフィーヤが、足を止めていた。

「ねえ、ベル?」

「うん?」

「ベルは、今のままでいたいですか?」

「今のままって?」

「深く考えないでください。イエスかノーどっちですか?」

「ノー」

「……即答ですね」

「納得出来ないこと。諦めたくないこと。追い付き、追い越してみたい人。そういう色々があるから、今のままではいたくないよ」

「そうですか」

「……レフィーヤさんは?」

「私?」

「今のままでいたいの?」

 小さい頃に何度もしていたようなオウム返しの亜種。行使するのは、ベルだけが持ち合わせている当然の権利。

「……私は……」

 数々の運動部が産み出していた喧騒も明日までおやすみなさい。いやに物静かな階段室に小さくしかし高く響くレフィーヤの声から遅れ、階段を踏み締める足音が聞こえる。

 ゆっくりと階段を下ったレフィーヤが、ベルと同じ段に。

 ベルの隣に並んだ。

「秘密です」

 感情も正解も本当に伝えたいことも何も見せない微笑みを弟に預けたお姉さんは、何年もずっとそうしていたように、何も言えないベルの前を歩いて行ってしまった。

 

 * * *

 

 クラネル家のリビング。

 クラネル一家とレフィーヤ。合わせて四人で囲む夕食を終えたばかりの席。

「中学を卒業したら、都会に行きます」

 しっかりと背筋を伸ばしたレフィーヤが、未来の予定を口にした。

「つい先日、私立高校の少々特殊な推薦に合格しました。聞けば誰でも知っているような名門校です。部活動などに所属していたわけではない私にこんな話が来るなんてと驚きました。しかしこんなに有難い話なんてそうはないでしょう。堅苦しいことを言うようですが……自分に出来ること、出来ないこと。世界の広さや世間の厳しさも。私がどんな大人になりたいのかも。この街にいるだけでは見えない景色を探しに行きたいんです。だから迷うことなく決断しました。なので、春にはこの街を離れます。そういう報告です」

 つらつらと淀みなく、まるで台本を用意していたかのような言葉を並べるレフィーヤは、真っ直ぐに自分の瞳を見つめてくれる二人の大人に、穏やかな微笑みを向け続けている。

「すげーな。やったじゃん」

「おめでとう、レフィーヤ」

 たまたま表札に刻まれている名字が自分と違っていて、たまたま血が繋がっていないだけ。

 自分が生まれた時からずっと一緒に生きてきたもう一人の父ともう一人の母は、レフィーヤの決断と旅立ちを、心より歓迎してくれた。

「ありがとうございます」

 頭を下げるなんて今更だからと、少しだけ緊張が混ざっていた所為で硬めだった微笑みを愛らしい笑顔に昇華(ランクアップ)させ、二人に返した。

「ふぅ……」

 誰にも聞かれないように努めて呼吸を整えるレフィーヤ。

 俺らも鼻が高いわ! お祝いしなきゃー。

 などなど愉快そうに語らう二人の姿をずっと見ていたい衝動が決意を鈍らせてしまう前に、果たすべきを果たすのだ。

「……そういうことになりました」

 レフィーヤが左を向くと、彼女の瞳に、白い髪が広く居場所を取った。

 その髪の持ち主は、綺麗な紅い瞳を丸くし、真っ直ぐにレフィーヤを見据えている。

「初めてですね。ベルと違う学校へ通うことになるのは」

「……そうだね」

 レフィーヤを追いかけるよう、幼稚園も小学校も中学校も彼女とお揃いを選び続けたベルは、その言葉に微かな動揺を示したが。

「おめでとう! レフィーヤさん!」

 それすら覆い隠し、小さな頃から変わらない笑顔で、レフィーヤの門出を祝福した。

「ありがとう。ベル」

「うん! でもすごいね! 偏差値いくつくらいの高校なの!?」

 ああ、無理をしている。

 させてしまった。

 レフィーヤだって血で繋がるベルの両親だって一目で見抜ける、ベルの強がり空回り。

 しかしそれにどう触れていいかわからないレフィーヤは、言いたい言葉の多くを胸の中に一時保存することにした。

 ややあって。

「レフィーヤ」

 当たり前にクラネル家の風呂で身体を温め終え、ソファにてまったりモードに入っている部屋着のレフィーヤの両隣に、ベルの両親が滑り込んで来た。

「はい?」

「わかっているんでしょ?」

「もーすこしとか、いつか大人になった時とか、そんなサムいこと言わねーでさ、満足するまで言いたいこと言い合ってきたらいいよ」

「全然悲しくないはずのことが悲しいことになっちゃったら、それこそ悲しいもの」

「それに、今夜は最初からそのつもりだったんだろ?」

「あの子も、レフィーヤと腹を割って話せる機会を待っていると思うなー」

「……ちょっと行ってきますね」

「おう!」

「うんー」

 湿り気も抜けてしっかり乾いたレフィーヤの髪が、二人の大人に撫でられたりくしゃくしゃにされてしまったり。拒むのが難しい二つの温もりの隙間をするりと抜け出して、レフィーヤはソファを離れた。

「二人とも。ベルの部屋、暫く立ち入り禁止でお願いします」

「はーい」

「避妊はちゃんどぉっ!?」

「いってらっしゃーい」

「い、いっへらっさい……」

 今日も炸裂したベルママパンチが産み出す完勝劇に見送られ、腰まで届く長い髪を揺らし、階段を登る。

「あ」

 艶のある濃紺色の台紙の上に、誰かが好き放題に明るい色の絵の具を落としたような夜の空が、階段の途中にある小窓の向こうに広がっていた。

「今夜でしたっけ」

 親友が教えてくれたことが本当になるのなら、放っておいても今夜は素敵な夜になる。ならないのであればインターネット先生が嘘つきということになる。そうなったら先生にはびゃーっと文句を言ってやるとして。

「空気、読んでくださいね」

 お空を駆ける予定があるらしいどこぞのお星さまにお願いというか、ほとんど命令を一つ。

 レフィーヤのことなどなんでもお見通しである愉快な大人二人に乱された髪を手櫛で。妙に喧しく鳴り続ける胸を両手で抑え、それぞれ整えて。

「よし……!」

 階段を上がって直ぐの部屋をノック。

「ベル。今いいですか?」

 返事はない。

「起きていますか?」

 まだ眠るには早い時間だろうが、返事は返ってこない。

「ベルー?」

 ノックを追加し、意識して声を張ってみるもやっぱり無反応。

「開けますよー?」

 勝手に部屋に入るなど記憶にない。もっと言えば、ベルの部屋に入るのさえ久しぶりなレフィーヤが、ゆっくりゆっくり扉を開く。

「ベル……?」

 室内の電灯は沈黙。電子機器等々のランプの輝きと星明かりが照らす室内に、ベルはいなかった。

「いるじゃないですか……」

 が、ベルの背中が見えた。

 彼は、室内のそれよりも弱い灯りの点いているベランダに備えられた椅子に座り込んでいた。

 ベルの部屋のベランダには、ベルとレフィーヤが遊べるようにと張り切ったベルの父親によって、人工芝のマットが敷かれている。

 父親チョイスのこのマットが今も昔も大層お気に入りなベルは、昔はレフィーヤと二人で何気ない遊びに没頭し、今は一日中ベランダで読書をしていたりストレッチやトレーニングをしたりととことん謳歌。昔も今も、ベルの生活になくてはならない場所となっている。

「電気点けますよー?」

 一応断ってから電気を点ける。即座に点灯したLEDライトが、レフィーヤの瞳を微かに小さくさせる。

 お部屋は綺麗に保たないといけません!

 小さな頃から今日まで四人の親より誰よりレフィーヤが口酸っぱくお小言を投下し続けた成果と言うべきか、久し振りに踏み込む室内は、とても綺麗に保たれている。

 中型テレビ。ゲーム機。パソコン。シングルサイズのベッド。壁に掛けられた制服。マルチタップからたくさん伸びている充電器。重厚な作りの黒いヘッドホン。見覚えのないデジタルクロック。いつの間にかより大きく、洗練されたデザインのものに変わっているデスク。きぃきぃと座るだけで喧しかった木作りの椅子は、デスクとの親和性が高いスラッとしたチェアに。

 開ける機会の少なくなった扉を開けた向こうの世界はまるで、真新しい世界のように思えた。毎日を過ごしている家で、昔は毎日遊んでいた部屋なのに。

「あ、レフィーヤさんか。びっくりした」

 どうやら音楽を聴いていたらしく、両耳に伸びたベルの指先にはそれぞれ白いワイヤレスイヤホン。いきなり明るくなった自室とレフィーヤの襲来に目を丸くするベルは、どんな曲を聴いていたのだろう。

「暗い中で本読んでいたら目が悪くなりますよ。それと、家の中でイヤホン使ってどうするんですか」

「使わないと近所迷惑になるもん。ここで音楽聴きながら本を読むのが最近のお気に入りなの」

「相変わらず本が好きですね」

「大好き」

「参考書もそれくらい熱心に読んでくれたらいいのに」

「努力はしてるんだよ?」

「どうだか」

 軽口を叩きながらイヤホンをケースに収めたベルの手が、読んでいたらしい本の表紙を撫でる。異国に伝わる神話に纏わる本だ。以前にベルより熱心に薦められて読んだことがある。面白かったからよく覚えている。

「少し話せますか?」

「うん。外と中どっちがいい?」

「外にしましょう」

「はーい」

 座っていた椅子を折り畳んでベランダの隅に立て掛け、イヤホンケースと本を室内に置いてレフィーヤを通す。以前はスリッパのままで当たり前に外に出ていたからそのようにしたが、ベルはクロッグサンダルを履いている。靴を持ってきた方が良いのかと逡巡するも、ベルが何も言わないのならば大丈夫なのだろうと割り切って外に出た。スリッパの裏から微かに刺激してくる人工芝のこの感覚も懐かしくなってしまったものだ。

「わ、風が冷たい……」

「気温安定しないよね最近」

 なんて言いながら、レフィーヤの脇を抜けて室内に戻るベル。何をしているのかしらと眺めていると、冬物のパーカーを手に戻って来た。去年の冬や今年の春も着用していた、ベルお気に入りのパーカーだ。

「朝は妙に暑くて夜はやたら寒いの体調に響くから勘弁してほしいんだけどなー。秋はどこに行っちゃったのやら。それ言ったら春もか」

 レフィーヤの肩に、ベルのパーカーが居場所を取った。

 なんてことないように。雑談の片手間に。

 こんなことが出来るようになったのか。

 こんな、エルフィが貸してくれた漫画に出てくる男性キャラのようなことを、自然に。

 それに、パーカー。

 大きい。これを着て街を歩くのは無理だ。ぶかぶか過ぎて不恰好もいいところだから。

「湯冷めは風邪の元です」

「ありがとう……」

 感謝で返しながら袖に両手を突っ込んで、髪を外に逃がしてから一番上までジップを上げる。しっかり着ているのに、萌え袖なるヤツっぽくなってしまう。

 昔は同じサイズの洋服を着ていたのになあ。

 些細な変化や違いに妙に過敏になっている自分を認めながら、男の子の匂いが微かに香るパーカーの襟ぐりを、きゅっと引き寄せた。

「話って、さっきのこと絡み?」

「はい」

 ベランダの手すりに腕を置いたベルの横に立つ。隣を見れば、前より少し伸びた気がする白い髪が、夜風に弄ばれて揺れている。

「驚きましたか?」

「正直あんまり」

「そうなんです?」

「レフィーヤさんくらい成績が良くて生徒会の活動も一生懸命にやってた人にそういう声が掛かるのは当たり前だもの。まだ十二月にもなってないのに合否が出てたことと、試験だかなんだかをもう受けてたことには驚いたけどね」

「それ、私も驚いたんです。推薦の面接、オンラインでやったんですよ。放課後に」

「へー!」

「学校まで行って受けるものだとばかり思っていたから本当に驚きました」

「新時代だねぇ」

「貴方もその時代を担う一人なんですよ?」

「いやー僕はレフィーヤさんみたいにはなれそうにないから。あ、僕なりに勉強は頑張ってるんだよ?」

「私に怒られるのが嫌だから?」

「レフィーヤさんを怒らせるのが嫌だから」

「それ、何の違いもありません」

「そんなことないんだけどなー」

「何にしても、私を言い訳にしないの。私がいなくなっても予習復習をサボらず行うこと。試験勉強受験勉強ももちろん。いいですね?」

「はーい」

「はいを間延びさせないの」

「はいはい」

「もうっ」

 レフィーヤと二人きりだとヤンチャ度が急上昇するベルの腕をビシッと叩いて怒るレフィーヤと、形だけでもピシッと背筋を正してみせるベル。

 いつも通りの絵が生まれると、怒ったレフィーヤも怒られたベルも、少しだけ口角が高くなった。

「改めておめでとう。本当にすごいよ」

「ありがとう。どうです? 鼻が高いですか?」

「うんうん! 学校のみんなに自慢……しなくてもみんな騒ぐだろうから、あの人はすごいんだぞーって勝手に盛り上がっておくよ」

「なんですかそれ……」

 謎のドヤ顔を見せる弟の姿に優しい苦笑で返し、レフィーヤは夜空を見上げた。

「気軽に帰って来られる距離ではありませんが、時々は帰って来るようにしますね」

「それならみんな喜ぶね」

「ベルも?」

「もちろん」

「ほんとに?」

「都会でしか買えない漫画のグッズとかのおつかいを頼めるようになるんだもん。嬉しいに決まっていたたたた痛い痛い痛いっ! 本気で腕抓ってるでしょ!?」

「ごめんなさいは?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

「よろしい」

「ら、乱暴なんだからぁ……昔はこんなこと絶対しなかったのに……!」

「手の掛かる子に育った貴方が悪いんです」

「酷い責任転嫁だぁ……」

「まあ? ベルのおつかいくらい引き受けてあげますよ。気分が乗った時とかなら」

 遠慮なく抓った箇所をトレーナーの上から摩り、勝ち誇ったように笑うレフィーヤ。

「そ、それで充分……です……」

「?」

 トレーナー越しにではあるが、自分の腕をゆっくりと撫でられ続ける状況にベルくんドギマギ。彼の動揺の理由になど微塵も気付かないレフィーヤは首を傾げるだけ。

「そっ、それより! その……大丈夫なの? ほら……色々と……」

「都会で一人暮らしなんて出来るのか。ってことですか?」

「それは……うん、それ」

 考えたくないけれど。昨日のような出来事が、一人暮らしをしているこの人の身に降り掛かってしまったとしたら。

 自分以外にこの人を守ってあげられる人は、誰もいないかもしれない。

 それが怖くないのだろうか。

 というか、怖い。こっちが怖い。

 行かないでだなんて言えないけれど、行かせてしまうことに不安を抱えていることは嘘に出来ない。

 と、言いたかった。けれど言えず。話題に乗っかることにした。

「大丈夫です。というか、大丈夫にします。でなければ、送り出してくれるみんなに合わせる顔がありませんから」

「……本当に大丈夫にしちゃうんだろうね。レフィーヤさんなら」

「さあどうでしょう」

「しちゃうよ」

「どうして?」

「レフィーヤさんだもん」

 少ない言葉、そして眼差しが伝えてくる。

 信頼を。尊敬を。この子は寄せてくれている。

 恐らく、自分が思っているよりもずっとずっと大きなものを。

 昔も今も。きっと、これから先もそうしていてくれるのだろうな、この子ならば。

 だったら、いいか。

 いい機会ということにしてしまおう。

「……ねえベル」

「うん」

「少しだけ、弱音を吐かせてもらってもいいですか?」

「はい?」

「それと、言い訳を先にしておきます」

「は、はあ……?」

「これから先、今の成績を維持出来る自信がありません」

「え?」

「高校で今よりも優れた人材に成長出来る自信もありません。そうならないよう励みますが、怠惰に過ごす時間が増えてしまうかもしれません」

「……そうなんだ?」

「そうなんです。何せ、私の人生の方向性を定めてくれたというか、私の人生にハリを与え続けているものとお別れしなくちゃならないんですから。たくさんたくさん頑張るのは当然として……ちゃんとしていられるかなあ……」

 はーっと息を吐くレフィーヤの横顔を刺すベルの眼差しが、なんでどうしてそんなことないでしょうと訴えてくる。その眼差しとすれ違ったまま、レフィーヤは告げた。

「貴方のことですよ」

「え?」

「勉強だけじゃありません。スポーツもそう。家事とかも。流行っている遊び。幼稚園や学校のみんなが好きなもの。動物の名前や花の名前や国の名前。どんなことだってしっかり出来るようにならなきゃ! わかるようにならなきゃ! なってやるんだ!」

 反応を伺うような探るように。そして何処か恥ずかしそうに。

「そう思えたのは、ベルがいたからなんです」

 ちらりと横目でベルの瞳を見上げ、レフィーヤは笑った。

「僕? え、何が? なんで僕?」

「ふふ……」

 何がなんだかわからないベルの混乱は見事に表面化。その素直過ぎる様子に、レフィーヤの笑みが深くなる。

「だってベルが言うんですもん。お姉ちゃんはなんでも知ってる! わからないことはなんでも教えてくれる! 僕に出来ないことがなんでも出来る! って」

「あ」

「一歳しか違わないんだから全然そんなことないのにー! って思っていましたよ。でもそんなことを歳下の子に言われちゃったら頑張るしかないじゃないですか! 期待に応えたいじゃないですか!」

「そ、そう? かも……です……」

 ね? ねっ!? と、同意を求めるよう両手をグーにしたレフィーヤに迫られたベルは、弱々しくだが数度頷いて、大変だったんですからー! と付け足すレフィーヤに一応は理解を示した。

「そんなこと期待されてもー! と思いましたけど、もう意地ですよね。ベルにすごいって思われたかったし、カッコいいところを見せたかった。親を頼って先生を頼って大人を頼って本を頼ってテレビを頼ってインターネットを頼って。なるべくベルに見つからないように隠れて、たくさんのことを勉強しました。でもそれは、とっても大変なことでした。今でも変わりません。なんなら今の方が大変かもしれません」

「どうして?」

「ベルにカッコいいところを見せたくて頑張っていたら、周囲の人々が私に期待を寄せるようになってしまったから」

「あー」

「でもそれは栄誉なことだからって。自分の努力が残した結果の一つだからって、受け入れられました。けれど、自分に寄せられる期待の存在を自覚できるようになってからは、もう毎日必死でしたよ。ベルの期待にも周囲の期待にも、自分が抱くようになってしまった自分自身への期待にも応えなきゃって。期待通りの結果を得られなかった時なんて、誰にも聞かせられないような言葉を口にしてしまったこともあります。特に中学に入学して間もない頃なんて、理想の現実のギャップが埋められなくて落ち込むってことを何度も繰り返していましたよ。ベルはよく知っているでしょう? 私が結構落ち込みやすいってこと」

 レフィーヤが優秀なことも。それでも天才と呼ぶには少し違っていることも。賞賛の裏で誰よりも懸命に努力を積み重ねていることも、ベルは知っている。誰よりも知っている。

 しかし、知らなかった。

 レフィーヤの今の在り方。その根幹の部分に、自分が触れてしまっていたことなど。

 それはつまり。

 無邪気だった頃の自分が、本人が望んでいない生き方を、レフィーヤに強いてしまった?

 そういうことではなかろうか。

「でもね、割とすぐに忘れられるんです。切り替えられるって言った方がいいのかな」

 降って湧いた疑問符や罪悪感に胸を締め付けられる中。その痛みを軽くしてくれるような言葉が、綺麗な山吹色の髪を夜風に踊らせ、遠くの空を眺める横顔から届いた。

「私のカッコいいところを見て欲しい。この思いの向く先にいる子が、いつだって言ってくれるんです」

「…………」

「すごい! カッコいい! なんでそんなに物知りなの!? とかね」

 言葉に迷うベルの瞳に、ニコッと笑うレフィーヤの姿が、大きく場所を取った。

「そう言ってもらえるのがほんっっっっとうに嬉しくて! いい! 私はもうそれだけでいいんだ! だから細かいこと気にしない! ってなって、小さな悩みなんて忘れちゃうんです」

 ニコッが、にひーっな感じの笑顔に変わる。その移ろいを眺めることしか、ベルには出来ない。

「それは今でも変わりません。前みたいにわーっ! って褒めてもらえることはなくなりましたけど、すごいとか流石とか言ってもらえるとね、やたーっ! ってなるんです。それだけで元気になれるんです。結構単純なんです。ま、ベルなら知っているでしょうけど」

「……辛いとか……大変とか……全然そんな素振り見せなかったね」

「見せません。見せる訳ありません。ベルにだけは絶対見せません。ベルが私と逆の立場ならどうしていると思います?」

 その疑問に答えることなく、ベルは俯いてしまった。

「私は今日、見せちゃいました。おかげさまでとっても恥ずかしいです」

 熟れた白桃にも似た色に染まった頬を小指の先でぽりぽり。たははーなんてオノマトペが彼女の背後に見えて来そうな一枚絵だ。

「さあこれからが大変です。都会で一人になったら、張合いがなくなっちゃいます。すごいすごいって褒めてくれる子も近くにいませんし」

「レフィーヤさん……」

「ま、結局は上手くやっていくしか……頑張っていくしかないんですよね。うん、頑張ろう。ということで……ベル?」

「……何?」

「ありがとう」

 視線だけでなく全身でベルに向かい直し、レフィーヤは感謝を語る。

「ベルが私に抱いた幻想が、その幻想に近い私に育ててくれました。ベルの幻想を壊してたまるかって頑張り続けたから、今の私があるんです。周囲の人々に、あの子は大した子だって褒めてもらえるような子になれたんです」

 少々恥ずかしそうに。

「お陰様でベルにも、家族友人先生たちにも誇れるような自分になれました」

 それ以上に、誇らしそうに。

「だから、本当にありがとう。ベル!」

 幼い頃から変わらない笑顔で、感謝の上に感謝を重ね、ベルに届けた。

「よし! 一つ目標達成っ!」

「……目標?」

「この感謝を、どうしても今日、伝えておきたかったんです」

「どうして?」

「昨日のベルを、カッコいいと思ったから」

「はぇ!?」

 裏の見えない曖昧な笑みを浮かべるばかりだったベルの表情が、彼を知らない誰であっても読み取れるだろう動揺の色で染まった。

「いつでも私の背中に隠れていたようなあの小さくて可愛い子が、こんなに逞しく、頼り甲斐のある大きな子になっていたんだなって、そう思ったんです」

「あ、ぁあ、そ、そういうこと……」

「ベルを見る私の目に変化が訪れた。だったらここが、私の中での一つの節目かなって」

 ベルがいなければ自分がダメダメだったように、レフィーヤがいなければベルはダメダメだった。紛れもない事実だ。

 けれど、ベルは示してくれた。

 侮ってくれるな。いつまでもそこにいない。僕は成長しているんだぞと。

 誰よりも近くで成長を見てきた所為なのか、誰よりもベルを子供扱いしてしまっているレフィーヤに、成長と変化を伝えてくれた。

 その姿に、ドキドキした。とってもドキドキしてしまった。

 親友二人の言葉を借りるのなら、キュンというヤツなのか、それともキュンキュンなるヤツなのか。そこはよくわからないままだが、この子はもう、私が手を差し伸べなくたって一人で。好きな場所へ。歩いて行ける。

 それくらいわかるというか、否が応でも思い知らされたと言うべきか。

 いや、違うか。

 とっくに大丈夫だったのだろう。

 大丈夫じゃなかったのは、寧ろ自分だ。

 生き甲斐。必死になる意味。頑張りを認めてもらえる喜び。そして達成感。

 全部、この子がくれるものだから。

 それの心地良さを知っているから。

 それを手離したくなくて。

 どんどん逞しくなっていく事実から目を逸らし続けていた。

 この子はまだ頼りない子だからって。私が守ってあげないといけないんだからって、上から目線なレッテル貼りをして、無理矢理に手を取っていた。

 そんなこと、もう終わりにしよう。

 後に別れが待っているからじゃない。

 ずっとこの子の成長に向き合ってきた自分が、この子の成長から目を逸らし、これからの成長を阻害させてしまいかねないようなことをしてどうするのか。

 自分が、意地でも一人でやっていけるようになってやるように。この子だって、一人でやっていけるよう努力をするだろう。

 一人で立てるんだと信じ、遠くから見守る。

 彼の前に立ち背中で庇うばっかりが、守るということではないはずだ。

 これが、レフィーヤなりのケジメの一種であり、一つの覚悟でもある。

 それに、姉離れが現実味を帯びたのならば、弟離れを先に済ませられなくては、立つ瀬がないではないか。

「大きく、カッコいい男の子になりましたね」

 自分より高い所にある白い髪に手を伸ばし、幼き日にほとんど毎日していたように、頭を撫でる。

 当たり前にやってしまっているが、こんなことも卒業しなくてはいけないのだなと、一抹の寂しさを覚える。だったら余計に堪能しておかねば損だろうと、レフィーヤの右手が躊躇を捨てて突き進む。照れと困惑の半々くらいのご様子になってしまった彼には申し訳ない限りだ。

「もっと大きくなってくださいね」

「……僕がしゃがんであげなきゃ頭に手が届かなくなるくらいには大きくなる予定……」

「叶うといいです、ねっ」

「あぅ」

 最後に白い前髪に隠れる額をぐっと押して、愉快なひとときは終了。後ろ髪を引かれるような寂寥感を覚えるが、しかし努めて無視をしないよう意識した。

 こんなことをする機会などもう二度と訪れないのかもしれないのだから、この寂しさだって、一生の思い出に出来なければ、それこそ悲しいことだと思うから。

「当たり前ですが、卒業までは何も変わらずここにいますから。貴方も私に言いたいことがあるのなら、卒業と引っ越しまでに伝えてくださいね」

「…………話したことなかったと思うんだけど」

「はい?」

 やりたい放題やって満足したレフィーヤがさっぱりした表情で夜空を眺め始めた横から、同じように夜空を見上げている誰かの声が聞こえた。

「僕、本当は陸上部に入るつもりなかったんだ」

「それは知ってます。確か、熱心に三年生の先輩にスカウトされたからって言っていましたね」

 ベルが入学して間もなく。ある日の体育の授業にて。

 何処かの誰かと似たようなもので、才能もあるのだろうが、何よりも努力で身に付けることを許された足の速さをクラスメイトたちの前で遺憾無く発揮したところ、入学早々陸上部へ入部した同級生が目を剥いた。その感動を三年の先輩に報告。

 その翌日から、何も知らないベルの元へ、上級生たちがやって来るようになった。

 君なら短距離のエースになれる。全国大会も夢じゃない。だから陸上部に入ろう。入ってくれ。入ってくださいお願いします。グタグタ言ってねぇで入れって言ってんだ兎野郎。

 などなどの誘い文句……と言うには苛烈すぎるものもありながら、結局ベルは、上級生たちの誘いに応じることにした。

 これは、ベルが入学して間もなく、学校中で話題となったニュースだ。

 どちらかと言えば、同時に広く流布されることとなった、あのレフィーヤ・ウィリディスのお隣さんであり、姉弟のような仲であるらしいとのニュースの方が生徒たちの関心を強く集めていたらしいのだが、いずれにしても、ベルが校内で有名人になるまで、入学から一月も掛からなかった。

 部活に入ると聞かされた当時のレフィーヤは心底驚いて質問責めをしたのだが。

「その……うん……折角誘ってもらえたし……やってみようかなって……あはは……」

 ベルの反応は実に曖昧なものだった。

 それ以降、入部の際の話題に発展することはほとんどなかった。

「それはそうなんだけど……でもそれだけじゃなくて……」

 一度言葉に詰まると長い。しかしどれだけ時間を掛けようがちゃんと言葉に起こすことが出来る子だと知っているレフィーヤは急き立てるような真似をせず、どんな言葉で自分を伝えようかと奮闘するベルの言葉を待つことにした。

「え、っと…………お、おんなじ……だから……」

「おんなじ?」

「レフィーヤさんと……大体同じ……かな……」

 小指の先端で自分の頬を掻く姿がレフィーヤとそっくりなベル。レフィーヤはそれに気付かないまま、その姿に頬を綻ばせている。

「レフィーヤさんに勝てることが一つでも欲しくて……陸上を始めたの……」

 頬を掻くことをやめた横顔に、今晩の空色によく似た紺碧色の瞳を丸くしたレフィーヤの眼差しが殺到する。

「……そうなの?」

「うん」

「熱心に先輩に勧誘されたから入部を決めたって言っていましたよね?」

「それはきっかけの一つだけど、理由としては全然弱いよ」

 思いの一欠片を形に出来た為か、ベルの口が勢い付いていく。

「レフィーヤさんから見えないところでだってちゃんとやれるんだって。レフィーヤさんに負けてないことだって一つくらいあるんだって。いつまでも手を引かれてばかりの小さな子供なんかじゃない。こんな僕だって、少しくらいは大きくなれたんだよって。そういう証明……結果が欲しかった。だから、レフィーヤさんの守備範囲外だろう世界に飛び込むことにしたの」

「ベル……」

「どう? 少しくらい、レフィーヤさんのことをビックリさせられた?」

 入部を決めたこと。レフィーヤの知らないコミュニティで活き活きと活動を続けていること。今では陸上部の次期エース候補として名を上げたこと。

 レフィーヤの存在を誇りに思い、同時に決して小さくない劣等感を抱いていたこと。

 それらが、これでもかと伝わってくる。

 ベルがそんなものを抱え込んでいたことなど、レフィーヤは知らなかった。

「……驚かされていますよ。ずっと」

 偽らざる思いを言葉にすると、ベルの横顔に浮かんでいた、どうにも中途半端な笑みが気持ちのいいものに変わり、そして深くなった。

「負けず嫌いも似たんですね、私たち」

「だね」

 ベルの期待を越えるという重荷を背負った姉と、レフィーヤの想像を越えるという重荷を背負った弟が、顔を見合わせ、笑い合う。

 言葉はもう足りている。

 素直な思いが作り出す笑顔に不純物はなく、何処までも純粋で、何処までも正直だ。

「私、尊敬していますよ。ベルのこと」

「嘘ばっかり」

「本当ですよ! 私とベルの立場が逆だったとしたらベルみたいには生きられませんもん、私には」

「それを言ったら僕だって立場が逆だったとしたら」

「ベルと一緒に大人になりたいベルと一緒に大人になりたいベルと一緒に大人になりたい!」

「うわぁ!?」 

 しみじみーとした言葉の交換の最中、レフィーヤが壊れたように叫んだ。ビックリ仰天なベルくん、ビックリし過ぎて手すりに肘をぶつけてしまった。痛そう。

「ど、どうしたのいきなり!?」

「流れ星!」

「はい?」

「流れ星が見えたんです! だからお願いを三回唱えたんですっ!」

 興奮気味のレフィーヤが、夜空に浮かぶ星の海を指差しながら吠える吠える。キラッキラに輝く眼差しはベルに向けられていて、流れ星が今駆け抜けたなら絶対に見逃してしまうことだろう。

「お願いって……今のが?」

「そうです! 考えるより先に口が動いてくれました!」

 困惑を隠さないベルの隣で、満面の笑みを浮かべるレフィーヤ。

「……そうなんだ……」

 その笑顔を直視していられなくなったベルもまた、夜空に都合の良い何かを探し始める。

「今の! 間に合ったと思います!?」

「見てなかったからわかんないけど……レフィーヤさんが疑心暗鬼になってるってことはそういうことなんじゃないかな……」

「だったらもう一度ですね! さあ来い来い流れ星ーっ……!」

「月の給料の半分をギャンブルに突っ込んだ時のお父さんみたいになってる……」

「あの人そんなことしてたんですか!? これはお説教案件ですね!」

 ベルのチクりによってベルパパの明日がヤバい中、今はそんなの後々と、ベルよりも足が速いのだろう夜空の韋駄天を見つけてやるんだと息巻くレフィーヤが星々と睨めっこ。根負けするのはさてどっち。

「もう十年くらい前になるんですけど、以前にもこうして二人で流れ星を探したこと、覚えていますか?」

 睨めっこ継続中の横顔から飛んで来る問い掛けが、ベルの意識を過去へと走らせる。だーっと駆けて駆け抜いて、その記憶に辿り着いた。

「レフィーヤさんの部屋でだったよね?」

「そうですそうです! 覚えてたんですね!」

「うろ覚えだけどね」

「私はよく覚えていますよ。いつもなら絶対に眠ってしまっているような時間に、ベルが家のピンポンを鳴らしたのが始まりだったんです」

「ぼ、僕が?」

「私も両親も飛び起きて玄関に向かったんです。そうしたらそこにベルが立っていたんです。しかも一人で!」

「全然覚えてない……」

「どうしたのって聞いたら、一人でおトイレに行ったんだけど、お部屋に戻ろうと真っ暗な階段を上がろうとしたら怖くなっちゃって、お部屋に戻るのが嫌なのだなんて可愛いことを」

「そういうのいいから話進めてくれる!?」

 その時のことは変わらず思い出せないけど、僕ならやる。似たようなことで何度も迷惑をかけた僕なので。と思いながら、頬を真っ赤に染めているベルが続きを促す。

「ベルは私を頼りに来てくれたのに、その時の私ったら、ベルに怒っちゃったんですよ。貴方の両親に何も言わず、一つ隣に行くだけとは言え、夜中の街に一人で出たことを。そうしたらベル、すっごく落ち込んで。終いには泣いちゃって。私も焦っちゃって、とりあえず泣き止むまで私の部屋にいてもらおうってベルを部屋に連れて行ったんです。で、どうやって元気付けようかってあたふたしている時に見えたんですよ。流れ星が」

「そんな出来事の後だったんだ……」

「あの夜以来ですよ! 流れ星をこの目で見るのなんて!」

「僕は初めてかな……あ、プラネタリウムは」

「ノーカウント!」

「ならやっぱり初めてだ」

「だったら今度こそ見つけないとですね!」

「うん」

 小さく頷き、レフィーヤと同じ物を求めて視界を高く広くする。夜でも明るい都会では見られないかもしれない星の海に、気儘に遊泳している星は見当たらない。

「……さっきのお願いだけどさ」

「あの頃からの私の願いなんです!」

「うん……知ってる」

 思い出したが正しい。

 この人は今よりずっと落ち着きなく、甲高い声で、全く同じことを叫んでいた。そんな覚えがある。

「今も変わらないの?」

「もちろんです!」

 全力全開全身全霊の爆速肯定がベル目掛けばびゅんと駆け抜け、その勢いに驚いたベルの目を丸くさせた。

 不思議な人……いや。おかしい人だと思う。

 隣同士だったから。両親が仲良しだったから。まだ幼かったから。

 だから、理由なんてなんでも良くて、そもそも理由など何も必要がなくてよかった。

 その願いをレフィーヤがベルの前で初めて口にした時は、それくらいに無垢で幼かった。

 それから、両家なりのお隣同士の距離感はそのままに、大人にはまだ遠くとも、それぞれ大きくなった。

 当然、いくらでも未来を夢見れるようになる。まだ未熟なりに現実の厳しさを知り、見られない夢があることだって、否が応でも理解出来るようになっていく。

 明るい未来も暗い未来も、希望も失望も、等しく可能性だ。

 その多くの可能性たちに触れ、任意であったり強制であったりと、千差万別の選択を繰り返し、自分自身の可能性へと転用が可能となっていく。

 その繰り返しの過程で子供というイキモノは、大人というイキモノへと少しずつ変わっていく。

 だと言うのに。

 レフィーヤは言うのだ。十年近く前と同じ願いを、同じ言葉で。

 たくさんの可能性に触れ、豊かな未来をいくつも描けるくらいたくさんのことが出来るようになり、誰からも羨望を集めるような立派で可愛いお姉さんになったのに。

 自分が庇護し続けてきた存在と一緒に大人になりたいとか言いやがるのだ。

 他の可能性なんて後回し! とても言うみたいに、明るく笑いなから。

「……他に何か願いはないの?」

「あるにはあるんですけど、自分の努力で叶うことはあまり願いたくないと言いますか……」

「じゃあ、僕と一緒に大人になるってことは、努力じゃ叶わないってことなの?」

「そんなことありません。私の中で一番最初の、今でも一番大切な願いなので、流れ星の手でも神様の手でも猫の手を借りてでも叶えたいんです。特例中の特例なんです」

 ニコッと微笑む横顔に目を奪われる。

 ずっと見上げてきた横顔と、少し上から見下ろすようになった横顔は、すっごく似ていて全然違う。

 だって、小さい頃は何もなかった。

 こうして隣り合っているだけで、こんな風に胸が熱くなるなんてこと、なかったもの。

「……変なお姉ちゃん」

「全然おかしくな……あ、あれ? 今……おね」

「上見てないと見逃しちゃうよ」

「そ、そうでした!」

 ベルに向けていた目を慌ててお空に向ける、瞬間的にポンコツ度急上昇のレフィーヤお姉ちゃん。

「はあ……」

 今言ってくれた……え、気の所為……いやいや……でも……うーん。

 などなど喧しいレフィーヤの耳でも拾えないかなあくらいの小さな溜息を一つ。瞬く間に夜空が掻っ攫っていってくれたもので、レフィーヤには届いていなかったみたい。

「そんなお願いをしておきながら、レフィーヤさんは僕を置いて行っちゃうんだね」

「言い方キツくないですか!?」

「一人で大人になるつもり満々じゃない」

「そういうつもりは全然なくて……でもそっか……そうなりますね……とんでもなく自分勝手ですね、私」

 ベルは怒っているわけではないが、揶揄っていると言うには険が強いように感じられて、レフィーヤの背中が少し丸くなる。

「うぅ…………だ、だったら! ベルも考えてください! より良くアップデートされた私のお願いを!」

「はい?」

「お願いしますね!」

「え、えぇー?」

 一方的に難問を押し付けたレフィーヤさん、

あーだこーだと独り言を溢しまくりながら夜空とガチ睨めっこ。どちらの成果も直ぐに欲しいのか、ダブルワークに取り組むつもりらしい。相変わらず精勤なことである。

「一緒に大人になりたいの上かあ……」

 ガチガチに考え込んでいるらしい横顔を眺めてぽつり。

「そんなのさあ……」

 視線を持ち上げ、レフィーヤがすんごい形相で見上げている夜空にもぽつり。

「……あぁもう……」

「さっきからブツブツとっ!?」

 レフィーヤの言葉は尻切れトンボ。代わりに語尾に置かれたのは、驚愕の響き。

 レフィーヤの隣にいたベルがいなくなった。

 いなくなって、レフィーヤの背中に現れた。

 一瞬だが、微かな痛みがレフィーヤの両耳を刺激した。

 何が起きたのか確かめようと首を回そうとするも、何故がそれがうまくいかない。

 それが、自分の両耳がベルの両手によって塞がれてしまったことに起因しているらしい。

「ベル……!?」

 レフィーヤが気付いた、正にその時。

 夜空の黒板上を、一筆で描かれた光が走り抜けて。

「…………!」

 ベルが、何かを言った。

 完璧とは言えないレフィーヤの耳ガードの隙間から何やら言葉が滑り込んでくるが、途切れ途切れでは繋がらない伝わらない。

「ぁ……!」

 すっかり自分の願いを叫ぶことも忘れてしまったレフィーヤは、何故だかいきなり高鳴ってしまった自身の胸の鼓動ばかりが大きく聞こえてしまっていて、きっと三度、早口で叫んだのだろうベルのお願いが、全然掴めなかった。

「はあぁぁぁぁぁっ……!」

 レフィーヤの耳を覆っていた両手を引きながら大きな溜息を吐き出す、許可なく女性の身体に触れた不届者。

「……任されたこと、やっておいたよ」

 それを恥じるでもなく堂々と、ベルは宣った。

「な、なに? 何を願ったんですか!? あうっ!?」

 ベルの手に包まれた時の衝突で少し赤くなってしまったらしいレフィーヤの耳たぶを軽く指で弾いて。

「そのうちわかるよ」

 そう言って部屋に引っ込んでいく弟の耳は、誰かから直接刺激されたわけでもないのに、夜の闇でも隠せず月星の輝きの中でも見間違えようがないくらい、真っ赤に染まっていた。

 

 * * *

 

「ベルー!」

 朝のぼんやりとした空気を吹き飛ばすような快活な声が、扉の向こうから聞こえる。

「相変わらず落ち着きがないなあ……」

 制服に袖を通し、ネクタイを緩めに締めている最中に扉の向こうから聞こえてきた声が、ベルの苦笑を引き出す。

「準備出来てますかぁぅ!?」

「……無事であれ」

 今行きますと答えようとしていたのだが予定を変更。ベルの名を呼んだ彼女に同情というか、自業自得が呼び込んだ局地的な災害の被害が軽微であることを雑に願いながら、扉を開ける。

「うわぁ……」

 リビングに踏み込んだ足が重くなるような、説教の光景がベルを待っていた。

「ごめんなさいごめんなさい……! つ、ついこれまでのクセで……!」

 壊れたブリキのよう、何度も何度も頭を下げているのはレフィーヤ。微かに潤んでいる紺碧の瞳が、彼女の恐怖心を如実に表してしまっている。

「何がクセか、愚か者。本当に学ばないな貴様は。こんな為体で模範生だなどと片腹痛い」

 椅子に腰掛け瞼を閉じたまま説教を行っているのは、女。

 特徴的な灰色の髪を持つ、富んだ美しさを有する若い女である。

「その辺にしとけよ、アルフィア」

 アルフィアと呼ばれた女にお小言を投げ付けたのは、男。

 辛口を極めているアルフィアをして、悪くないと言わせてしまうだけの朝食を用意し、一つ屋根の下で住まう者たち全員の腹も心も朝から満たした、臙脂色の短髪がよく似合う、大柄な男である。

「貴様も煩いぞ、ザルド。ここは私の家だ。私の決めたルールを守らないのであれば糾弾も已むなしだろう」

「いやここ俺の家だからな? お前らは住まわせてもらっている立場で」

「繰り返す。いいかレフィーヤ。私は雑音が嫌いだ。故に、ベルを起こすにしても粛々と行え。私の家から叩き出されるのが嫌ならば理解しろ。いいな?」

「はっ、はいっ!」

「悪いのは物覚えだけじゃなく物分かりもか? それとも私を苛立たせくてわざと声を張っているのか? ん?」

「ご、ごめんなさぁい……!」

「インテリ系のチンピラみたいな絡み方してる……」

「その点、お前はしっかりいるな、ベル。それでいい。これからも励め」

「あ、ありがとうでいいところなのかな……」

「いやだから俺の家なんだっつの」

 大きな身体から小さなツッコミを入れるも取り合ってもらえないベルの叔父。

 ザルド。

 ザルドの声は聞こえているが、何を訳のわからないことを言っているんだこいつは、とでも言いたげな表情を浮かべている、本人無自覚なご様子だが、甥っ子にはダダ甘もダダ甘であるベルの叔母。

 アルフィア。

 明らかにベルには甘くて私にはハイパー厳しいですよね。と思いながら、歯向かおうものならここを追い出されるだけでは済みそうにないので唇を噛むしかない、椅子に座るアルフィアより低く頭を下げ続けている、レフィーヤ。

 そんな光景に苦笑いが止まらない、ベル。

 地元を離れ、都会の高校に通い始めて二年目になるレフィーヤと、この春からレフィーヤと同じ高校に通い始めたばかりのベルがザルドの持ち家で、アルフィアも交えた四人暮らしを始めたのは、先月のことだ。

「まあいい。ほら、今日の弁当」

 シックなデザインながらポケットの下に小さな花が描かれているエプロン。両手にはそれぞれオソロでイロチなランチボックス。

 そこらのチンピラが見たらビビり倒してしまうだろう威圧感を放つ偉丈夫の装備は実に家庭的で、暴力の香りなど微塵も感じない。現実感はないが、無骨な大剣や鎧を装備している方がよっぽど似合っているくらいだ。

「ありがとうございますザルドさん」

「んーいい匂い! ありがとう!」

 見た目とのギャップが激し過ぎるザルドのアットホームな姿を幼い頃より何度も目にしているレフィーヤとベルが、いちいち驚いたりもせずに弁当箱を受け取る。手に伝わる微かな熱と鼻腔を擽る香りに、朝食を終えたばかりだのに早速食欲が刺激されてしまっていけない。生唾飲んで我慢である。

「礼はいいからさっさと行け。デカい声出してると女王様が物投げてくるぞ」

「そんなことするものか」

「じゃあその右手のスマホなんなんってそれ俺のじゃねえか!?」

「あ、相変わらずですね……」

「喧嘩するほどなんとかってヤツだね」

「馬鹿を言っていないで早く行け」

「帰る前に連絡入れんの忘れんなよ」

「はい! ではいってきます!」

「いってきます!」

 溌剌とした二つ並びのいってきますを残し、制服姿の子供二人が飛び出して行く。

 その背中を、ザルドのスマホが強襲することはない。

「声デカいって言わなくていいのか?」

「いってきますは例外でいい」

「はっ」

 くすりとも笑わないアルフィアの代わりに、ザルドがニヤッと笑った。

「レフィーヤさん、本当にアルフィア叔母さん苦手だよね」

「叔母さんって言ったらまた怒られますよ……」

「おっと、いけないいけない」

 幅広の歩道をいつも通りに並んで歩きながら、いつも通りな感じの言葉を交換し合う。少々疲れた顔をしている様子のレフィーヤと対照的に、ベルは愉快そうに口角を高くしている。

「まさか四人で暮らすことになるなんてなー」

「今日から私もここで暮らすっていきなりアルフィアさんが押し掛けてきたときのザルドさんの驚いた顔ときたら……」

「そりゃ驚くよなあ」

 元はと言えば。

「女子高生が一人暮らしはヤバいだろ。俺の家で良ければ好きに使ってくれ。部屋なら余ってる。もちろん、俺と一緒でレフィーヤが大丈夫ならだが」

 約一年前。

 甥っ子であるベルの姉も同然な娘であるレフィーヤの上京を耳にしたザルドが、住まいで迷っているならば自分の家に住んだらいいと言い出したことから始まった。

 何かと物騒な都会への上京ということで、元より都会の親戚を頼るつもりであったレフィーヤは、幼い頃から何度も遊んでもらい、どんなお店で食べるものより美味しい食事を用意してくれるザルドのありがたい提案に飛び付いた。

「お前は俺の親戚でもなんでもないけど、だからなんだって話だ。負い目に感じることがあるなら家事の手伝いくらいはしてくれよ?」

 ザルドもまた、血は繋がらないが自身の姪っ子も同然のレフィーヤの到来を、いたく歓迎していた。

 それから一年。

 置いていかれてなるものか負けてなるものかと学問にも部活にも懸命も懸命に取り組んだ結果、レフィーヤと同じ高校に通うことが許されたベルが、レフィーヤから一年遅れでザルドの家に到着した。

 で、その数日後。

「私もここで暮らす。異論反論認めない。私の部屋を用意しろ。早急に」

 都会は煩いから嫌いと豪語し、ベルとレフィーヤの地元で独身貴族を謳歌していたベルの叔母、アルフィアが、簡素な荷物だけを手に、ザルドの家に現れた。

「何故と問うな。ここで暮らすと私が決めた。ならばそれは確定事項だ。そこの小娘。貴様、さっきから何だ、その顔は。私がここに住まうことに不満でも?」

 口あんぐりで絶句する入居者三人の中の一人に標的を定めたアルフィアは、入居の挨拶もそこそこに、アルフィアに完全に萎縮してしまったレフィーヤに詰め寄った。

 ザルド邸にどどどーんと青天の霹靂が落ちてから今日まで。レフィーヤは、アルフィアとの距離感に困惑し倒しているというか、彼女の取説を熟読している真っ最中、と言った具合である。

「都会の喧騒は不快なんてものではない、って言って憚らない人がなあ」

「何故防音室を用意していない、ってザルドさんにとっても怒っていましたね」

「先読みして防音室用意しておけとか無茶しか言ってない……昔はあそこまで横暴じゃ……そんなこともないかも……」

「いいですよねーベルは。アルフィアさんにすっごく気に入られているみたいで」

「それ多分、僕が小さい頃に厳しく接し過ぎてお母さんにめちゃくちゃ怒られたことの反省というか反動なんだと思う」

「怒らせたら最強で最狂なのは昔からメーテリアさんですもんね……私はあの御方だけは生涯怒らせないと誓ったのです……」

「あの御方って……ね、本当に嫌なこととか困ったこととかあったら言ってね? アルフィア叔母さんに」

「叔母さん禁止」

「アルフィアさんに僕から伝えるから。僕の話なら聞いてくれるでしょ」

「いいんです。私の話そのものは聞いてくれますし。ただ少し唯我独尊傍若無人なお姉様というだけのことですし」

「す、少し……?」

「とにかくっ。ザルドさんはもちろん、アルフィアさんも私は好きです。二人それぞれおっかないところはありますけど、とても頼もしいですし、学べることが沢山ありますし、何より一緒にいて楽しいです。だから、深く考えないで流れに身を任せていこうかと」

「好きなんだ、二人のこと」

「もちろんです」

「そっか」

 自分の親戚ではない二人の大人を好きだと言って、共に暮らしている。

 色々と当たり前じゃないことが当たり前になっているような気がする。

 それもこれも、レフィーヤだから、なのだろうな。

「大丈夫ですよ」

 とたたと小気味よくローファーとアスファルトでリズムを刻み、レフィーヤが数歩、ベルの先を行く。

「貴方のことも好きですから」

 スカートを翻しながらくるりと振り返り、レフィーヤは言った。

「私は、ベルが好きです」

 離れていた一年の間にぐっと大人びたお姉さんの微笑みは、ベルも見たことがない、可憐なものだった。

「だからそんな不安そうな顔をしないでください」

 と思ったら。

「ベルだけ仲間外れになんてしませんから」

 ベルと戯れ付く時によく見せる、やんちゃ娘の顔に戻ったレフィーヤが、くすくす笑いながらベルを見上げている。

「……そんな顔してないよ」

「どうですかねー」

 反転し、歩みを再開するレフィーヤ。彼女が言うには不安そうな顔をしているらしいベルは、今は不満を隠さない表情に切り替えて、レフィーヤの後に続いた。

「そういうベルはどうなんですか?」

「アルフィアさんもザルドさんも好きだよ」

「私は?」

「……そういうの聞いちゃうの、めんどくさい子だと思われるからやめた方がいいよ」

「そうですか。で、どうなんです?」

「……まあ…………僕も……」

「可愛くない」

「え、ええ……?」

「お姉ちゃん大好き! って昔のベルなら言ってくれたのにー」

 両手で持っているスクールバッグをベシベシとぶつけてくるレフィーヤ。何がそんなにご不満なのか、頬を膨らませてさえいる。

「あのねえ……」

「言ってくれたのになーっ」

「あーはいはい好きです大好きですずっと一緒にいましょーねレフィーヤおねーちゃん」

「そう? 嬉しいです。私も大好きですよ。ベルのこと」

「そりゃどうも」

「可愛くないっ」

「痛ぁ!?」

 こざっぱりした物言いがお気に召さなかったのか、しっかり車道側を歩いているベルの左足に、レフィーヤのスクールバッグが急加速し衝突。ベルの喉から悲鳴が飛び出して、朝の街を駆け抜ける。

「陸上選手の足狙う普通!?」

「狙うなら痣の見え辛い所を狙えってザルドさんに教わっているので」

「何教えてるのあの人は!?」

「キャンキャン騒いでいないで行きますよ」

「わかってるよ……」

「…………はあぁぁぁぁっ……」

「何その溜息」

「変わってないなあ……子供のままだなあ……って思って」

「余計なお世話です」

「……今のはベルにだけ言ったわけじゃありません……」

 強く、速く、熱く打ち付ける鼓動を抑えるよう、自身の胸に左手を置いているレフィーヤが、ベルの前を行く。

「何それ……」

 妙に熱くなっている頬と、何故か勝手に口角が高くなってしまう口元を見せたくなくて、レフィーヤのそれよりも大きくなった左手で口元を覆い隠しながら、レフィーヤの少し後ろをベルが進む。

 隣同士を望みながら、隣同士を意識して回避している二人の歩みは、妙に鈍い。

「まだまだ……」

「先は長いなあ……」

 どうにも方向音痴気味で鈍感気味なレフィーヤとベル。

 それぞれの内心は、何度だってすれ違っている。

 伝えたい言葉などいくらでもあるのに、伝えようとしない。伝えたつもりになって、でも結局伝わっていなくて、そんな弱腰な手段しか取れない自分にガッカリしてしまったり。

 春になって、また一緒に暮らすことが出来るようになったのだからと、二人なりに勇気を振り絞り二人なりの言葉で伝えたのに、結局何も伝わっていないらしい現状のように。

 しかしそれでも、まあいいかと言わんばかりに、当たり前のように隣同士に戻ってくることがこの二人は出来てしまう。

 居心地がよいのだろう。昔から変わらないその距離感が。

 しかし、そこから一歩。

 何かを変えるための一歩を踏み出したい。

 それに相応しい言葉など、二人はもう知っている。

 何処までもありふれている、好意を示す言葉である。

 幼き日ならば躊躇いなど抱くより早くに言えたその言葉が、少し身体が大きくなってしまっただけで簡単に口に出来なくなってしまう。今の二人が、軽口や冗談風味に仕立てないと伝えられないように。

 けれどそれは決して下向きなことではない。その言葉の大切さ。その言葉が持つ大きな意味を理解すること。

 それを伝えることが、どれだけ勇気が必要であること。

 その言葉を届けたいと思える相手に出会えることがどれだけ人生を豊かにしてくれるものであるか。

 レフィーヤとベルは、もう知っているから。

 ただもう少し、時間が必要というだけの話。

「何です?」

「何?」

「別に」

「なんでも」

 違う歩幅。大体同じスピードで歩く二人が、何処か不貞腐れたような響きの言葉を交換し合う。

「……朝から何をしているんでしょうね、私たち」

 ふぅと息を吐いたレフィーヤが、足を止めた。

「ほんとにね」

 追い越すことだって出来たろうに、レフィーヤの隣に並んで、ベルは足を止めた。

「…………」

「…………」

 赤い頬も弛んだ口元も戻しきれていない二人が視線を交差し、行きましょうも行こうもなく、同じタイミングで歩みを再開させた。

 場所も歩幅も服装も何もかも違うけれど、付かず離れずの距離感は、幼き日と何も変わっていない。

 それがどれだけ得難いものであるか、レフィーヤとベルは知っている。

 例えば、時間。

 季節。

 心身の成長。

 失っていくもの。見送ることしかできない何か。変わっていくこと。形を変えていくもの。進んでいるのか退化しているのか一概に言えたものではない人と人との関係性。

 そう言ったものは一般に、尊いと呼ばれるべきものなのだろう。

 いつだって庇護していた子に、心身を守られた。可視化された成長を間近で感じ、今日まで抱いてこなかった思いを確かに抱いた。

 なるほど、それは尊いと呼ばれて然るべき一つかもしれない。

 しかし、それだけじゃない。

 尊いからなんでもいいわけではない。尊さに振り回される日があってもいいだろうが、尊さをこそ尊(たっと)べば良いなどと安直では、昨日はもちろん今日も明日だって鮮度が落ちてしまうことだろう。

 大切なことは、根幹を見失わないこと。

 変わっていくものの尊さの根元にはいつだって、ずっと変わらない、得難いものがある。

 ずっと一緒に生きてきた二人だからこそ、振り回されるだけではいけないのだ。

 変わらないものを大切にし、変わっていくものに、良い塩梅の折り合いを付けていく。

 その果てに待っているのは、二人が望む、二人だけの、ありふれたモノ。

 シアワセ、などと呼ばれるモノであるのだろうか。

 その答えは二人に見つけて貰うほかない。

 刹那的になりきれず、周囲がヤキモキしてしまう程度には時間を有してしまうかもしれない。

 けれど。

 いつしか、当たり前になっていた距離感から。

 いつか、もう少しだけ踏み込めるように。

 いつしか、胸に抱いた情熱が昔と変わらぬ思いやりに形を変えてしまう前に。

 いつか、知らない景色に辿り着けるように。

 そしていつでも、隣同士でありますように。

 そんな日を夢に見て、大体お揃いの願いの下を、ゆっくりと歩いていく。

 そうしていつか、二人が証明してくれることだろう。

 三度も同じ願いを叫んだ二人が、本当に流れ星が願いを叶えてくれるかどうかを。

 二人で歩いたって問題なく進んでいける、妙に幅の広い大人の階段を隣同士で歩む二人の子供が。

 大人になっていくついでに、証明してくれることだろう。

「あ、そうだ。ずっと気になっていたことがあるんですけど」

「うん?」

「いつか、ベルが流れ星にお願いしたことって、結局なんだったんですか?」

 しかし、存外に。

「…………さっき言ったよ」

「へ?」

 その日がやってくるのは、そこまで未来の話でもないのかもしれない。


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